02

althaea0rosea

「よっしゃ。なまえ、まずは水分補給しっかりな」
「ええ、これ一気に飲むの……?」
「せや。はよ飲まんかい」
 いつも箱で注文している、ペットボトルのおいしい水をしこたまコップに注いでやる。ベッドの真ん中に座り込んで、仕方なく渡される分だけ懸命に喉に通していくなまえ。
 その様子をベッドの下から眺めながら、物欲しそうにわあわあ鳴くドオー。ここまでテンションが上がっているとボールに戻すのも気が引ける。水を張った風呂場まで連れて行って、「大人しくしててな」と釘を差した。ここからは大人の時間やから。
「おまたせ」
 寝室に戻るとなまえはちょうど一本分を飲み終わったところで、ぷはあと息をついていた。ドアを閉め、カーテンを閉め、なまえの手からコップを回収して棚の上に置く。
「昨日もたくさんえっちしたのにぃ」
「なまえが可愛がれ言うからやん」
「ちがうよ!私は普段のこと言ったんだよ。朝とか、昼の時のこと!だってえっちするときはいじわるとかしないでしょ。夜はいつもと違って、くだらない冗談言ったりからかったりしないし、優しいし、おねだりなんでも聞いてくれるし、だから、いつもそうならいいのにって、思……。チリちゃん?」
「……」
 寝るときはいじわるしない、ねえ。ふと耳に残ったそのフレーズを頭の中で繰り返した。
 なまえのことはとても大事だ。大事にしているからこそ、夜の関係のデリケートな部分は特に気を配る要素が多い。傷つけたくない、その一心で、いつか本性が漏れるやもしれないとびくびくしながら触れるのだ。
 なまえがそう言うってことは、今のところ夜のチリちゃんは優しい人でいられているらしい。そのことに少し嬉しくなって、反面複雑な気持ちにもなってしまって、微妙な顔で微笑みを浮かべた。
 はあ、できるだけ隠し通すつもりだったのにな。ぎしりと音を立てながらベッドに腰を下ろす。後ろを振り返り、寝間着の下からむき出しになった細い腿に手を置くと、なまえは不思議そうに瞬きをした。
「ほんまにそう思うんか?」
「?」
「ここだけの話な、チリちゃん、本当はごっつ我慢してるんやで」
「がまん……?」
 急に語り出したことに、不安そうな顔をする。
「ち、チリちゃん、何かがまんしてるの?私、なにか嫌なことしちゃってる?なあに、なんのこと……?」
「いやいや!なまえは全然ちっとも悪くないんやけど。ただ、チリちゃんがな、ほんの少しだけひねくれてるってだけの話でな」
「……?」
 言葉がうまくまとまらず、なまえから視線を外して壁を見つめたら、即座に後ろに気配を感じた。何かを感じたのか、何も言わずに背中に張り付いて抱きしめてくるなまえ。あーあ、急にこんな話をし出して心配しているに違いない。
 両足をベッドにあげて、体ごとなまえを振り返る。すると、今度は真正面から抱きしめられた。抱き合うの、ほんまに好きやな。チリちゃんも好き。しがみついたまま何も言わないのはきっと言葉の続きを待っているんだろう。なまえの頭や背中をそっと撫で、意を決して口を開いた。
「なあなまえ」
「……なあに?」
「チリちゃんはな、もっと」
「うん……」
「もっと、なまえのこといじめたいんや」
「え?」
 顔をあげ、キョトンと目を合わせるなまえ。思った通りの反応すぎて笑いがこぼれる。もしかしたらこの笑いには自嘲の意味も含まれているかもしれない。
「なまえにいじわるなことして泣かせるのに生き甲斐を感じてしまうんや。けどいつも我慢してギリギリのところで踏みとどまってる。ハメ外したら終いやから」
「へ、へぇ……そうなんだ」
「なまえのこと、一番大事やからってこんなことも考えてしまう……やばいやろ。チリちゃんは自分が思うよりずっと性格エグいで。覚悟しぃ」
 もしかしたらこの時点で既に引かれてしまったかもしれない。そう思うと身が引き裂かれる思いだが、そんな気持ちとは裏腹に、なまえはしばらく考え込んだあといきなり「ふふ、ふふふふ!」と笑い出した。しかも結構な大声で。
「な、なんや自分。ひとががんばって打ち明けたっちゅーのに」
「あははははは!チリちゃんかわいい!いきなりどうしちゃったの!」
 いきなりどうしたもこうしたもあらへん。チリちゃんはずっと前からこうだった。こういう人間なのだ。好きな子にはいじわるをしたくなる。そんな典型的なガキみたいな幼い性格を、今になっても持ち合わせている。
「あはは!あははは!」
「ちょ、笑いすぎや」
「だってぇ!チリちゃんかわいいんだもん!」
 あんまりにも笑うから、むしろ救われた気すらしてくる。少なくとも話さなきゃよかったという気持ちは湧いてこない。ベッドに寝転がって両手で腹を押さえるなまえ。はぁ〜と気が抜けて同じように隣に寝そべると、すぐにぴたっと密着してきた。
「言われてみたら、そんな感じするかも」
「ホンマかぁ〜?」
「隠しきれてないもん!へえ、本性はもっとえぐいの?そうなんだ。でも本当、えっちのときはいじわるだなって感じたこと全然ないよ」
「そ。ならええわ」
「私の前では、私のために、かっこよくて優しいチリちゃんでいてくれてたんだ。チリちゃんの方こそ健気じゃないの。かわいい。チリちゃん、だいすき」
 なまえの優しい言葉をいまいち頭が処理しきれず、めまいがする。そうしているうちに、唇に柔らかいものが触れた。
「私のこと、大事にしてくれてありがとう」
 ここぞという時、なまえは変に恥ずかしがらずまっすぐ目を見て言葉を放つところがある。普段は死ぬほど照れ隠しするのに、ズルいわホンマ。しかも急にたくさん褒められるからむず痒い気持ちになる。
「でも、いじわるされるのは普通にやだから普段はやめてよね」
「そりゃもう当然やろ!」
「だから、大人のチリちゃんが知ってるいじわるしないで可愛がる方法ってやつ、今度こそ教えてくれる?」
「はあ?いじわるせずになまえを可愛がる方法?そんなの、チリちゃんが知っとるわけないやんけ」
「え、ええ……!?」
 一瞬にして正反対なことを言ったから、なまえは今日一番に困惑した声を出した。
「可愛いなまえの顔見たらすぐに痛めつけて酷いことして泣かせたくなるんやもん、こらもう直せんわ、重症やもん、チリちゃんそうして精神状態保っとかなやってられん」
「そ、そんなぁ……」
 うわ、チリちゃん今すごいこと言ったわ。でも口に出てしまったものは仕方がない。訂正するにも事実なんやからどうしようもない。その代わり、いつにも増してなまえを大切に大切に抱き寄せて、抱き枕みたいに抱きしめながら問いかけた。
「チリちゃんのこと、嫌いなった?」
 二秒だけ考えて、すぐに答えるなまえ。
「べつに、ならないよ。本当はいじわるされるのやだけど、でも本当はチリちゃんになら何されてもいいもん、わたし」
「どっちやねん。何されてもいいは大袈裟やろ」
「そう思うなら、一回本気でいじめてみなよ」
 “本気でいじめるということ”がどんなんか、想像もできないくせにいけしゃあしゃあと言いよって。
「いやや、なまえに嫌われたら終いやもん」
「嫌いにならないって言ってるのに」
「けど、」
「チリちゃんってば、とんだ臆病者なんだね。私とは大違い!」
「あ?」
「やーいやーい臆病者ー!」
「こんのっ!悪口言うんはどの口や!」
 ついにプッツンしてなまえにの上に馬乗りになり、顔面を押さえつけながら口の中に親指を突っ込んだ。さっきからお調子に乗りまくって煽ってばかりやないか!気を使っておそるおそる言葉を選ぶこっちがバカみたいだ。とうとう堪忍袋の緒が切れた。
「あ、うあうえ〜っ!ふふへへっ」
「なにわろてんねん!大人ナメたらアカンで!」
「げほげほ、……え、おとなぁ?チリちゃんは思ってたより大人じゃなかったよ。私より10コくらい年の差があるからって、大人ぶることないよ」
「なんやとコラ〜〜〜!!!!」
 この子は留まることを知らないのか。既にチリちゃんのことを一から百まで理解しているかのような言い草だ。ていうかさっきから言葉の攻撃力がえげつなくて、心がぼろぼろになっている。回復しないと。
 でも、こんなに容赦なく本音を言い合える関係なんて、他のどこにもないものだ。乱暴にしたのに心底嬉しそうに笑うもんだから、とうとう芯まで気が抜けて、倒れ込むようになまえの顔の横に両肘をついた。
 額にコツンと額を置いて、至近距離からじっと見つめる。どうやら気を使っているんじゃない。この子は、本当にチリちゃんになら何をされても許してしまう。
 こうなったら、わかった。これからも我慢大会の続行だ。何をしても良い子なら、こちらがセーブしなきゃ行くところまで行ってしまうから。それこそ一環の終わりだ。
「ったく、しょうがない子供やなぁ」
「お互いにね」
「……。もう黙っとき」
 顔を近づけたから、なまえはいつもするように首の裏に腕をひっかけて自分から口付けてきた。なんや、今は目ぇ閉じんでええの。離したくなくて、こちらから再度近づき長い長いキスをする。
「……なまえ」
 好き。好きや。この子が好き。

