2004年 南アジア 某日



 ヒマラヤ山脈を遠くに控え、窪みをつくる高原たちの谷に挟まれ、水溜りのように浮かぶ湖がある。
 拓けた空を映し出したトルコブルーの湖。生い茂る広葉樹林たちの影に隠れて建つ一軒の小屋のなかで、少年は丸椅子に腰掛け、白湯を飲みながら板と布を何枚か敷いた寝台の上に横たわる女に声をかけた。

 「ねえ、ママ。ママの国はどんなところ?」

 拙くも少年は日本語を話した。二人でいる時だけ、女が教えたこの言葉を喋った。
 齢は十を数える少年は女と同じ東アジア出身だが、彼は複数の言語を操れた。ヒンディー語、ネパール語、中国語、日本語。生きていくために必要だから身についた芸当である。耳がよく、聞いたままの音を話せる素質もあわさって、いまや隣りにいる女よりも話せる。
 

 「――ママじゃ、ないよ。君と私はちっとも血の繋がりがないもの。……君の本当のママの国はね、豊かだよ。ここよりも車がたくさん走ってて、お腹いっぱいご飯が食べられて、たのしいことがたくさんある」
 「ふーん?」

 尋ねたくせに、その反応は希薄でいまいち実感を持てないようだった。あたり前のことだった。二人の生活は豊かとは程遠く、たとえ手元に金があったとしても使うことをしないからだ。ここへ流れて八年が経つ。他に家族と呼べる人間はおらず、近所に住む地元民からはこの地域に根ざす信仰から、表立っての差別はない。異邦人である女はともかく少年へは皆優しかった。

 「あのさ、もう……いいから。働かなくって、いいから。俺が働くから」
 「そんなの無理だよ。勉強できなくなっちゃうでしょ。……勉強は大事だよ。せっかく、頭いいんだから」
 「だって、……今までこんな、……もしかしてビョーキなのか? ……テンジン先生呼んだほうがいい?」

 「だめ」と女は止める。
 高熱がここ数日収まらず、寝たきりなのを女はただの風邪だと誤魔化している。テンジンというここから先に山を登ったところに住む医者がいるが、もし診察をしてこの容態から少年に隠し事を告げてしまっては困るからだった。事がつまびらかになれば、少年は女の言うことを信じてくれなくなる。

 「じゃあ、俺……なにができる? どうしたらいい?」
 「……そうだな。……じゃあ、唄ってみてほしい。そうしたら、ちょっとは眠れるかもしれない」
 
 少年は泣きそうになるのを我慢して、白湯の入った茶器を小さなテーブルの上へ置くと、傍らに跪いた。女の肉の薄い手をとると、ぎゅっと両手で握る。痛いほどだが、それを上回る痛みを肉体に抱えていると、それほどでもないように思える。
 この土地で育まれた、牧歌的で宗教色の強い旋律を、変声期前のきれいなソプラノが唄う。

 「ママ、眠った……?」
 「ううん。……だから、ママじゃないから。名前教えたでしょう。……それも嫌なら、おばさんでいいのよ」
 「ヤだよ」

 少年は不貞腐れたような顔をした。はっきりとした濡羽色の黒髪とその色の切れ長の目、強気な眉に鼻梁の通った鷲鼻。もうあと数年もすれば、少年の容姿は実の父親そのものになるだろう。胸の奥に仕舞っている、最初に出会った頃の彼の姿に次第に似ていく。――それは、甘く辛いものがあった。

 流浪の旅に押し流されてから十年。一日たりとも忘れさせることはない。少年の父――、真島吾朗を。

 手狭な部屋に置かれた唯一の戸棚。
 その脇にある小さな壺の中には紙幣がたんまりと詰め込まれている。この紙幣は少年を母国へ還すためのものだった。
 彼女との友情を果たすために。





 彼女と出会ったのは、紀伊半島から抜け出してきた年の八月だった。


 1992年 8月


 海外亡命を信じ『韓来』で働きはじめてほんの少しの頃だ。
 その日は客の中に中国人がいて、接客中に怒鳴られたことで泣いてしまった。涙などもう出ないと思っていたけれど、恐怖は染みついていて、その呪縛は解けていなかった。店長からはバックヤードに戻ろうと言われ、その翌日から厨房の皿洗いがまた始まった。

 彼女はその一連の状況を知っていた。
 中国人客が立ち去ったあと、店内には女性だらけのグループとガテン系職の若者が集まった席が数席だけで比較的静かだった。明日から裏方へ戻るとしても、今日はしっかりや遂げようと落ち着いてからホールへ戻った。その女性の多い席を通りかかったとき彼女たちは励ましのつもりで涼へ声をかけた。

 「ほんと、うざいよね。ああいうお客さんって」
 「声がやたらに大きいの。強気に出ちゃってさあ……せっかく美味しい肉食べに来てるのに、やんなっちゃう」
 「ほとんど日本語じゃないから余計に怖いよね」

 彼女たちはその流れで「カルビと肩ロース追加ね」と注文をつけた。四人の年若い女性たちのグループで、みな粒揃いの美人だった。一番手前に座る女性――少女と形容するほうが似合うだろう。その中で一番年若い子だった。口々に言葉を連ねるなか、彼女だけは寡黙に過ごしていた。

