本編より数年後
朝のキッチンは日がよく差し込んで、手頃なサンドイッチさえ一級品に見えるなあ。と、間の抜けたことを考えていたら、急に寝室のドアが開いてなまえがドタバタ駆け寄ってきた。
チリちゃんから二歩分くらい離れたところに立って、迫真に迫った表情で他人行儀に「おはよう!ございます!」と言うから、これはやっちまったなと心の中で正座をする。
「おー、おはようさん。よう眠れたか?あんまりにも幸せそうに寝とるさかい、チリちゃんなまえのこと起こせんかったわ。ごめんなぁ、今度お願い聞くから許してや」
「……もうやだ。もうやだ!今日は朝からお買い物に行くって言ったでしょ!約束したのにいつもいつも、そうやって私のことナメてかかって!チリちゃんのばーーーーーーーっあぅ」
顔を赤くして、両手の拳を握りしめて、小さな背丈で一生懸命背伸びをするこの子の可愛さときたら。寝起きだというのに、そんな妖精さんみたいな柔らかい声で文句を言われても全然耳が痛ないわ、なんて反省するどころか心の中でけたけた笑う自分に呆れてしまう。
ふと魔が差して、たぶん『ばーか』と言うために大きく開いたその口に、手持ちのサンドイッチをほれと軽く突っ込んだ。懲りることなくさらに悪行を重ねてしまう、チリちゃんの性格の悪いこと悪いこと。
なまえはびっくりしたようにあわあわと足踏みをし、サンドイッチを持つ腕を両手でぎゅっと掴んだ。もう口に入ってしまったから出すにも出せないのだろう、抵抗せずにそのまま素直に食べようとする。かわいい。
「あむ、うぐ……」
「どや、うまいやろ」
なまえのためにチリちゃんが作った特性サンドイッチや。思ったより奥の方に入り込んでしまったみたいで、なまえは全体の三分の一ほどを大胆にも噛みちぎったあと、頬をぱんぱんに膨らませながら両手で口を押さえ一生懸命もぐもぐし始めた。
あーかわいい。ホシガリスか。どんな時でも食いもんだけは笑顔で美味しそうに食べるから、イタズラするのをやめられない。
「ゆっくりな、ゆっくり噛みや」
手元に残ったサンドイッチをひとかじりしながら様子を見守っていると、なまえは次第に自分が今何をされたのか、何を言おうとしていたのかを思い出したようで、みるみるうちに険しい表情に戻っていく。その様子にまた吹き出しそうになっていたら、なまえはチリちゃんの下ろした髪の毛を思いっきり引っ掴んだ。
あかん、とうとうキレたかも。なにやら危ない気配を感じたので、サンドイッチを皿の上に避難させる。思った通り、なまえは急いで口の中のものを飲み込んでこちらに突っかかってきた。
「ねえ!いきなりなにするの!」
「ドオーばりに口開いとったで」
「し、しぬかと思った!」
「うますぎて?」
「うん!あ、ちがう!おいしすぎてじゃなくて、あ、でもサンドイッチはおいしいけど、でもでもそうじゃなくて、えっと、えっと」
よっぽど美味しかったのか、勢い余ってまっすぐ頷くなまえ。すぐにハッとしてごちゃごちゃ言葉を並べてから「息が出来なくて!」と言った。サンドイッチの食べかすが口元についていることに気づきもしないでそんなことを言われても。
「もーやだ!チリちゃんなんか!」
指摘しようにも、もー!もー!と鳴きながらぽかぽか拳をぶつけてくるから、聞く耳を持たなさそうだ。しかし怒っていても手加減しているのか全然痛くない。むしろいい肩たたきマシンだ。あかん、これを言うとまた怒られてしまう。そろそろ止めどきか。
「なまえ、こっち見ぃ」
止まる気配のない手を両方とも捕まえて、一瞬硬直したなまえをそのまま軽く引き寄せた。何か言いたげな口元に顔を寄せて、そのままにしておくのもなんだからと食べかすをぺろりと舐めとってやる。すると何を考えているのやら、なまえは痴漢に遭遇したみたいに、マンションの分厚い壁を貫通する勢いで大きな悲鳴をあげた。
「わあああーー!!」
「喚くなや、通報されるやろ」
「チリちゃんのへんたい!いーけないんだいけないんだ!せんせーに言ってやるー!!!」
心の中に五歳児でも飼っとるんか。まあこの子を怒らせたのは自分だが、このままだと本当にご近所さんに通報され事件になりかねないので、こちらもまた止まる気配のない口を今度は唇でしっかりと塞いだ。
