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althaea0rosea

……何か、良い匂いに包まれている気がする。

「なまえ」
気がついた時、チリさまは私の身体を横向きに抱いて洋館の廊下を歩いているところでした。目を開けてまず飛び込んで来たのは、神妙な面持ちで廊下の先の暗闇を見やる彼女の顔で……しかし私が起きたことに気づくと、すぐに穏やかに笑って名前を呼んでくれました。
「おはようさん。良かった、無事で。なまえがすやすや寝とる間、チリちゃんこの洋館中ぜーんぶホコリはたいて、最低限の物揃えてな、だいぶ綺麗になったんやで。そんで今から寝室に運ぶとこやってん」
「……ん、と……わたし……」
「けど、起こしてしもたか……堪忍な。まあこのまま連れてくで。ほら、まだ横になっとった方がええと思うし、自分で歩かれへんやろ」
「…………ん……」
チリさまは……たぶん鬼にしては小柄な方だけど、人間の私からしてみれば体格差があることに変わりはなく、完治した両腕でしっかりと私を抱きとめてくれていました。それが異様に心地よく感じられ、目が覚めたところで私の精神は未だに微睡みに囚われたまま……うつら、うつらと頭を揺らす私に、チリさまは少し笑って静かに語りかけてきます。
「眠いんやったらまだ寝とき。たぶんここはしばらくの間は安全や。ちょっくらこの辺見回りもしてきたから……間違いないで。パルデア保安隊分隊長の名にかけてな」
「……、…………」
「あ。元や、元。今はなんでもないただのチリちゃんなんやった」

チリさまは綺麗に整頓された寝室のベッドに私をおろすと、丁寧にシーツをかけてくださいました。自身はベッド脇のひとり掛けソファーに腰を下ろし、簡易魔法でろうそくに火をつけています。部屋のいたるところには、いつの間にか姿を現し勢揃いしていた使い魔たちが、それぞれ自由にくつろいでいました。当然、ほとんどは知らない顔です。
ほんの少し目が覚めたので、寝転がったまま部屋の様子を伺うと、確かに意識を失う前とはかなり部屋の様相が違っていました。息をするのも苦しかったホコリだらけの洋館が、今は普通に生活ができるレベルか、それ以上の清潔感がある。それもおそらく彼女の口振りからすると、綺麗になったのはこの部屋だけではないのでしょう。
私が寝ている間に……たったひとりでここまでのことを?
「目、覚めた?」
「……はい。少し」
「体調、平気?」
「……はい。大事ありません」
「あれから丸二日くらい経っとるんやけど、人間ってどんくらい腹持つもんなんやろ。鬼よりも随分と腹の減り早いんやったよな」
「……」丸二日?
チリさまの言葉に瞬きをしました。私はそんなに眠っていたの?発情期には普段より睡眠時間が長くなるけど、それでも一日程度なのに。
それを聞いたら、ここしばらくの間ろくに食事をしていないことを思い出し、身体が栄養を欲していることに気づいてしまいました。そういえば……私はチリさまに血を吸われて意識を失ったのだった。つまり、今はかなり枯渇状態なのでは……。ついお腹をさする私。
「……」
「肉、焼けば食える?ああ、心配せんでも人肉やないから安心しや。ただの鳥さんや」
「……与えられたものは、なんでも食べます」
「そうは言っても好き嫌いあるやろ?」
「……」
好き嫌い?チリさまの言葉に首を傾げている間に、彼女はすぐに立ち上がって部屋の外へ出ていってしまいました。食事を用意してくれるのでしょうか。何かお手伝いすることはないかと思い急いでベッドから降りようとしたけれど、何故か彼女の使い魔たちが阻止してきます。
「な、なんですか……?」
特に、ベッドのそばにいたこの子……大きな体につぶらな瞳の茶色の使い魔は、その大きな口を開けて大きな声を出してきました。まるで威嚇のような真似。つい驚いてベッドの中に引っ込んでいるうちに、チリさまが食事を持って部屋に戻ってきました。
「何しとん、キミら」
「え、と……この子が……」
なにやら、ドオ〜〜〜……と言っています。
「あー。まだ安静にしときやって言っとるわ」
「……そ、そうですか。わかりました」
使い魔と会話ができるのは、主の特権。この子はただ心配してくれていただけということがわかったので、私は静かにお礼をいいました。


「いただきます」
「はいよ。召し上がれ」
肉を焼いたものが出てくるかと思いきや、差し出されたお皿に継がれていたのは、柔らかくした肉の入った良い匂いがするスープでした。独房でいつも出されていたものは栄養重視で、あまり美味しいと感じたことがないけれど、これは舌がとろけるような感覚があり、お腹が減った体でも飲みやすく、温かいので、すぐに完食してしまいました。
「食い足りひんやろ。まだあるから、持ってこさせるわ」
「……?」
……持ってこさせる?
チリさまは私の手からお皿を受け取ると、また同じように部屋を出て行きました。この光景になんだか見覚えがあるような……。
……以前は食事の時間になると、先生や、時折あの方が私の部屋まで食事を運んでくれていました。あの建物にいた鬼たちは人間と接することを許可されていないものがほとんどなので、『この部屋に何かものを持ち込むときはあ、担当のぼくがほとんど全部やらなくちゃいけなくて……正直大変です〜。でも、そういう決まりなんですよねえ……』と先生が愚痴をこぼしているのをよく聞いていました。
こんなこと、今更思い出したところでなんの意味があるのだろう……。何かある度に以前のことを思い出してしまうのは、なぜ?
「おまたせ」
そんなことを考えている間に、チリさまは再度スープを手に部屋に戻ってきました。この洋館に料理を作る場所があるのかどうかも分からないけれど、いったいどこから持ってきているのだろう……。

