ずっとあなたのことを見ていた

althaea0rosea

 この人は、コーヒーマシンの前で、コーヒー片手に起立しているだけで様になるんだから、憎たらしい。そこの窓から突き落としてしまおうかしら。

「チリさん。お休みのところ失礼をいたしますが、アカデミーから一名面接待ちです。ご確認願います」
 私が声をかけると、彼女は窓から差し込む夕陽を眺める鋭い目つきをすぐに和らげ、いつものにこやかな笑顔を作って振り返った。ついさっきまで同い年とは思えないくらい威厳のある佇まいだったはずが、途端に「まいど〜」と気の抜けるような返事をするから、力も抜ける。
 チリさんは手に持っていたコーヒーを飲みきり、紙コップをダストボックスに捨てると、それまで脇に挟んでいたグローブをさっと両手とも身につけた。四天王であることを示すお揃いの黒いグローブだ。仕事モードになると途端に綺麗な長い指を隠してしまうから、今のは貴重な光景だった。
「こちら書類です」
「おっ。ついに来たんか」
「知っている子ですか?」
「ネモのイチオシやから。それに、オモダカさんのお墨付き」
 知り合い。チリさんの知り合い、か。彼女は友好的で顔が広い。だからアカデミーに知り合いがいても何もおかしいことはない。が、ほんの少し……心の中に仄暗い塵が積もる。
 私は単なる事務だから、彼女との会話は仕事のことばかり。それでも毎日顔を合わせるだけで、彼女のころころ変わる表情とか、堂々とした仕草とか、人懐っこい愛くるしい声を全身で浴びることができる。それだけで毎日余るほどの幸せを感じていた。彼女と些細な話をする時間が、何よりも大事で幸せなのだ。
 それなのに、どこの誰とも知れない子供が、あのチリさんに認知されているだなんて。またそれか。またそうやって。私の知らないところで、私の知らない誰かが、私と同じようにあなたに笑顔を向けられている。
 あーあ、いっそのこと、その細い首をこの手で落としてしまいましょうか?そうしたら、いとも容易くあなたを独り占めできるから。良い考えだと思いません?私は、とても、そう思います。
「ジムリーダーたちがな、みんな口揃えて『あの子はやばい』って言うもんやから、さすがに用心せなあかんやろな。んー、今回ばかりはチリちゃんも負かされるかもなぁ」
「へえ……今日の挑戦者はもういらっしゃらないようなので、負けても次の業務に特に支障はありませんよ。なんなら余った時間に後の試合を観戦しては?」
「自分言葉きっつ〜」
「あなたが柄にもなく弱音を吐くからでしょう」
 柄にもなく弱音を吐く。それは、べつに私の前だから特別に見せてくれたとかじゃなくて、たまたまここにいたのが私だったから、たまたま目撃できたのが私だったというだけ。
 それでも、今日の彼女はどこかおかしかった。どこかふわふわしてるみたい。うつつを抜かしているみたい。

 まるで鏡を見ているみたい。
 誰かに恋をしているみたい。

「……」
 ふと、そんなことを考えてしまった自分が信じられなくて、そんなことは微塵も考えたくなくて、馬鹿なことを思いつく脳みそを心の中で必死にミキサーにかけた。ぐちゃぐちゃにして飲み干した。
 後から思えば、この時彼女に抱いた違和感はどうしようもなく本物で。けれど、この時の私は、いずれこのことが私を今以上に苦しめる原因になるってことを、ほんの少しだって考えたくもなかったから。
「言うても、応援してくれるんやろ?自分、チリちゃんのこといつも懇意にしてくれるん、ちゃあんと知っとるで」
「ええ、まあ」
 強制的に思考をシャットダウンさせて、どんな感情もひた隠しにして、ただ機械的に微笑むのだった。
「応援しています」



 二人目を突破した段階で、リーグ内は既に盛り上がりを見せていた。
 四天王は普通、チリさんまでで出番は終わり。それもたいていは面接で振るい落とされる。運が良ければ実技に進み、やはりたいていは一戦目で落とされる。それが普通。いつもの日常。
 だから、二人目であるポピーさんの戦況が不利になった時点で初めて、三人目のアオキさんに連絡が行き、普段の配属先であるチャンプルジムから即刻本部に向かうように指示が出る。
 だから事務所はかなり慌ただしくなる。業務をする人。テレビの前でバトルを観戦する人。興味なさげにコーヒーを飲む人。……今日の私は三番目だ。私の担当する部署はリーグの受付業務だから、本日最後の挑戦者である彼女がこうして勝ち進んでいる今、もうやることが何もないのである。
 そう、例えば、自身で予想した通りに負かされてしまったチリさんに、想いを馳せることくらいしか。やることが。