 「ご注文は以上でよろしいでしょうか……?」
 
 涼がそう発すると、その中を仕切っていると思しき女性がそっと寡黙な少女に声をかけた。少女はメニュー表を広げ、しばらく眺めていたが「やっぱいいわ」と断った。

 「減量中? ごめんねミレイ。こんなときに焼き肉連れてきちゃって。あ、店員さんもごめんなさい。注文は以上なんでよろしくおねがいします〜」
 「かしこまりました」

 涼はその少女に、違和感に似た既視感にとり憑かれた。
 はじめて会った気がしなかった。しかしその時はまだその正体を思い出すことはなかった。


 一週間が経った頃だった。
 昼の休憩時間は、一旦の帰宅を許可されていたが、涼に帰宅する場所はないので大抵、近くをぷらぷらするか公園でぼんやりと過ごすのが日課になっていた。その日は公園のベンチに座っていた。真夏の炎天下に焼かれてベンチは熱かったが、地べたに座る気は起こらなかった。繁華街の外れといえど夜に賑やかになる場所も、その時間帯の人の通りはまばらで喧騒は遠く、セミの鳴き声だけがそこにあった。

 そこへ、「みゃあ」という鳴き声が聞こえて空耳かと疑ったがもう一度、鳴き声がする。涼はベンチからのっそりと立ち上がるとその音の在り処を探った。
 ベンチの後ろ側にある生い茂る草木を掻き分けて首を傾げていると、芯の通った声が空気を震わせた。

 「そこじゃなくて、もっとそっちのほうだと思うんだけど」
 「―――」

 ジリジリジリ……。
 弾けるように振り返ると、一人の少女が立っていた。日傘を持ち、髪を染めた女。色白だが決して病弱ではなくハリとツヤがあり、肉付きはそこそこに健康的でまっすぐな脚を晒している。それが先日の少女だと思い出すのに時間はかからなかった。

 「……ほら、いた。子猫」
 「あ……」

 草木を割って、奥の茂みに一匹の子猫がいた。生後数ヶ月ほどのトビキジで、白を基調に黒と茶の混ざった色の子猫だ。どうやら母猫とはぐれた様子だった。見つかったのはいいとしても、涼はどうしたらいいかわからなかった。安定した住処に住んでいない身の上で、容易に手を出していいものではない。

 「あなた、どうするの?」
 「……母猫がまだ近くにいるかも」
 「……いないかもね。だいぶ毛が汚れてるし、痩せてる」

 見て見ぬ振りするのが正解だった。手に負えないからだ。しかし、その子猫が哀れでならなかった。涼は公園の砂場に放置されていた玩具の器を拾うと、水飲み場から水を汲んできた。子猫は自力では飲めなかった。手を貸して、指伝いに水を口に持っていってやるとペロペロと舐めた。
 少女は再び、「どうするの?」と尋ねた。

 「私は……飼えないから。働いてるところで、聞いてみる。――でも引き取り手が見つかるまではそれまでは面倒を看ないと」
 「……ミルクとか、缶詰ならそのへんに売ってるわよ」
 「……お金あんまりない」

 少女は不思議そうな顔をした。
 牛乳と缶詰がそれほど高価なものでないことくらい、涼だって知っている。一日や二日の餌付けなら構わないが一週間もすれば自分の生活費を圧迫する。動物病院に連れて行ったとしてもまとまったお金が必要で、その日暮らしの涼には難しい選択だった。

 「あなたの家は?」
 「うちはペット禁止」
 「そう……」
 
 涼が尋ね返すも飼えないという答えが出る。
 一番安全なのは外敵も少ない屋内だが、ラブホテル暮らしにできるわけがない。せめて『韓来』のバックヤード、従業員室に置いてもらえればいいのだが。飲食店に動物は断られるだろう。それをわかったうえで、駄目もとで話を伝えてみることにした。

 「店長にかけあってみる。ゲージ内で飼うから置いてもらえないかって」
 「わかったわ」


 少女に言ったように涼は『韓来』へ戻り事情を説明した。店長はもちろん、考えついていた通りの飼えない理由を述べたが、従業員室の外から出さないこと、ゲージ内で飼育すること。引き取り手を探すことを最終目的にすることで容認してくれた。
 トビキジの子猫はオスで名前は『フウタ』と名付けられた。やんちゃな性格で従業員たちの間ではさっそくアイドルと化し、店長は引き取り手を募集する張り紙を作った。

 さらにもう一週間後、ふたたびその公園のベンチで日光浴をしていると、あの少女が隣に座った。

 「久しぶり。……あの子猫は元気?」
 「元気。従業員室で飼ってる。同僚にも聞いてみたけど、みんなペット禁止か、OKでも他の家族が猫アレルギーとかで飼えないって……見つかるのにはもう少し時間がかかるかもしれない」
 「そう。……そういえば、あなたの名前まだ知らないわ」
 「……『ラン』よ」

 涼は嘘を突き通し、『ラン』と名乗った。
 少女は口角をあげ、「綺麗な名前ね」と言った。

 「わたしは、美麗っていうの」 
 「ミレイ……」

 『綺麗な名前』という意味ではきっと、彼女のほうが綺麗だ。美しい容姿からも名前負けしない。記憶の奥に燻る、遠い友人の雰囲気に似ていた。
 彼女――ミレイとはすぐに仲良くなれた。見かけよりも男勝りなところがあって、苦労を重ねてきたこと。夢があること、その夢への努力をしていること。――彼女の輝いている姿は涼を励ました。

 思いがけないきっかけで、友人といえる存在にまた出会えたことを嬉しく思った。
 他愛のないお喋りの日々が続けば、どんなに良かっただろう。





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