1992年 9月初週
本州に台風が接近していた。
二桁目の台風は大型で、九州から入り四国、関西へと上り今日の夕方には関東に最接近するという気象予報がテレビに映っている。
店長は「今日は客入りが減るかもしれないねえ」とこぼしている。その予想通り、ディナー時間の七時から八時の客入りは普段の半分で仕事の量も少なくなる。手持ち無沙汰な時間もあって、ふと見上げた時計を見れば九時を過ぎた頃だった。
店長が忙しなく厨房に入ってくるなり涼を見つけると、『ラン』と呼んだ。
「店長、どうかされ……」
「今日はもう上がっていいよ。きみにお客さんが来てる。なんだか、切羽詰まってるみたいで。ともかく行ってあげなさい」
「は、はい」
涼自身を訪ねてくる人間はいない。背筋が寒くなった。あの組織がついに嗅ぎつけてやってきたのではないか、そんな恐怖に少しばかり遠くから入り口を眺めると、一人の女がすりガラスの向こうに立っていた。その後姿を見間違えることはない。ミレイだった。ほっと一息つくと、急いでバックヤードで着替えて裏口から出て店の入り口まで回り込んだ。
「こんばんは。……どうしたの? ミレイ」
「ラン……!」
挨拶をするなりミレイは涼に飛びついた。驚いて身じろぎするも、彼女の背中に手を回した。体は冷えていて、それから女性らしいいい匂い、ほんのり煙草の匂いがした。「店に入る?」と尋ねるもミレイは首を横に振った。顔を覗き見ると少し泣いていた。どこか暖かい場所へ行ったほうがいいが涼の思いつく場所は根城にしているラブホテルくらいだ。
「うちに来て」
「……でも」
ミレイは若いが結婚していると聞いている。いまの時間ではその相手も帰宅しているはずだ。
「あの人は今日いないから」と言われてしまえば納得するほかない。ミレイに言われるがまま、彼女の住む家へ招かれることになった。道中彼女は肝心そうなことは何一つ喋らなかった。必死に自分の感情と付き合っているという苦しさが伝わってきて、涼は静かに耳を傾けていた。
彼女の住んでいる家は神室町の近くにあった。
仕事柄、大阪と東京を往来することが多く、住んでいるといっても両方に最低限の生活を行える部屋を借りているらしい。涼にしてみればお金持ちのする所業だ。ミレイのいうように彼女の配偶者は部屋に居ない様子で、灯りがなかった。鍵を開ける隣で表札に視線がいった。
『真島』――――その二文字に息が止まった。
「ラン――?」
ミレイの呼びかけに返事ができないほど、戸惑っていた。驚きといってもいい。日本中探せば同じ名字の人間はいくらでもいるのに、真っ先に頭に思い浮かんだのはあの男だった。涼はそのとき返事をしていればよかった。ミレイはその呆然と立ち尽くす『ラン』をみて、打ち明けてしまうからだった。
「しってる? まあその、無理もないわよね。たまにそっちの店にも食べに行ってるみたいだし」
「え、えと……」
「真島吾朗なのよ。――うちの旦那」
そう。としか言いようがない。表面上は全くの赤の他人である。勝手に涼一人が気にしているだけでまともに喋ったこともない。――そこで、あの五月にすれ違った男女が、彼とその隣にいるミレイだったことに合点がいく。その既視感も、違和感もすべて解けた。
二人暮らしにはちょうどいい『1LDK』の間取りの部屋。彼女からもした真島の吸う煙草の香りが残っている。玄関には彼女の靴と、男物のサイズの大きい靴がいくつかあった。部屋に入るとミレイはお茶を出してくれた。冷蔵庫で冷やされた麦茶のはいったコップに口をつけると幼い頃を思い出した。その懐かしさに目眩がする。リビングの小さなテーブルを囲んで、ミレイは静かに切り出した。
「子供が――できたの。……今日それがわかって、びっくりした」
「――うん」
『おめでとう』とは言えない緊迫感があった。ほんとうに喜んでいるのであれば、そもそもミレイは泣いたり『ラン』を家に招いたりする必要がない。ミレイが涼になんて言ってほしいのか考えた。その末、悲しい想像が膨らんだ。それはミレイがまた泣き出しそうな気配や、その物言いから十分考えられることだった。そんな事は涼の人生の経験において珍しいことではない。――望まぬ妊娠が女を不幸にすることを知っている。
「ランは知ってるでしょ、私の夢」
「もちろん」
「私も、ランの夢を知ってる」
ミレイの夢は日本一のアイドルになること。
『ラン』の夢は、日本を出ていくことだった。
さすがに『死に場所を探しに行くため』とまでは打ち明けていない。涼は確認のために、どうしたいか聞いてみることにした。その先の言葉をもう聞くことはないと思っていたが、みんな覚悟を決めた顔で言うのだ。
