『獣と真島』



 肺を満たす土、草、木とこびりつく血のにおい。
 野生の痩せ犬が肉を欲しがり獰猛に吠える。今の涼は痩せ犬だ。否、涼ですらない。涼はこの世から消えた。涼には耐えきれなかった。
 事故であの島に漂流し、血を分かつ肉親の死と、おそろしい者たちに囲われて過ごし、その意識を吟に明け渡した事実を克服できなかった。


 「……ははっ」


 声を出してみようと、なんとなく発した音が笑い声になった。
 ここはどこで、何月何日で、自分は誰だろう。何者だろう。吟だろうか。きっと、ちがう。
 けれど、そいつの名前の響きは気に入っている。何者でもない、けれど意味を含まないただの音の名前。イン。そうだ、インで構わない。



 防空壕の奥深く、地下を拓いた底。地底の世界。血潮にまみれた殺戮の狂瀾。
 その世界からの抜け道を吟は知っていた。独房の壁をこじ開け、密かに徒党を組み、脱獄を試みた男たちがいた。インは折檻部屋で意識を取り戻すと起き上がった。そこに王汀州はいなかった。部屋の構造も、地底世界のことも知っていた。折檻部屋から『穴倉』に繋がる道を進んだ。


 かすかに、外の空気の甘いにおいがした。どこからともなく吹いてくるそれは隙間風だ。
 吟ではわからなかったそれが、インにはわかる。獣になった証拠だ。――もっとも彼は気づいていたところで自分自身を縛っていた。規律正しく、もうひとりの涼のために善性を貫いていた。今のインには、そんなしがらみはない。


 折檻部屋にあった火かき棒を持って、空いた独房の中に入ると、しみついた血の臭いがした。
 腹がぐう、と鳴った。胃が収縮し、切なく鳴った。栄養剤に繋がれたチューブを抜いた箇所から、血が滲んでいる。それを舌で舐めあげると、喩えようのないほど美味だった。

 「肉、肉が――食いたい」


 欲求を口にする。まだ人間の言葉を覚えていた。
 隙間風を嗅覚で探し当てる。独房の天井から数十センチ下のところだ。そこには別の土で塗り固められているが、入り込んだ風雨により密度が他のところよりも少ない。火かき棒を土の中に差し込んで引き抜くと、ボロリともろくも土が剥がれ落ちる。大人の男の拳が二つ分の穴があいていた。穴のむこうには草の緑が覗いている、外だった。

 「――ハハッ」

 哄笑が漏れる。
 ぐん、と力を込めて壁を抉る。女子供であれば潜り抜けられそうな穴に仕上がる。先に火かき棒を外に出し、助走をつけてその穴に身を捩じ込める。――そうして、インは『穴倉』から這い出た。
 草の上に寝転ぶと草は湿っていた。朝露をかき集めて吸うと甘い味がした。


 二人の兄弟が帰ってくる前に、そこから動かなければならない。インには行く宛も、生きる目的もない。おまけに、空腹に飢えている。空を見上げると、顔を出した朝陽が東の空を教えてくれる。その反対側へと向かう。太陽は眩しすぎて、目を合わせられなかった。







 熱い湯に入ると、獣になったインでも、人に生まれた幸福を知れた。


 山を越え谷を越え、人里知れぬ集落にたどり着いた。村落の入り口にある立て看板の地図には、『長野県』という文字があった。村の名前はこの人間の中の脳みそには、記録されていない。食べられそうな山菜や、川魚。時折見つける民家の前に出されているゴミを漁って食いつないだ。

 山間に降りれば、硫黄の香りがした。たどっていくと茂みに隠れた、熱された大きな水溜りがあった。そこから川へ繋がっている、天然の温泉あるいは秘湯と呼べる場所。人影はなくこれは好都合だと思い、インはそこで身を清めるべく湯に浸かった。
 秘湯を見つけてしまえば、そこから離れがたいものだった。季節は冬だったし、暖をとるにも他に方法を思い浮かばなかった。


 「お、お、……女ぁ……!?」

 それは真冬の昼間だった。岩陰で湯に浸かり、寝そべりながらいると、二つの人影が、秘湯の真上の森の脇にある細い道から見下ろしている。片割れは腰を抜かし尻餅をついているが、もう片方は好奇心に満ちた視線を――インの裸身に臆することなく向けている。
 双眼鏡を覗いてインの顔をみているようだった。口角を持ち上げると、男は声を興奮気味に張り上げた。 


 「きみ――こんなところで、何しているんだい」


 二人の人影は、ふもとにある秘湯まで降りてきて、湯から上がったインを取り囲んだ。
 「女で一人でいちゃまずいよ」だの「村の子じゃないよね?」だの、インを問い詰めるが男たちの視線は、常にその女の肉体にあった。獣に羞恥などない。痩せて薄い肉付きの体でも、その男たちの欲望を満たそうとしているのが面白可笑しく、インはしばらくそれを餌にすることにした。


 「ねえ、あなたたち。おなかすいたの」
 「お、おなか? そうかい、おなかすいたんだ。へへ、わかったわかった。――おい、飯連れてってやろうぜ」
 「あ、ああ……!」


