昼下がり。新宿、神室町。
 獣は吟の記憶を参照して、真島の所属する組に近い場所に訪れた。
 東城会が根城にしている地域一帯なので、情報の精度では玉石混交かもしれないが、なにか掴めるだろう。

 その目論見は当たりで、声をかけて数人目で真島の情報は得られた。つい二ヶ月前にこの世界に戻ってきたばかりで、今日は出払っているということだった。具体的には、組同士が懇意にしているテキ屋の応援に呼ばれて、一日そこで用心棒代わりをしているらしい。
 
 情報提供の代償に「ねえ、お姉ちゃんカワイイね。いい感じの仕事あるけど、どう?」という風俗嬢のスカウトに遭った。「お兄さんもどうです? 男性向けの男娼募集しているんです」と言うと青ざめた顔になった。


 カレンダーの暦は1989年2月。土曜日だが祝日なため街中は賑やかである。
 神室町から少し離れたエリアの神社では祭りがあり、そこの縁日に出ている露店の手伝い行っているという。


 「あーあー。楽しみだなぁ……!」

 真島は生きていた。生きて、穴倉を出てヤクザに戻った。それだけで十分骨のある男だ。
 体中をめぐる血液が興奮に沸き立つような気分になる。境内に立ち並ぶいくつかの露店には人だかりができている。お囃子に人々の熱気、子供たちのはしゃぎ声。そして、美味しそうな食べ物の匂い。

 たこ焼き、イカ焼き、りんご飴、フランクフルトにポテト、焼き鳥。
 カラフルな露店の色彩、風船の装飾、回る風車。――何度も視線を順を追って彷徨わせる。記憶の奥底にいる男の気配に照合する。


 (――いない?)

 用心棒ということはケツモチだ。だからトラブルを起こさなければ出てこないのか。
 つまり、露店の中で何か作っているということはない。敷地内で借りている詰め所にいるか、見廻り役をしているだろう。

 境内をぐるぐると周回してみるが、それらしい姿は見当たらない。まさか聞き出した情報が嘘ではないと思いたい。あるいは、記憶の印象とは違っているかもしれない。考え込んでいると、買ったばかりの黒いコートの裾を引っ張られた違和感に振り返った。

 「ふええん、ママぁぁ!」
 「……は?」

 頭身の低い少年が鼻水を垂らして泣いている。
 意外な出来事にインはどうすればいいのか戸惑った。動けないで居るともう一度少年は「ママぁぁ!」と泣き叫んだ。

 「いや、ママじゃないし……ってちょ、近寄んな! 鼻水汚えだろ! はいはい、ティッシュね! ティッシュ!」

 街なかのティッシュ配りからもらったポケットティッシュを取り出すと、身を屈めてやる。

 「よし、いいぞチンしろチン」

 ぎゃんぎゃん喚く子供に鼻水をかませて、インは複雑な気持ちになった。何をしに来たと思っているのか。真島に会いにきたら、どうやら母親と逸れた子供に引っかかっている。

 「なぁに、ボク迷子なの? あー、うんうんママね、ママ。ママのお名前わかるかなー? ママ? いやぁ、それじゃあわかんないなぁ……」

 頭の片隅にいる涼が『集会所にいって』と言う。
 どうしてかこういう時だけちゃんと喋る。自分も子供なくせに、子供が好きなところがある。
 その場にいたところで子供の癇癪がひどくなるだけだ。インは少年の小さな手を繋ぐと、涼の助言通りにその場所を目指す。

 「うー、あー、ふーせん!」
 「……風船? なに、風船ほしいの。……金、そんなに使いたくないんだけど」
 「あーっ! ふうせん!!」
 「叫ぶなよぉ」

 どうしても欲しいというので、露店にある風船を買ってやった。その露店にはとび職でもやってそうな一見厳しいおじさんがいて、「それヘリウム入ってるから、飛んでいかないようにね」と優しい注意を受けた。ついでにそこで尋ねてみることにした。

 「あのう、今日の露店に真島さんという方はいらっしゃいますか……?」
 「真島? ――あぁ、ああ……いるっちゃ、いるけど今は休憩時間じゃないかな。――さっき行ったばかりだから、詰め所……集会所にいると思うよ。なに? ガールフレンドかい?」
 「あー……べつにそんな事は無いんですけど」

 『知り合い未満の、連続殺人鬼です』という自己紹介文が脳裏をよぎる。
 さっきまで居たということは、見逃していたということになる。記憶の不一致が起きていた。

 何はさておき、この迷子も集会所へ連れて行くのだから行き先は同じだ。ゆくゆく会えると思って、気を取り直す。

 「あー! りんごーっ!」
 「今度はなんだよ」
 「りんご!」
 「りんご飴……? うーん、食べ切れる? 屋台の食べ物はそこそこ高いんだよなぁ」

 そうブツブツ言えば不機嫌を読み取る力は高いようで、またぐずぐずしだす少年に頭を抱えた。
 頭の中にいるやつのお守りもしなくてはいけないのに、と思っていると微かに涼が笑った。


 (お前さ、結構元気になってきたじゃん。出てこいよ、得意だろこういうの。――真島にももうちょっとで会え、――おい!)

