日に日にインがやってくる時間を待っていて、しかも楽しみにしている。来訪する瞬間を真島は心の拠り所にしていた。
嶋野はあれ以来訪れていない。冴島の話もなにも、誰も答えない。時間だけが無為に過ぎていくことに最初こそ焦っていた。自分だけが沼に足をとられて、一歩も進めていない置いてけぼりを食らっている。もし、冴島のもとへ行けていたら、襲撃が成功していたら、どのみちブタ箱行きだった。檻の中に入るのは間違いなかった。
そう言い聞かせて、同じ檻なのだから何も恐れることはないと思い込んでいた。刑務所と違うのは明確な期限が存在しないこと、三食の食事が保証されておらず、日の下で運動をする権利がないことだ。たまにあの細身の男の機嫌によって『仕置き』されることもある。最悪の檻だが、今のところまだ四肢欠損はなく五体満足で不幸中の幸いを生きている。
「……ん、なあ、髪は切れへんのか」
入浴時間。両手は手錠を掛けられ、されるがままに体を洗われている。短かかった髪が顎下まで伸び、少々鬱陶しい。穴倉に入れられてる身の上で身だしなみを気にするのはいかがなものかと内心思ったが、真島はインの無言か『はい』、『いいえ』以外の言葉が聞きたかった。あくびや腹の虫の音を披露した日は心底驚いた。完全無欠にも思える彼の人間らしい面を垣間見られたのだから。
インは手を休めることなく真島の体をスポンジで擦っている。
答えてはくれないのだろう。諦めたが、ふと視線を感じて目だけを上げるとインの漆黒の瞳と交わった。何を考えているのかわからない不思議な瞳をしている。
「……刃物の使用は禁じられています」
「そう、か」
そしてまた空白ができる。インとはまともな会話が成立しない。意図的に話してくれないことはとっくに気づいている。
熱い湯がかけられる。「おおきに」と言う。少しでもいいから、長く留めておいてほしいと思うのは、子供が親の興味や関心を惹こうとしているのに似ていた。
まっとうな育ち方をしてこなかっただけに、真島は愛に飢えているのかもしれないと、自分自身を冷静にみていた。
いつものように体を拭かれ、衣服を着る。手錠が外され浴槽部屋から出る――一連の流れはもはや習慣となっていた。
すると目の前の廊下を猛スピードで走り抜けていこうとする男がいた。とっさにインは浴槽部屋の片隅に立てかけられていたデッキブラシで足を引っかけてやる。
男は盛大に転び狭い廊下の壁に体を体当たりさせ、もがく暇も与えぬようにインが足で踏みつけた。
「ぎゃぁあ」
腹を踏みながら、デッキブラシのブラシを顔面に叩きつける。ブラシが目に突き刺さりジタバタと暴れる。たった数秒の話だった。
廊下奥から痩身の男がすっ飛んでくる。そして熱した鉄棒でまた打擲が始まった。
「うぎゃッ、ひぎゃあッ」
「待て」
痩身の男はインの制止の言葉に一度その手を休ませる。
「話を聞かせろ。こんなあからさまな事はおかしい」
「どういウ、意味」
痩身の男が拙い日本語を話した。この男が日本語を話すのを見たのは初めてだった。インは真島が居合わせていることが不味いのか、日本語から中国語に切り替え、声を潜めて話した。
「他从狱中脱逃出来……」
「………」
痩身の拷問官『蠅の王』はそれを聞くと、男の髪を鷲掴みに持ち上げた。
そしてズルズルと別の部屋へと引きずっていった。インは何事もなかったかのようにデッキブラシを元の場所へ戻し、真島の手を引いて彼の独房へと帰した。
独房に戻り、真島は定位置となった壁に寄りかかって天井をみあげた。先ほどの男のせいでにわかな緊張感が『穴倉』の世界に張りつめている。
隣の部屋から男がぶつぶつと何かを呟いている。真島はそっと壁に耳を近づける。隣の男は「ちくしょう」や「くそ」を繰り返した後、「失敗した」と言った。
真島はただならぬ事だろうと思った。
「……なにが、あったんや」
男も壁に顔を近づけて話している。ぼそぼそと喋っている。この間のような明朗な物言いは消え失せている。
「失敗したのさ」
「だから、なにをや」
「あんたにゃ、関係ないよ」
男がそういったとき、隣の男の部屋の部屋が勢いよく開け放たれた。「ひっ」と怯えた声がした。
「……クソガキィ!」
インからはいつもつけている鍵の束の音が聞こえなかった。
男の咆哮を冷淡な態度で突き放す。
「なにを、話しているんです」
「……! い、いんや、……ひとりごとですわ」
「………」
真島もわずかに焦った。腹の底から恐怖が突き上げてくる。
インの足音が聞こえた。男は「なんだよ!」と抵抗している。「てめえにしてやられねえぞ」等と虚勢を張っているが、ぴたっとそれも止む。
今しがたこの世界から男が消えてしまったかのように、静寂に満たされている。
そしてインの立ち去っていく足音と鉄扉の閉まる音を最後に、隣の部屋の男と話すことは永遠になくなった。