1981年 7月7日、奇跡A


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 1981年 7月7日


 長かった梅雨が明け、蒸し返す黒土のにおいが薄くなり、夏の強烈な日差しの痛々しさの片鱗を、涼は東京のどこかの小さな公園の片隅で感じた。夏の風物詩のセミはとっくに鳴き始めていて、短い地上の生命を謳歌している。
 ミヨコは「学校に行かなきