(私は、…………離さない)





 「離さ、ない」


 重要な決断を下したところで、なにか特別なことが始まるわけでも、選択を肯定するものが現れるわけでもない。
 吟の次にとるべき行動は、心変わりしないうち、今すぐでも、次の行動に移すことだった。


 吟の進む道はなき道は、悪道だ。
 それでは地獄へ赴くというところにふさわしい、最初の洗礼を与えるべきだ。


 倫理を捨てろ、邪悪こそがふさわしい。
 ラブロマンスの清純なヒロインでも、悪の道から救い出してくれるヒーローでもない。
 腐ったハイエナが水場を探し求めたどり着く、砂漠の僻地。そんな場所へ連れていってくれるよう、考えて欲しいと願った。


 オアシスはない。呑んでいるのは泥水か、動植物の死骸が浸かった汚染水だ。
 いわば、最初の後悔を与える儀式だった。同時に、これでまだ引き返せるなら、そう選んで欲しい。最後の猶予だ。


 吟は、焦ることなくはじめの一歩を踏み出した。

 努めて、冷静に。
 浴室へ続くドアノブを撚ると鍵は開いていた。

 「不用心め」

 呟きながら次は、浴室のドアに手をかける。
 吟は足を留めることはない。浴室内に押し入ると、そこには至極当然にも驚いた真島の顔がある。オーバーヘッドの降り注ぐ熱い雨と蒸気が、吟の白いシャツと黒のスラックスを濡らしていく。

 「吟、なんや。……召集か?」

 明るい浴室の下では、和彫りの赤と黒が印象的だった。
 均整の取れたしなやかな筋骨の流れ。腹筋は筋が通り六つに割れ、肩から腕にかけても男らしい。対して、肋骨の下から絞るように細くなったくびれと臀の綺麗な弧線が、艶めかしい色気を与えている。

 「なあ、おい……な、なんやねん。なんか、言えや」

 吟は無言のまま、動揺を隠せない真島を壁へと追いやった。
 
 「あぁ? ちょ、またシャブやったんか? なあ、……っちょお、待て……! あ、アカンて……! ホンマ、なんやねん!」

 その辺にある取っ手を掴むような自然さで、頭を垂れた穂先から指先でなぞり、掌に竿を収めた。それがあまりにも当然かのように始まり、目を剥く真島だったが、女相手にあられもなく悲鳴をあげるわけにも、振り払うこともできず、突拍子のない行動を受け入れるほかなかった。

 「……ン」

 真島の体が揺れる。吐息が耳を掠め、耳殻の縁を舌先が這った。吟の右手はもたげた亀頭を摘むように緩やかに動いている。濡れた女の肌に貼り付くシャツ、そこから透けて見える黒いレースのブラジャー。細いデコルテ。華奢な肩。毛先がくっついた濡れた睫毛と、深みのある瞳。
 真島は視線を逸らしたが、耳元で呼ばれたことでもう一度、吟を見た。

 「嫌なら、殴ればいい」
 「……う」
 「殴ればいい。そこに小刀だってあるじゃないか。……切り刻めばいい。腿を刺せば、簡単に殺せる」
 「そないな、こと」

 いつも隠し持っている小刀が、洗面台に置かれている。吟はそれを使っているところを、まだ見たことがなかった。いつでも正当防衛で刺し殺せる状況。冷静な声音による脅し文句とは裏腹に、真島の陰茎は萎えるどころか、熟れるバナナの実のように膨らんでいった。
 できるわけがない。……吟には言葉の先がわかった。

 「……なんで?」
 「な、んで……? ンッ、あ……強く、せんといて……、いッ!」

 女の不機嫌な声に、焦った真島は思わず聞き返した。
 なぜ、と問われても快感に支配される脳で考えられることなど『気持ちいい』だけだ。吟はその態度すらも気に食わず、親指でぐりぐりと尿道につながる穴をいじめた。真島は強い刺激に腰が跳ねたが、戻ってきた柔い指の感触に息を荒げた。
 
 「うッ、……ん! はぁ、……はあ……ッ!」

 風呂場に押し入ってきた女に、手で陰茎を慰撫される。ピンク映画かアダルトビデオ。この際には、実体験となっているから、裏ビデオの撮影現場かなにかかと真島は思った。好意を抱いている女。つい数刻前に告白したばかりの女に、ソープ嬢もどきの手淫を施され、堪えたいものが隆起し、興奮して汁を垂らしている。その痴態を冷ややかに見下ろし、女は小さな唇を震わせた。

 「変態」
 「どっちがやねん……、い、クソ……!」

 若干の負け惜しみで応じるも、状況によって全く勃たなくなる男だっている。それだけ心理と密接に係るためにデリケートな部位である。真島の陰茎は興奮の色に染まり、また、ぐんと大きくなった。吟の小さい手のなかで、赤黒い凶器に生まれ変わった。真島のなかで何度も忘れようとした、否、ずっと封じ込めていた、『穴倉』での願望そのものだった。

