夏休みが明けて、陸上部の活動が本格的に始まった。
瞬間的なエネルギーとスピードを生かした短距離走をメインに、興味のある球技種目に挑戦してみることにした。
夏休みの間に慣らし、として他の子の見学や、運動場での試走もさせてもらった。
大会で見学した他校の雰囲気に比べればずっと緩かったが、それはそれで初心者にも馴染みやすい部活だった。
楽しんで運動をする。そのせいあってか、陸上に関係のない球技種目で遊んでいる子もいた。なかには運動嫌いの子が、遊び目当てで入部してくることもあるそうだ。
文化系クラブが充実した学校の中ではレアな活動だ。
二学期が始まって、クラス内のトレンドは、涼がその陸上部に本格入部したものへと移り変わっていた。
「えーっ。き、切っちゃったのお?!」
「ごきげんよう、ミヨコちゃん」
朝の挨拶も忘れるほど、開口一番に飛び出したのは、ミヨコの驚愕の悲鳴だった。
教室の後ろの入り口で目を丸くして固まっている、かと思いきや、素早く駆け寄ってきて後ろやら横やら前やらと、舐めるように眺め回している。
「に、似合わないかなぁ」と、狼狽える涼を一度まじまじと見つめて、またぐるぐると見回すので次第に羞恥が掻き立てられていくのも無理はない。
「そんなことないよお。可愛いけどお、綺麗に長く伸ばすのに時間だってお手入れだってしなくちゃだし……もったいないなぁってちょっとだけ」
「髪の毛まとめてるのも良いんだけど、走るたびにパタパタするのが気になっちゃって……ごめんね」
ミヨコは「女の子の髪の毛は顔より大事だもの」と持論を言い切った。
そして、ミヨコはその通りに、彼女らしく尊重する姿勢を見せた。
「謝らないで。涼ちゃんの自由だから、いいのよ」
「……ありがとう」
涼はミヨコのそういう一面を気に入っていた。
髪の毛を切ったか切っていないかだけで、朝の話題は埋まってしまう。友達へのお披露目を終えて一息をつこうとした先で、また悲鳴が教室の後ろから伸びやかに響いた。
「えーっ、やだあ、荒川さん髪切ったのお?!」
クラスメイトの女子だ。
ほとんど女子校というだけあって、例に漏れず、主に仲のいい者同士がくっついて小さなグループがいくつかできている。その子はその小さなグループのなかのリーダーポジションにいる、比較的噂好きな性格をしていたので、スズメちゃんと揶揄されていたりする。
「ミヨコちゃんみたいな驚き方してる……」
「そりゃあびっくりよ。……やっぱり夏休み明けってこう、大人になっちゃうものなのかしら……ふうっ」
「それ、なにかのモノマネ?」
「『もう頰づえはつかない』ね」
世間の流行に疎い涼は、時折ミヨコが誰かの真似を演じていることを知っているが、毎回それがわからない。もっとも、ミヨコはそれをからかったり、貶したりするわけでもなく、ごく自然に落とし所を見つけるので助かっている。
「有名人なのよ? 涼ちゃんは無自覚かもしれないけど」
「そうかな。球技大会のドッジボールで、中に最後まで残っちゃってたことくらいじゃない……?」
体育大会の代替として、レクリエーション目的で行われる球技大会がある。
公平に学年対抗ではなく、組ごとに初等科の最上学年から中等部までが参加する、交流会も兼ねたイベントだ。難易度を下げ、行われるのはドッジボールかハンドボールか、ポートボールの三種類のどれかを毎年ローテーションしている。
昨年、最上学年だった涼は、その球技大会のドッジボールの最終ラウンドに全滅寸前の中、一人コートの中をウロウロし続けるという恥辱を味わった。溢れる歓声、延長を促すホイッスル。躍起になりボールを当てようと本気を出す上級生たちに取り囲まれ、四限目終了の本鈴が規則正しく鳴ったことで、ゲームは休止――停戦の終止符が打たれた。
涼が最後まで粘ったことで、チームの勝数の首位が守られた。
とくにご褒美もなんにもないレクリエーションだが、ただの遊びではないことを思い知った。
ミヨコの評価点は別にあるのか、手を胸にあてて、しみじみと感慨深く頷いている。
「あの試合は最高に熱かったわ。時間延長で大会最後の、……ありがたくてながーいスピーチを、シスターに語らせなかったんだから。HRの時間も短縮できたし、おかげで宿題の配布も、一部のクラスで忘れたところも出たっていうから……」
「……そんなことになってたんだ」
土曜日の半日を使ったレクリエーションの後日談。
ミヨコは学級を超え交流が多彩であるため、かなり物知りである。
涼は知り得なかった真相よりも、ミヨコに感心のため息をついた。
校舎から四〇〇メートルほど離れた先に運動場がある。そこから一番近いスクールバス停の手前には小さな川が流れていて、次のバスが来るまで暇つぶしに川にやってくる鳥や、川面の下を泳ぐ小魚の影を観察するのが最近の日課になっていた。
陸上部の練習メニューを終えて、帰宅するためのバスを待っていた矢先の出来事だった。
「こんにちはあ」
柔らかな言葉の響きが耳朶を打つ。それが涼にもたらされたものだと知り、一度、二度と目を凝らした。
「……あっ! この間の……?」
「スーパーで会うたねえ」
この前、といっても夏休み前の直前だから、それから一ヶ月は経っている。
涼に声をかけたのは、スーパーで買い物をしていた少女だった。そして、今日もその誰が見ても愛らしいといえる少女は、重たそうなビニール袋を二つ両手に吊っていた。
「今日もお買い物? 一人で……?」
「うん。っていうても、お醤油がちょうど切れて、一本。ほんで、あとはついでやから、他にも買っとこ思て」
「重くない?」
年頃は同じほど。涼と違うのは少女の方が私服らしい私服を着ているところだ。
涼は、部活のあとということもあって、スクールバッグを肩に掛け、体操服の上にジャージの上着をひっかけているだけだった。少女は一歩一歩と足を進めるが、中に入っている醤油瓶の重さに、重心が傾きそうになるのを不安に感じた。
「うん全然。……えっと、うち靖子いいます。冴島靖子」
「やすこ、ちゃんね。……私は、涼よ。荒川涼」
「涼ちゃん、よろしく。……ふふっ。ごめんなさい、髪の毛切ってはって、前より短かなってたから……もしかしてっておもて。合っててよかったわぁ」
「あぁ……うん、えへへ。そう、切ったの。声かけてくれてありがとう」
自身を靖子、と名乗った少女は屈託のないやさしい笑みを見せた。
その柔らかな耳慣れない言葉の響きは、今も心の奥底に跡を残す青年を想起させる。
彼は、それから元気にしているだろうか。涼は日々考えていた。彼の住む場所も、行こうと思えば行けるし、会おうと思えばきっと会える。行動に移せばいいだろうが、理由もなくいきなり訪ねる勇気がなかった。
たとえば、塾を行くと言って会いに行くことも考えた。しかしいずれ明らかになるだろう。信用を落としては、厳しい外出制限を敷かれてしまうだろうし、『誘拐犯』という濡れ衣や疑いに、今度こそ巻き込んでしまう予感があったからだ。
「おう、靖子ちゃんやないか」
「あ」
橋の上。
通行人に混じって、涼の体の反対側からぬっと現れた、大きな気配に全神経が集中した。
「真島さん! こんばんはぁ。……まだこんにちはかな。これからお兄ちゃんとこ行くん?」
「ヒヒ。その兄ちゃんから、お迎え行ってくれ頼まれてん。なあ―――あ?」
まさか。
そんなはずはない、とバクバクと鼓動が狂った鐘のように、不規則な大小の音を打った。
しかし、その特徴的な笑い方も、言葉の訛り方も、香りや気配までも、まるっきり同じ人がいるものだろうか。
にこやかな笑みを崩さずに靖子は、既知のその相手を見上げている。視線は導かれるように、その男を見た。
「………ど、どうも」
「マジか」
再会にしてはいささか、あっさりとした自分自身の声に涼は驚いた。
真島吾朗。――七月七日、『吾朗くん』と呼び、一人歓喜した青年が目の前にいる。
「え? え? ふたり、は……知り合いかなんか……?!」
靖子はキョトンとした顔の次に、二人以上の驚きと声を上げた。
その男、真島も動揺している様子で、言葉にならない音を発した。そして、「ほら、あれ、言うたやんか。家出したっちゅうヤツ」と、靖子の記憶の符号を訴えかけた。
事実とはいえ、身も蓋もない謂われ方をしているのだと涼は思った。
見事、符号した様子の靖子は、真島と涼の顔を交互に見比べてそれから、袋を持ったまま口に手をあてた。
「え? 涼ちゃん家出したん。すごいアグレッシブやねえ!」
「靖子ちゃん、褒めるトコちゃうで。そらもう……エラい大変やったんやで?」
真島は靖子から醤油瓶の入った袋を受け取ると、そっと靖子の傍に寄った。
冗談めいて意地悪そうに笑っているが、『悪いこと』を明らかにし、蒸し返されている涼には、いささか居心地が悪い。靖子は顔色を曇らせることなく、涼の肩を持とうと仲裁に入った。
「ま、まあまあ。なんか詳しいことはわからへんけど、涼ちゃんかて嫌なことの一つや二つはあって、ちゃんと謝ったんやったら……」
「はあ〜。靖子ちゃんは優しいのう。めーっちゃエエ子やな。お兄ちゃんに言うとく」
「は、恥ずかしいわあ」
『お兄ちゃん』というワードに、その前スーパーで見かけた靖子の兄を思い浮かべた。体格がよく喧嘩に強そうで、貫禄さえも持ち合わせた大人っぽい印象を持った。もちろん、真島にも妹がいるのかもしれない、という想像があったが、もしそうだとするならあの部屋で一人暮らしをしているのもおかしな話だ。
漠然と靖子の兄との友人、と考えるのが普通だろうと涼は納得した。
「……あっちには行かなくてようなったか」
「え? ……うん」
唐突に。
真島がまた訛りと標準語の入り混じった、不思議なニュアンスで涼に呼びかけた。『あっち』とは、『イギリス』のことだ。
結局、父は海外赴任の時期を遅めることになった。また赴任するにしても、単身となるだろう。八月の半ばに決まったことだった。
今までの揶揄も、意地の悪さも抜けた真剣な声から、真島なりの気遣いだとわかった。
「よかったな」
真島はそう言って、切れ長の目を柔らかく細めた。
飾らない自然な微笑みに、涼は小さな違和感と、胸元がじんわりと熱をもった。
スクールバスが橋の上を横切ったので、涼はハッとしてバスを追いかけた。
「あ、ごめんね……行かなきゃ!」
「ほんなら涼ちゃん、またねえ」
靖子の別れの挨拶に、涼は手を振った。