1981年 7月7日、奇跡@



 1981年 7月 ???



 (お父さんもお母さんも、わからず屋......!)

 学校から家に帰ればスーツケースが用意されていて、早くこれに荷物を詰めなさい。進んでないのは涼だけなんだから。とご立腹な母となだめる父がいた。兄はまだ帰ってきていなくて、いつもこの夕方のこの時間帯が涼は心細かった。だから習い事を仕方なく行っていた。家にいると母がいて、涼を構いたくて仕方ないのか苦言も二言三言言う、そうしてしばらく鬱憤を晴らしたあとにしおらしく『ごめんなさいね』と謝るのだ。
 謝られると、許さなくてはならない。表向きには和解をしても涼の心の中には母への不信感と神への信教心が母に対する違和感すらも『いけないこと』と戒める。

 「おばあちゃん家に住むんだから...!」

 もう何度か口にした宣言も両親は「はいはい」と子供の言うことと思って受け流す。向こうに行けば気が変わるよ、と言ってなだめてしまうのだ。
 父の会社はカメラを作っている。その仕事で海外駐在・赴任となりイギリスへ行くこととなった。
 家族全員で行くことになったのだ。母はその話を聞いてからずっと鼻歌を歌いっぱなしで、日本から離れることは間違いなくて、涼は不安でいっぱいだった。
 クラスメイトの子に海外ってどんなところ、と尋ねると軽く笑われた。

 「行っても話せなきゃ棒立ち。おまけに人種差別があるからね」

 その子は行ったことはあるが、いい思い出にはならなかったようだった。
 海外と一口にいっても日本以外の国のことなのだから範囲は大きいし、その子の味わった辛い経験も努力次第で変えられるのは間違いないが、涼にはちっともそこに馴染める自分の姿が想像できなかった。
 イギリスというとクリスマス・キャロルやシャーロック・ホームズ、時計塔、大英博物館、アフタヌーンティー文化とエリザベス女王の国だ。観光に行く程度の知識しか持ち合わせていない。
 宗教はキリスト教圏だが特殊な教派を歴史的背景に持つため純粋なカトリックではないし、はっきりとした階級社会で学校も進学するか就職するか、学力試験も日本とは違うということを母から教えられた。

 仮に向こうに行けたとして英語はお粗末でコミュニケーションだって取れず、勉強もついていけなくて。意味もわからないまま馬鹿にされて過ごす事になるのだと思うと、まだ日本の学校にいたほうがマシだった。

 「荒川さんー、先輩が呼んでるー」

 クラスメイトの呼び出しで涼はおずおずと教室の入り口に立つ上級生二名のもとへ向かった。

 「今度の夏の大会に出て欲しいんだけどやっぱりだめ?」
 「夏の、大会ですか? 名前だけの在籍部員だから入ったのですが」
 「いやいや、こんな校風の学校だから運動部に入りたがらない子も多いんだけど、正直いって一番速いのは荒川さんだからさ、そこをなんとか!」

 先輩ら二人は他の女子のように髪を伸ばさず、運動しやすいように短く襟足まで切られている。クラスメイトの女子がよく噂をしている上級生たちだった。涼は運動が苦手だったが、走るのと陸上や球技の個人種目だけはなんとかできた。神学系の学校ゆえにスポーツに熱心な生徒が少ない。だからその中でいえば平均以上のものだと思う。本気を出せばみんな涼より速く走れるくせに、それが嫌で手を抜いているのだ。

 涼は初等科からずっと一貫校にいるため、毎年のスポーツ大会の成績は知られているもので中等科にあがったときの四月の頃は連日運動系のクラブが勧誘に訪れた。やはり神学系の学校ゆえにクラブ数は少なかったがそのすべてのクラブに名前だけの在籍で、穴埋め程度の部員として扱うならば良しとしたのだった。しかし運動部員よりも足が速いというのもおかしな話だ。