 パルデアリーグのバトルコートは基本本人以外は立ち入れず、観戦するなら記録用のカメラを通して別室から様子を見守るしかない。
 そのリアルタイム映像が映し出されているテレビ……今日はどこもかしこも蝿のように人が寄って集って、気味が悪い。まるで、かつての少女がやってきた時のような賑わいっぷりだ。
「……」
 ふと天井を見上げれば、物理的に誰にも邪魔されることのできない吊り下げタイプのテレビと目が合った。……その日、我らが委員長が負ける様子を、久しぶりに目撃した。

 あの時、チリさんが神妙な面持ちで書類に目を通していた理由がよく分かる。彼女は最初から分かっていたのだ。こうなることが。
 私とは違い現役のポケモントレーナー、かつ四天王という役職をも務めている彼女。面接官という立場からも毎日のように多くの挑戦者と直接対峙して言葉を交わす。受付の次に挑戦者と相見える機会が多い、そんな立場にいる。
 だから、一目見ただけでその人の合否をなんとなく予想出来てしまう……らしい。この前私にそんなことを漏らしていた。ということはつまり、あの子の行く末も最初から予想がついていたということになり、だからこその面接前のあの発言だったのだろう。
「……」
 例の子供がここに来た時、担当をしたのは惜しくも別の人間だったから、あの子がどんな様子で建物の中に入ってきたのかは知る由もない。けれど、堂々たる足取りだったのだろうな、と勝手な憶測するのは簡単だ。



 晴れてチャンピオンランクとなった、例のあの子。アカデミー在学中の快挙は素晴らしいことだ。ああ、素晴らしい。彼女はあれからよくこのリーグ本部に顔を出し、既に“関係者”として事務所内に立ち入ることが許可されている。
 チリさん曰く「この数日間で、オモダカさんのお墨付きからお気に入りに昇格しよった」らしい。であれば、あの子の将来は安泰な生活を約束されたも同然だ。本人が望めば、卒業後ここで働くことは造作もないんだろう。私が就職時に苦労したのはなんだったのか。これが天才と凡人と違いか、なるほど。憎たらしい。

 今日も一日業務を終えたチリさんが、廊下の向こうからやってきた。私ほどになると足音だけでそのことが分かってしまう。いや?彼女のブーツの音は結構分かりやすいから、私でなくとも分かるかもしれない。逆に彼女以外は全く区別がつかない。極力気づかないふりをして、コーヒーマシンのボタンを押す。
 すると、後ろで誰かがソファーに座り込む音がする。
「チリちゃんのは?」
「ご自分でどうぞ」
 そう適当に返事をしながら紙コップを手に取り、彼女の相棒と同じ色をした液体を胃に注ぎ込む。砂糖を入れ忘れたけど、その強すぎる苦味は今の私にお似合いだから、むしろこの味でよかった。しかし吐きそう。チリさんがいなかったらそこの流し場で吐いていた。
「最近、冷たいな。自分」
「……いいえ?むしろ……」
 自分の額に手を当てる。その動作に疑問を持たれる。
「熱でもあるんか?」
 ええ、あなたへの熱で浮かされています。おかげで足音を聞いただけで苦い液体を飲むことになってしまった。
 そう無言で返事をして、仕方なくまた新しくコーヒーマシンのボタンを押す。今回もわざと砂糖は入れずに、ミルクも入れずに。
「……はい」
「ん。おおきに。座らんの?」
 私からコーヒーを受け取り、ソファーの上で脚を組むチリさん。背もたれに腕を預けてぽんぽんと手で叩く。断る理由がないので……いいえ、了承する理由しかないので、誘導されるがままにチリさんの隣に座った。
「あの子、大穴に行きよったらしいで」
「……」
 その話を始めるのなら、座らなければよかったと即座に後悔する。
「前に、トップがアカデミーの校長せんせと話し込んでた時があってん。チリちゃんそれ盗み聞きしてたんやけど〜」
「待って。私に情報を漏らして盗み聞きの共犯者にしようとしているんですか?」
「へーきへーき。そない機密事項ってわけでもないから。今となってはもう、な」
 チリさんは私の制止など微塵も聞かずに勝手に話し出した。

