深夜四時。


 疲れ切って沈み込んだ意識が、煙草のにおいに、誰かの話し声の気配に浮上する。
 ベッドの端に寄って電話のカールコードくるくるともて遊びながら、眠りを妨げないように低く硬い声でボソボソと小さく喋っている。視線を彷徨わせて時計を見つけると、時刻は午前四時。六時間以上、情交に耽っていたのだ。備品のコンドームの数は二個、手持ちにいくらか持っていたのだとしても、記憶にあるフィニッシュの回数の方が多い。

 五人の男とは、一度すらちゃんと終えられなかったのに、その回数を一人で取りかえしてしまった。とんでもない男だ。絶倫は絶倫でも、精力絶倫とまでくるとは怒りを通り越して尊敬の念を抱く。――痴女に絶倫男、お似合いだよ。そう心のなかでうそぶいて、くすり、と笑った。

 すると、女の起床の気配を悟ったように、二言三言とつけて真島は電話を終わらせた。

 「水飲むか?」
 「……うん」

 くたくたで、気怠げに返事をした。
 ベッドがまた軋んだ。体重移動で男との距離が近くなるのがわかる。声は優しくて、もうそれが偽りなく男の女に対する素なのだとわかる。言い換えるなら、性欲と上手く付き合っている男だ。性欲を持たない男を求めるのは酷である。そんなのはフィクションの世界だけだ。――獣はもう空っぽの頭に向かって吹聴する。

 なあ、涼。――いっぱい、抱いてもらえたじゃんか。
 惜しいことしたなぁ。めちゃくちゃ気持ちよかったのに。――首を噛んだらいい顔したんだぜ?


 真島とは部屋の中のいたる場所で、激しく求めあった。試せるだけ体を組み合わせて、快楽を貪りあった。そんなことは、涼であればできなかっただろうと獣は思う。だからこうして誇らしげに胸の内側で語り聴かせている。顔を赤らめ、メソメソとする少女の姿を思い出して。


 医学書や座学とか、どうでもいいくらい。真島はね、体の使い方を体得してるんだからさ、上手いわけだよ。知ってるだろ? 人間は中身の臓器は綺麗な標本と同じじゃないんだ。だから位置も形も違うし、穴の入り口だって違う。日本の保健体育の教科書には書いてないかもね? それを探るのが上手いんだよ。――ああ、憎いなあ。 

 もっと、長く生きられたら俺、この男を情夫にしたのに。
 でもさ、よく考えてみて。この体はお前のものだったんだから。才能、あるんじゃない――?

 
 
 ペットボトルの水を飲むと体中に染み渡っていった。
 あっという間に一本を飲み切ると、真島は時計の針を読んで言った。

 「涼ちゃんはお家近いん?」
 「お家? ん、まぁ――」

 お家はないが、そろそろ穴倉へ帰る頃合いだろう。
 そう尋ねるということは、日が昇るまえにホテルから出なくてはいけないということだった。ヤクザも忙しいんだな、なんて獣は思う。鉄道の始発までには時間がまだ少し先になる。

 「このあと、ちっと人と会わなアカン約束しててな」
 「朝早くに? それって、急いだほうがいい、ですよね」
 「……ほんまに、すまん。……せや、いま連絡先書くさかい」

 真島はベッドから立ち上がると、メモ帳の紙をちぎってペンを走らせる。
 その背中を見つめて、獣は視線を下げる。

 (次は、もうない)

 今日中に穴倉へ帰ったら、たぶんそこで事切れる。それくらいの体力しか無い。
 真島からメモを受け取る。字が綺麗だった。そこには住所と電話番号が書かれていて、きっと、真島が住んでいるところだ。
 「ありがとう」と涼の口を借りて、獣は声を振り絞った。

 「駅んとこまで送るわ」

 都会から灯りが消えることはない。駅構内は明るいので、それまでの道を真島が付き添ってくれることになった。

 最後にもう一度シャワーを浴びて、ホテルを出た。
 ラブホテルの中で人を殺さなかったのは、はじめてだ。ぬいぐるみの入った袋を抱えて、右手を男の左手と結ぶ。今この瞬間だけは、恋人同士に見えるだろう。そう思いたかった。そう思うことで、涼を弔ってやりたかった。




