03

althaea0rosea

「夜更かし、しないからね」
「まあ明日はチリちゃんも早起きやし」
「先にお風呂入ってもいい?」
「はいよー。今沸かす」
 夕食を終え、帰宅。当然、チリちゃんの家に。
 もう何回も遊びに来たことがあるから間取りの把握はばっちり。玄関で戸締りの確認をするチリちゃんを放置して、勝手に電気を付けて廊下を進む。うーん、今日は比較的片付いているようだ。なんて適当な感想を抱きながら、荷物とポケモンたちが入ったボールをソファーのうえに並べた。
 落ち着いた色味の家具が置かれた、どこもかしこもチリちゃんの匂いがするお部屋。もう今更こんなことでどきどきなんてしないけど、ここに来たからにはどうせ今日もまた“そういうこと”になるんだろうなぁと頭の片隅で考えてしまうから、困ったものだ。さて、今日は素直に寝かせてくれるのだろうか。
「はーあ、お腹いっぱいだー……」
 レンガで囲われたガラス窓を開けて、テーブルシティの夜景を眺めた。数年前、 母と引っ越して来た時に初めて見たこの綺麗な光景は、今後も忘れることはないだろう。
 当時の宝探しの中で出会ったたくさんの人々。その中にチリちゃんがいて良かった、本当に。でなければ、今こんなにパルデアに愛着が湧くことはなかったかもしれない。いや、私ネモやペパーやボタンのことも同じくらい大好きだから、そんなことはないか。あはは。なんてことを考えていたら、後ろからお風呂が湧いたことを知らせる声が聞こえてきた。
「なまえ、もう一緒に入ろうや。その方がお互い早く寝れるし」
「……はあーい、しょうがないなあ」
「ちょっと嫌そうな顔すな」
「べつに、嫌じゃないよ。ツンデレなだけ」
「自分で言うん?それ」
 窓を閉めてから脱衣場へ向かうと、ちょうどチリちゃんが服を脱ぐところで。あまりの準備の良さに、最初から一緒に入るつもりだったんじゃ?という憶測が脳内に浮かびつつ。後ろ手に引き戸を閉めながら、その様子につい目を奪われてしまう。やだ。今日も色気むんむんだ、このひと。やだ。もー。
「あ、こら。汚れちゃう」
 チリちゃんが床に捨てようとしたシャツをすかさず空中でキャッチし、洗濯かごに投げ入れる。自分の家かつ私が一緒にいる時は、急に雑になるんだよなぁ、このひと。それがいつもしっかりしているチリちゃんなりの甘えなのかもしれない。かわいいけど正直めんどくさい。空気を読んだのか、残りの服は自分でかごに入れてくれた。
「じゃ、お先〜」
「あー!私が先って言ったのに!」
「はよ脱いでこっち来や、湯船に浸かって待っとるで〜」
 長ーい髪の毛をまとめるゴムをすうっと解いて、お風呂場に消えていくチリちゃん。なんだかふざけているように見えるけど、未だに好きな人の前で服を脱ぐことへの羞恥心が残っている私に、さりげなく気を使ってくれたのかも。配慮の鬼かな?むしろ助かったと思いながら、自分も服を脱いでお風呂場に続く。
「お、おまたせ」
 胸元を腕で隠し、背を丸めながらたどたどしい足取りで中に入る。女の子同士だけどまだ恥ずかしい気持ちが健在なのは、むしろ健全な証だと思いたい。と、気を紛らわすようなことを考えていたら、中で待ち構えていたチリちゃんにいきなりドバーッとお湯をかけられた。
「!?」
 強制的に目が閉ざされ、なにがなんだか分からずに「わー!」と叫んでぶんぶんと首を振ることしかできない私。すぐ近くから大きな笑い声が聞こえてくるからすごくムカつく。
「なっはっは!」
「なに!?なにするの!」
 逃げるように湯船に入るチリちゃんを追いかけ、勢いよく飛び込む。まるでイタズラ成功!と言わんばかりの笑顔をして、いたずらに笑って。なんかもう、やってることが子供くさくありませんこと!?