「――堕ろしたい」
涼はわずかに視線を下げた。
『女の監獄島』では診療所と医者がいたがちゃんとした設備がないため島の外でやってくれと言われたものだ。それができれば苦労はしないし、島からとっくに出ているというのに。そうなれば、涼が施すしかなかった。王汀州からは『管理職』を与えれているのだからその責任は涼にある。女達が仕事ができないのであれば、問題を取り除かねばならない。また、彼女たちもそう願うのだからその場で反対するのは涼だけだった。
開腹手術の経験は船上で過去に一度あった。虫垂炎でそれを取り除かねばいずれ死ぬというので、二者択一で行った経験から堕胎も行った。
涼は息を軽く吸う。
どうか彼女にだけは命を大切にしてほしいと思った。若いからといって――明日が望めるわけではない。島での唯一の友人も梅毒で死んでいった。
「――よく、考えて。ミレイ」
「……ランは、味方してくれないの?」
「そうじゃない。味方だよ。……夢が一番大事かもしれないけど、今の貴女にふさわしくない事実だけど、もう少し考えてみて」
「ランは何もわかってないわ。デビューして今が一番大事なのに」
そう言われてしまえばそれまでだ。涼にはわからない。ミレイが伝える努力を怠っているだけかもしれないし、涼が受け取りかねているだけかもしれない。けれど、彼女がまず最初に相談するべき相手が涼ではなく、その夫であることを彼女は違えている。真島は見かけこそは破天荒かもしれないが、『穴倉』にいた頃の態度を見ていれば根はずっと優しい。
「じゃあ、教えて。わからないから」
「――まず、今の状態だって危ういの。アイドルが結婚しているんだから。――公園であなたに会ったとき、思ったの。子猫をそのまま見捨ててしまえばいいのに、最後まで世話したでしょう。その子猫もこの間引き取られて。……だから、信用しているのあなたを」
ミレイはリスクを冒した上で結婚をした。その漏れてはいけないスキャンダルを信頼の置ける『ラン』に話した。さらにリスクを広げる『子供』が授かったので堕胎したい――言いたいことはそういうことだった。
「信用してくれているのは、嬉しいよ。……でも、ちゃんと相談したほうがいい、あなたの夫と」
「――相談したからって、なんとかならないわ」
「私にしても同じだよ。――アイドルをしていることを、彼は知ってるでしょう?」
「――それは、そうだけど」
ミレイは言葉を詰まらせた。
「彼を信用していないの?」と訊くと、ミレイは「違うわ」と言った。
「ラン、夢を諦めきれなきゃ、どうしたらいい……?」
「夢を諦めろとはいってないよ」
「じゃ、じゃあ……どうするの。お腹が大きくなって、太った女に踊れっていうの?」
「休養すればいい」
ミレイの眉間には皺が寄った。
激昂が高まる瞬間、涼はさらに言葉を重ねた。
「偽装すればいい。――怪我でも病気でも、装えばいい。たぶん、そこは……彼のほうが得意だと思うけど。今、何ヶ月目?」
「――いまは、二ヶ月半……まさか、そんな。――上手くいくわけないわ、ぜったい」
「怪我か病気なら病院に通っててもおかしくない。今は夏だから……臨月を迎える頃は春先で厚着してたって誤魔化せる」
「マスコミに嗅ぎつかれたりしたら……事務所だって……」
ミレイは年相応に狼狽えていた。涼も提案した側としてすべて上手くいくとは思っていない。もしも彼女のいうように、それで世間からのバッシングを受けて夢への道が途絶えたとしても、全てを話した上で協力をしてくれる夫と子供がいれば、二兎追う者は一兎も得ずにはならない。
「だから、相談するの。私じゃなく、彼に」
「――――わかった」
鬼気迫る涼の視線を受け、ミレイは長い沈黙のあとそっと頷いた。
生ぬるくなった麦茶を一口飲んだ。ミレイは「今日は泊まっていってよ」と言った。真島の帰宅は明日の昼頃だという。今からラブホテルに帰るのも億劫だったのでありがたい申し出だった。
普通の家庭の風呂に入るのは久しぶりだった。
一つある部屋に布団を二枚敷いて、ミレイが使っているという布団を使わせてもらうことにした。
不思議な気分だった。真島は彼女とこの何の変哲のない天井を、見上げながら眠るのだ。他人の何気ない日常を感じ取る瞬間がすこし奇妙だった。知っている人の生活に侵入する妙な恥ずかしさとでもいうのだろうか。
「ねえ、ラン。そっちにいっていい?」
「……いいよ」
せっかく二人分の布団があるのにミレイは涼の方へと這入ってきた。
