都合のいい女の子

althaea0rosea

連れてこられたホテルは壁や床が水槽だらけで水族館のようだった。が、その全てに例外なくラブカスが泳いでいることについてはお察しの通りである。
ふよふよと優雅に泳ぐハートたち。つぶらな瞳が可愛かったから、つい立ち止まって観察していたら、腰に手を回されこめかみにキスをされた。誰に?一緒にいた変態に。

「なまえちゃん、エレベーター来たで」
「……」

あなたのハートはいらないの。
悪態をつきながら髪をかきあげると「はいはい」と軽く流されエレベーターに乗せられた。
エレベーターの中もラブカスだらけだった。絨毯の模様やランプの形や、液晶の表示まで。ここまで推しが強いと、このホテルのオーナーが単にラブカス好きなだけなんじゃないかと思ってきた。
そうそう、こんなラブリーなラブカスがトレードマークの普通のホテルがあってもおかしくはない。でも、こんなにも可愛い装飾のあるホテルに訪れる客はだいたいそのつもりで来るだろうから、実際の業態が“どちら”なのかはあまり重要ではないだろうな。やる客は勝手にやる。

「ついた。ここやで」
「……」

目的地の部屋に到着したところで、私はちらりと腕時計を見た。時刻は23:55。

さ〜て、帰ろ。

「じゃあ私、充分鑑賞できたし帰るね」
「ん?せやな。かわいいラブカスぎょうさん見られてチリちゃんも満足や〜。って!そうはならんやろ。水族館とちゃうでここ」
「……」
「ちょ、ほんまに帰るやつおる?」

部屋の前でUターンして来た道を戻ろうとする私の腕を、逃がさんとばかりにパシリと掴まれた。チリはむしろここからが本番やのに、と下心丸出しなことを言っている。

「ちょっと、なに?離して」
「いやや。帰さんで」
「もう借りは返したでしょ。日付跨ぐつもりないよ、私」
「借り……?何の話や」
「借りは借り。じゃあそういうことだから」
「お〜いどこ行くねん!話の途中やで!」

当然帰してくれなかった。掴んだ腕を引き寄せて、問答無用で部屋に連れ込もうとするチリ。それを振り払おうとする私。離せ離さないの攻防。まるでホテルの廊下でたまに見かける迷惑な客そのものだ。
あー、めんどくさい。ようやくここまで乗り切ったのに、まだ相手をしなければならないなんて。チリはいつもめんどくさいが、別れ際は特にひどい。深夜の静まり返った廊下で騒ぎ立てるのは気が引けるから、一旦従うフリをして振り返った。まあ、まだ今日は数分残っているから……その間になんとか説得してみせる。

「今日はもう散々付き合ってあげたでしょ。これ以上は言うこと聞いてあげない」
「え、なに。今日のデートってなんかお返しされてたん?」
「まあ」
「なまえにしてはなんでもかんでも素直にノってくれるなぁと思ってたけど……チリちゃんなまえになんかしたっけ?」
「こないだ付き合ってくれたでしょ。それより離して」
「こないだ、こないだ……。うーん、なーんも覚えとらん」
「ねえ、離してってば」

だめだ。チリが思い出す素振りをする間にさっさと立ち去ろうと思ったのに、ぜんぜん離してくれない。それどころか、私があんまり逃げようとするから今度はヘッドロックをしかけられた。うう、息できない。

「ああ、もしかして先週のこと言っとるん。べつにあれ、チリちゃんは好きでついてっただけやで?せやからお礼とかなーんもいらんかったのに」
「……う……しぬ……」
「さあて、良い子のなまえちゃん。チリちゃんと一緒にお部屋に入ろうな〜」

あーあ、これはもう完全に酔っ払ってる。どうせチリのお金だからと思って止めなかったけど、さすがに飲ませすぎちゃった。そのままずるずると廊下を引きずられる私。
いつもこれ以上ないってくらいにワガママムーブをかましても笑顔で頷いて言うことを聞いてくれるのに、帰りたいというお願いだけは断固拒否される。意味わかんない。チリの考えてることが分からない。

チリがどうしてこんなにも私に固執しているのか、ちっとも分からない。



先週の話。あまり思い出したくない話だが、比較的長く続いていた男がどうやら浮気をしているという情報を掴んだ。それだけならただの噂だから気にしないんだけど、あろうことか証拠まで手に入れてしまったから、さすがに見過ごすわけにはいかなかった。
その日のうちに本人に問い詰めるようとした。そしたら、チリに引き止められた。そんな浮気男のところに一人でなんて行かせられん。ボディガードになってやるって、言われた。