 大きく波打ち、零れゆく湯なんて微塵も気にせず、わーわーと数秒間取っ組み合いの喧嘩をするうちに、恥ずかしさなんてまっさらに消え去っていく。心の底から楽しそうなチリちゃんの笑顔に完全に毒気を抜かれてしまった。急遽決まったお泊まり会がそんなに嬉しいらしい。
「あー楽しい!サイコー!なははははは」
「もーなんなのこのひと……やばいよこのひと……」
 子供みたいに一人で勝手に笑い出して止まらないから、怖くなってしまう。もしかして毎日のお仕事で疲れが溜まっているのかもしれない。そう思うとなんだか可哀想になってきた。
 二人して騒いだら急に落ち着いてきて、仲良く湯船の中で座り込んだ。チリちゃんに背中を預けたら、お腹に腕をまわされ大事に大事に抱きしめてくれる。素肌のチリちゃん、あったかい。
「今日も一日お疲れさん」
「うううー……ほんとにつかれた」
 チリちゃんの肩に後頭部を預けてぐでーっと力を抜く。このひとは隙がないので有名なので、途端に後ろからやさしくやさしく鷲掴みされた。
「ん〜、また大きくなったんとちゃう?」
「おまわりさ〜〜んっ」
「やめれ」
 頬をむにゅっと挟まれた。いきなりセクハラしてくるチリちゃんが悪いのに。
「でも、確かに言われてみれば最近またサイズ合わなくなってきたかも」
「成長期いつ止むん?」
「知らなーい」
「今度ショッピングでも行こか。ハッコウシティとか、どうや?」
「え、行く行く!ナンジャモちゃんに会いに行く!」
「ま〜た女目当てかい。このっ」
「だから、そういうんじゃないってばもー!」
 軽く羽交い締めにされたから、バシャバシャ音を立てながら水の中で抵抗して、なんとかしてチリちゃんの腕を捕まえた。ふんっ、こうすれば何もできないだろう。
 でも、本当に違うんだよ。私はみんなのことが大好きなだけだから、そう言葉にしてしまうだけで、べつにチリちゃんを困らせたくていちいちこんな発言をしているわけではないのだ。
 顔を見られないこの体勢は都合がいい。この機会に、ちゃんと分からせてあげないと。
「あのね、私、誰かのことを好きになったのチリちゃんが初めてだよ。チリちゃんだけが特別なの。他の人なんか全然及びもつかないくらい」
「ふーん」
「チリちゃん以外の人はみんな、ただのライクでしかないもん。だから、ミーハーな私にいちいち嫉妬する必要なんかないんだよ。そんなんじゃ疲れるでしょ?」
 とか言いながら、よく女の子の視線を集めるチリちゃんのことで嫉妬しているのは自分の方なんだけど。……だから、わざとチリちゃんの気を引きたくて、わざと同じように嫉妬させたくて、言う必要のないことまでを言ってしまうのかな、自分は。なんだか嫌なやつみたい。
 そのまま黙り込んでいたら、よしよしと頭を撫でられた。
「チリちゃんはな、嫉妬することを楽しんでる時もあるから、あんまり心配せんでええよ」
「へー……?どえむなの?」
「ちゃうわ。大人の余裕ってやつや」
 変な楽しみ方をしているなぁ。
「あと、嫉妬させるようなことしたなまえを問い詰めるのが楽しいってのもあるな」
「へ、へー……。どえすなの?」
「んーまあ、どっちかというと?」
 そうだね、チリちゃんは元ヤンだもんね……(勝手に言ってるだけだけど)。
「なまえのこと、本気で疑ってかかったことなんて一度もないしな」
 うーん、さっきのリップさんの時は本気で怒っているように見えたけど、あれ実は手加減してたの?怖。
「なまえがチリちゃんのこと大好きなんは、チリちゃんにはよう分かっとる。そんで、チリちゃんもなまえのこと、大好きや。一番な」
 ぽんぽんと頭を撫でられ、これ以上ないってくらい優しい声色で言うから、耐えきれなくなってお湯の中に体を沈めた。ぶくぶく。幸せすぎて、このまま楽になりたい。


 代わる代わる体を洗って、お風呂を済ませた私たち。お互いの髪を乾かしてから、面倒くさがるチリちゃんの長ーい髪の毛を丁寧に丁寧にブラシで通してあげて。規則正しく、日付が変わる前にベッドに入ることに成功した。