 真島の名前を出した途端すぐに消える。岩戸に隠れる天照大神みたいだった。

 足元にいる少年は「りんごぉ!」と叫んだ。溜息をつくと、信州産の蜜入りりんごを使っているだとかで五百円がりんご飴にすり替わった。
 ご満悦な様子でぺろぺろと舐めしゃぶっているのをみて、まあ構わないかと思う。涼の言う通り、盗んだ金だから良いことに使われるのも悪くない。それに、りんご飴を舐めていれば気が紛れるだろう。

 集会所へ行く道は舗装されておらず、立派な桜の木の根元が盛り上がった道になっていた。

 「なあ、足元気をつけろよ」
 「んー」
 「あだっ!」

 子供の心配をした端から根本に足を取られる。幹に手をつくと、少年と繋いでいた手が離れる。とんだ間抜けを披露してしまった。振り返ってみると少年の視線はインではなく、上空へ辿っていく。

 「ん? ああーっ ちょ、ちょっと風船!」
 「ふーせんー!」

 ヘリウムガスの入った風船はふわっと浮かび上がり、今は葉のついていない桜の枝に絡まり挟まった。青空のむこうに飛んでいかないだけ良かったが、跳んでも跳ねても届かない位置にある。

 「……これ、脚立がいるよなぁ」
 「なんや、引っかかったんか?」
 「ええ、そうなんです。……いやあ、この高さ――――は?」

 目の前に脚立、――ではなく祭のハッピを羽織った長身で隻眼の男が、引っかかった風船を下からしげしげと眺めている。
 インは何度も目を瞬かせる。眉間の間をきゅっと摘んで目をぎゅっと閉じて、もう一度視界を開く。細身だが筋肉がついていて、面立ちは俳優のようで、なぜか奇抜な髪型をしているが嫌に似合っている男。――どこからどう見ても、探し求めている『真島吾朗』ではないか。

 「……起きろよ」
 「あ?」
 「あ、いやあの……ふ、風船とっていただけませんか……?」

 涼への呼びかけが思わず癖で口に出てきた。
 なんとか誤魔化すと、どう見ても真島吾朗といえる男は笑って「ええで。ここで待っとき」といって集会所の方へ駆けていった。

 (起きろよ、おい、おいってば。真島いたじゃん。喜べよ、涼ってば。聞いてる? 真島吾朗の本物だぜ?)

 『うるさい』と涼は言う。きっとこの感じは、憧れのスター選手に会った子供みたいに照れている。
 しばらくそこで少年と風船を見上げていると、脚立を抱えて真島もどき……。真島が戻ってきた。

 「待たせたのう。風船はまだ、あるな……そこ退いてや。倒れてきたら怪我するで」
 「は、はい。……そっちいこ」

 りんご飴を舐める少年の手を引いて、インは少し離れたところへ行く。
 脚立をしっかり立てて、真島は猿のように身軽に登っていく。長い腕がすらりと伸びて、あっという間に風船の紐を手に収めたと思ったがそよ風が吹いて、隣の桜の大木の枝へ移った。

 「あー、ああ……」
 「ふーせん……」
 
 落胆の声をあげたが、真島は気に留めることなく脚立をひょいと降りる。
 脚立を隣に移すが、ぴたりと動きが止まった。そして何か考えて、インの方を向いた。

 「姉ちゃん、こっち来てや」
 「なんでしょう」
 「ここ根っこが太いやろ。足場が悪いしこれは立てられへん。倒れたら桜の木傷めてまうしな」

 つまり、風船を諦めてくれということだろうか。
 後ろにいる少年を振り返れば、その視線はやはりその上にある風船にあった。
 風船までの高さは真島の身長ともうひとり分くらいある。脚立が無理であるなら人海戦術だ。といってもこの場には二人しかいない。

