「真島吾朗、でしたか。なぜ、彼の名をご存じなのでしょう。おもしろいですね、ふふ」
純黒の中国服を纏う異質な存在感を放つ王汀州は滑らかな声で吟を支えている『預かりもの』の男、真島吾朗をニヒルな笑みを浮かべて見下ろしている。
『穴倉』に入って八ヵ月。黒くと艶々した黒髪は女のように伸び、髭はホームレスのように手つかずで不格好だが妙な色気を湛えている、顧客、嶋野太のお気に入り。王吟があげる報告書には度々目を通しているため『穴倉』の中にいる人間は把握している。拷問受刑者たちの目の前で、拷問執行官たちの名前は明かさないという決まりがある。
逆恨みに、執着…人間の心とは複雑で名前を知ることで二次的に起こるトラブル回避のためだった。
だから、この真島吾朗が王吟の名前を知っていることは『由々しき事態』であるわけだ。
現に、真島が吟に対する声音に色を伴っている。執着を抱いている。それを吟当人が気づいているかはまた別の話だが、王汀州はすでに彼を『ルール違反者』と認定した。真島はそんなことを知る由もない。知る権利ももちろんない。——ただ、もう王吟の執行官としての役割は終わったのだ。あっけない幕引きだと、ひとり息をつくだけだった。
「真島吾朗、取引をしましょう」
王汀州は吟の首を掴んだ。
「やめえや、おっさん」と口答えをするも両手を手錠で不自由になっている真島は簡単に奪われてしまう。引きはがされた吟の体は親猫が子猫を運ぶように、だらりと力なく。まるで、死人のようだった。
「『加担の件』は不問に処する。代わりに、そうですねぇ……あなたの飼い主にお伝えくださると約束していただけると、うれしいのですが」
真島は垂れ下がった前髪の隙間から王汀州を睨む。
「それは……ここから出してくれるっちゅうこと、か……? そもそも『加担』ってなんやねん!」
「飛躍しすぎですよ…。あなたをここから出すかどうかは『契約者』の勝手ですから。あの男のイチモツでも舐めて媚びを売ればいいではないですか?」
「……っち」
真島の舌打ちに王汀州は愉悦をおぼえる。
「ではこうしましょう。『契約者』に口利きいたします。……だいぶ譲歩いたしました。いかがですか?」
「あんたがなに考えてるのか、さっぱりや」
「あなたに関係ありません」
王汀州は吟の肩を切りつけ赤い血の付着した小刀を、真島の目の前にちらつかせる。
「『はい』でよろしいですね?」
「………」
「『赤い波止場の竜』とお伝えください」
「はぁ…?」
「『赤い波止場の竜』です。約束ですよ」
真島には何かの暗号、あるいは合言葉なのかとしか思えない。王汀州はまた含みのあるニヒルな笑みを浮かべただけだった。
「……吟を……どないするんや」
「知ってだから、どうするつもりです? 手も足も、でないあなたに」
「…………」
「ふふ、そうだ………この子は『優しい子』でしたでしょう? もしや『その気』になったのでは? みな死に際にこう言うのです———『一度でいいから、彼を抱いてみたかった』とね……」
不躾な物言いだった。しかし真島は否定できなかった。劣情にまみれた執着心を抱えていた。
この深い闇の中で彼を……愛さずにいられるだろうか。
王汀州に担がれ、部屋の外へ消えていく王吟を悔しさを滲ませながら見送る。このとき真島は、彼ともう二度と会えないとは露ほども考えずにいた――。
四方を鉄格子に囲まれた狭い部屋の中心で目を覚ました。
まるで長い夢をずっと見ていたかのように、現実と眠りの世界があいまいだ。ブブッ…ブブブ…ッと不快な虫の羽音が飛び交っている。
「目を醒ましましたか、王吟」
一人黒い民族服の男が鉄格子の向こうでたたずんで見下ろしている。
「いえ、……荒川涼といったほうがよろしいでしょうか」
その名前を聞いて「え?」と重い頭を持ち上げる。全然意味が分からなかった。