「!」
いつもしていることなのになぁ、そんなふうに拒絶されるなんて照れ隠しにも限度っちゅうもんがあるやろ。触れた途端にぎゅっと目を閉じるなまえの顔を見つめながら、遠慮なく唇を割って甘く吸い付けば、さっき食べたサンドイッチの風味がふわっと鼻に香る。
逃げようとするなまえの首後ろを片手で押さえつけ、上から何度もキスを落とした。甘々のやつ。無理やり、とかじゃない。なんだかんだ言って、なまえが文句を言うのはいつも照れ隠しのためで、本気で嫌がっていないことはチリちゃんにはお見通しなのだ。だから懲りずに反省もしない。当然、本気で嫌がることは絶対にしない主義。
「ん、……んぅ」
さっきまでの虚勢はなくなり、甘んじて受け入れるように服を掴んでくるなまえ。しばらくの間いいようにされて、ようやく解放した頃にはすっかり静かになった。今は呼吸を整えるのに集中している。ぜえはあ、なんて大袈裟な。そうやって口を大きく開けていると、またさっきみたいにサンドイッチ食わされるで。
「なまえ、落ち着いた?」
ソファーに移動して、なまえのはだけたシャツを正しながら問いかけると、なまえは負けましたと言わんばかりに手で顔を覆う。
「もう、チリちゃんなんか、チリちゃんなんか……」
「チリちゃんなんか?なんや、言うてみい」
「うー……。ち、チリちゃんなんか、……チリちゃんなんかぁ……!」
さっきからずっとあしらわれてばかりで、もう文句を言う元気も残っていないらしい。必死に悪口を探しているのだろうが、いつまで経っても“チリちゃんなんか”を繰り返すだけで続きの言葉はやってこない。簡単な悪口すら言えない、なまえのかわいい口をまた塞ぐ。
「ん」
「わー!!!」
「なんやねん、もー。なまえったら」
「……。うう、ひぐっ」
「おお、待て待て、待ちや」
とうとう今にも泣き出しそうにするから、さすがに慌ててなまえを抱き寄せた。顔を見れば嘘泣きだということはすぐに分かったが、嘘泣きでも弱いものは弱い。
チリちゃんがいじめた張本人のくせに、まるでいい人ぶるかのようにその小さな体を抱きしめる。ぎゅう。背を丸めて顔を近づけながら、よしよしと腕の中の背をさすって、ごめんなを
何度も繰り返した。
そうしたらなまえは、チリちゃんがいじめた張本人だということを忘れてしまったかのように、胸に顔をぐりぐりと押し当てより強く抱きしめてきた。ぎゅうう。
「……チリちゃんのばか」
さっき言えなかったことを改めて口にする。だからななまえ、妖精さんみたいにかわいい声で、泣いているような弱々しい声で、しかも上目遣いで文句を言われても傷つくどころか癒しをもらうだけだ。……ということをそろそろ学んでほしいかな。それともわざとやっているのだとしたら、それはそれで侮れん。
「チリちゃん、なまえのことホンマに好きや。大切やから、もう泣かんでええねん。反省もしとる。許してくれんか、お願いやから」
「……ふーんだ」
なまえはいじけてそっぽを向いてしまった。それすらかわいく思えてくるから、恋愛脳は便利で都合がよくてえらい造りをしているなあと思う。
「いいの。許してあげるもん」
そもそもの話、昨日はなまえは泊まる予定がなかったのをこちらが駄々をこねて無理やり家に引きずり込んだ、という前日譚があり。昨日のデートで会った瞬間から「明日は早起きしてお買い物に行くの!」という話を聞かされていたチリちゃんだったが。
夜どうしても別れたくなくて、せやったらチリちゃんが起こしたるから今夜はうちに泊まって行きや、泊まらんかったら大泣きするで、と半ば脅迫のようなものをしてまでなまえを招き入れたのに。一緒のベッドに入ってやることと言えばそら決まりきったもんで、二人仲良く夜更かししてしまったのだ。
うん。最初から最後までチリちゃんが悪いな。自分で自覚していながらまともな態度で謝りもしないのに、それでも許してくれるなまえは世界で一番優しい子や。
ずっとこうしていたかったけど、しばらくハグし合ったあと自然と離れたなまえは意外にもなんともない顔をしていて。キッチンの方へ戻って行ったかと思えば、残ったサンドイッチを皿の上から拾い上げて残らず平らげてしまった。やはり美味しいものには勝てなかったらしい。
