2004年 某日 南アジア




 「きて、先生はやく! おそいよ! ママが、死んじゃう!」
 「まあまあそう慌てなさんな。あんたの母さんは病気一つしたことないだろうて」

 高原の上に住むテンジン先生を呼びに行った少年は、息を切らして住み慣れた小屋へと戻ってきた。しばらくの薄い眠りに陥った姿が、仮死状態に見えたのかも知れない。テンジンは齢六〇を過ぎた、老齢の医師だが腕は衰えていない。むしろ年の功といえるほどの、無限にも思える知識を蓄え、この近辺では仙人のような扱いさえも受けている人で、異邦人である涼に対してもまだ優しく良心をもって接してくれる徳高い人だった。

 「ママ!」
 「……おかえり。――――テンジン、先生……すみませんこんな格好で」
 「なあに。そのまま横になってなさい」

 いつもなら、『ママじゃない』と挟むが、体が鉛のように重たく、言葉ももつれて上手く話せない。重たげなドクターバッグをテーブルの上に置くと、テンジンは涼の手首の脈を測った。「ふむ」と唸って、少年と女の顔を見比べる。しばし思案したのちテンジンは少年に、「お水を汲んできて、沸かしてごらん」と言った。利発な少年は大きく返事をすると、台所にあるバケツを持って小屋を出ていった。

 小さな背中を見送ってからテンジンはそっと尋ねた。

 「あんた、……でかい手術でもしたんじゃないかね」
 「――やはり、おわかりになりますか」
 「わかるとも。汗の量が尋常じゃあない。息も乱れているし……薬は?」
 「一時間前に、飲みました」

 テーブルの隅に置かれた薬をみて、テンジンはまた「ふむ」と唸った。
 「あの子には言ってあるのかな」と問われるも、首を横に振った。布団を捲りその下の腹の様子を見ると、テンジンは顔をしかめた。

 「おまえさん――、まさか」
 「先生。お願いですから、あの子には言わないでください。もちろん――村のみんなにも……、ほんとうにお願いします」
 「ああ、ああ。わかっとる。医者は患者の秘密を守るさ。……しかし、これじゃあんた本当に死んでしまうだろうて。――血の足りる飯でもこさえんと。――この村にはあんたと同じ血の型はおらん。なにかあったら必ず死ぬ。――……あの子が辛いだけじゃ」

 テンジンの言うことは、最もなことばかりだった。
 船の上でも、紛争地でも、街なかでも。自分の血はたくさんの様々な人間を救ってきたが、涼を救える人間は少ない。
 少年を母国へ還すには、莫大な費用が必要だった。それを叶えずして、死ねることは許されないと思うし、いくら少年を無きものにした実の母親がいようとも、彼は日本へ帰るべきだった。――その父親のもとへ還すべきだった。

 だから、売ったのだ。半分の、腎臓を。
 半分を旅費に、半分を彼の将来のために。
 
 「テンジン先生……、あの子を日本に連れていきたいんです」
 「その体じゃ無理じゃ。……若いもんに頼むとええが、旅費だけくすねられるかもしれんからの。……今は安静なさい。あの子とよく話しあったのかね?」
 「……いいえ。きっと、私の気持ちの問題なんです。あの子は私を母親みたいに好いてくれていて、今はいいかもしれないけれど……ずっとこのままではいられません」

 テンジンは丸椅子に座り、身を屈め涼の言葉に頷いた。
 あの少年は、この小さな狭い世界で生きていてはいけない。かつて自分の人生が自由を渇望したように、本当は寂しさと不自由のない世界を望んでいる。涼がなんのしがらみのない、ただの女であればどこへでも連れていけた。彼らがどこまで探っているのか、時折街へ出て調べることはある。組織は依然として残っていて、極悪非道の兄弟の活動拠点が大陸から欧州へ移ったことを先日知った。

 もし、移動するなら今だと思った。約十年前、ミレイが楽々と用意した片道分のチケットのように上手くは行かない。やむを得ず、他人の身分証を借りてチケットを取るだけでいくらか金がかかった。ヒマラヤ山脈が望める南アジアから陸続きで香港へ行く。そこから船にのり、日本へ。
 あれだけ脱出を望んでいた故国へ、舞い戻ろうとしている。――他人は滑稽だとあざ笑うだろう。

 「おまえさんは以前、一人の神様を信じていたと打ち明けてくれたろう。――ああ、いい。いいんだ、私達の信仰は広くそれを責めない。心は変わったかもしれないが――おまえさんの成り立ちは覆らないのだと思うよ。隣人を愛し、人のためと尽くしてきたろう。素養があったんじゃ、特別な素養を持つからこそ、苦難をお与えなさる」

