高速を抜けて、どこかの海岸にたどり着いた。
 まだまだ夜の闇は続いている。

 「あー、……たのしかった」

 車を出ると目眩がした。それでも充ち足りた気分に酔いしれる。
 波がすぐ近くにある。砂浜を歩くと、涼の記憶の残滓が浮かび上がってきて、空を見上げると、無数の星が瞬いていた。そうして、傍らを歩く真島のほうを見る。

 「ねえ、殴ってよ」
 「あぁ――? ホンマお前、エエ加減にしろや」
 「怒れよ。なあってば――」

 真島は先に砂浜の上をさっさと歩いていく。どこに行くわけでもないのに。子供が欲しい物を買ってもらえず、駄々をこねるみたいに、叫ぶ。
 
 「セックスもしたし、ドライブデートもした仲じゃん!」
 「恥ずかしいこと、でかい声で言うなや――!」

 ぴょんぴょんと跳ねて、「えいっ」と掛け声を発すると真島の背中に飛びつく。
 しょうがないと言わんばかりに背負ってくれる。その男の優しさに胸がくすぐったくなって小さく笑った。うなじから覗く金色のチェーン。僧帽筋、一見細いが、がっしりと張った根のように逞しい首すじには、噛み付いた痕がいくつか残っている。

 「好き、好き。だーいすき」
 
 心からの、本物の好意だった。
 涼をバカになんてできないくらい、純粋な気持ちだった。
 背中にくっついて頬ずりすると、いい匂いがした。この瞬間を切り取って生きていけたら幸せなのに。時間はない。

 歩きながら、ちらっと真島が獣をみた。その頬にキスを贈る。

 「いいんだ。返事はいらないよ」

 そう言って、背中から飛び降りる。
 ついでに背中の腰に隠し持っている得物を奪う。そっと鞘からずらしてみると刃が綺麗に光った。数歩、歩いた先で、真島ははっとそれに気づいて獣に迫った。

 「それ、返せ!」
 「やーだー!」
 「アホ! 怪我するやろが!」
 
 取り返そうとする腕が伸びてきて避ける。獣はケタケタと楽しくおかしく笑う。

 完全に鞘から刀身を抜き出すと、真島は顔を顰めた。どうにか喧嘩がしたくて挑発に出てみるも、この期に及んで、拳を振り上げたくないみたいだった。獣は避け続けていたところから、踏み出す。間合いを詰め、真島の懐に入り、逆手に持ち替えた短刀を下からではなく上に振り上げた。

 当然、真島はその手を掴み上げる。捻り上げるほうが早いのに、わざわざもう片方の手で奪い返そうとする。それが気に食わなくて、股間を靴のかかとで押し上げると、ぐう、と呻いた。ゆるくなった手首の拘束を振りほどき、首にあるチェーンを掴んで引っ張る。そうすると顔との距離が近くなった。
 その表情が、すべてを物語っていた。

 「……返せや」
 「めちゃくちゃ、腹たつ……」
 「殴ればええやんけ」

 殴っても、殴り返さないだろう。
 真島は女や子供には手を出さないから、そうしているのかと思った。その言葉や、顔つきで違うことを知ってしまった。

 これは、吟が悪い。
 吟が、穴倉でこの男に優しくなんてしたからだ。
 この男は、真島は、吟の暴力を欲しがっている。――優しくしても、力を奮っても内心喜んでいるのではないか。

 「ヤダ、ヤダ、ヤダ……!」

 獣はここに来て、髪を掻き毟りたいくらい憤った。
 さいしょから、破綻していたのだ。一番の目的が果たせそうにないことを知ってしまった。さぞ殺したいくらいに恨んでいると思っていたが、――吟をちっとも恨んでいない。悪事を働いて、騙して、もて遊んだのにその応報がない。それが心を揺さぶった。


 暗に、獣の好意の返事を真島はしていた。
 悔しかった。獣を男として認めてもらえないという意味で辛い答えだった。
 それでももう殴る気はもう起こらなかった。涼と一緒に消えた吟の善行を、否定する力は残っていなかった。


 癇癪を起こす獣をみる瞳はやさしい。
 それはまるで、ほんとうに、思い込みではなく――。

 「気が済むまで、殴ればええ」

 真島の声は、やさしい。獣はためらいを覚えた。
 儚い命がもうすぐ終わろうとしている。その間際に、死ぬことがこんなに怖いと思うなんて。――恐ろしいことだった。
 もっと、傍にいたいと思う。憎らしくて、愛おしい。この男を知れば知るほど、人間になろうとしている。



