一章『1981年7月8日の朝刊』@

 前日、1981年7月7日




 長かった梅雨が明け、蒸し返す黒土のにおいが薄くなる夏の強烈な日差し。季節の痛々しい片鱗を狭い四畳半の部屋に覗かせている。
 差し込む朝日にまだ少年のあどけなさが残る、一七歳の真島吾朗に起床をうながした。昨日までの涼しさはどこへやら。暑さとのどの渇きに、のろのろと起き上がった。


 肌着にパンツ、寝ぐせでぼさぼさになった髪。グシグシと右手でかき上げてあくびを一つ。水道水をコップに入れ少しずつ口に含み、キッチンに置いてある小さな鏡に顔を覗き込ませると、髭がうっすら伸びている。

 同年代の男はそのまま髭を伸ばしっぱなしにするものの、大抵女ウケが悪い。「おじさん」というからかいはまだこの時の真島青年には耐え難いものだった。カミソリで丁寧に剃り、保湿もする。真島が進もうとしている道は男を極める道だ。立派な男社会にはやや似つかわしくない繊細な習慣だった。

 今はいない実の親もこの道。
 天涯孤独の人生は、すでに真島を道行くお堅いサラリーマンやOL、その辺に転がっている浮浪者とも違う。普通とは縁遠いからこそ、より華やかな、命を輝かせる世界へ行きたいと願うようになった。力という世界に目覚めたのは、顔も覚えていない親もその道だったから、それは業病のようだった。

 東城会直系嶋野組の構成員の生活はほかの兄貴分たちに比べればまだまだ短い。中卒だからといって勉強しなくてもいい、というわけではないのはシノギをやっているとわかってくる。建築業は肉体労働と施工にあたるノウハウを学べるし、兄貴たちの夜の仕事ついでの遊びは女の扱い方を、その女たちからは『人と接する』仕事のやり方を学べる。

 「真島。新聞とってこいや」
 「へえ」

 兄貴分の一人の使いっぱしりから一日の仕事がはじまる。
 ポストには新聞各社の新聞が詰め込まれており、意外にも肉体労働である。嶋野の親父は手広く読み、またそれを下の組員たちにも勉強と称して読ませている。なかには腕っぷしだけが自慢の読まない輩もいたが、根がまじめな真島はいつも最後に読んでいた。

 「お前はえらい真面目なやつやのお。親父が褒めとったで」
 「ほんまですか」
 「ほんまほんま。……そのうち、その関東訛りも消えるやろな」

 その日も一番最後に真島は新聞を読んでいた。兄貴分づてに嶋野が自分を気にかけていることを知り、ややはにかむ。

 真島は親父の嶋野組に入った以上、その中の関西弁をなんとか克服しようとしていたが、ネイティブでない以上やはりまだ違和感があるらしい。
 武闘派の嶋野組でもある程度、頭脳が必要だということは薄々気付いている。力の世界と言いながらこの世界も所詮は資本主義でできている、少年だった真島の小さな絶望を与えるのには十分だった。

 「おい、親父が小遣いくれたさかい。誰かさっぱりとしたもん、買うてこいや」
 「兄さん、わしが買うてくるわ」
 「阿呆、お前は昼過ぎから別件あるやろ。……真島、お前が行ってこい」

 真島と話していた兄貴分がおつかいに挙手したが、そのさらに上の兄貴分から仕事を真島に割り振った。「へえ、兄さん」と近寄る。すると豪速の拳が顔面を狙って飛んでくる。間一髪で真島はかわす。これは日常茶飯事である。悪意があるわけではなく、退屈しのぎに気まぐれに放たれるじゃれあいである。

 「お前はすばしっこいの! ほれ、これで買うてきい」
 「ありがとうございます」

 小遣いを受け取って真島はさっそく外へ出ていく。ご所望の品は「さっぱりしたもん」という。確かに今日はもう、すでに暑い。新聞にて気象庁が梅雨明けはここ数日以内に発表されるだろうとあった。その通りになるだろう。商店街にさしかかるまでの道ですでにセミの鳴き声が夏の訪れを一足先に告げていた。