しかしさっきまでのアレはなんだったのか……なまえはなんともない顔、どころか満面の笑みをしていて、首を傾げるチリちゃんの隣に勢いよく座り込んだ。
「なんや、平気な顔しよって」
「え?チリちゃんがいじわるして、私が許すまでが一連の流れじゃないの?だから、今日の分はもう終わったよ」
「なんのことや」
唐突に話の流れが変わったな。スマホロトムをいじりながら、肩に体重を乗せてくるなまえ。今日行く予定だった店の情報を調べているようだ。
「私、べつに怒ってないもん。泊まるって決まった時点でどうせこうなること分かってたし。私は別の日でもよかったけど、断ったらチリちゃん泣いちゃうもんね」
目だけでこちらを見上げてくる。確かに断ったら泣くとは言ったが。そんなにも余裕そうな顔を見せられると、あの時チリちゃんだけが余裕がなかったように思えて少しもやっとする。もちろん口には出さないが。
「それにね、私はね、わざと怒ったふりしてチリちゃんの構ってちゃんに付き合ってあげてるだけだもん」
「ほぉー」
構っていたのはこちらではなく、なまえの方だったと。ほうほう、そういう考えもあるのか。自分とは真逆の言い分に最初は感心したが、……よくよく考えてみると、わりと言えてるかもしれないと気づいてしまった。
なまえはいつもこちらが望む行動を率先してやってくれている節がある。わざと泣いたり怒ったり、あざとい顔をしたり。それに甘えているのはもしかしたら自分の方だったのかもしれない。なまえにはいつも驚かされる。
まあ新たな気づきを得たところで、むしろ愛おしさが増すというか。この子はこの子なりに自分を愛してくれているのだ。
「チリちゃんがいじめてくるのはまあ普通にやだけど、チリちゃんがそうしてくるうちは私のこと大好きなんだな〜って思えるからまだガマンできるの」
「健気やなぁ」
「ご本人が感心してるんじゃないよ」
なまえはむすっとした表情をしながらずるずる体勢を変えていき、太ももの上に頭を乗せてソファーに寝転がった。
「せやったら、これからもなまえのこといじめた方がチリちゃんの愛情を感じてくれるんか?」
上から見下ろすと、垂れ落ちた髪でスマホが隠れるのを邪魔そうに手で避けるから、逆に髪の毛をひとまとめにしてなまえの額を筆みたいになぞってみる。
「その考え、ほんと最悪ー!ていうかくすぐったい!あのね、何もしなくても充分伝わってるから!チリちゃんってば素で私のことだいすきなんだから」
「よう分かっとるやん」
「むしろいじわるするのほんとに訳わかんないし、もういい加減、いじわるしてくるチリちゃんのこときらいになっちゃおうかな!」
そら困るなぁ。ちゃんと髪をしばって視界を良好にしてから、指で頬を撫でる、撫でる。なまえがチリちゃんのことを嫌いになったら、これからの人生生きていけん。そこまで言われてしまったら、もうこれまでの言動を一から洗い直して改めなければいけない。なまえが本気で嫌がることは、しない主義だから。
「ていうか、チリちゃんは私より大人なのに、いじめる以外の方法で私のこと可愛がれないの?」
「……」
なまえの言葉にひとつ瞬きをした。
「チリちゃんって、本当は不器用なひとなの?ねえ、ねえねえ。チリちゃんは賢くてかっこいい大人のおねえさんなのに、中身は意外とお子ちゃまなのかな?」
煽る煽る、煽りよる。さっきまで心の中に五歳児を飼っていたのはそっちなのに、一変して挑発的な目で見上げてくるから、同じように口角が上がって笑いが抑えきれなくなる。
この子は、ホンマに。そういえば今となっては仲が深まりすぎて忘れてしまっていたけれど、最初はなまえのこういう大胆なところに夢中になってしまったんだっけか。
「あ、スマホ、」
なまえのスマホロトムを取り上げ、ソファーの端に投げた。チリちゃんとは形の違う女の子らしい手を取って、なりふり構わず噛みつきたくなるのをなんとかこらえ、なまえが好きだと言っていた王子様のように唇をそれに押し当てた。
「言うやん、自分」
ほんならお言葉に甘えて、挑発に乗って、可愛がらせてもらおうか。