 ラブホテル街の入り組んだ道を通って、大通りを出ようとした時、一台の黒いセンチュリーに目が留まった。
 それは道を阻むように停車していて、まるで二人が出てくるのを待っていたかのようだった。助手席のドアを開け、中から筋肉だるまの巨漢が出てくる。隣を歩いていた真島は驚いて、「親父!」と叫んだ。駆け出した男と手が離れた。


 「吟、探しましたよ」
 
 獣の背後から冷たく滑らかな声がよく通った。
 振り返るとコンパスのように尖った細長い長身の男が、暗い夜の闇の中、通路を彩る看板と、その明滅するネオンの光を受けて立っている。

 「テイシュウ、ひさしぶり。出迎えに来てくれるなんて、やさしいね」

 言わずもがな、ただの出迎えではない。
 最終通告、および処刑が決定したことを報せに来たのだろう。まさしく、死神の来訪だった。
 王汀州はニヒルに嘲笑う。

 「再会を喜びたいところですが、少々やりすぎです。――老大が、王吟を始末せよ、と」

 掟を破りすぎたみたいだ。
 背後で身動ぎする気配があった。それは真島の動揺だった。
 こんなネタバラシは嫌だったなあ、と獣は思う。つまり、真島は最初から『王吟』であることを知らなかったようだった。名乗った『荒川 涼』を信じていた。王汀州との距離は数メートル。近寄ってくることもせずに、そこに立ったままだ。

 「あはは。それなんのジョーク? 死体処理せずに痕跡残したから? 穴倉を勝手に出たから?」
 「すべて正解です。――その様子では、克服したのですね。いい、面構えだ。――――さあ、取れ」

 礼装のチャンパオ。長い裾の黒い漢服の中から黒い銃を抜き出すと、それをアスファルトの上に置いて獣のほうへ、滑らかに流した。


 「せめてもの、恩情だ。一発だけ入っている」
 「ふーん? はは、そう。それで……真島にこそこそ電話に出させて、居場所を探ってたんだ」

 嶋野と相変わらず懇意にしている様子だ。それで捜索を依頼して真島を使ったというあたりだ。嶋野なら諸手を挙げて協力してくれる。
 獣は足元にある銃を手に取った。

 「――涼」

 そう呼ぶのは、真島だけだ。
 けれど、もう『涼』はいない。化けの皮を剥がされて『涼』を演じるつもりはなかった。

 「真島。――お前は、最初から俺が『王吟』ってわかってたの?」
 「その男は囮だ。よかったな、感動の再会だ。――いいから、さっさと撃って死ね」

 本人ではなく、王汀州が説明をする。ほんとうにただ利用されただけのようだった。
 日本には大量の同胞といえる工作員が一般人に紛れ込んで潜伏している。密かに情報を知り、追跡していることくらい想像に容易い。スパイ活動を辞めてしまった日本とは大違いで、その数も派閥も多岐にわたる。それでも手出しをしないのは黙認である。判断をし決定を下すのは長だけだ。

 ――王汀州は、吟が死ぬところが見たいのだろう。


 「あっそ。ほんとに趣味悪いじゃん、テイシュウ。そういうの変態っていうんだよ。ヘンタイ」
 
 死ぬことに特別な緊張感はない。
 口に入れるか、側頭部か。どうしようか。
 安全装置を外す。自動拳銃なので弾はもう装填されている。あとは引き金を引くだけだった。

 口元に持っていくが、大きく口を開けないといけないのが億劫だ。真島とのセックスで顎が疲れてしまった。では、頭か、心臓か。確実に撃てば死ぬ位置を銃口をあてて探る。どこもかしこも、真島に触れられた思い出深い場所になった。