 「あの、背負ってもらえませんか」
 「背負うて、俺が姉ちゃんを? 足りるかいのぅ」
 「ええ……じゃあ、肩車とか」

 それならなんとか行けそうだ。
 隣の方に持っていた荷物と脱いだコートをまとめて置くと、真島がなんとも気まずそうな顔をした。


 「なあ、姉ちゃん。ほんま他意はないんやけど――そのカッコは止めといたほうがええで」
 「あ――! いや、これはちょっと……そういう意味じゃない、ことも、いや……そういう――ふぁ、ファッションです」

 少年のことで軽く自分の目的を忘れていた。真島のために用意してきた勝負衣装に効果が見られるのは作戦成功といえるのだが、今はそんな場合ではない。インが珍しく真っ当に善行を積もうとしている。それこそ他意はない。
 真島はだいぶ気を遣って別の提案をした。
 
 「他のヤツ呼んで来るさかい――」
 「だっ、大丈夫です! その子のためにがんばります! ――じ、時間かかっちゃうと、泣いちゃうのでその子」

 なにを必死になってるんだろう。そんな冷静な自分自身への指摘に、『そりゃあ色仕掛けしなきゃなあ?』と獣の意識が思考を切り替える。
 今まで通り、性を使って誘惑するだけだ。にもかかわらず、インは動揺していることに気づいていた。これは涼の意識とは異なる。もしくは涼の意識の高さが移ったのかもしれない。

 「ほんなら――肩乗っけたる。……っしゃ、乗れや」
 「よろしくお願いします……!」

 真島は身をだいぶ屈める。両肩に尻をつけ、太ももで顔の左右を挟み込むと「いくで」という掛け声に、その音が肌を伝う感触に妙な気持ちになった。ふわっと足が浮いて、目線が高くなる。

 「頭掴まっときや」
 「は、はい」
 「――悪いんやけど、脚触ってもええ……? ヘンな意味とちゃうで、落ちるさかい」
 「どっ、どうぞ」

 五人もの男たちを殺しておいて、今更なにを緊張している?
 
 真島の頭部、髪を掴むとコシがあって艷やかだと思った。丈の短いゆえにむき出しになった太ももに厚い掌と、その割に細めの節くれだった指が触れる。温度は少し低い。真島が少し首を傾けて、「取れそうか」と尋ねる。その僅かな動きすら意識してしまう事に、インは動揺していた。

 「は、はい……もうちょっと、右の方に寄っていただけますか?」
 「――おう」

 指示通りに真島は右へいく。
 背筋を伸ばしてインは右手を振り上げる。風船の紐の垂れた箇所が指先をかすめた。もう少しだった。
 太ももに力を入れ、勢いをつけると下にいる真島が身じろぎする。紐の尻尾を爪先で掴み取ると、「あ!」と歓喜がほとばしる。

 「あは! ――取れた!」
 「ひひ、良かったのう」

 風船を手繰り寄せると、足の間にいる真島が笑った。
 ゆっくりと世界が下がる。肩から脚を抜いて地面に降り立つと、少年が駆け寄ってきた。

 「はい、どーぞ」
 「やったー!」
 「その子、自分の子?」

 風船を少年の手に持たせると、真島が隣で背を伸ばしながら問いかけた。
 「この子は、迷子なんですけど」と返事すると、インが集会所へ向かっている理由も察したようだった。


 「迷子かいな。どうりで……いや、若いママやと思ったわ」
 「あー、あはは。ただの通りすがりです」
 「わかった。集会所いこか。……その子、名前なんていうん……?」
 「それが全然わからなくて」
 「まあ、待っとったらエエやろ。親も探しとるはずや。あとで屋台戻るさかい、そん時に聞いてみるわ」


 土の上の道なき道を少年の手を引きながら、すぐそこにある集会所に向かって歩く。
 普段は集会所だが、今日は本部という役割を果たす詰め所に来ると、真島は受付で座っている老人に声をかけた。迷子の少年は本部で預かり、青年団に声をかけて、見回りついでに親を探してくれる事になった。

 「よかったね、ボク」
 「――姉ちゃんも、おおきに。せっかく遊びに来たんや、楽しんでいってや」

 脚立を置きにいって戻ってきた真島がインに声をかけた。
 偶然とはいえ真島と会うことには成功した。これからどうしたものか――と考えていると腹の虫が間抜けな音をたてた。

 「……いひひ! ……姉ちゃん暇やったらここで待っとき。美味い焼き鳥食わせたるわ」

 真島はそういって、集会所を出ていった。
 歯牙にかける予定が狂わされていく。獣は『まずは、腹ごしらえだ』といった。




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