 親父がさっぱりしたもん、というと大抵決まっている。
 青果でいいのだ。夏野菜が軒を連ね始めるので判断に困ることはないだろう。


 「しっかし、暑い…のう」

 嶋野組から出てまだ十分も経っていない。
 額には丸い汗が浮かび、わきの下やズボンの中の足も蒸されてきている。手を団扇代わりに扇いでいると、こんなに暑い日なのにも関わらず暑苦しい恰好の少女が、商店街の中のシャッターを下ろしている店の前で座り込んでいた。

 この辺は、神室町ほど治安が悪くはないとはいえ、朝から、それも平日の火曜に。見かけの年齢を考えるなら、この少女はふつう学校へ行っていなくてはならない時間帯である。真島は自身も中卒でそこそこ不良の自覚はあったが、とりわけこの少女は不良をするような性質ではないと思った。

 「おい、そんな地べたに座ってたらお尻冷やすで」

 真島は近寄って少女を見下ろす。声をかけてみたが少女はぺたんと尻をつけて座り、両足を投げ出している。近寄りながら真島はもう一度「おい」と声をかけた。顔を俯かせていた少女はそこで、ようやく顔をあげた。かと思いきや、無言のまま真島をじっと見つめて、また寡黙に顔を下げた。

 真島は余計なことに首を突っ込むのは時間の浪費だ、という考えを思い浮かべたが、兄弟分の冴島大河が頭をよぎり口を尖らせると身を屈めた。なんとなく少女をみていると、彼の義理の妹の顔も浮かんできたからだ。

 「なんや、お前泣いとんのか」
 「……っ」

 少女の顔を覗き込むとびくりと体が揺れた。目元はうさぎのように赤く腫れている。もう何度か繰り返し泣いたのだろう、涙の痕の筋がいくつか重なっている。その乾いた筋の上に新しくつうっと涙が伝っていく。真島は「迷子か?」と訊く。少女は左右に頭を振った。「彼氏にでも振られたんか?」と今度は冗談を交える。それも違うと振った。

 はあ、とため息をつく。
 けったいな女や。
 放っておけない性分だが、それ以上何か世話してやる気になれなくなり、真島はすっと立ち上がった。

 「俺いそがしいねん。あんたもそないな辛気臭い顔せんで、お家にお帰り」
 「……帰りたくない」
 「はあ?」
 「帰り、たくないの」

 涙声を振り絞って少女は『家出少女』だと告白した。
 真島からしてみればよくあることだった。家出少女がそのまま水商売に流れていくことは日常の一つで、夜の接待でもそのような訳アリの女たちは少なくない。二度目のため息をついた。ただ真島はその少女は夜の店には似つかわしくないだろうと思った。

 暑苦しい身なり、真島はあまり女の服装には理解がないが、肌の露出の多い夜の店の女たちに比べれば、少女の服は隙がなかった。百貨店で購入するようなブランドものだが成金は好まない落ち着いたまともな、上質という言葉が似合う服を着ている。

 足を投げ出しているといっても少女の姿勢はよく、かかとをそろえてきっちりとだらけている。矛盾しているが、育ちのいい少女であることが見て取れた。はっきりいえば、真島とは真反対の世界に生きている少女だ。優等生の家出という言葉がふさわしいだろう。
 家出少女が大抵どうなるか、真島は知っていて。きっとこの少女にはそれが務まらない。わかりきっていた。できることといえば、家に帰してやるまでだった。

 「なあ。お腹空いてへんか」
 「ううん…」

 お腹は空いていないというが、少女の腹からはぐぅ、と意思に反した音が返事している。それを聞いた真島は「ちょっと、待っとき」と言って速足で青果店に向かった。
 嶋野の親父のおつかいはスイカにして、あの娘には手っ取り早くバナナを買ってやることにした。