なかなか寝つけない様子で、何度かもぞもぞと動いたあと「ねえ」と呼んだ。
「ランはどうして、日本を出ていきたいの?」
「―――日本じゃ、生きていけないから……かな」
「どうして。日本語も上手いし、仕事だってこの間のことが無ければ……じゅうぶん」
涼は苦笑した。ミレイは『ラン』を外国人だと思っている。ほんとうは死んでいて戸籍のない純粋な日本人で、組織に追われているから海外逃亡を考えているのだ。そのために資金が必要で、働いている。彼女は誠実に問題に向き合おうとしているのに、涼のほうが逃げている気がした。けれど、わかっている。涼の問題は、涼だけでは解決できない。かといって、ミレイに打ち明けたとしても彼女にもどうすることもできない。
だから、あるがままに受け入れている。――その時々にするべきことをやっている。
「――ねえ、ラン。……あの人と話すとき、一緒にいてほしい」
「……それは、だめかな」
「なんでよ、ケチ」
色々とややこしくなる。
真島吾朗とこんなところで再会するのは、彼の幸せを邪魔してしまう気がして罪悪感を覚える。なによりも、二人きりで話し合わないといけない。涼の助け舟を得ていては、それは結局ミレイではなく涼の言葉になってしまう。
「ちゃんと、話し合えたら電話して……お店に。そうしたら、すぐに会いに行くから」
「……うん」
彼女は賢いひとだった。
彼女の言葉の節々に気を遣えていたのであれば、こんな不幸はなかった。
1993年4月
海上の風は冷たく、塩辛く、打ちひしがれる涼の肌を冷やす。
夜の海は離れる島の影すらも曖昧に、ただそこに巨大な虚があるようなほど塗りつぶされた黒がある。
腕の中で赤子が泣いた。泣きたいのは涼のほうだった。されど、涼が泣いても涙を拭ってくれる人はいない。火傷しそうなほどに熱い嬰児の熱を冷まさぬように、胸の中へと抱き込んだ。
「ごめんね……ごめんね……」
ミレイは涼の言ったように、その話を自らの夫に打ち明けた上で、子供を喪う選択をしたのである。――同時にそれは彼女の意思の堅さの表れでもあった。
きっと、子猫を助けたときには、彼女の企てが始まっていたのだ。避けがたい重要な運命を託せる相手を、たまたま中国人に怒鳴られて泣く女に感じてしまったのかもしれない。どこかで外国籍の哀れな女がいると情報が出回っていたのかもしれない。
『私、しってたもの。……あなた、死にたそうだなって。だから、どうせ死ぬんだったら、一緒にいってほしい』
夜中の舞鶴湾で彼女は打ち明けた。
この嘘が最後まで突き通せそうだから、お礼に『ラン』の夢を果たす手伝いをするとミレイは言った。どんな手を使ったのか、韓国行きの船のチケットを用意してくれた。その告白をきいて、涼が東京から大阪へ行き彼女が表向きに借りているという寮で半年間匿われていた理由を悟った。
知らず知らずのうちに彼女の偽装工作を手伝い、挙げ句その隠滅を託されている。
『そんなの、無理だよ。……無理だってば―――!』
『……さよなら』
叫んだ。
叫ぶ頃には、ミレイはその場から走り去っていて、背中は闇の中に吸い込まれていくみたいに消えかかっていた。涼は追いかけるべきだった。その背後で汽笛が鳴っても、追いかけるべきだった。けれど、日本から出るにはこのチャンスしかなかった。チケットは片道分で済むし、その用意に必要な身分証を持ち合わせていないので、二度目のチャンスはなかった。そんなことも、きっとミレイの計算の内にあった。
彼女は日常へ戻っていった。――アイドルになるという夢をもう一度叶えるために。
船が出港する。
巨大な箱が揺れる度に、忘我が進んだ。冷静になれば辛いだけだった。
この小さな命を抱いて、死ににいくことはありえない。涼が死ねば、誰が面倒をみるのだろう。
「はは……」
乾いた笑いがこみ上げる。
ミレイは子供がいなくなったことを、自分の夫にどう説明するのだろう――。
今夜の見送りも、きっと独断だ。もし『ラン』の存在をこっそり打ち明けていたとしたら――?
そんなことは、ありえない。彼女にしてみれば、『ラン』は捨て駒でしかない。捨て駒に無意味な脚色も忖度はいらない。
真島が心配することは、子供の安否のみである。―――もし、仮に涼が彼の立場だったらどうするか。
どんな手を使ってでも、探し出すだろう。
「……友達じゃ、なかったのかなあ――」
口から漏れた本音は、速度をあげていく船と風によって掻き消える。
昨年の四月も、海の真上にいたことを思い出す。贖罪を果たすために死物狂いで泳いだ海を、いまは悠々と渡っている。