 光も届かない暗い穴の中。血の腐敗と蝿が飛び交う、時間を奪われた世界。吟を少年と思い、この人だけが、この世界で唯一優しくしてくれる人として認めていた頃の記憶が錯綜する。

 
 唾を手のひらに垂らし、竿にまぶし塗り込んでいく。ぬちぬちと粘液のぬめりと摩擦の音が、シャワーの音のなかではっきり主張する。

 「う……っふ、……はっ、く」

 真島は喉仏の奥底、腹から、肺から、押し上がる快楽の呼吸を漏らした。
 腰が疼く。萎えることなく、熱がずんと重みを蓄えている。親指の愛撫に、細かく息を吐き出すのが精一杯であった。
 どうして、急に押し入ってきて、こんなことをしでかすのか。真島は目の前に迫る快楽に思考力を奪われていて、やはり昨夜と同じで、薬の飲みすぎだろうと考えた。

 「小娘にしてやられて恥ずかしくないのか」
 「…ぅっい……こ、小娘て、ジブンで、言うモンちゃうやろ……」
 「ふうん」
 「……っひ、ちょっ、ドコさわ……って、や、やめぇや! うっ」

 いつの間にか回っていた片方の手が、さわりと尻を撫でた。そうして排泄口の皺をくっと引き伸ばすように押し、指先を浅く沈めた。異物感と羞恥心により、その手を阻もうとするも快楽源の穂先に扱きが加わった。

 「糞もクソも関係ないだろ。クソ溜まりで生きてる人間は、黙って”クソ喰らえ”だ」
 「ん゛っ、ぐ」
 「はは。ヘタってきた。やっぱり男だな」

 悲しみを纏いながら吐き捨てて、吟は汚濁をもろともせず、容赦なく責めた。真島ならば、自分よりも矮小な女を突き放すことができる。だが、そうするには至らない。いつの間にか、もたらされるものを、自然と受け入れている。不快、嫌悪、恥辱、反逆心。それらをかき分けた奥に潜む、彼女への感情が従えた。

 「っう……も、あかん……」
 「………」
 「あ、あぁ、ぅう」

 真島は素直に驚いていた。吟に、対してではなく。自分自身にだ。
 もう少し男としての見栄や、自尊心や、矜持といった、たしかに強いものが自分にはあると思っていた。――支配されたい、という願望を。服従、といえるのか。この小さな手の中で、欲望を解放したい欲求が刹那の幻を見せているのか。

 昂ぶる衝動はこんなにも近いのに、吟は手を緩やかに前後させている。もどかしく、ねだるように腰を擦りつけると、その冷たい瞳が嗜虐心に満ち、嗤ったような気がした。

 「出したい、か」
 「あ、ああ……っ、ぐ、……うっ!」

 呻き声のような返事と殆ど同じ頃、耐えきれずに射精した。
 二度に分けて、勢いよく噴き出る白い内臓液が掌を汚し、指と指の間から、たらりと粘度をそのままに零れ落ちる。男にしては色白の肌が、熱気と快楽により赤みを帯びている。吟は真島の女々しい痴態にほくそ笑んだ。刺青を入れ、喧嘩を好み、血気盛んなヤクザな男が、何もかもが劣った小娘相手に、ろくな反抗さえせず辱めを受けた。――女の胸中にあるのは、小さな喜びと、幻滅だった。
 
 もうもうと立ち込める湯気のなか、レバーを捻り熱い雨が止んだ。

 「吟……」
 「………」

 息を吐いて、真島は壁に沿って座り込んだ。濡れ鼠が二匹。湿った髪の毛先から水が滴り落ちる。

 曲がりなりにも、この男は、初恋の人だった。
 最初の朝、真島が部屋を出ていった間に見た免許証にて確信したときから。女の境遇と、苦難と悲劇に葛藤した今日までの日々を思い返す。漠然とした怒りのような呪詛が胸の中でとぐろを巻く。吟は、自分の運命を狂わせた男が、回り回って運命に溺れていく様をみるのも一興と喜べるほど、潔い性格ではない。

 「お前、………いや」
 「……なんや」
 「ミランダ警告を知っているか」
 「……は?」

 吟はためらった。面食らい静止した真島を見下ろし、求めに応じて続きを告げることにした。

 「アメリカでは被疑者の尋問のときに、権利の保障として告知する」
 「なんか洋画で見るアレ? 黙秘権とかいう……」
 「ああ」
 「俺、逮捕されんの? ヒヒッ」

 ミランダ警告、ルール、法則などとも呼ばれる。宣言であり、枕詞である。有名なのは、黙秘権だ。吟のいいたいことは、ミランダ警告ではなく、最終確認だった。このような状況であっても、どこか深刻そうな顔をせず気楽な表情も見せるのが、不真面目にも思えた。