朝のキッチンは日がよく差し込んで、手頃なサンドイッチさえ一級品に見えるなあ。と、間の抜けたことを考えていたら、急に寝室のドアが開いてなまえがドタバタ駆け寄ってきた。
チリちゃんから二歩分くらい離れたところに立って、迫真に迫った表情で他人行儀に「おはよう!ございます!」と言うから、これはやっちまったなと心の中で正座をする。
「おー、おはようさん。よう眠れたか?あんまりにも幸せそうに寝とるさかい、チリちゃんなまえのこと起こせんかったわ。ごめんなぁ、今度お願い聞くから許してや」
「……もうやだ。もうやだ!今日は朝からお買い物に行くって言ったでしょ!約束したのにいつもいつも、そうやって私のことナメてかかって!チリちゃんのばーーーーーーーっあぅ」
顔を赤くして、両手の拳を握りしめて、小さな背丈で一生懸命背伸びをするこの子の可愛さときたら。寝起きだというのに、そんな妖精さんみたいな柔らかい声で文句を言われても全然耳が痛ないわ、なんて反省するどころか心の中でけたけた笑う自分に呆れてしまう。
ふと魔が差して、たぶん『ばーか』と言うために大きく開いたその口に、手持ちのサンドイッチをほれと軽く突っ込んだ。懲りることなくさらに悪行を重ねてしまう、チリちゃんの性格の悪いこと悪いこと。
なまえはびっくりしたようにあわあわと足踏みをし、サンドイッチを持つ腕を両手でぎゅっと掴んだ。もう口に入ってしまったから出すにも出せないのだろう、抵抗せずにそのまま素直に食べようとする。かわいい。
「あむ、うぐ……」
「どや、うまいやろ」
なまえのためにチリちゃんが作った特性サンドイッチや。思ったより奥の方に入り込んでしまったみたいで、なまえは全体の三分の一ほどを大胆にも噛みちぎったあと、頬をぱんぱんに膨らませながら両手で口を押さえ一生懸命もぐもぐし始めた。
あーかわいい。ホシガリスか。どんな時でも食いもんだけは笑顔で美味しそうに食べるから、イタズラするのをやめられない。
「ゆっくりな、ゆっくり噛みや」
手元に残ったサンドイッチをひとかじりしながら様子を見守っていると、なまえは次第に自分が今何をされたのか、何を言おうとしていたのかを思い出したようで、みるみるうちに険しい表情に戻っていく。その様子にまた吹き出しそうになっていたら、なまえはチリちゃんの下ろした髪の毛を思いっきり引っ掴んだ。
あかん、とうとうキレたかも。なにやら危ない気配を感じたので、サンドイッチを皿の上に避難させる。思った通り、なまえは急いで口の中のものを飲み込んでこちらに突っかかってきた。
「ねえ!いきなりなにするの!」
「ドオーばりに口開いとったで」
「し、しぬかと思った!」
「うますぎて?」
「うん!あ、ちがう!おいしすぎてじゃなくて、あ、でもサンドイッチはおいしいけど、でもでもそうじゃなくて、えっと、えっと」
よっぽど美味しかったのか、勢い余ってまっすぐ頷くなまえ。すぐにハッとしてごちゃごちゃ言葉を並べてから「息が出来なくて!」と言った。サンドイッチの食べかすが口元についていることに気づきもしないでそんなことを言われても。
「もーやだ!チリちゃんなんか!」
指摘しようにも、もー!もー!と鳴きながらぽかぽか拳をぶつけてくるから、聞く耳を持たなさそうだ。しかし怒っていても手加減しているのか全然痛くない。むしろいい肩たたきマシンだ。あかん、これを言うとまた怒られてしまう。そろそろ止めどきか。
「なまえ、こっち見ぃ」
止まる気配のない手を両方とも捕まえて、一瞬硬直したなまえをそのまま軽く引き寄せた。何か言いたげな口元に顔を寄せて、そのままにしておくのもなんだからと食べかすをぺろりと舐めとってやる。すると何を考えているのやら、なまえは痴漢に遭遇したみたいに、マンションの分厚い壁を貫通する勢いで大きな悲鳴をあげた。
「わあああーー!!」
「喚くなや、通報されるやろ」
「チリちゃんのへんたい!いーけないんだいけないんだ!せんせーに言ってやるー!!!」
心の中に五歳児でも飼っとるんか。まあこの子を怒らせたのは自分だが、このままだと本当にご近所さんに通報され事件になりかねないので、こちらもまた止まる気配のない口を今度は唇でしっかりと塞いだ。