 いつの間にか解けた髪がなまえの顔を外界から覆い隠した。息切れを起こして真っ赤になったその顔をそっと撫でつける。ああ、やっぱりやりすぎた。我慢しないとこうなるのだ。
「えへへ、ドSのチリちゃんもかっこいいね」
「なまえ」
「仲良くなる前はそういう一面全然見せてくれなかったから……今はすごく嬉しいよ。チリちゃんの強いところも、弱いところも、わたし全部だーいすき」
 この子を独り占めできるようになってから、何度殻を破られたことだろう。なまえがそうしろと言うから、今回だけは我慢せずに欲望をぶつけた。もちろん気を遣いながらではあるが。
 けど思ったよりもなまえの方が乗り気だし、わざとやってるのかいちいち煽ってくるし、チリちゃん調子に乗って狂ったように可愛がってしまった。そうだ、この子はこちらが望むことを率先してやってくれる子だった。これも計算のうちということか?怖いわ、ホンマ。
 今はパルデアいちあつあつの仲やけど、出会いは結構ドライやったっけ。もちろん“今と比べたら”の話。……あの頃と比べたら、今が断然幸せだ。この幸せを手放すわけにはいかない。
「だからもっと見せてほしいな。チリちゃんの色んなところ」
「そうやってすぐ喜ばすなや」
「チリちゃんすきすきすきすきだーいすき!」
「ああ、もう!」
 分かった。もう、分かったから、これ以上チリちゃんを好きで苦しめんのはやめといて。

 や、もっとして。


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