 目だけを動かして、真島の方をみて、傍らに停車する車のドアを開けて立つ嶋野太の存在を視界に入れた。
 その好色な笑みが、気に食わない。

 「あ? うぜえんだよ、おっさん」

 銃声が迸る。巨体の姿勢が崩れる。咄嗟に真島は嶋野を支えた。「親父!」と叫んで。嶋野はよろめいたが右手を胸元に差し込むと、すかさず、その内側に隠し持っていた銃を抜き出した。

 「やかましい――!!」

 大男が吠える。
 しかしそれを許さず、獣は俊足で跳び、巨漢の脇を蹴り上げる。

 その拍子に銃を取り上げると、構える。王汀州は大きい舌打ちをした。銃を取り出そうとする隙間を狙って、嶋野の隣にあった車に飛び込んだ。キーは刺さっていた。もとより、刺さっていることを見越して、こんなことをした。

 銃声が鳴る。車のフロントドアガラスに亀裂が生じ、貫通した銃弾が助手席シートに穴を空けた。
 エンジンをかけ、レバーを引き発車する。とりあえず踏むとガコンと、後ろへいく。そのままハンドルを切りながら、通路へ左折すれば、とんでもないブレーキ音が鳴り響く。真島は嶋野を引きずって退いた。アクセルを踏みつけると、王汀州を轢かんとする。しかし、間一髪で避けて尻をついた。

 その驚いた顔がおもしろくて獣はケタケタと嗤った。

 「――ちょっとお!」

 そのとき、後部座席のドアが開いた音がした。
 真島が車に飛びついていたのだ。あれだけ勢いよく走り出した車に追いついた。――その事実に獣はまた笑った。
 後ろから前へひょいと移動してきて助手席に座るとシートベルトをした。

 「なに? なんでついてくるのさ。ははは、殺したくなった? お前の親分撃ったんだよ?」
 「前見ろや。親父はアレでは死なへん。――――どこ行くんや、涼」
 「どこかへ! ――――まだ、その名前で呼んでくれるんだ」

 真島はわかりづらい表情を浮かべた。胸中複雑に決まっている。
 とんでもない美人局に遭ったのだから。

 アクセルをぐいぐい踏み込むと、猛スピードがどんどん出る。車のメーターパネルを見れば、時速一二〇キロの数字に針が被さっている。チーターと同じ速さだなんて、気分が高まっていくじゃないか。

 「ああーっ、最高! ――いえい、ひゅう! 結構いいクルマじゃん!」

 右手を高く持ち上げると振った。
 ジグザグ移動で進むそれに車内の反動が凄まじく、世界一過酷なモーターレースのように烈しく揺れ動く。助手席に座る真島が天井近くにあるアシストグリップを掴んで、身をしならせながら呻いた。

 「ちょ、おま、――涼! お前、免許あるんか!?」
 「はあ? そんなの、持ってるわけないじゃん。――――ははっ、いいよその顔、最高だよ。おもしろい、おもしろいなあ!」
 「こンの、ドアホ! 速度上げんなや!」

 真島がこんな風に怒鳴る男なのはいい発見だった。それが嬉しくて、獣は笑う。
 高級車をこんな風に雑に扱う人間はいない。それはそうだ、獣なんだから。

 運転のやり方は、雇われていた運転手の操作を助手席で見て覚えた。中国で過ごした記憶が遠くなっていく。 
 道なりに進んで、昨日乗ってきた電車の通る線路沿いに首都高速道路を目指した。首都高速の料金所を勢いよく、弾丸が貫通するように通り過ぎて、障害物に接触してフロントガラスが割れた。

 真島は息をついて、砕けて見えづらいガラスの視界を叩き割って、肘で薙ぎ払う。

 だいぶ後ろの方で、パトカーの音が聞こえてきた。さすがに、そろそろ通報されているとは思っていた。
 速度を落とし、静かになった車内で、獣は真島に問いかける。

 「幻滅した?」
 「――――」
 「いいんだ。騙した方が悪いんだから。俺、お前と……そうだな、喧嘩がしたかったんだ。強いの知ってるから。――会いに来たんだ」

 真島が刃物を携行していることを獣は気づいている。
 ほんのさっきまで肉体関係を持った相手を殺すことは、なんとなくこの男にはできない気がした。そういうところも優しいのが、憎い。