「!」
いつもしていることなのになぁ、そんなふうに拒絶されるなんて照れ隠しにも限度っちゅうもんがあるやろ。触れた途端にぎゅっと目を閉じるなまえの顔を見つめながら、遠慮なく唇を割って甘く吸い付けば、さっき食べたサンドイッチの風味がふわっと鼻に香る。
逃げようとするなまえの首後ろを片手で押さえつけ、上から何度もキスを落とした。甘々のやつ。無理やり、とかじゃない。なんだかんだ言って、なまえが文句を言うのはいつも照れ隠しのためで、本気で嫌がっていないことはチリちゃんにはお見通しなのだ。だから懲りずに反省もしない。当然、本気で嫌がることは絶対にしない主義。
「ん、……んぅ」
さっきまでの虚勢はなくなり、甘んじて受け入れるように服を掴んでくるなまえ。しばらくの間いいようにされて、ようやく解放した頃にはすっかり静かになった。今は呼吸を整えるのに集中している。ぜえはあ、なんて大袈裟な。そうやって口を大きく開けていると、またさっきみたいにサンドイッチ食わされるで。
「なまえ、落ち着いた?」
ソファーに移動して、なまえのはだけたシャツを正しながら問いかけると、なまえは負けましたと言わんばかりに手で顔を覆う。
「もう、チリちゃんなんか、チリちゃんなんか……」
「チリちゃんなんか?なんや、言うてみい」
「うー……。ち、チリちゃんなんか、……チリちゃんなんかぁ……!」
さっきからずっとあしらわれてばかりで、もう文句を言う元気も残っていないらしい。必死に悪口を探しているのだろうが、いつまで経っても“チリちゃんなんか”を繰り返すだけで続きの言葉はやってこない。簡単な悪口すら言えない、なまえのかわいい口をまた塞ぐ。
「ん」
「わー!!!」
「なんやねん、もー。なまえったら」
「……。うう、ひぐっ」
「おお、待て待て、待ちや」
とうとう今にも泣き出しそうにするから、さすがに慌ててなまえを抱き寄せた。顔を見れば嘘泣きだということはすぐに分かったが、嘘泣きでも弱いものは弱い。
チリちゃんがいじめた張本人のくせに、まるでいい人ぶるかのようにその小さな体を抱きしめる。ぎゅう。背を丸めて顔を近づけながら、よしよしと腕の中の背をさすって、ごめんなを
何度も繰り返した。
そうしたらなまえは、チリちゃんがいじめた張本人だということを忘れてしまったかのように、胸に顔をぐりぐりと押し当てより強く抱きしめてきた。ぎゅうう。
「……チリちゃんのばか」
さっき言えなかったことを改めて口にする。だからななまえ、妖精さんみたいにかわいい声で、泣いているような弱々しい声で、しかも上目遣いで文句を言われても傷つくどころか癒しをもらうだけだ。……ということをそろそろ学んでほしいかな。それともわざとやっているのだとしたら、それはそれで侮れん。
「チリちゃん、なまえのことホンマに好きや。大切やから、もう泣かんでええねん。反省もしとる。許してくれんか、お願いやから」
「……ふーんだ」
なまえはいじけてそっぽを向いてしまった。それすらかわいく思えてくるから、恋愛脳は便利で都合がよくてえらい造りをしているなあと思う。
「いいの。許してあげるもん」
そもそもの話、昨日はなまえは泊まる予定がなかったのをこちらが駄々をこねて無理やり家に引きずり込んだ、という前日譚があり。昨日のデートで会った瞬間から「明日は早起きしてお買い物に行くの!」という話を聞かされていたチリちゃんだったが。
夜どうしても別れたくなくて、せやったらチリちゃんが起こしたるから今夜はうちに泊まって行きや、泊まらんかったら大泣きするで、と半ば脅迫のようなものをしてまでなまえを招き入れたのに。一緒のベッドに入ってやることと言えばそら決まりきったもんで、二人仲良く夜更かししてしまったのだ。
うん。最初から最後までチリちゃんが悪いな。自分で自覚していながらまともな態度で謝りもしないのに、それでも許してくれるなまえは世界で一番優しい子や。
ずっとこうしていたかったけど、しばらくハグし合ったあと自然と離れたなまえは意外にもなんともない顔をしていて。キッチンの方へ戻って行ったかと思えば、残ったサンドイッチを皿の上から拾い上げて残らず平らげてしまった。やはり美味しいものには勝てなかったらしい。