自分自身を見下ろしてみると、男と同じように民族服を身に纏い、右肩が衣服の布が破けその下から赤く痛々しいかさぶたに覆われた傷をさらしている。思わず悲鳴を上げた。体は重い鎖に締め付けられ、暴れることもかなわない。
「あなた、だれ…だれなの……」
「おや、命の恩人に対してそのような口の利き方をしますか」
「なによ…なに馬鹿な事いってるのよ…っ……ここ、どこ……ここ……まだ、飛行機のなか…っ?」
「ッチ、効きすぎたか」
この男のいう言葉の何一つさえも意味がわからなかった。頭の中は文字通り空白といえるほど、からっぽだった。厳密には『理解すること』を拒んでいた。この場にいる『ただ』の『少女』はがたがたと震えて、男の一挙手一投足を見守る。今にも殺されそうだからだ。この男の視線に、空っぽの両手に、訳の分からない言葉に。
『荒川涼』、と飛行機に乗っているという名前と場所以外の情報を思い出すことを心が強く拒絶している。
男は身を屈め鉄格子の向こうで、冷酷な顔をのぞかせる。
「ひっ」
「殺しか、桃源郷、どちらがいいか選べ」
短い悲鳴の返答に、男は選択を迫った。
わけがわからない。理解を拒む、男の威嚇的な目に恐怖して二の句が継げない。
小刻みに嗚咽がこぼれ、さらに男の怒りを誘う。
「……まずは、その身を、罪を、清算させてくださいと言っているのですね?」
いいでしょう。と男は少女の言葉を待たずに決めた。そうしてニヒルな顔に戻る。「あなたは大変罪深いですよ」といい立ち上がった。
「あなたは、たくさんの男たちを死に至らしめ、希求され、その優しさで破滅に追いやった。それは大変罪深いことです」
「———っひ」
少女の頬を熱い涙が濡らす。間違いなく日本語をしゃべっているのに、何一つ理解ができないのだ。思考が停止している。
男は鉄格子の向こうを行ったり来たりを繰り返し、興味深そうに横たわる少女を品定めをしているようだった。
「腐敗した肉に蠅はたかる。腐敗した者どもの肉に、優しさを騙り、蛆を沸かせる。……あなたは立派な『蠅の王』でしたよ」
少女はその『蠅の王』という言葉に言い知れぬ恐怖を思い出す。ただそれすらも頭の中でロックがかかる。言葉の意味を知っているのだ。されど、教えてくれない。自分の肉体なのに主導権を誰かに握られているかのように、思考が膠着し、不自由に意識のゆりかごに揺られている。
わたしは、どうしてこんな場所にいて、目の前の男はいったい誰で。そんなことばかりを考えてしまう。わたしには両親がいて兄が一人いて、食べるものに困らず、悩むことは明日の授業や宿題、友達の関係、すこし気になっているひとがいるような、そんな程度の知れた小さな世界に生きていた。…そう、私は……飛行機に乗っていた。
なぜ…?
海外に行く予定だったのだ。
父の仕事で海外赴任になり、私は日本を離れなくてはならなかった。不貞腐れた私は、家出をして、それから…彼と出会ったのだ。
彼は、バナナをくれた。たったそれだけだ。数日の家出だった。人生ではじめて悪いことをした。親に反抗した。小さな世界に生きる少女のささやかな抵抗は、兄が迎えに来たことであっけなく終わった。名前も知らない、だけどクラスにいる男子よりも品はないのに、ずっと格好よくて、もう一度だけ会ってみたいと思っていたのだ。彼は、命の恩人だったから。
「ひ…っく」
あのとき掴んだ、彼の左手の感触が今にも鮮明に思い出せる。熱気の最中、彼の手は大きくひんやりとしていて、心地よかった。
振りほどかれたけれど、家に帰るからとアーケードの下まで一緒に歩いた。意識して兄以外の異性と手をつないで歩くことは、生まれてはじめてのことだった。
いつの間にかあの男は部屋からいなくなっていた。
思い出に耽り、泣き疲れた涼は意識を手放した。