 大穴へ潜ったのは四人の子供たち。彼らは十年前にテラスタルの仕組みを解析し、実用化を実現させたあの有名な博士に導かれた。
 そこには強大なポケモンたちが待ち受けていたが、自分たちの力だけでなんとか危機を乗り越え、そして見事生還したと。

 チリさんが知り得たのはおそらく上辺だけの情報だけなのだろう。そこまで話したはいいものの、どこか納得のいかないような、煮え切らない表情をしている。まだ何か裏があるに違いない、と言いたげな。
 私が抱いた感想といえば、チャンピオンランクが二人もいれば不可能も可能になるだろうな、という在り来りなものだけで。どうして私にそんな話を聞かせるのか、ただ疑問が頭に浮かぶ。
「危ないことするんやなぁ。見かけによらず。自分らがあんくらいの時は何しとったっけ?」
「さあ。私は好奇心のない子供でしたので、定められた規則の中でつまらない生活をしておりましたけど」
「なはは。自分らし」
「何を笑っているんです?」
「どこまでいっても真面目ちゃんやな〜と思って。さすが、チリちゃんの唯一の同期やな」
 それしきのことでにこにこと笑うあなたも、それしきのことで心が溶ける私も、どっちも同じくらい馬鹿らしい。

 その時、チリさんのスマホロトムが声をあげた。ロトロトロト。会話が中断し、お互い違う方を向いて座り直した。何者かと会話をするチリさんの、軽やかで優しい声を聞き流す。
 誰でしたか?とわざわざ聞かなくても、自分から話してくれる、彼女のそういうところが好き。
「トップに呼ばれてしもた。チャンプルタウンで飯やって」
「そうですか。楽しんで」
「一緒に行こか」
「……私は会食ではうまく場に馴染めず、空気を悪くすることが得意なので、あなたの面子を守る為にも、お断りさせていただきます」
「お腹空いてへんの?」
 今、断らなかったか?私。
「……いいえ。コーヒーを飲んだので」
「ばか言うなや。前から思っとったけど、自分いつか倒れんで?チリちゃんが無理やり介抱したろか。ほな、はよ準備せえ」
「……」
 普通だったらイラついていたところだ。チリさんの強引なところは、悪気がないと分かっていても呆気に取られてしまうことが多々ある。
「な。チリちゃんだけにお酌しとったらええから」
 この人は、そうやってまた私を悦ばせるようなことを言って。欲を言えば、あなたと二人で食事をしたい。それだったなら完璧なのに、いつもどうしてか邪魔が入る。



 数週間が経った。今巷を賑わす話題になっているのは、やはりあの大穴の件だ。関係者の中で事態の解明が進んだことで、公表する準備が整ったらしい。博士が既に亡くなっていることや、大穴に存在するポケモンの正体など、真偽は不明だがそれらの情報が今も少しずつメディアに提供されている。
 その中心人物が……やはりここでも登場する例のあの子。今もリーグ内に来ているらしい、というのはさっきすれ違った職員が話していたのを聞いた。委員長のお気に入りだから、ではなく、どちらかと言えば大穴の件で何度も呼び出しを食らっているのだろう。
 好奇心はニャオハをも殺す。いつもは休憩所からまっすぐ事務室に戻るのだけど、今日はロビーの方へ寄り道をせざるを得なかった。向こうに彼女の足音が聞こえたからだ。
 その隣に、小さな体の生き物が、闊歩しているとも知らずに。

「……」
 チリさんは目の前の子供の髪を触り、優しい手つきで三つ編みを編んでいた。どういう状況?そんなこと、私の働きの悪い脳みそではとても考えることができなかった。思考が止まったのは、彼女の手にグローブがはめられていなかったから。
 素手だった。素手であの子の髪を触っていた。たったそれだけ。それだけが私の心をかき乱すのに十分だったのだ。

