五章『墜落する舟』@

 五章 『墜落する舟』




 ゴオオ。

 大きな舟は大きな音を立てて、真っ暗な空を泳いでいる。

 雲の波がすぐそこに。きれいなきれいな宝石箱のなか。お星さまがきらきら。
 
 あの人もこのお空みているかな、あの人は彦星さま。

 天の星の川を隔てた先へ、地上にいるの。

 あら、あらら、くるくると舟が回る。

 星がくるくる、きらきら。

 わたし、たかいところ怖いの。とても怖いの。真っ暗な真っ黒なお水が怖いの。



 「いやぁ! たすけて! たすけてよう! パパ! ママぁ! お兄ちゃ———」



 お星さまが遠いの。

 遠いところに、わたしを、見下ろして、笑ってるの。


 

 朝。不思議な夢を見た。

 少女が溺れている夢を。助けを呼んでいるのに、誰も助けに来ずに焦って、そのまま溺れていく夢を。数時間の睡眠のなかで得られる夢は見たり見なかったり。王吟は夢の内容をもう一度思い出そうとしたが忘れた。

 ベッドサイドに置かれているプラスチックのケースに入っていた薬を飲む。栄養剤。そして腕に注射を打つ、これも栄養剤だった。食事を摂る時間が短縮できる毎朝の習慣だ。食事以外にも眠気覚ましに使える。朝、午前五時。そこから受刑者たちの世話が始まる。

 拷問官としてかれこれ三年が経つ。中国内部で仕事をしていたが王汀州が日本の仕事をやると言い始めたのが、『穴倉』にくるきっかけだった。

 日本語の習得は意外にも上手くいった。王汀州はその語学力を買って実力不足のくせに『穴倉』の鍵番の役目を与えてくれたのだろう。しかし彼を怒らせると怖い。一度鍵を一つ失くしたことがあり、ひどい目に遭った。それ以来あの男を見ると怖くなる。鍵を失くした一年前くらいから少しずつ王汀州に違和感を感じて、この組織を抜け出そうと考え始めた。亡命である。スイスあたりがいいんじゃないかと思う。中国本土を基準としているため給料が安い。片道切符に使ったら使い果たしてしまいそうだ。


 今日は先日起こった『脱走犯』の『仕置き』の日だった。

 『穴倉』のなかで複数の受刑者たちが口裏を合わせ脱走を企てていた。真島吾朗の入浴時間に廊下を走って出ていこうとした脱走犯、その男と繋がっていたその他数人の男たち。

 『穴倉』はここに入れた人間と結んだ『契約』に準じた対応をする。人によって拷問の内容も頻度も違う。多くは入れたら入れっぱなしで、受刑者たちが死ぬことを前提に『契約』が交わされる。例外として、本当に『仕置き』だけの人間もいる。それが依頼人・嶋野太、受刑者が真島吾朗のケースだ。
 殺さないこと。これを忠実に守る。同僚の拷問官は気に食わないようだが。


 しかし、今日その同僚は大変ご機嫌だ。昨日の夜からずっと準備をしていた。何をするかは聞かされていない。彼に言わせれば『合法な殺人』を行える日になるわけだから、張り切るのも頷ける。吟は執行までの間、最後の尋問を行う仕事が残っている。


 「それで、この計画を企てた主犯は誰ですか」

 三人の男たちが磔にされている。かの聖人のように、すでに両手両足は穿たれている。もうこの男たちに生還はありえない。懺悔の時だった。
 それでも男たちはまだ許されると思っているのか、互いへの擦り付け合いがはじまる。滑稽だった。そのうち、その中の一人が「計画にはまだもう一人加担者がいる」と言い出した。

 「誰です」

 男ははっと息をのんで、それからまくし立てるように言った。

 「俺の隣の部屋の男だ!」
 「隣、ですか」
 「そう!隣の部屋。若い男だと思う、……そう! あんたを『蠅の王』だって勘違いしてたんだ。それで、どう考えても違うって話をした」


