四章『極夜の匣』A


 ギイと鉄扉が開く。
 灯りのない独房は闇と静寂が横たわっている。襟まで詰まった隙のない中華服を纏ったこの穴倉の拷問官の一人である王吟は朝から晩まで拷問受刑者たちの世話をしている。

 年の頃はおよそ十代半ばの少年に見えるし、誰も彼もその存在を疑わない。今日も一糸乱れぬ仕事をこなし、受刑者たちの世話に明け暮れた。穴倉に放り込まれるのはヤクザ者の成れの果て。血の気が多く、一筋縄ではいかないことが多い。そのため比較的体力を使わない楽な者を最後に回している。仕事は、食事、入浴、などの受刑者たちの衛生管理がメインである。

 必要とあらばその都度『仕置き』をすることもある。


 その日の最後は、東城会系の嶋野組組長、嶋野太が放り込んだ若い男だった。名を、『真島吾朗』といった。
 詳細は聞かされていないが、嶋野太と真島は親子盃を交わした間柄であること、親の命令を聞かなかったことが原因で『穴倉』にて折檻を受けさせたいと依頼してきた。
 嶋野は武闘派と言われるだけあるのでその真島もさぞかし熊のような大男であろうと思っていた。実際に会ってみて驚いたのは言うまでもない。
 水と歯ブラシを持って、眠りこけている男の前に立つ。

 「………」

 羨ましくなるほどに熟睡している。この環境下で気狂いになる者も少なくない。陽の光を浴びずに過ごすこの極夜の世界で次第に人間としておかしくなるのだ。
 真島に関して、嶋野との契約には『殺さず、煮るなり焼くなり、お好きなように』とのことで殺す以外の裁量を与えられている。拷問は殺人の道楽ではないのだが。本来は自白に用いられる肉体的苦痛を指す。殺してしまうほうが契約違反になるのだから、生かしたほうがいいに決まっている。それに無駄な労力をかけたくないというのが本音だった。

 朝から晩まで疲れるからだ。もう一人拷問官がいるが、彼はそれこそ拷問を道楽にしている人間だ。合法的に、殺人を行える仕事だから、と言っていた。
 そもそも拷問自体がこの国では非合法である事を大陸出身の彼にはわかるまい。

 「起きてください」

 一つ声をかける。真島はぐっすりと眠っている。細身だが均整の取れた体つきをしている。筋肉もあり、彫刻のように美しい。肌の上には華やかな刺青が入っている正真正銘のヤクザ者だ。顔も悪くない。左眼は理由あってない。意識のない間にそっと眼球を確認したらなかった。右目だけだが、元から整った顔をしていたはずだ。ヤクザ者よりも俳優が向いているだろう。身綺麗な青年だった。

 「起きてください、歯を磨きますよ」

 昔好きだった人に似ている。彼も背が高くてハンサムだった。そっと頭を振る。忘れたいほど昔のことだ。
 ぺちぺちと頬を叩くと、「うぅん」と唸った。かすれた声に色気がある。あの男趣味の嶋野が好むのもわかる気がした。
 薄く瞼を開けた真島はぼうっと吟を見ている。黒々とした瞳はまだ夢を見ているのか「冴島…」という呟きが薄い唇から漏れる。真島の関係者だろう。兄弟、といっていた。
 その世界における兄弟は血のつながらないものでも兄弟になることができる、と聞いている。
 
 「起きてください」

 もう一度声をかける。時間の無駄になるため、歯ブラシに歯磨き粉をつけて口へ突っ込んだ。

 「っぐふ」

 その刺激に覚醒したらしい真島は目を白黒させている。
 もごもごと何か喋るが言葉を成していない。しゃこしゃこと音を立てて磨いていき、唾液が溜まったらコップに吐かせる。その一連の動作を繰り返し、一旦口内のものが無くなったことで真島が「なあ」と吟に声をかけた。


 「………」


 吟はしゃべらない。契約にはないことだからだ。余計な挑発も慰めもしない。……心を通わせて、その者が死んだときに余計な負担を抱えたくないからだ。

 死は簡単に訪れる。どれだけ外の世界でならず者や悪人で名を馳せようとも死ぬ。『穴倉』で死ぬということは、拷問官が最期を看取るということだ。そんなことは毛ほどにも考えないだろうから、みんな声をかけてくる。とくに非暴力を貫く王吟には。もっとも言葉が通じそうで、通じていない『演技』をする。

 「なんで、そないに……優しゅうするんや」
 「………」

 吟は優しくした覚えはない。これは仕事だからだ。仕事といっても忌々しい上司、王汀州から貰える金はたかが知れている。毎日働いても月に三万円貰えればまだいい。不毛な会話に時間をかけている暇はないのだ。早く仕事を終えて、数時間の睡眠を摂りまたこの穴倉で男たちの世話をしなくてはならない。金を貯め、亡命するのだ。どこか遠くへ。
 なるべく真島と目を合わせないように、また歯ブラシを口へ突っ込む。

 「むぐ」

 手を上げようと思えば、この男のほうが有利になる。他の荒くれ者とは違い、自分の置かれている状況がわかっているのだろう。
 なにより真島は『会話』をしたがっている。いつか爆発して手をあげる時がくるかもしれないが、吟には都合がよかった。今のところ大人しくご飯を食べ、風呂に入り、歯を磨かせてくれる。なかには自慰を手伝うように頼む奴もいるのだから、真島は犬の世話のように楽だった。

 「ふぁ……」

 気が緩み、吟の口から思わずあくびが出た。
 真島はなぜか豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしている。あくびの何がおかしいのか。人間も動物なのだからゲップも放屁もあくびもするだろう――と睨んだ。
 おまけに今はもう夜中の二時を過ぎている。日がな一日眠っていても怒られない受刑者たちとは違うのだ。

 「眠いんか?」
 「……」

 返事の代わりにコップを差し出す。
 歯磨き作業もほとんど終わりだ。あとは帰って寝るだけだが、腹の虫が起きたようで『ぐぅぅ』と挨拶した。

 「腹減ってるんか」
 「――――」

 なとなく、気のせいだといいのだが、真島が少し嬉しそうにしているのが理解できない。ただの生理現象だ。そりゃあ人間だから、と言ってやりたいが余計な会話はしたくないので無言でいる。用具を持って立ち上がる。早く帰って寝たい。何を思ったのか真島は「おやすみ」と言った。もちろん吟に向けられている言葉だ。
 振り返ってみると、真島は笑っていた。

 ……悔しいことにやっぱり、昔好きだった人に似ていた。思い出したくないのでさっさと独房をあとにした。



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