 「夏の大会っていつですか」
 「大会は予選が夏休み入ってからなんだけど、七月後半で、本選は八月にあるよ。……どう?」

 先輩らは梅雨でトラックが使えなかったがそろそろ梅雨明けするからということで大会にのお誘いに来たらしい。涼は返事を濁した。両親からは来週中には渡英すると決めていた。両親から学校に連絡は渡っているはずだが「お別れは涼から伝えなさい」と言われているので、タイミングは自分次第だった。





 帰宅して自室へ急いで駆け入ると、勉強机の中や貯金箱に貯めていたお小遣いとお年玉をポシェットに詰めこんだ。
 涼の異変に勘付いて、階下から上がってくる母のスリッパの音が部屋に来る前に急ぐ必要があった。そしてちょうど自室の部屋の扉が開かれるのと同時に、母の脇をすり抜けて部屋を飛び出す。

 「涼、どうしたの。どこいくの!」

 母の声に階下にいた父が玄関から出るその背中に名前を呼んだ。

 「ちょっと、遊びにいく」
 「涼! 待ちなさい!」

 日頃、反抗心という反抗心を見せたことのない涼がこの日初めて『嫌だ』という気持ちに従って家を飛び出した。

 (どこに、行こう)

 友達も少ない涼に頼れる場所はない。はじめその足は家の下のところにある祖父母の家へ向かっていた。しかし兄が帰ってきたら連れ戻されるに決まっている。涼はもうなんだかどうにでもなれ、と思って駅まで走った。




  ◇ ◇ ◇


 カレンダーが七月に替わったとき、憂鬱だった。
 もう一年が経過したのだと。涼は一年前に出会った少年のことをずっと心に留めていた。友人と遊びに行ったとき、ふと一人になったときに見知らぬ男たち三人に絡まれたところを、その少年に助けてもらった経緯があるのだ。
 なんの代わり映えしない窮屈な日常に、目の前で行われた鮮やかな成敗は涼には刺激的だった。自分の身近にいない種類の人だからかもしれない。強烈で暴力的な、危険な香りを感じ取った。その彼のことを一年経ったいまでも忘れられないでいる。

 慣習的な神は未だ涼を救ったことはない。異教の神である。母の影響とその強要によって涼は聖母マリアを信じていた。信じて幸せだったことがないのだ。母は喜んだが、やりたくないことが増えるばかりだった。そんな神に再会を祈ることはできなかった。もう一度会いたいという願いを彼女は星に託した。彼女なりの賭けだったのである。

 それがもうすぐ一年を迎えることに、星も人も願いを叶えることはしないという答え合わせをするのが、憂鬱だった。




 1981年 7月6日



 くたくただった。涼は夜に出歩かない。出歩いたとしても親や兄が同伴している。だから、夜の街がおそろしい場所だとは知らなかった。目つきが怖い大人、意味もわからなく好意を示す異性が自分の後ろを付けてくる。自分の住んでいる場所がいかに安全なのかを思い知った。


 六日の夕方のことだ。涼はふらふらと横浜の繁華街を歩いていた。するとどうだろう、数少ない友人の一人とばったり遭遇してしまったのである。涼は友人だと思っているが、彼女も本心からそう思っているかわからないのでなんとなく名前で呼ぶことを躊躇っていた。自分がクラスの中で浮いていることを実感していたし、彼女は顔が広くどんな子とでも仲がいいし、気まぐれに仲良くしてくれているのだと思う。向こうから声をかけてきたら拒まない、そんな関係だった。

 その子は一人ではなかった。異性と、男子と一緒だった。見かけない顔だった。少なくとも、涼とその子の通う学校ではいない男子だった。繁華街の中で涼もその友人、『ミヨコ』もお互いに気づいた。
 学校では無断欠席扱いになっているであろう涼は、いたたまれなくなった。
 「涼ちゃん!」と彼女は人混みのなかかき消えないように、そう呼んだ。涼は迷った。そのうちに、彼女はそっと涼の傍に来ていた。連れの男子はいなかった。

 「ねえ、涼ちゃんでしょう。どうしたの、こんなところで。学校……欠席してたけど、大丈夫?」
 「……」

 決して大丈夫ではない。けれど、それを打ち明けていいものかと迷った。その場を一刻も早く立ち去りたい衝動に駆られて一歩、後退りをしたとき。ミヨコの細い手が涼の腕を掴んだ。

