希望の光



 「おう、木崎か。どうや、しっかりやっとるんか……なんや、騒がしいのぅ」

 「あ? ああ。ばあちゃんがか? ……そら、ばあちゃんらしいっちゅうか……。ハメ外さんようにな。……あ? ちゃうわボケ。仕事はきっちりせえ! ……ああ。明日のな、昼過ぎくらいやな。……ほんなら切るさかい、よろしゅう」

 平穏な夜の幕切れの前に寄越した一本の電話向こうでは、かすかな賑々しさが残っている。
 祖母が家にあがるように誘い、そのまま昼、夕食までごちそうとなり、木崎と東山は酒を適度に入れて寝ずの番だという。見張り役として機能していればいいが、ほとんど宴会状態。平時であれば叱るところ、そういう気持ちにもなれなかった。

 
 ストーブの炎を消し、リビングは次第に熱を失う。宵闇が沈み込むように落ちていく。唇の端に噛んだ煙草の薫りを灰皿へ残してベッドルームに向かう。間接照明のオレンジ色が、木で編まれた室内を優しく照らしている。シングルベッドを二つくっつけた上に涼が寝息をたてている。表情はひどく穏やかで、今日はもう終いだろう。はじめてにしては無理をさせすぎたことを否めない。
 わずかな罪悪感と、欲望の深さを突きつけられ真島自身でさえも当惑している。

 「……起きたん?」

 傍らに身を滑り込ませると、「ん」と彼女が呻いた。
 薄く開いた、瞼の下の瞳はふわふわと漂う。

 「海が泣いてる」
 「海?」
 
 漣の音だろうか。少考の末に、あのカサカサと乾いた擦る音は、葉の少ない枝の音だと。
 あれは木々のざわめきだ。
 ここは山の中だ。

 真島はとっさにいつもの癖だと落ち着いた。
 彼女は深い思考の世界を泳いでいる。――真島にはどちらかと言えば、それを辛気臭いだの、非現実的で理解の及ばない、感性的で分かりづらいからこそ敬遠しがちなものの一つだった。真逆の性質を持つ彼女だからこそ、惹かれるのだろう。

 なによりも。涼の表情は笑顔で緩んでいた。

 「……夏になったら海で泳いで、貝を拾うの。秋は砂浜でお城をつくって、冬は赤い夕日を見送る。春は薄紫色の朝を迎えるの、……家族で」

 真島は腕を枕にさせて、涼の夢を聴いた。
 「寂しくないよね」と、つけ加えて目を細める彼女の頬は赤い。

 「いつか、シワシワでヨボヨボのおばあちゃんになっても、浜辺を歩いてほしいの。いっしょに」
 「お安い御用や」

 真島は、ろうそくに光が灯ったように嬉しくなった。
 そして、自分でも驚くほど優しい気分になった。彼女が大切にしている灯明を分け与えてくれた。たった一吹きで消えてしまいそうな、儚く、尊い、涼の願いである。
 
 涼はくすくすと笑い、具体的な夢を打ち明けた。

 「ふふ。……でね、孫が五人くらいいて」
 「五人でええんか? ……野球できるくらい欲しいのう」
 「え? そんなに、たくさん……」
 「夢はデカいほうがええねんって……、なんやぁ? またほっぺ赤なってんで」

 ハリのある頬を指先でつんつんと突いてやると、もごもごと口籠った。

 「涼ちゃん、意外とえっちな事考えとるのぅ」
 「だ、だって……じゅ、十八人は必要でしょう?……ゲームするんだったら」
 「二チーム分用意すんのは大変やろ。家族でワンチームや」

 さすがにそこは現実的だ、と教えると涼は余りある失言にあたふたし始めた。目を丸めて、ずるずると布団の中へ、下へと潜り込んでいく。

 「……ヒッ、ひひひひ……! なァ、逃げんといてや。なんもせぇへんって、なあ。開けてやぁ。……エッチは散々したやろが。あとは……」
 「………」

 布団の合間からちょこんと覗かせた双眸が、真島を見上げている。
 それは、巣穴から顔を出すうさぎのようだった。うさぎは多産ともいうが、涼に強いるつもりは毛頭ない。たとえば、子供が五人産まれようが、十人産まれようが、涼の替わりはいない。奇跡の光を、消してはいけないのだ。

 「ひひっ、……そっち行ったろ〜」
 「えっ」

 布団の下に潜り、その長い腕で涼を捕まえる。
 きゃあきゃあと声を荒らげていたが、実際に真島はそれ以上のことをしなかった。涼を背中から抱き竦めているだけだった。

 「……吾朗さん?」
 「ん? ……なんや、あ、誘い文句やったん? ムッツリやのぅ」
 「ち、ちがう……けど」

 狭い秘密基地の中で、内緒話をするように。涼はひそひそと胸の内を明かした。

 「……き、気持ちよかったよ……?」 

 真島は一瞬、呼吸が消し飛んだ。
 文字通り、呼吸を忘れた。涼は馬鹿正直に、真面目に伝えてしまうところがあった。生来の性格ともいえる誠実な感想に、このままイチャイチャ甘やかしながらぐっすり朝まで眠る算段でいた頭を、叩かれたような衝撃を食らったのだった。

 「………な、なんやぁ、それ」
 「か、感想を伝え合うって……本に、あったんだけどな……おかしい?」
 「おかしない。……せやのぅ、……ごっつエエ、……ほんまに気持ち良かったわ」

 真島は密かに安心していた。
 彼女の過去の残虐性を、真島自身が再現していないかを。きめ細やかな心の繊維を傷つけてしまわないかと。
 そして今は、弾むような嬉しさに包まれている。

 「もっと楽しくなるようなこと、考えようや」
 「もっと……?」
 「……お誕生日おめでとうさん、やろ?」

 涼があっと声をあげた。
 日付変更線は木崎に電話をした時、とっくに越えていた。
 馴染みの薄い生誕日を、一日、一週間、一ヶ月前から楽しみに数えられるように、幸せにしたい。十年以上の歳月を新たに費やしてでも、祝福を授けたい。真島といると、『昔のことが、ちょっとだけ良かったねと思える』と口にした涼なら、そこへ行ける。

 希望の光が、燦々と降り注ぐ浜辺を歩くのだ。



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