 テンジンはお経を唱えるような声で説いた。

 「――それはね、その神様に愛されてるんじゃ。苦難を乗り越え達観を得て人の真髄へ征く人こそ――愛されている証拠なのじゃ。神様の思う幸せと、人の思う幸せは違うのかもしれないね。――だからこのテンジンは、そのおまえさんの心が救われるよう祈る」
 「ありがとう、ございます……テンジン先生」

 しばらくして、水を汲みに行っていた少年が帰ってきた。
 バケツにはなみなみと水が入っていて、重たそうだった。

 「――ご苦労さん。君のお母さんは休んだほうがいい。飯を作れるかね、肉を持ってこよう。ともかく栄養が足りとらん。水を沸かせておくように」

 そういうとテンジンは一度小屋から出ていった。
 少年は「はい」と返事してなみなみに入った水を存外の力で持ち上げようとする。

 「ちょっと、それじゃあ溢れる。……器で鍋に移して」
 「わ、わかってるって! ……ママは寝てて!」

 危なっかしい動きに、おちおち寝ていられない。
 傷口が開いても困るので横になって、ちょこまかと無駄な動きの多い、少年の後ろ姿を見守る。
 少年の父の幼い頃も、こんな子供だったのだろうか。といっても、ミレイと違って殆ど何も知らない。名前、肩書き……人生で最悪な時間。ミレイの過ごしている時間と比べればほんのわずかでしかない。



 そんな男の存在を、涼は二十二年も気にかけている。
 一方的に、勝手にやっていることだ。ただ、少年に「パパってどんな人?」と尋ねられても、うまく説明がいかないので「たぶん」と付け加えてしまう。何事も「会ってみたらわかるよ」と言うと、「そんなよくわかんない奴と、どうして会わなきゃいけないのさ」と至極当然な事を言うのだ。

 狭い寝台に並ぶ。
 二人で眠る前に涼は繰り返し、繰り返し両親のことや母国のことを語った。

 「君のパパはね、強いんだよ」
 「ふーん。その話、もう七十回めだよ。……人に暴力奮ってさ、いじめてるんだ」
 「それはちょっと違うよ」
 「本当に優しいなら、パパだっていってる人もママだっていってる人も、会いに来てくれるでしょ? 飛行機だって船だってあるのに」

 少年はつねに正論をぶつけた。――その正論を聴くたび、涼は苦しくなった。間違えているのか、と。
 涼の人生はとうに破綻していて、やり直しが効かない。その償いを少年に託していることを、ほのかに彼は気づいている。――少年の幸せの在り処も涼は知っているが、その幸せは涼が死んでしまえば終わってしまう。それが許せなかった。

 「君は、私が死んだらどうするの。――明日目を覚まさなかったら、独りぼっちなんだよ」
 「イヤだ! そんなの、絶対にありえない――!」
 「ありえるよ……、だから、考えてみて」

 少年の顔はぐしゃぐしゃになっていた。何度もしゃくりあげて、唸るように咽び泣いた。
 壁の方を向いて、布で顔を覆って「イヤだよ、ママぁ!」と泣き叫ぶ小さな子供の頭を撫でた。

 「ママじゃ、ないんだよ……」

 愛着を持たないように、君の名前を呼ばないんだ。ママと呼ばせないんだ。
 いつか、別れる時が悲しくて、寂しくてどうしようもなくなることを知っているんだ。

 あの日、子猫を助けなければ――――。
 呪詛を胸の内で吐くと、息が詰まった。
 





 少年には、二人の母親と、一人の父親がいる。


 彼を、この世にもたらした二人の親。
 彼は、日本で生まれ外国へ渡った。
 育ての母親は無戸籍で十二歳になるまで育て尽くしてくれた人で、少年を連れて日本へ帰国した。

 父親のもとへ送ったあと、彼女は警察に逮捕され拘置所にいる。母親と呼び慕う彼女は、その国では犯罪者だった。
 少年を誘拐した女、――少年は何度も異議を唱えたが、無力だった。だから、日本になど行きたくなかった。姿が似ているだけの父親をみても、なんの感慨も抱かなかった。