 インは涼のマネをする。庇護欲をそそる女らしい言葉遣い、穢れを知らぬ乙女。使えるものは、なんでも使ってみせなくては。
 恥じらうように、身を隠し「お洋服も欲しいの」とおねだりをする。男たちは奇妙な眼差しをしたが、大きく頷いた。


 「ああ、お前その上着貸してやれ――!」
 「おう――!」


 男たちは上着を与え、近くの宿場町までインを連れていった。ブティックでワンピースとコート、ブーツを買ってもらい、適当な定食屋で久方ぶりのまともな食事にありついた。二人の男の良識が欠けていることが幸いだった。警察に届け出ることをしないのは、この男たちの好色な笑みを浮かべていることからも、インの体による報酬への期待があった。

 「旅館をとろうと思うんだけど、どう?」
 「泊まるの? ふふ。たのしみ。――あ、でも……あそこの温泉が好きなの。眠る前にもう一度入りにいっちゃダメ?」

 彼らは「いいよ」といってまた頷いた。
 インは腹の底で愉快に笑う。欲望を前に哀れな愚かな男たち。死体を借りて喋っているだけだなんて、誰にもわからない。――それまで楽しませてもらおうと考えた。涼は宗教に殉じて一度も男の味を知ろうとしなかったし、吟はその精神が涼の副産物でましてや自己認識は男だった。おまけに子供だったので肉欲に興味がなかった。

 聖処女がこのような獣性に落ちぶれたとて、誰も悲しまない。





 「こ、の―――下手くそ――!」

 下腹部をただ前後するだけの芋虫の持ち主を、蹴り上げた。インの一つの誤算は、内臓の下をこのように痛めつけるものが存在することだった。色気のない、乱暴な叫びに男たちは狼狽えてその場に尻をつけた。旅館でその雰囲気になったが、インは外湯に行きたいとおねだりをして、二人をまた出会った場所に引きずり込んだのだ。


 「下手くそ、下手くそ。あー、あー! 下手くそ! よがってんじゃねえぞ、てめえ。無能な芋虫め――!」


 男たちは情けなく怯えて悲鳴をあげる。インにしてみれば、男以上の快感を得られる肉体で、どれほど素晴らしい世界が望めるか、という微かな期待があったのだ。それをあえなく潰されて怒り心頭である。王汀州が言っていたことは本当だった。色欲は何も満たさない。その男の言う通りなのが、さらに腹立たしい気分にさせた。

 二人の男は罵られても逃げ出さずに、依然とその興奮を芋虫に溜め込んでいる。頬を紅潮させ、女の裸身に相変わらず釘付けになっている。相当な好きものである。快楽にすらありつけず、インは当初の目的通りそれを決行することにした。役立たずな芋虫を芋虫に変えるために。

 岩場の陰に放っておいた火かき棒を引き抜くと、一人の男の頭を吹き飛ばす。血が辺り一面に飛び散って足元にある不揃いな石をべっとりと濡らす。


 「ひ、ひいい――!!」
 「逃げんなよ!」
 
 一人の男が即死して、その隣りにいた男が催眠術が解けたかのようにようやく現実に立ち返った。芋虫を萎ませ、みっともなく悲鳴をあげ、尻を向けて退散する背中に鋭く突き立てる。堪え性のない男たちである。もう少し楽しませてくれるものと思っていたが、その一撃でその男も死んだ。


 「あーあ。死んじゃった。……つまんないな」

 突き立てた火かき棒を抜く。出来上がった穴を覗くと、ちょうど肋骨の隙間から心臓を押しつぶしていたようだった。血が逆流し穴から噴水のように血が吹き上がる。その様は面白く退屈を唯一救う画だった。王泰然は殺人狂だが、その気持ちは理解できそうにない。死んでしまったら、面白くなくなるのだ。

 涼が必死に守った葛藤を破り捨てて降り立った新境地。そこでわかったのは、案外――その才能があることだった。


 「もったいねえの。ホントは一番似合ってるのに。――そうじゃなきゃ、俺が生まれるわけないもんなぁ。……ふふ」


 きっとインは涼や吟が受けてきた強烈なストレスから出来上がった、苦痛を象徴する人格だ。二人の男に教えられた暴力を学び、それを再現する才能を持った三番目の存在。二人がひた隠しに否定し続けてきた本質。ときには宗教の戒律で、ときには自身の良心に従って。


 「穴倉に戻るべき? でも、せっかく外に出たし……飯も美味いし」

 独り言をつぶやく。
 今の姿をみたら、王汀州は喜んでくれるだろう。きっと、彼もこんな退屈を味わって生きている。その苦しみを理解できるようになった。それを報告しにいく楽しみはあとにして、今はもう少し娑婆の世界を楽しんでみたい。

 インは二匹の芋虫を引きずって、温泉の先にある川へ放り込む。そのうちにぶくぶくに膨らんだ腐乱死体が見つかって大騒ぎになるだろう。それまでは、もう少しこの心地の良い湯に浸かっていよう。





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