「これは、チリさまがお作りに……?」
「いんや。うちの家政婦」
「……?ここには、私たち以外にも誰かいらっしゃるのですか……?」
「必要な時だけ出てきてもろてる。これはそれそろなまえが起きる頃合かと思て、ちょうど作っとったやつなんやって。優秀すぎるやろ、うちの子たち。うちでは人間なんか飼ったことあらへんのに」
家政婦。そんな方たちがいる気配は全然しなかったけど、視界に入れるまで使い魔たちの存在すら気づかなかった私だから、この洋館のどこかに本当にいるのかもしれません。でもこの屋敷には結界があったはずじゃ……。
「おん。うちの屋敷のもんはみーんなチリちゃんと契約結んで繋がっとるさかい、うちが張ったバリアの中にも自由に入れるようになっとる。もちろん、余所者はアリンコ一匹入れん。視界にすら入らず素通りしてまう代物や」
「へえ……」
「せや!なまえってチリちゃんのこと全然知らんのやろ。でもなでもな、鬼の間では結構有名なんやで。なにがっていうとな、チリちゃんって実はパルデアで六番目くらいのデッカイ屋敷の当主なんやけどぉ……スゴいやろ」
「はあ……」
「まあ今は別の意味で有名になってしもたけどな〜!なっはっは!」
話してる途中で急に笑い出したチリさま。でもすぐに「いや笑えんわ」と真剣な顔に戻りました。ころころ表情が変わるから、つい見つめてしまいます。
「チリちゃんは既に、パルデア中で指名手配になっとる犯罪者。なまえ拐かした罪でな。本家の屋敷はどうせ国のもんが家宅捜索に入っとる……そんな場所に身内置いてかれへんやん。せやから皆にここに避難するように呼びかけたんや」
「……そう、ですか」
指名手配……今や脅威なのは国の鬼たちだけではなく、懸賞金目的で私たちを狙ってくるものも少なくないと、チリさまは付け加えました。一歩外に出たら敵だらけ。しかもそんな状況を強いられているのは、当事者の私たちだけではなかった……。
「……みんなチリちゃんがちーちゃい時からお世話してくれとる家族やねん。たまにその辺で見かけるかもしらんけど、許したって。全然害なんてあらへんし、ほんま、おるだけやから。皆いい子やし、この洋館の片付けとかも色々と手伝ってくれたんやで」
「……」
私には本当の家族がいないけれど、チリさまは使い魔や家政婦のことを家族と呼ぶくらいだから、相当大切な方たちなのでしょう。彼らの前では、むしろ私の方が部外者。
私が独房から逃げ出した影響はこんなところにまで及んでいる……私は自分の都合で、無関係な彼らの日常を奪ってしまったのですね。
「……。ああ、あの子ら普段は鏡の中におるんやけど、呼べばすぐに出てきてくれんねんで」
「鏡に……」
「使い魔が普段魔界で暮らしてるのと同じで、鏡の中を住処にしとる種族もおるんや」
「へえ……」
「ほら、チリちゃんは吸血鬼やから、鏡には写らんし干渉できへんやん。せやからきっと、あっちでは当主の目なんか気にせずのびのび自由に暮らしてんとちゃう」
「……」
「……これ、言うとくけど、なまえが責任感じる必要はどこにもあらへん。皆どっちかというとこの状況を楽しんでるまであるからな。ほんま、長生きやからって気楽よなぁ〜」

「……」
チリさまだって被害者なのに、私を慰めてくれている……。

しばらく話を聞いているうちに、胸が痛くなり、目頭が熱くなり、涙が溢れ出てきました。この数日間、色々なことがあったから。……ではなく、私は、本当に、恵まれていると気づかされてしまったから。
「…………ごめん、なさい」
「それはこっちのセリフやねん」
「ち、ちがいます……わたし、」
震える声で否定しようとするも、それを遮るようにチリさまは言います。
「ええから、冷める前にはよ食べな。せっかくのスープ……いらんのやったらチリちゃんが貰うで?ああ、ドンメルたちも狙っとるわ」
「……?」
涙で視界がぼやける中、茶色い子の背中をつたってベッドの上に乗りあがってきた小さな黄色い使い魔が、じっと私のことを見つめていました。ドンメル……。チリさまと同じタレ目が可愛らしいけれど、もしかして、心配してくれているの?
「ちょお、キミらさっき飯食ったやろ……ほらなまえ、はよ食べえ。襲われても知らんで」
「……は、はい……」
「はいはい、キミは降りような〜。って、コラコラコラ、ウパーまで乗るな〜〜ドオーのこと踏み台にしよって!」
ドンメルに続いて次々にベッドに乗りあがってきた小さな子たち……チリさまがベッドからおろすのと同時にまた登ってくるから、そのやり取りが面白くて、自然と涙が引っ込んでしまいました。みんな仲が良さそうで素敵……そう思いました。

「もう、おしまいにする?まだ食う?」
「…………いえ、ごちそうさまでした」
「お粗末さま。じゃあこれもらうわ」
小さな使い魔たちの乱獲を終えた頃、再び空になったスープのお皿をそっと受け取るチリさま。
「チリちゃん、ちょっとその辺散策してくるから、なんかあったらこの子たちに言ってな。すぐ戻るから」
「はい……」
「ゆっくりおやすみ」
私の背中を優しく撫で、ろうそくの火を消してから、彼女は大きな使い魔たちを残して去っていきました。


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