 「怖くないよ。ね、ちょっと歩こうか」

 同級生の、クラスメイトの中でも誰よりも、ミヨコが大人に見えた。動物で喩えるならキリンのようで、手足も長くすらりとしていて、姿勢がいい。あの校風と制服に一番合っている子だ。
 ミヨコは「先生から聞いたの」と打ち明けた。それは涼の一家が渡英するという話だった。ミヨコとの交友関係を担任は把握していて、今日の欠席に際して家庭から『明日出発なのにどうしよう』という電話があったそうだ。涼は自分を置いて家族だけで行ってしまえばいいと思ったし、そう願った。

 「涼ちゃんは、日本に残りたいの?」
 「………うん」
 「そっか。うん、わかるよ。嫌だものね」

 ミヨコは破顔した。

 「親の勝手でしょって思っちゃう。習い事も、学校も。私もそう」

 意外だった。涼は「それ本当?」と尋ねた。ミヨコは「本当」と言った。
 ミヨコは頭もいいし、手先も器用でみんなの中心人物で欠点なんて何もないようにみえるのに。

 「私は音楽がしたいの。それもお上品なヴァイオリンとか、ピアノとかじゃなくって、ギターやドラムみたいな。あ、びっくりしたでしょ。そうよ、猫かぶってるの。家と学校はね。でもみんなおんなじよ。世間体っていうのかしら、大人って好きよねそういうの」

 涼はとてつもない親近感を抱いた。
 ただ一箇所違う点があるとするなら、涼はミヨコのようにやりたい事がない。親への違和感や反抗心はあるけれど、自分を貫き通す何かを持っていないのだ。

 「ね、涼ちゃん。今晩は泊まっていってよ」
 「え? で、でも」
 「大丈夫。学校にもお家にも電話しないから」

 ミヨコに連れられて入った場所は彼女の家のガレージにあるちょっとした部屋で、そこには楽器がいくつも置かれていてちょっとした秘密基地になっていた。夜食と称してミヨコとスーパーでジュースとお菓子とやおにぎりを買って、そのついでに銭湯にも寄って、はしゃいで、秘密基地で一晩を過ごした。
 俗っぽいことをたくさんした。
 
 (お母さんが見たら、卒倒してしまいそう)


 寝袋を二つ並べて、ビンテージなランタンを灯りに、こそこそと内緒の話をする。
 夜通しミヨコと喋った。こんなに楽しいなら、ますます日本から離れたくないと思う。だいぶ打ち解けた頃、ミヨコはそっと気遣わしげに言う。

 「涼ちゃん、ちゃんと言ったほうがいいわ。……大丈夫よ涼ちゃんなら。反対の意見を持つこと、もう悪いことじゃないのよ。やりたいこと、今はなくっても、そのうち見つかるわ! そうだ、今度一緒にコンサート行きましょうよ。チケットもあるから」
 「ほんとうに?」
 「もちろん、クラシックやオペラなんかの高尚なものじゃないわ、ええとなんていうのかしら、不良っていうのかしらね。きっと楽しいわ」

 ミヨコの提案はとても魅力的だった。
 音楽といえば、日曜日に行われるミサでの賛美歌や、母が引きずっていく知り合いのクラシックコンサートにバレエ、それが終われば美術館に連れて行かれる。もたらされるアカデミックで厳格な空気が退屈なのだ。食卓にテレビはなく、家にあるのはラジオだけでみんなが親しむ流行にも疎い、クラスメイトと共通の会話がなく、孤立しがちだった。涼もうすうす浮いている原因が何なのかくらいわかっていた。

 「み、ミヨコちゃん」

 そのとき涼ははじめて、彼女の名前を呼んだ。呼んでも差し支えないと思えたからだ。
 ミヨコは「どうしたの?」と涼の言葉を待っている。

 「いきたい」

 ミヨコは笑みを深くした。友情の灯火が二人を照らしている。

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