 二人が私に気づく前に、すぐに踵を返す。その場から離れるだけの気力が残っていてよかった。ああ、やだやだ。今すぐ大穴に飛び込んでこんな自分とおさらばしたい。もう何も考えたくない。
 それなのに、終業後にいつものようにコーヒーマシンの前に向かってしまうのは、もはや何かの呪いのような、私の醜い執念のようなものが確かに存在しているらしい。やっぱり、チリさんはそこにいた。
「お。今日もお疲れさん」
「どうも」
 通りすがりのふりをしようとしたが、いち早く私に気づいて声をかけてくれる、そんなあなたが好きだ。ソファーの横で足を止めて次の言葉を待っていたら、今日はチリさんの方が私の分のコーヒーを注いでこちらに差し出してくれた。さっそくここに居座る理由ができた。
「ありがとうございます」
「まいど〜」
 向かい側に座ろうとしたら、ソファーのど真ん中を占領していたチリさんが、よっこいせと立ち上がって片側に寄った。ここに座れと言いたいらしい。そんな彼女に甘えて、いつものように隣に腰を下ろす。
「今日、あの子と一緒にいましたね」
「ん?あー、トップに用があったんやって。そのついでにチリちゃんとこにも会いに来てくれたんよ。まあこっちから声かけたんやけど」
「……」
 いつもの笑顔は変わらない。しかし彼女の喉元のタイが若干緩くなっているのが目に付いた。
「チリさんは、あの子のことが随分と気にかかっているようで」
「あーもー可愛くてたまらん」
「かわいい……確かに、」
 子供は可愛いが。
「可愛いし、ええ子やし、目が合うだけできゅんとするわぁ。一目散に駆け寄って抱きしめとうなる、みたいな?そんな感じや。いつも我慢しててん」
 惚気のようなことを言うチリさんこそとても可愛いが、それを聞いて腸が煮えくり返る自分自身の思考が邪魔して、視界が覚束無い。聴覚はノイズがかかったようだ。
「それは、例えば……ポピーさんと同じような?」
「ん?ポピーも可愛い。ポピーも抱きしめとうなるわ。でもあの子、しっかりした子やからな。あんまり抱っこさせてくれんねん。そろそろ鬱陶しいと思われてそうやわ〜」
 ポピーさんはリーグ職員のアイドルだ。そんな彼女のお目付け役というか、いつもそばにいるのがチリさんだから、そのギャップのある組み合わせに頬を緩ませる職員は多い。……というのはさておき。
 私は先程のチリさんの言葉を繰り返した。
「……目が合うだけで、きゅんと……?」
「ならん?」
「いいえ、特に」
「こんな感情、久しぶりやわ」
 この時、彼女の頭に風船が見えた。ふわふわしている、ように見えた。だめだ、この先の言葉は聞いてはいけないような気がした。でももう遅い。この人は、なんでもかんでもお喋りするのが好きなんだから。


「はよチリちゃんのもんにしたい」

 ガラスのハートは砕け散る。


「チリさんは、その、随分と……」
「なんや?」
 今の私は不思議と冷静だった。いや、混乱し過ぎて逆に、という側面もあるのかもしれない。とにかく何か言葉を発さずにはいられなかった。それがさらに自分を貶めることになろうとも。
「なんと言いますか、普段はどれだけ可愛い人に言い寄られてもあしらうだけだったから、そういったことには興味がないと思っていたんですが」
 恋人なんて作るつもりがないのだと思っていたのだが。だから私には勝ち目がないのだと思い込んでいたのだが。
「その、……随分と年齢の離れた子に食指が動くんですね」
 割と直接的なことを尋ねてしまった。チリさんは何度か瞬きをして、乾いた笑みを浮かべる。彼女の手の中にある空の紙コップが、ぺしゃ、と音を立てて潰れた。
「……ああ、困ったなぁ」
「何がです?」
「いや……」
 大きなため息をついて、片手で前髪をかきあげる。そのまま何も言わなくなってしまった。物思いにふけっているようだ。こちらとしては地獄のような時間だった。
 しばらくして、チリさんは立ち上がった。ゴミをゴミ箱に捨てるために。それとも……何か、別のことでも頭に浮かんだのだろうか。
「おおきにな」
「だから、何がです?」
「お巡りさんに連れてかれる前に、客観視できて良かったわ」