正直余計なお世話だったけど、チリは完全にその気になっていたから断るのも面倒だった。私が浮気男にひっかかったのが相当面白かったのだろう。あわよくば喧嘩に発展するところをみたいとまで言っていたし。
ていうかそもそも、浮気の情報を寄越してきたのがチリだったからな……。別れさせようと嘘を言っているのだと思って最初のうちは信じなかった私にしつこく説得してきたから、そこまで言うのなら最後まで付き合ってくれるんでしょうね、と聞いたら「もちろん!」と笑顔で頷かれた。人のトラブルを娯楽にするな。

まあチリはバトルが強いから。万が一ケンカになった時、一般人なら負け無し。
あと、チリほどの美人なら一緒にいて見せつけられる。浮気には浮気で返そうと思ったのだ。男装している分、初見では性別が分からないから都合がいい。でもチリは女だから、本当の浮気にはならない。我ながらいい考えでしょ?

そして当日。チリはいつも男装だけど、念のためきちんと男の格好して来いって言ったらいつも以上に男らしい格好をして来たから、つくづく話の分かる都合のいい女の子である。
まあ本人は目的が何にしろ純粋にデートのつもりで来たらしいけど、こちらとしては付き合ってもらったことには変わりないので、今日は偽物の浮気ならぬ本当のデートをお返ししてあげたのだった。

「で、あの男とはその後どうなったん」
「……聞かないでよ、知ってるくせに」
「よ〜しよしよし、辛かったなぁ。大変やったな。今晩はチリちゃんがい〜っぱいなぐさめたるわ。とりあえず部屋入ろ」
「入らない。帰る」
「なんでぇ」

ひとつ残らず借りを返してやろうと思って、今日は普段なら断るようなこともなんでも付き合ってあげたから、調子に乗らせてしまったかな。この感じなら一泊いけるやろと思ったのだろうが、私はもともと今日限りと決めていたので、あと五分で日付が変わりそうなこの時間からホテルに入る気分には到底なれない。

「ほら、よく言うやん。ホテルで一夜を過ごすまでがデートやろって」
「は?初めて聞いたけど」
「チリちゃんはな、今日という日を楽しみにこれまで生きてきたんやで」
「ああ、そう。お疲れさま」
「お疲れさまって思うならお願い聞いてくれたってもええやん!な、な。おねがいなまえ。チリちゃんと一緒にとーまーろ」
「帰る」
「いやや!帰らん!」

酔っ払いのチリは一生懸命に私を引き止めた。いやや、いややと言いながらバネブーみたいにぴょんぴょん飛び跳ねている。駄々のこね方、子供みたい。私、子供って大嫌いなんだよね。

「帰らんとって!まだ別れたくない……なまえと一緒におりたい!」
「いいから離して」
「ぜったい別れへん〜〜!」
「ねえ、別れ話みたいになってるから」
「チリちゃんなまえとおりたい……うんって言うまでぜったい離さん……」
「……」

めんどくさいの極み。顔を逸らして周囲を見やると、水槽の中のラブカスが心配そうにこちらの様子を眺めていた。もしくは、ただの野次馬かもしれない。見世物じゃないのに。つぶらな瞳で見つめないで。

「ねえ、チリ」
「なんや。帰さんで」

こうなったらいつものやつをやるしかない。

「こないだ買ってもらった靴……」
「うん?気に入った?」
「その、履き心地いいの……だから、カラバリ揃えたいんだよね」
「うんうん、ええよ。チリちゃんがお金出したる。せやから今日はとーまーろ」
「……。ムクロジの新作、美味しそうなの。買って」
「うんうん。カエデさんのな。チリちゃんも食べたいあれ。ほれ、他には?なんでも言いや。なんでも好きなだけ買ったるから」
「……。新しい彼氏も欲しい」
「それはいらん」
「……」

靴とケーキ。どちらも絶対に買うと決めていたもの。決して安物ではないのに、チリは当たり前のように金を出そうとする。私のことキャバ嬢だと思ってる?
……大きなため息が出た。もういいや。今日はこの辺で手を打とう。時計を見ると既に日付が変わっている。もうだめだ。こうなったチリを説得させるより、さっさと中に入って寝た方が圧倒的に楽だ。
それに、そろそろ他の客とも出くわしそう。チリの思い通りになるのは気が進まないけど、ここは仕方なく折れてやることにした。

「……私先にシャワー浴びるから」

チリの拘束をといてドアノブに手をかけると、その途端に分かりやすく顔を輝かせて抱きつかれた。ああ鬱陶しい。

「ええの!?よっしゃー!なまえだーいすき」
「私、すぐ寝るから」
「大丈夫、寝られへん夜になる」
「……」

すぐ寝た。


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