 「これ、食えや」
 「…ありがとう、ございます」

 バナナを三口ほど食べ進めたあたりで、真島は少女の隣に座った。真島は見てくれ不良少年で目つきも悪いほうなので素人相手には怯えられることもあるが、少女は気にしていないようだった。黙っているのも間が持たないので真島は気を利かせて口を開いた。

 「なんでお家帰りたくないのや。お勉強嫌なんか?」
 「……海外に行くの。お父さんのお仕事で、今日の夜から。行きたくないって、おばあちゃんの家に住むっていったけど、だめって」
 「ほお。えらい、金持ちなんやなぁ」

 しゃがみ込みながら頬杖をつき、真島は遠い目でどこかを見た。
 縁のない世界の話、だ。というのが率直な感想だった。

 1970年代までに日本全体がまだ海外へ行くということは少なくほとんどがビジネスに限られていた。
 一般にも旅客機旅行が普及しだして十年が経っているとはいえ、彼女の家が一家そろって、海外に行って生活を始めるということは、その父親が企業のそれ相応の役職者であることを言い表していた。父親は彼女に広く世界に目を向けさせ、立派に育てたいのだろう。表世界のいうなれば、日本の中流層や上流層に食い込む家の『お嬢様』が、人生初めての反抗をしている。かわいいものだ。

 鼻先で笑い飛ばすにも笑えない。皮肉を考えていた。

 「今日、七夕ですね」

 少女はふと斜め向かいの商店の軒下に飾られている、七夕の短冊つきの笹をみて言った。

 「ああ。願い事書いても叶ったことなんか、いっぺんもないけどな」
 「……天の川って見たこと、…ありますか」
 「どうやろな。ガキの頃は熱心に見たかもしれんけど、きょうびどうでもよくなったわ。それに七夕の日は曇ってるか雨降ってるしな」

 年によっては梅雨を引きずって、曇りや雨で地上から天の川など見えることは少ない。

 「自分、今日飛行機乗るんやったら、見えるんとちゃうか。それやったら晴れてようが、曇ってようが見えるやろ」

 少女はじっと真島の顔をみていた。
 「天気悪いと飛行機は飛ばへんけどなぁ」と付け加えると僅かに唾を飲み込んだ気配がした。

 「……それ食うたら、お家帰り。親御さん心配しとるわ」
 「でも」

 切り替えて帰宅を勧める。
 まともな家なら捜索願いが出されるだろう。警察が動いて、事情聴取を受ける。名前も知らない男にバナナを食べさせてもらったなどと言えばポリ公がすっ飛んでくるだろう。組にも親父の耳にも入る。面倒を起こすのは御免だ。真島が普段相手している家出少女とはだいぶ違うのだ。

 「でも、やあらへん。俺はもういくで」
 「ま、まって」

 立ち上がった真島につられて少女も立ち上がる。
 荷物を持っていない左手は小さな右手にきゅっと握られた。

 「あんなあ」

 三度目のため息をつきたくなったが堪えた。
 周りを不自然にならないように見渡す。まだ人出が少ないのが救いだった。傍から見れば事案である、誘拐にも見えなくはないのだ。

 「……帰るから、商店街の外まで……一緒に…っ」

 また、ぐずぐずと泣き出して、真島は内心焦った。

 「わかった、わかったから! 泣くなや…」

 真島はこの手の女はどちらかというと苦手で、それは面倒臭いに尽きるのだが今は逃げられそうにない。せめて「この子には優男が一番ぴったしやな」と小声で呟くと、ずんずんと先を歩いた。早く帰ってもらったほうがいい。引きずられて足をもつれさせながら、少女は真島の左手に縋って歩いた。アーケードの下で、少女の右手を振りほどくと、ひどく残念そうな表情を浮かべていた。

 「ほれ。着いたで」
 「……う」

 少女はじっと商店街の地面のタイルを睨んでいた。
 外は明るく、ジワジワと先ほどよりもセミの鳴き声はうるさくなってきている。真島もそろそろ組に帰らなければドヤされる頃合いだ。
 帰らせるべく、真島は言った。