 耳を塞いでいればよかった。

 ああ、この人はきっとあの子のことを狙っているんだ。だって私は見てしまった。さっき、あの子の髪を触るチリさんの表情は、単なる子供を可愛がる時の顔じゃなく、……。……。
 今の彼女の様子を見るに、今、私がそれを自覚させてしまったらしい。馬鹿なことをしたなぁと思う反面、私が何もしなくてもいつかこの時が来ていたのだろうと思うと、どうしようもなく切ない気持ちになる。
「ほんま、可愛くて……しゃあないんや」
「警察沙汰は御免ですよ」
「いや、いやいや!手ぇ出す気とかは、全然、ないし」
「そうですか」
「……今のところは」
「……」
 色んな思いが巡り巡って、強い殺意が湧いた。誰に対してでもない、猛烈に溢れる不快な感情。もう、そんなことを言うんだったら、なりふり構わず手を出して地獄に落ちればいいのに。その時は私も一緒に連れて行って。なんて、チリさんはその時ですら私を選ばないのだろうな。……本格的に死にたくなってきた。
 精神世界の中で一人で死んでいたら、チリさんもチリさんで悲惨な葛藤に苛まれているようで。弱々しい笑顔でソファーに座り直す。
「あの子、チリちゃんのことただのリーグにいる人やと思ってそう」
「そうですね」
「あの子アクティブやから、学校に好きな子とかおるやろなぁ」
「そうですね」
「今どきの子って、彼氏いつ作るんや……?もしやもうできてんか!?」
「知りませんよ」
 もう心は既に死んでいるからか、立て続けにこんな恋愛相談みたいな真似をされても不思議とダメージはなかった。まるで他人事のようだ。今は大丈夫でも、帰ったらきっとひたすら泣くことになるんだろう。
「はぁ……悠長なことしとる間に変な虫が寄り付いてしまうんやないかって、不安でたまらん。なんやねんこの気持ち」
「あの子にとって、変な虫はあなたの方なのでは?」
「うわ!今ごっつ刺さったわ!自分レスバ強すぎん!?」
「自覚、あるんですね」
「ひ〜〜……。ああ、どうしたらええんや。チリちゃん、勝てるかなぁ。いつもあの子には負かされてばっかりやから、さすがに自信なくすわ……はぁ」
 この人……。この人、今まで恋愛経験豊富なのだと勝手に思っていたけれど、実はそうじゃない可能性も、あったりするのだろうか。
 これまでに何人も恋人がいて……まあ今現在はそんな誰かがいる気配は微塵も感じられなかったけど、だからどんなに可愛い子に言い寄られても丁寧にあしらうだけなのだと思っていた。
 けれど、実際は……どうなんだろう。どうしてこんなにうろたえているのか分からない。知らない。私は知らない。プライベートなことはほとんど知らないから、人物像を勝手に思い浮かべるしかなかったのだ。
 私の思い浮かべるチリさんは、そう、いつだって自信満々で、自分の思い通りに人の感情を操ってしまう。彼女の言葉には何か温かみのある力がこもっていて、ひとたび声を聞けばすぐに心が動いてしまう。
「あなたなら敵無しですよ。あなたの前では性別などあってないようなものでしょう」
「……励ましてくれるん?」
「いいえ、事実を言ったまでです」
 そもそも、女性にモテるからと言って、本人の恋愛対象はそうとは限らないと思い込んでいたから、女の自分に勝ち目はないと、勝手に、そう決めつけていた。なにもかも、自分の中のフィルターを通して見てしまっていた。
 なにやってんだ。わざと自分の都合の悪い方に解釈していたくせに、それでいていざ彼女に好きな人ができたところで被害者ぶろうとするだなんて。素直に自分の思いをぶつけていたらよかったのに。そう出来なかった自分が悔しい。
 今更気づいてもどうしようもない。彼女の目はとっくにあの子だけを見ている。ああ、どうして……私とはただ仕事で少しやりとりをするだけの仲だから、これ以上の進展はないと、どうして思い込んでいたのだろう。以前ならまだ可能性はあったかもしれないのに。
 今はもう、どうしようもなくゼロ。この人が振り返る可能性はもう、ゼロだ。