 「真島。……お前には、まだ猶予がある。今からでも、前言撤回が可能だ」
 「男に二言はあらへん」

 不真面目の流れで、大仰な物言いに吟は唸り、咳払いをした。

 「真剣な話だ。……見栄とか、矜持とか、そういうことじゃない。……望んで来る場所じゃない。日本にいたほうが幸せなんだ。それは、本当……だから」
 「……好きや」
 「だから!」

 言葉を選ぶ吟にかぶせて、再び呪いのように好意を告げた。ほぼ反射的に、一時的な怒りを露わにした女の隣で、真島は立ち上がった。目線はつられて自然と上がる。神妙なものへと移ろいだ表情をみて、行き場を失った激情を逃すべく奥歯をぎゅっと噛んだ。

 「俺の言う好きはな、軽うない。命は軽いけどな」

 真島は悲しく笑った。

 「いつ死んだって悲しむヤツはおらん。せやったら、意義のある使い方をするわ。導火線の短いトコにおる奴を優先する。……兄弟は、死刑囚や。弁護士に色々頼んどるけど、それでも減刑にはならん。元々、俺も同じことやる予定やったんやさかい、……上手くいっとったら、ここにはおらんのじゃ」

 冴島大河。その存在は『極道十八人殺し』の主役であり、界隈では有名人である。真島は穴倉で何度も、その名前を口にしていた渡世の兄弟は、一人監獄にいる。吟にとってはその程度の情報しか持ち合わせがないが、彼は長らく罪の意識に苛まれただろう。

 真島の目は口よりも多くを語る。――たとえようのない感情に、吟はまた言葉を失った。
 この男は見かけ以上に、情け深いのではないか。一つの解にたどり着きかけたとき、全身肌のぬくもりに包まれる。


 「優しいのう。……思っとるより、大したもんちゃうんや、俺は。……やからな、一番近くでタマ張らせてくれや」

 この人は、可哀想な人を見捨てておけないのだ。
 吟は見せかけの同情で弄ばれてきた。そいつらは『騙されるほうが悪い』といって、最後には何も残らない。……だが、真島のそれは真正だろう。最初から、『死んでいた』可能性の示唆と、罪を贖おうとする意識。

 「吟を守って、強うなって。兄弟ともっかい喧嘩するために、……のう」

 その言葉に、強く否定する力は残されていなかった。
 不覚にも、吟の存在は自身が思うよりも大きくなっている知覚に、言葉が見つからなかったのだ。

 「……服を着て。……やることが残ってる」
 「そら、エエっちゅうこと?」

 厳かに告げれば、喜色の滲む声音が浴室に反響した。
 重力は増し、抱擁の力が強まった。

 「……っちょ、重い。痛い!」
 「ひひひ! ……嬉しいんやって」
 「……」
 「あ、今のはわかったで。単純な奴やと思ったやろ。せや。単純なんや、男は。覚えとってやぁ」

 素直な表現に圧倒され、吟はまたもや口を閉ざした。
 腕の力を緩め、大切そうに抱きしめ直し、辺りに飛沫が散った。

 「吟。好きや。……俺は、俺の意思で、決めた。後悔させへん。……信じてくれなんて言わん。これから証明する。せやから、見といてくれや」

 真島の黒々とした目が吟を射抜いた。
 瞳の奥には不動の意思が潜んでおり、言葉尻には、揺るぎのない決意が含まれていた。

 口先から出るものは何もない。言葉のために吸った空気が、出ていくだけだった。吟は、試した。最後の賭けに負けたのだ。己の考えうる限りの、非道を行ったつもりだった。メイルレイプの一つを実行し、彼のプライドを傷つけるか、逆上の可能性を願っていた。
 目論見通りであれば、そのほうが前言撤回の機会を与えられると考えていた。しかし、そうはならなかった。

 真島は、『優しい』と言った。けれど、悪人だ。
 利己的な手段だった。吟は、すべての責任を取るつもりの決意を、なけなしの理性の中で固めた。けれど、その下地には、自分の一存によって彼を殺してしまうかもしれないこと、望んだ道を選んだからとはいえ、幸福かどうか保証できないこと。それらすべてをひっくるめて、恐れていた。

 「――あぁ」

 無責任な情けが、浴室に押し入るという暴挙に繋がった。
 真島は、どこまで吟の心を汲んだかは知れない。――強い言葉と、強い眼差し、強い自信が、天の邪鬼で貧弱な心を支えてくれる。そうして、ようやく吟は心の底からの安堵を漏らした。――小さな喜び、幻滅、次に訪れたのは、いつの日か少女の頃に抱いた、初心だった。

 『好き』という原初の感情に、もう一度触れることになるとは思わなかった。
 だから、吟はもう一度決意を固める。最後まで筋を通す。それが、故郷となる日本での、本当に最後の仕事だった。




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