 よし、とても順調だ。このまましっかり寝られたらしっかり早起きできるはず。チリちゃんの匂いのするTシャツに頬を緩めながら、スマホロトムをいじる私。なんかお腹にへんなのが抱きついてるけど、気にしない。
「なあ、ほんまに明日には帰るんか……?」
「うん。帰る」
「いやや〜〜〜〜!!!」
 この様子、ポピーちゃんに見せてあげたい。いや、あの子は「甘えたさんのお年頃なんですね」ってかわいいがってくれると思うけど、アオキさんやオモダカさんにはドン引きされそう。それくらい外用のチリちゃんからは考えられないギャップがある。
「職場はまだ我慢きくけどなぁ〜。ハァ〜、どないして別々の家に住まなあかんねん!意味わからん、なんでなん」
「だってチリちゃん、私と一緒に暮らしたらダメになっちゃうもん」
「どういう意味や」
「そのままだよ」
 言葉通り、そのまま。さっきだって床に服捨てようとしてたし。自分で髪の毛とかそうとしないし。
 分かってるよ、チリちゃんは私がいないところではちゃんとお片付けして、髪のお手入れもちゃんと自分でするってことは。急なお泊まりだったのにお部屋はきちんと整理整頓されてたし、髪の毛はいつもうねりのないサラッサラッのストレート。思わず触りたくなっちゃう。
 でも、私がいるとダメなのだ。チリちゃんは何もしなくなる。それは言い過ぎかもしれないけど、例えば朝起きれなくなるくらいには、ダメになるのだ。何回もお泊まりしたからもう分かっちゃった。
「そんなに酷くないやろ、さすがに」
「どうかなぁ。ていうか、チリちゃんだけじゃなくて私の方もダメになっちゃう」
「なまえも?」
「うん。チリちゃんと一緒じゃなきゃダメなからだになっちゃう!」
 一緒に住んだらそれが当たり前になってしまうから。ドツボにはまって自堕落な生活になりそうで怖い。怖すぎ。そうやってオーバーリアクションぎみに言ってみると、どっちかというとツッコミ待ちだったのに返ってきたのは静かな声だった。
「そんなん……チリちゃんはもうなっとるで。なまえと一緒じゃなきゃ生きていけんわ」
 チリちゃん、今にも泣きそう。どうせ嘘泣きだろうけど。私は騙されないぞ。でも無視するのは可哀想だから、スマホを置いて肩まで一緒に布団にもぐる。
「じゃあ、このまま別々に暮らしてたら死んじゃうの?」
「せやな」
「チリちゃん、生きて」
「なら一緒に住も。ええやろ?」
「……んん」
 一緒に住む。つまり、同棲するということ。
「まだ悩むんか」
「えっ、えっと、なんていうか……」
 これまで何回も寝泊まりを繰り返しているのに、一緒に住んでるところを想像したら急に照れくさくなってしまった。
 本音を言えば、このまま二つ返事で頷くのもいいんだけど……チリちゃんが調子に乗っちゃうからまずは色々確認しないと。
「ねえ、一緒に住んだら、ちゃんと毎朝起こしてくれる?」
「なはは。チリちゃん、これでも朝苦手やねん。知っとるやろ」
「美味しいごはんとか、作ってくれる?」
「どーやろな。サンドイッチ作るんは自分のがうまいやろ?チリちゃんなまえのあれ好きや」
「お掃除とか、お洗濯とか、家事とか……」
「人並みには頑張るけどなぁ。正直、サボる日も結構多いで。忙しいとなーんもやる気せぇへんもん」
「へー。一緒に暮らす気ある?」
「ある!!!!!」
 なんかダメかもしれない。二人してダメになる光景がもう想像できた。
「ていうか、家はどこにするの?」
「ここ」
「ミライドンちゃんに毎朝走らせる気……?」
「せや」
「そんなのやだ!無責任なこと言うチリちゃんはチリちゃんじゃない!」
 ダメだ、ますますダメに思えてきた。チリちゃんはあんまりわがまま言わないって言ったけど、あれは間違いでした。普通に言う。それも私が折れるまで。
「少なくとも、私がベイクジムにいる限り不可能だね。爆走ミライドン出勤問題を解決しないと。そらとぶタクシーだって、毎日はさすがにもったいないし……」
「ベイクジムでなきゃ、ええんやな?」
「ん?」
「よっしゃ!チリちゃんがオモダカさんに話つけたる」
「えっ?」
 チリちゃん、急に元気になった。
 って、なに?もしかして私を転勤させようとしてる?