 数年の時を経て、ようやく二人は結ばれたらしい。まあ、そうなるだろうなという感想がまずひとつ。それを満面の笑みで報告してくるチリさんのおかげで、なんとか封印していたはずの感情が容赦なくこじ開けられてしまったことに、怒りを覚えずにはいられない。
「あなたのことが嫌いです。もう私の前に現れないでください」
「……どしたん、自分。話聞こか?」
 そんな、ナンパみたいなことを言って。
 自分のデスクに向き直り、チリさんに声をかけられたことで中断していた荷物の整理を再開させる。パソコンの真っ暗なモニターには、彼女が不思議そうに私を覗き込む姿が反射していた。
 ふと、言うつもりのなかった言葉が喉元から飛び出してしまった。
「私、チリさんのことが好きでした。ずっとあなたのことを見てたの」
 周囲にはまだ人がいるから、やや小さな声で。それでも確かに彼女の耳には届いたらしい。
 チリさんは驚く様子もなく微笑む。
「おおきに」
 それだけ言うと、隣のデスクからガラガラと椅子を引っ張ってきて、私の真横に座った。正直近寄らないでほしかったけど、この人が近くにいるだけで未だに嬉しい気持ちが芽生えてしまう。いつまで経っても未練がましい。でも、今はそんな自分を笑えるからまだマシだ。
「知ってたんでしょ」
「なんとなくな」
「いつから?」
「せやな……いつしか、かな」
「酷いよ。知っていながら相談までして。最低、最悪。もう過ぎたことだけど……はぁ、墓場まで持っていくつもりだったのに」
 チリさんは優しげな笑顔を浮かべたまま、背もたれに深く寄りかかった。メガネを外して一息ついた。そして、グローブを外して私の肩に引っ掛けてくる。
 今日もまた多くの面接者を捌ききったので、疲れたことだろう。早く帰ればいいのに、どうして私にちょっかいをかけてくるんですか?
「チリちゃん、周りが思うほど良い人やないで」
「あなたのそういう……裏の顔をもっと知りたかったんですけど」
 私にはもう見せてくれない。私の前では良い人でい続けるのだ。
「チリさんのことは今も好きですよ。昔よりは割り切っていられてますけど」
「そ」
「とはいえ、好きなことには変わりなくて……チリさんが他の人と幸せになる程、私は不幸せになります」
「一種の呪いやな」
 他人事みたいに。
「あなたがかけた呪いですよ」
「いつの話や?」
「お互い新人の時、残業で居残りしている時に声をかけてくれたことがあったでしょう。あの時にもらったコーヒーカップ、洗って大事に取っておいてます」
「はよ捨てや」
「いいえ。捨てません。私の宝物なんです」
 バッサリ言いきった私に、チリさんは仕方ないなと笑う。私も笑う。中身のない笑顔で。死人のような笑顔で。
「さっき自分で自分は良い人じゃないとか言っていたけど、チリさんはやっぱり私に対しては良い人なんですよ。私のことを蔑ろにしないし、どうでもよく思ったりもしないでしょう?」
「そりゃまあ……」
「だから、幸せの絶頂の時に、ふと私のことを思い出して複雑な気持ちになればいい……って恨みつらみを唱えながら、これから生きていこうと思います」
「なはは。自分振り切っとるなぁ。嫌いやないで」
 良かった。嫌わないでくれて。