 少年を誘拐監禁した罪として、懲役十五年の判決に処された彼女は――敗血症性ショックにより、拘置所で亡くなった。





 少年は原稿に文章を書き連ねる手を止める。
 きっと、物語にするなら、渋いノンフィクションならこう締めくくられる。


 「ねえ、ママ……、どう終わったらいい?」
 「その脚本じゃ、審査通らないよ。誰も観に来ない」

 十二歳の少年は病室のベッドでもぐもぐとみかんを食べる女に、書きかけの原稿用紙を見せた。
 その父親に似て達筆な字は、回り回って読みづらい。女は顎下に手を当てて、うーんと唸った。少年はその天才的な頭脳を活かし、物語を考えて売ることで生計を支えていた。

 「どんでん返しってもうできないよ? だって、辻褄が合わないんだもの」
 「そうかな。この少年の知らない話が、どこかに隠れているかもしれないよ?」
 「そうかなあ――」
 「ヒント、君のパパは……ママのことを探っていたでしょう?」

 少年は胡乱な目つきで女をみた。
 やれやれと肩をすくめて「それ、本当に全部がノンフィクションになっちゃうから」と言った。

 「いいじゃない、ノンフィクションでも」
 「ノンフィクションにすると面倒なんだよ。……だから最後にちょっと嘘をつかないと」

 よくわからない、と女はこぼす。そのとき、病室に来訪者が訪れる。
 長身で隻眼の男が、果物が盛りだくさんな籠をでんとテーブルの上に置く。その下敷きになった原稿に少年が吠える。

 「あ! 親父やめろよ!」
 「またこないなとこで書いて、――ママが寝られへんやろが」
 「ママは迷惑じゃないし!」
 「騒がへん、騒がへん。……紙拾うて、焼き肉でも食いに行こうや」

 少年はフンと鼻を鳴らしたが、病室の入り口にもうひとりの影を見つけると、渋々と頷いた。
 父親に連れられて病室を出ていく。それと入れ違いに、高いヒールの音をたてて一人の女が入ってくる。――オレンジ色の果実を掌に残したまま、寝台の上にいる女は人の良さそうな笑みを浮かべる。ほんの昨日ぶりに会う友人に挨拶をするような声をかけて。


 「ひさしぶりだね。――ミレイ」
 


 実母の泣き声を病室の外で聞きながら、少年は束になった厚い原稿用紙を見下ろす。
 今から、長年の悔恨の許しを乞うだろう。――少年は、そんな非道を赦さなくていいとすら思う。
 
 けれど、『ママ』は赦してしまうだろう。そうして、損ばかりをする癖を、ずっと治せないまま大人になってしまった人だ。


 キムチのピリっとした辛みを舌の上にのせて、白米をバクバクと頬張ると飢えていた頃を思い出す。食べ物だけでは満たされない飢えに叫んでいた。『ママ』が『ママ』と呼ばれることを諦めたのは、日本へ来て保護されてからだった。
 焼肉屋『韓来』はそのママが昔働いていたところらしい。――向かい側に座り焼き肉奉行をする父親を眺めて、少年は漠然と漂う疑問を投げつけた。

 「ねえ――、親父はママと結婚するの?」

 『ヒント』といわれたように、この男親は『ママ』を調べていた。二人の母親について。
 その結果、二人の間にあった巨大な嘘を暴いて――少年が『あの人』と呼ぶ方の母親とは離縁した。ママがしたことは、二人の関係の終止符を遅めただけに過ぎなかった。少年を最初にこの世から無きものにしようとした時、ママは最後まで堕胎を許さなかった。『あの人』は最後まで夢を諦めきれなかった。だから――その足枷となる証拠をママに託した。

 若く早まった決断は、すぐにその夫に暴かれてしまった。船が出航して数日が経過していた。他人の名前で買った片道分のチケットが却って仇となり、また身柄も国外にいる無戸籍者ということで捜索が難航した。詳しいことは避けて教えられなかった。ママの捜索が上手くいかない理由は、他にもママを追う組織がいたみたいだった。

 越境を繰り返し、たどり着いたのはあのトルコブルーの湖の谷。白い峰の連なるヒマラヤ山脈を遠方に構え、静かで空気が乾いていて誰にも見つからない特別な場所。少年は血の繋がらない女を母親と呼び慕った。

 ある日、家の壺の中に大量の札束がでてきた。問い詰めても女はバツの悪い顔をして俯くだけだった。山の上に住む高名な老医者に泣きつくと困り果てた様子で――日本に行くために、内臓を売ってしまった話を聞かされた。『馬鹿』と『嘘つき』を交互に繰り返して何度も何度も罵ったが、それでも嫌いになれなかった。