 「お前、は……何者なんや」

 『王吟』か、『荒川 涼』なのか。
 獣は口角を上げる。

 「俺はね、獣だよ――真島。人殺しが好きで、五人いや、六人……七人目にお前を殺すつもり」
 「ひひ――。おもろいやん」
 「女を殴る趣味はなさそうだけど、逆にいいんじゃない――? 女、殴れるぜ。殴り放題。騙されたんだぜ、お前。色仕掛けされてさ! 怒れよ! 殴っていいんだ! だって、俺は男だ。だって、だって、女を殺したんだ。お前はそっちのほうが好きになれたのにさ――!」

 前方にいた運輸トラックを追い抜く。
 「ひゃっほう!」と雄叫びを上げる。興奮は最高潮だ。

 「な――! なに、すんねん! 危ないやろが! 前見ろや!」
 「あはは、石頭じゃん。いいねえ、いい音した!」
 「ハア。……ほんま、お前、ごっついわ――」

 もう使い物にならない方の銃。その銃身をガツン、と助手席に座る真島にぶつける。
 殴ったことよりも前方注意を促すあたり強者の証拠だった。

 後部座席の後ろにあるリアガラスが割れる。数発の弾が、死神の追跡を教えてくれた。

 「真島、撃てる?」
 「一応はな。せやけど、こっからカーブ入るで」
 「じゃあ、交代しよう。次のトラックを追い抜いたら」

 首都高を自分で運転できないことは残念だ。走り慣れていない運転技術ではカーブの連続は危険だった。目の前に迫る、物流の冠動脈を走る大型トラックを追い抜いていく。トラックの陰で座席移動を行うために。

 真島の助手席に乗れるのは嬉しいだろう? そう、いない彼女へ呼びかける。

 操縦交代をし、嶋野から奪い取った銃を手にする。
 弾倉をチェックすると、満タンだった。だがちょっと粗悪品な銃だ。偽物を掴まされているんじゃないかと疑う代物だ。それは武器を流す人間が意図的に仕組んで、悪いものを売っているということだった。

 「もうちょっといいのを買ったほうがいいよ。暴発したらヤバイよ」
 「俺に言うなや」

 リアガラスが三発目の衝撃を受ける。
 助手席の窓を半開にする。トカレフの粗悪品を使って、後方にいるトラックから見え隠れするタイヤを狙う。
 タイヤの中心からわずかに逸れたが、掠めた。利き目の右目を凝らしてよく見てみると、運転座席には王泰然が座っている。さらにその車内にとんでもないものがあることに気づく。

 「ん? まじ? 車載にでっかい機関銃積んでるよ! すっげえ! どこで買ったんだろ」
 
 隣にいる真島に語りかける。わざと、ぶるりと震えてみせる。

 「――あいつ、本気で俺を殺す気だ――!」

 首都高速のカーブゾーンに入ると、左右に揺れる。振り落とされないように、ヘッドレストにしがみつく。半開にしたガラスで腕を固定し、銃の反動で照射がズレないように構える。トラックを追い抜いて、王汀州の乗った車が迫ってくる。この車が追い抜かれたら機関銃の餌食になってしまう。
 「もっとスピード上げて!」と叫ぶと、真島がアクセルを踏む。勢いが強くなり車内に入ってくる風が強くなった。

 遮蔽物のないカーブで、もう一発、二発――と打ち込む。
 その一発が風穴を空けたようでスピードがわずかに衰える、そこを狙いフロントガラスに数発撃つ。

 「吟、去死吧しね――!!」
 「你真无礼失礼なやつ――!」

 王汀州が叫んでいる。あんなに怒っているのは初めて見た。
 もう一発撃つ。パンクに追いやるには十分だった。すこしの足止めに期待が持てる。「やったあ」と叫ぶと、真島が隣で笑った。


 「真島。あんたは最高だよ。最高に、いい男だ――――! 好きだよ。大好きだ。――だから命を燃やし尽くしてでも、お前と殺し合いたい」
 

 憎しみは、愛だ。
 憎ければ憎いほど、愛している。


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