 『穴倉』ではほかの受刑者と接触しないようにタイムテーブルが組まれている。週によってランダムだが、拷問官が一人について、入浴と食事を行う際は時間帯をずらして行う。例外が起こるときもあるが、基本接触しない。

 だが今回脱走を実行しようとしていたことは、異例かつ非常に問題だった。これが王汀州の耳に入るのも時間の問題だが、間違いなく我々の管理ミスゆえ懲罰や減給が与えられるだろう。だからこの者たちの始末は確定しているのだ。
 その男の隣の部屋は調べればすぐにわかる。

 「その男は、左隣か」
 「えぇ、はい」

 吟は、一瞬悩んだ。なぜなら、その該当者が真島吾朗だったからだ。彼の『契約』は殺さないことなのだから少々不味い。
 確認を取らなくてはならない。だが、彼はあのとき入浴時間だった。なによりそれを担当していたのは王吟自身だった。悩んでいる暇はない。
 
 吟は真島吾朗の独房を訪れた。彼はいつものように静寂の世界に身をやつしている。

 「…なんや、そないに慌てて」

 極力平静を装っているつもりだったがなぜか真島には見破られた。

 「あんた、歩くのがいつもより早いから……」

 なんて目敏い男なのだろうか、と思った。しかし事態は一刻の猶予を争う。吟は真島に詰め寄った。

 「真島吾朗。……あなたに訊きます、この部屋の右隣の男と……会話をしたことがありますか」
 「———!」
 
 あぁ。そうか。
 真島の表情が答えだった。『なぜ、それを知っているのか』と書かれている。王吟はため息を漏らさずにはいられなかった。真島はバツの悪そうに視線を下げた。

 「あの男は、……まだ、生きとるんか?」
 「真島吾朗、私の質問に答えなさい」
 「……っ、ああ、話したこと、あるで。——せやけど、あいつ……」
 「質問を続けます、答えなさい。——その男とは、どのような話をしましたか」

 真島の綺麗な眉が顰められる。「話?」と聞き返した。吟は一度息を吸った。

 「あの男とは何を話したのですか。答えなさい」
 「…な…、話したことなんて、……」

 真島はしどろもどろに、言い渋った。答えを待つには余裕がなかった。こんな気持ちになったのははじめてだった。
 吟は諦めて『蠅の王』とつぶやいた。吟はその言葉が嫌いだった。なぜかはわからないが、その言葉をきくと胸の奥がざわざわするのだ。

 「彼はあなたとは『蠅の王』の話をしていたと」
 「あ、あぁ…そうや……、その通りや」

 吟は鼓動が早くなったのを感じた。真島は吟がいつもと違う様子なのをまた追求した。

 「どないしたんや、自分。今日……おかしいで」

 悟られてはいけない。三人も脱走犯が出て、彼らの処刑が始まっていることを、ほかの受刑者につたえてはならないのだ。それはこの『穴倉』の抜け穴を探らせてしまうきっかけを作るのだ。
 なぜなら、どこに抜け穴があるのか吟たちは把握していない。きわめて事態は深刻だった。真島に核心をつく質問を問うべきか悩んだ。
 『脱走計画を知っていたか』と聞けば、あの男の計画を知らなかった場合、すなわち脱走可能の事実を伝えているようなものだからだ。
 口の中が乾燥している。全身から血の気がひいている。かつてないほど、気分が悪い。

 「……立ちなさい…」
 「は……」
 「立ちなさい、真島吾朗」

 静かに吟は命令した。真島は大人しく従う。そして彼の両手に手錠をかけた。普段ならありえないことだった。食事、入浴の際に吟の両手が塞がるときのみに手錠はかけられていたのだから。今、吟の両手は空いていた。
 王汀州がもし、今いたらとっくに首は飛んでいただろうと思うと、身震いする。

 吟は真島を連れて、三人が磔にされている部屋へと赴いた。その足取りは重く、沼の底を歩いているのかのような気分にさせた。一歩踏み出すごとに沈み込んでいくのだ。
 部屋に到着し扉を少し開ける、それまではよかった。そこで扉から退けばよかった。しかし見てしまった。時は待たず、吟は遅かったのだ。