しかしさっきまでのアレはなんだったのか……なまえはなんともない顔、どころか満面の笑みをしていて、首を傾げるチリちゃんの隣に勢いよく座り込んだ。
「なんや、平気な顔しよって」
「え?チリちゃんがいじわるして、私が許すまでが一連の流れじゃないの?だから、今日の分はもう終わったよ」
「なんのことや」
唐突に話の流れが変わったな。スマホロトムをいじりながら、肩に体重を乗せてくるなまえ。今日行く予定だった店の情報を調べているようだ。
「私、べつに怒ってないもん。泊まるって決まった時点でどうせこうなること分かってたし。私は別の日でもよかったけど、断ったらチリちゃん泣いちゃうもんね」
目だけでこちらを見上げてくる。確かに断ったら泣くとは言ったが。そんなにも余裕そうな顔を見せられると、あの時チリちゃんだけが余裕がなかったように思えて少しもやっとする。もちろん口には出さないが。
「それにね、私はね、わざと怒ったふりしてチリちゃんの構ってちゃんに付き合ってあげてるだけだもん」
「ほぉー」
構っていたのはこちらではなく、なまえの方だったと。ほうほう、そういう考えもあるのか。自分とは真逆の言い分に最初は感心したが、……よくよく考えてみると、わりと言えてるかもしれないと気づいてしまった。
なまえはいつもこちらが望む行動を率先してやってくれている節がある。わざと泣いたり怒ったり、あざとい顔をしたり。それに甘えているのはもしかしたら自分の方だったのかもしれない。なまえにはいつも驚かされる。
まあ新たな気づきを得たところで、むしろ愛おしさが増すというか。この子はこの子なりに自分を愛してくれているのだ。
「チリちゃんがいじめてくるのはまあ普通にやだけど、チリちゃんがそうしてくるうちは私のこと大好きなんだな〜って思えるからまだガマンできるの」
「健気やなぁ」
「ご本人が感心してるんじゃないよ」
なまえはむすっとした表情をしながらずるずる体勢を変えていき、太ももの上に頭を乗せてソファーに寝転がった。
「せやったら、これからもなまえのこといじめた方がチリちゃんの愛情を感じてくれるんか?」
上から見下ろすと、垂れ落ちた髪でスマホが隠れるのを邪魔そうに手で避けるから、逆に髪の毛をひとまとめにしてなまえの額を筆みたいになぞってみる。
「その考え、ほんと最悪ー!ていうかくすぐったい!あのね、何もしなくても充分伝わってるから!チリちゃんってば素で私のことだいすきなんだから」
「よう分かっとるやん」
「むしろいじわるするのほんとに訳わかんないし、もういい加減、いじわるしてくるチリちゃんのこときらいになっちゃおうかな!」
そら困るなぁ。ちゃんと髪をしばって視界を良好にしてから、指で頬を撫でる、撫でる。なまえがチリちゃんのことを嫌いになったら、これからの人生生きていけん。そこまで言われてしまったら、もうこれまでの言動を一から洗い直して改めなければいけない。なまえが本気で嫌がることは、しない主義だから。
「ていうか、チリちゃんは私より大人なのに、いじめる以外の方法で私のこと可愛がれないの?」
「……」
なまえの言葉にひとつ瞬きをした。
「チリちゃんって、本当は不器用なひとなの?ねえ、ねえねえ。チリちゃんは賢くてかっこいい大人のおねえさんなのに、中身は意外とお子ちゃまなのかな?」
煽る煽る、煽りよる。さっきまで心の中に五歳児を飼っていたのはそっちなのに、一変して挑発的な目で見上げてくるから、同じように口角が上がって笑いが抑えきれなくなる。
この子は、ホンマに。そういえば今となっては仲が深まりすぎて忘れてしまっていたけれど、最初はなまえのこういう大胆なところに夢中になってしまったんだっけか。
「あ、スマホ、」
なまえのスマホロトムを取り上げ、ソファーの端に投げた。チリちゃんとは形の違う女の子らしい手を取って、なりふり構わず噛みつきたくなるのをなんとかこらえ、なまえが好きだと言っていた王子様のように唇をそれに押し当てた。
「言うやん、自分」
ほんならお言葉に甘えて、挑発に乗って、可愛がらせてもらおうか。