 安堵の気持ちにそっと目を閉じたところで、チリさんのスマホロトムが空気を読まずに声をあげた。ロトロトロト。つい顔を上げるが、チリさんは一向に出ようとしない。そればかりか着信拒否をしたようだ。何事もなかったかのようにポケットにしまうから、それだけで私は相手が誰なのかを察した。
「あの子が待っていますよ」
「みたいやな」
「早く行かないんですか」
「まだいい」
 どうして?と尋ねようとしたが、これまで会話をするうちに、着実に、だんだんと、少しずつ溢れてきていた何かが急に込み上げて、言葉がつまってしまった。目頭が熱くなる。早くどこかへ行って欲しいのに、それを見るなりチリさんはさらに椅子同士の距離を縮めて、身を乗り出してきた。
「今にも泣きそうな子、放って行くわけないやろ」
「だから、あなたのそういうところが、嫌いなんです……私は」
 こちらに伸びた手が、一瞬止まる。しかしすぐに動いて、優しく私の目元を撫でた。透明の血を流しながら出てくる言葉は、たいてい醜いと決まってる。だからこれ以上酷いことを言う前に私は固く口を閉じた。
 しばらく無言の時間が流れた。終業後の事務室の雑音が、今は居心地の悪いBGMになっている。落ち着かない。あなたがいる限り、私の心は落ち着かない。とうとう耐えきれずに自分から口を開いた。
「……あなたが私のことをただの同い年の同僚としか思っていないことは知っています」
「見当違いなこと言わんでもらえる?」
「……?」
「チリちゃんだってちゃんと見てた。よう頑張る子がおるなぁって、最初から、ただの同僚だなんて思っとらん」
「は?」
 勢いのままに手を振り払い、肩に乗せられたままだったグローブをひっ掴んだ。それを膝の上で強く握しめる。
「あなた、どういうつもりなんですか?あなたのそういうところ、」
 わざと人を振り回して楽しんでいるようにしか思えない。
 ……と言いかけて、やっぱりやめた。チリさんは優しいだけだ。誰にでも優しい。そして、そのことに対して私が勝手に苛立って、傷ついているだけ。私は二、三度深呼吸をして、振り返った。もう涙は収まったから。
「チリさん。そういう思わせぶりなことはもう控えた方がいいですよ。たとえそのつもりがなかったとしても、受け取る側がどう思うかなんて想像がつくでしょう」
 困ったような顔をするチリさん。今日も変わらずかっこいいな。
「これ以上……私みたいな人間を増やさないでください。お願いします」
 あなたのせいで私の人生は散々だ。これからもきっとあなたのことを好きでい続けることになる。他の誰も好きになれない。この数年間、そういう生き方をしてきたのだ、私は。
「本命の子にだけ、そういう態度をとるべきです。このままだとあの子にヘイトを向ける人間が増えるだけですよ。あなたはすごく、モテるんですから。モテモテなんですから」
 あの子が栄えあるチャンピオンランクだからこそ。眩しいものを嫌う人種は決して少なくない。余計なことでトラブルになることはあなただって避けたいはずだ。
「あの子のこと、嫌い?」
「馬鹿げた質問ですね。少なくとも、あなたよりかは断然」
「そう。それを本人の前でもチリちゃんの前でも全く表に出さないところ、尊敬するわ。すごいな、自分は」
 それは本心なのだろう。チリさんでなければ心の底から苛ついていたところだ。

「分かった。そうする」
 チリさんはまっすぐ頷いた。本命の子にだけ尽くすようにする。そう言いながら、未だに私の隣に寄り添い、私の背中を撫でている。ふざけているようにしか思えないが、これがチリさんという人間なのだ。仕方ない。目を瞑ろう。そんなあなたが好きだから。
「せやけど、ここの人間には今更態度なんか変えられんわ。自分もチリちゃんがいきなり冷たくなったら悲しいやろ?」
「むしろそうしてくれた方がありがたいまでありますけど」
「あー……難しいな」
「……いいえ。やっぱり嫌です。冷たくなったら悲しいです。これからもチリさんと色んなお話をして、笑いあったりしたい」
 私が軽く笑ったから、チリさんも嬉しそうに笑ってくれた。
「さんざん言ってしまったけど……私のことは、どうか嫌いにならないで……ほしいです。もうそれだけでいいですから……」
 私が漏らした最初で最後の願いは、呆気なく承諾された。
「なるわけないやろ」


 その日は憎たらしいほど満点の星空がパルデアを彩っていた。こんな日に大穴に身を投げたらさぞかし最高の気分なんだろうな……と思いながらまっすぐ帰宅。
 風呂にも入らず、食事も取らず、寝室に直行して仕事着のままベッドに倒れ込む。そうしたら、ウパーがトコトコと枕元にやってきて心配そうに覗き込んできた。最初は毒で死のうと思って連れて来た子だったけど、あまりの可愛さにすっかり虜になってしまったものだ。今となっては邪心に塗れた自分が恥ずかしい。
「うぱ?」
 ふふ、あなたもそうやって私の話を聞いてくれるの?可愛いな。今、ご飯を用意するから……お願い、少しゆっくりさせてね。
 止まったはずの涙……再び両目からとめどなく流れてくるのを見て、ウパーは無邪気に頬ずりした。こら、あなたは水が苦手なはずでしょうに、無理に寄り添わなくてもいいんだよ。あなたはあの人じゃないんだから。でも、嬉しい。ありがとう。
 あなたはずっと一緒にいてくれる?


ずっとあなたのことを見ていた
- back -
top