 「ひぎいいいぃぃっ」

 磔にされた男は一人、天井から垂らされている鎖に足をくくりつけられ、逆さ吊りにされている。その男の下には、巨大な中華鍋があり中には油が、強力な火力によりぱちぱちと音をたて、待ち構えている。人間揚げといえば、それまで。まるで地獄の釜茹でのようだ。同僚の拷問官が火力を調節しながら、ご機嫌なのか鼻歌まで歌っている。

 「な……」

 吟はただ唖然とした。これではもう、誰もしゃべってくれなくなる。なによりも、逆さ吊りの男が扉を開けた吟を恨むような助けを乞うような目をしているのに、心臓を鷲掴みにされたような気持になった。吟はその目を知っている。鼓動がまた早くなった。罪悪感が募り、抑え込んでいた記憶の蓋を、ベールを突き破ろうとしている。
 ぐっと堪えて、吟はもう一人の『拷問官』に声をあげた。

 「まだ、尋問が終わってない!」
 「……」
 「聞いているのか、おい! そいつを殺すな!」

 もう一人の『拷問官』は吟を見てもいやらしく笑っているだけだ。
 そして壁際にあるスイッチを引きおろし、男は宙づりから落下し、油の海へと墜落した。

 おびただしい断末魔。それを見ているのは磔にあされている残り二人の男と、吟の背後に連れてこられた真島、吟だった。飛び散った油がジュワ…と音を立てて土に固められた床に吸い込まれていく。鍋からはみ出した足がまだジタバタと暴れている。

 「なにやって…、なに、やってるんだ!」

 こんなもの助けたくても助けられない。吟は『拷問官』に詰め寄る。このやり方は、拷問ではないと。ただの殺人だと言ったが男は相変わらず笑っている。そして吟の体を突き放した。尻もちをつき、ただ目の前で殺し揚げにされる男を眺めていなくてはならないのか。

 「大丈夫か」

 吟に声をかけたのは真島だった。そうだ、彼も目撃者となった。
 ふらりと吟は立ち上がる。殺し揚げにされている男の体が跳ね上がり、地面へと落下する。延焼しながらその身はすでに丸焦げになっており、死んでいた。
 吟は息苦しさに眩暈がした。人間の焼けるひどい臭いに誘われて、自分自身の『墜落』を思い出すのだ。思い出してはいけない、と思うのにあの日の映像や記憶の断片が教えてくる。

 真島が様子のおかしい吟にそっと触れようとする。
 するとその後ろからぬっと現れた、異質な存在に真島は右側しかない目を大きく開いた。

 「……王吟、これはどういうことか、説明してくださいますね?」
 「オウ、テイシュウ……」 


 今この場で一番会いたくない人間だった。そのとき、吟は『終わったな』と思ったのだ。脱走未遂犯を尋問をせずに殺処分。管理ミス、脱走ルートの解明もできずに。最悪この『穴倉』にいる全員を集団殺処分することだってありうる。ここはたしかに一度入れば生きて出ていける場所じゃない、ならず者たちの墓場だ。…いやそんな心配をしているのではない。

 吟も飼い殺しにされて生きているからこそ、仕事に不手際があれば王汀州に折檻されるのだ。そうすれば国外逃亡など、不可能なのだ。たった今から死人同然になった絶望感にまともな意識を保っていられるわけがない。


 王汀州は『拷問官』を呼ぶ。痩身の男がすっとやってきて、王汀州に耳打ちする。そして、懐に仕舞われていた小刀を引き抜くと鮮やかに吟の肩口を切った。
 「ひ…っ」
 「な、なにしとるんや! お前いきなり…!」

 真島がとっさによろけた吟の体を支える。王汀州は「あなたも、加担者ですか?」と冷たく言った。

 「なんや、加担者て……、おい、イン、…しっかりせえ、イン!」

 意識が遠くなっていく最中に、なぜ真島吾朗が『吟』という名前を知っているのだろうと考えを巡らせて、肩の強烈な痛みに思考をも奪われていくのだった。



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