 嫌いになれるはずがなかった。
 少年にとって、たった一人の特別な人だったから。
 大陸の縁を渡るときも、香港から船に乗るときも、ママは『決して、無駄じゃなかった』と幾度も口癖のように言った。


 
 焼けた片面をひっくり返していくトングの運びを眺め見て、答えを待った。
 ママのいうように、その男は少年と姿形がよく似ている。もう四十路も半ば目前というが、老いとは程遠い。話に聞いていたほど粗暴でもなく、その逆で繊細という言葉が似合いそうな趣がある。それは仕事をしている所を見ていないから、らしい。

 「ママに親権持ってもらったらエエやろ? 取り立てほやほやの戸籍があるわ」
 「――俺はそうしてほしいけど、ママは持たないって言うから」
 「難儀やのう」
 「だから、困るんだけど。ママ、腎臓ないし透析しなきゃいけないし、もしなにかあったら誰が同意書にサインするの」

 少年は『あの人』を好きになれなかった。母親と呼べるのは、生みの親ではなく育ての方だ。
 実父は、ふうんと真面目なのか不真面目なのか分かりづらい声を出した。「ホンマ、お前両親のどっちにも似てへん奴やのぅ」と言って。

 その言葉は、少し前の少年であれば何も異論はなかった。そこまでして愛情を感じられない親の元へ行けなくとも幸せだと思っていた。――顔を合わせてみれば、やはりこの男の息子だと思うところがたくさんあった。


 「似てるとこあるし」
 「あン?」
 「――素直じゃないとこ。マジで直してくれよ、俺マネしてんだぞ」
 「うっさいわ、アホ。……――それ焼けたで」

 不遜な態度の息子に、悪態をつきながらも焼いた肉を勧めるのが、この男らしさだろう。
 網の上で焼かれた肉が脂でテカテカと光っている。それを箸で拾い上げると口へ運ぶ。肉に美味いも不味いも感じたことがなかったが、これが贅沢というものだろう。「そやけど」と男は言葉をつなげる。

 「なんで、俺だけ親父なんや」
 「――パパって柄じゃないだろ、どう見ても」
 「でもママは『パパ』呼んどるやないか。……向こうで散々教えられとったんやろ?」
 「まあね。……ほんとに耳にタコができるのかってくらい。……聞いた感じもっと脳筋ゴリラで人をバンバン殺ってる奴だと思ってたけど、……フツーだった」

 「はあ?」と男、――真島吾朗は想定外の言葉に声を上げた。
 喜べる要素が一つもない話に、肉を焼くトングが止まる。
 少年はふふんと鼻を鳴らし笑った。

 「あのさあ、――知りもしねえ男の話をずうっとし続けてるんだぜ? いい加減、新しい話、更新してくれよ――パパ」

 真島の長い溜息に少年はケラケラと笑う。

 未だに真島のことを上手く呼べず、『真島吾朗』とフルネームで呼んでしまうあたり、彼女のほうが素直でないのかもしれない。
 ふつう――それだけ長い思慕を他人に抱くことはできないというのに。生きるのに必死だったというけれど、恋の話の一つや二つが浮いてこないのが、そういうことだろう。
 
 「――初対面じゃないでしょ、パパとママ」
 「知らん、知らん。……お前それ聞いたら、話に使う気やろ」
 「ケチ。……ママってば全然自分の昔話を話してくれないんだって」
 「そらそうやろ」
 
 さも当然という物言いに少年は腹を立てた。
 共に過ごした年月は少年のほうが長いのに、それ以上を知っているのは不公平だと思う。「これからどうしていくか、考えたほうがエエ」ともっともらしいことを言ってはぐらかして。

 
 「――ふーん。じゃあ、俺の親権はパパに持ってもらおうかな。そんで、いつかママと結婚してやる」
 「あ? こんの、アホ! ――そんだけママ、ママ言うとって通るかいな。だいいち、結婚っちゅうたってあと何年かかると思ってんねん」
 「ほんとのママじゃないし。一番好きだし、あと六年待てばいいだけでしょ」

 そんなに嫌なら、早く奪ってしまえばいいのに。
 足をバタつかせながら少年は、睨みをきかせる男に「焦げちゃうよ、肉」と意趣返しを生意気に言ってやる。
 そうでもしなければ、彼らは進まないほど――遅い奇跡の祝福を果たせないのだ。

 
 提出予定の脚本の締めくくりは、少年とママと呼んでいた彼女との結婚でどうだろう。
 きっと、『マザコン映画』という烙印が押されてしまう。それこそ、審査に落ちるかもしれない。――彼女との物語に嘘をつけるとしたら、それしかないのだ。

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