「なまえの言い分もあるんや、リーグには無理やり連れ込んだりせんようにする」
「まあ、チリちゃんがいる限りリーグでは働けないな〜って今日改めて思ったね。オモダカさんも認めてくれないだろうし」
「はいはい、ひどいひどい。んー、こっから近いセルクルジムなら今より断然楽になるやろ。どうや?ミライドンも毎朝の散歩なら大歓迎やないの?」
 チリちゃんの提案に、ソファーの上のボールがゆらゆら揺れる。ボール越しに「アギャ」と返事が聞こえた気がした。ミライドンもチリちゃんに味方している。
「そりゃ、カエデさんのスイーツも捨て難いけど……。えー、せっかくリップさんと仲良くなれたところなのになー」
「んなこと言う子には、あそこで働かせたないわ」
「それ……オモダカさんに言うの?」
「言わん言わん。でも数々の面接をこなしてきたチリちゃんなら、本当のことを言わずとも言葉巧みに説得すんのなんか御茶の子さいさいや!」
 ああ、チリちゃんなら本当にやってのけそう。私より断然お喋り得意だし、地味にポーカーフェイスなとこあるし、人の懐に入り込むの上手だし。
 もうこんなにも話が進んだら転勤なんて決まったようなものだ。そして、同棲の話も。はぁ〜チリちゃんの愛が重たくて、重たくて、なんて心地よいのだろう。自分も相当頭がやられているらしい。恋愛脳ってやばすぎ。
「チリちゃん、じゃあさ……一緒に住んだら、いっぱい構ってくれる?」
「言うまでもないな」
 言うまでもないか。私も、チリちゃんの構ってちゃんにいっぱい構ってあげなきゃ。





 あの後、チリちゃんが変な気を起こして襲われるようなことは何もなかった。それについては本当に有難かったのだけど、逆に私の方が自分では気づかないうちに心のどこかで期待していた部分があったようで、そわそわしすぎて眠れなかった。最悪だよ。我慢してくれたチリちゃんに顔向けできない。
 そのせいでちゃんと寝坊して、ちゃんと遅刻しそうになって、今からタクシーを呼ぶ時間ももったいないからと、ミライドンに謝りながら結局爆走ミライドン出勤をすることになった。
 服や荷物はきちんと夜のうちに用意していたから自宅には戻らず、直行で、なんとかギリギリのところでジムに到着。髪も顔面も心も、何もかもが乱れているのに、朝一番に出迎えてくれたリップさんは私を見るなりこう言った。
「あら?今日のなまえちゃんは、随分と輝いているのね?」
「え?」
「ハッピーなことでもあったのかな〜?昨日一日好きピと会えて、はしゃいじゃったのかしら?やーん!リップ、嫉妬しちゃうわ。今度リーグからのお呼び出しがあっても、お断りしちゃおうかしら?」
「えっ」
 なんか思ってた反応とちがう。
「でも私、遅刻しそうになって慌てて出てきたから……。髪の毛ボサボサだし、顔も寝起きで……ひどいですよね、あはは」
「とってもカワイイのに?」
 私のどこを見て言っているんだろう、リップさんは……。
 彼女は自らも広告塔を務めるモデルでもある。お化粧やヘアセットが崩れたところを見たことが無いし、お洋服だってシワひとつない。きっと毎朝早起きするのは当たり前で、私が思うよりもずっと大変な努力を積み重ねてきたのだろう。そんなリップさんが、今のこの状態をカワイイだって?
「今は私しかいないから、それでいいのよ」
「えっと、?」
「ほら、そろそろ始業時間になっちゃう。メイクルームに行ってきちんと襟元を正しておいでなさいな。そうしたら、見せたくない自分もバッチリ隠れるから安心ね。バッチグーよ」
 パチッとウィンクしながらサムズアップをして、リップさんは今日のお仕事現場に向かうために廊下を進んでいってしまった。そうだ、早くお色直ししないと。急いでメイクルームに向かう私。
「……あー」
 襟元を正す、というのは単なる比喩表現かと思って気にもとめなかったけれど……鏡の前に立ったことでようやくリップさんの言った言葉の意味を正しく理解した。
 鏡からギリギリ見える位置。小さなリップマークが、確かにそこにあったから。

「チリちゃん!見えるところにしないでよ!リップさんが教えてくれなかったら、私そのまま気づかなかったよ、たぶん!」
 お昼休憩になった瞬間、外に出て周りに誰もいないことを確認してからスマホロトムに向かって叫んだ。チリちゃんもチリちゃんで遅刻しそうになったはずだけど、私よりかは余裕があったから、今日もバッチグーなイケメン具合で画面越しに微笑んでいる。
『あの人が見たんなら、それでええ』
「……」
 それが狙いでした、と。
 はい。完敗です。一度も私を疑ったことがないと言いながら、疑わしい相手にこんなふうに見せつけるようなことをして、満足気なチリちゃんが、かわいい。世界で一番かわいい。すき。でも許可なくキスマークをつけたことはゆるさない!


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