 獣は、思い出した、人だったことを。

 獣は、思い出してしまった。人に戻れないことを。

 獣は、知った。心がどこにあるのかを。




 ――体が重くて、真冬なのに燃え盛るように熱かった。


 重い頭を持ち上げると、視界の端に星が瞬いた。
 最後の報せだ。――それを男に悟らせないよう、ひた隠しにして、手にした刃を海の水へ投げ入れた。

 「なにすんねん――ったく!」

 真島は悪態をつきながらも、獣の拘束を振りほどき、海の中へ音をたてて走っていく。
 その背中を見送る。その背中に飛びつくことも、キスを贈ることもない。

 遠くから飛んできた重い銃弾が一発、胸を貫いた。
 そのまま砂浜に崩れて、視界が横になる。
 
 頭を狙えばよかったのに、外したみたいだった。
 なまじ生きている感覚が残っているのは辛い。――それを見越してのことなら、どこまで悪趣味なんだろう。

 「あ……ひゅ――」

 呼吸が犬の遠吠えみたいな音だ。代わりにどうっと血が吹きこぼれて辺りを温かく濡らす。砂に吸い込まれていくのが、ちょっとおもしろい。気がつけば、真島が獣を見下ろしていた。探しものは見つかったようだった。よかったじゃないか。それなのに――今にも、泣き出しそうな顔をしている。


 死ぬのってもっと一瞬だと、思っていた。
 そういえば、涼も死ぬまでしぶとかったっけ。

 「ぁ、ぐふ」

 霞がかる視界の最中。
 真島が赤い水溜りのうえに屈んだ。何かを語りかけてくれているけれど、もう音が聞こえない。
 周波数を合わせている間のラジオみたいに、音が遠のいたりしていて、不明瞭だ。――君はほんとうにいい男だよ。涼のことからかってきたけどさ。

 「―――ん」

 真島がまた、なにかを言っている。
 わかんない。なにいってるか。――なぁ、今度は上手くいくかな。
 上手くいってくれよな。また、愛してやってくれよな。

 今度はもっと上手くやるから。涼も頑張るよ。泣いてたら、慰めてやって。悪いことしたら叱ってくれ。

 ばいばい、またね。――大好き。













 獣の長い旅が終わった。
 遠くで、まだ、彼の声がする。


 「――――ちゃん、……涼ちゃん」

 重い瞼を持ち上げると、心配そうな眼が一つ、そこにあった。
 それを見ると自然と涙が溢れ出た。

 「……えらい、うなされとったで。かわいそうに」
 「吾朗さ、ん」

 汗で皮膚に張りついた髪を払いのけて、こめかみにキスを一つ。
 呼吸が浅くなっていて、息を意識して吸うと胸の締め付けるような緊張が、ようやく解けていく。

 夢ではない。夢といえないほど、感触が残っている。死んだ感触が、生々しく、胸に残っている。まだ思い出せる。断片がちらつくと、胸奥が痛んだ。
 隣で共寝をする男は、慰めるようにもう一度、二度と、顔にやさしいキスをした。
 その現実の肌の熱や匂いや慈しみによって、『夢』へと変わっていく。

 
 「――ありがとう。……いまなんじ」
 「……。五時過ぎ。もう朝やけど、寝た気せえへんやろ。もうちょっと寝とき」
 「……ううん、起きる。喉乾いた。シャワーも浴びたい」


 ベッドサイドのテーブルの方を振り向いて時間を教えてくれる。
 窓の方を見れば、厚いカーテンが部屋の暗さによく馴染んでいた。二月の早朝は真夜中のように暗い。
 涼はゆっくりと起き上がる。一気に汗が冷やされて、少し身が震えた。寝室を抜け出して、リビングに出る。キッチンでコップ一杯分の水を飲んで、壁にかかったカレンダーに視線がいった。

 『1994年2月』の数字。その下の日にちには各日の予定などがメモされている。
 あれは、夢だったのだと心の中で唱える。
 
 
 脱衣所でパジャマを脱いでいると、なんとなく映った洗面所の鏡越しに、真新しい鬱血痕を発見した。
 婚前交渉をしてこなかった反動か、入籍して一緒の部屋に住み始めてから、夫の休みの日は朝から晩までセックスに耽っている。

 「あ、またこんなとこにつけて……」

 一度ついたものが薄くなってくる頃合い、また新しく別の箇所に出来上がる。それの繰り返しだ。
 毎月、病院の検診にいくたびに恥ずかしい思いをしている。控えてほしいと伝えると、そのときは、わかったというが、事が終わればいつの間にかついている。これが、贅沢な悩みというやつだろうか。すこし違う気がする。頭を捻っていると、くすりと笑った。

 「え?」

 鏡に映った自分の顔を見ると、笑っていた。
 なんで笑っているのだろうと頬に手をあてると、唇が自然と動く。

 「――ねえ、幸せ?」

 誰かに呼びかけられるように、涼は独り言を発した。
 そうか、となにか不足していたものが埋まったような感覚に、涼は悠然に微笑む。


 「ええ、幸せよ」と返事をすると、もう彼は喋らなくなった。



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