 「ちゃんと、行くんやで」

 将来のために。真島とは雲泥の差にある世界で生きていくために。
 泥の中から見上げる空になる人間なのだ。一生望んでもあり得ない世界に。

 真島は背をむけ立ち去る。右手に持っていたスイカを左手に持ち替える。もう彼女は歩き出しただろうか。
 歩いているとしゃんとした『優男』とすれ違い、後方にいる少女を見つけると「涼……!」と叫んだ。

 ほら、そうだろう。やはり、少女には『優男』がお似合いなのだ。
 




 事務所に戻ると兄貴分に「えらい遅かったのう」と言われたが、「悩んだんですわ」と誤魔化した。
 まさか平日の日中に、家出少女に捕まっていたなどとは言えない。兄貴分は笑うと真島の肩を叩いた。
 

 「せやな。夏ものは多いさかい」



  ◆ ◆ ◆



 1981年 7月7日 夜

 おそらく今年最初の熱帯夜である。
 店にはエアコンがある。まだ一般には普及していない文明の利器である。

 ひどく冷風が心地いい。

 兄貴分に連れられて真島は接待に来ていた。真島は未成年だが、背格好は十分に誤魔化せる。店の中には年齢のサバ読みで働いている女もいるのだから、そこはお互い様だった。細身で高身長、筋肉も程よく、顔も目つきこそ悪いが良いので兄貴分たちは女受けを狙って真島をしばしば連れてきていた。お代は兄貴分たちが持つため、真島は可能な範囲で女遊びをそこで覚えた。

 危なげな香りに誘われ真島に迫る女もいて、来るものを拒まず据え膳食わぬは男の恥という事で、肉体関係を持つ事も少なくない。

 その夜もそうだった。

 自宅になだれ込み、熱帯夜に包まれた狭い四畳半の部屋でさらに熱気を生み出す行為にいそしんだ。
 女の味を覚えだして半年、触れ方ひとつでも反応が様々でおもしろい。ただの生理的な排泄行為ではなくひとりひとり違う悦びのスイッチを探る楽しみに気づきはじめていた。

 「…ふふ」
 「なんや、どこかおかしいとこあるんか」

 ずっと集中していた真島の腕の中で女がかすかに笑う。耳元で返事した声はかすれていて女の体が震えた。

 「吾朗ちゃん、うまく、なったなぁと」
 「褒めてるんか」
 「そうよ」
 「そうか、それは嬉しいわ」

 ひそひそと内緒話をするような会話が繰り広げられている下で、体はぴったりとくっつき合わさり、今も女の内側を探っている。彼女は真島の筆おろしの相手だった。行為が終わった。一服のために煙草を吸っていると、傍らであおむけになっていた女が、窓の外に視線を向けて「今日、七夕の夜ね」と静かに言った。

 その時になって、昼間の少女をようやく思い出した。
 窓の外の濃紺の夜空には、星が宝石を散りばめたかのように瞬いている。
 少女も今頃、天の川を見ているだろうか。


 「今年は織姫と彦星は会えたわね」
 「……ちがうで。あいつら、雲の上で会いたい放題やわ」
 「あら、そういえば……そうね。ふふ」
 「せや。俺らがそいつら二人に、会えるかどうかなんや」

 飛行機からなら間近で見えるはずだ。
 雲を超えて、飛んでいく。

 「ね、吾朗ちゃん……キスしてよ」

 煙草をふかす真島の左腕に、接吻をせがむ女の右腕が絡んだ。
 
 「煙草、まずいで」
 「いいから、いいから」

 ふうっと紫煙を吐く。
 女の期待に満ちた視線に負けた。姿勢をかがめて、煙の中で唇を重ね合わせた。

 「っふ、どうや。全然美味しないやろ」
 「ほんとだわ。……それじゃあ、もう少し美味しいのいただいちゃう」

 女のしなやかな手が、真島の下腹部に伸びては優しく弄られる。

 「好きやなぁ……、ええで」

 この夜の熱気が冷めるには、もう少しかかりそうだ。
 
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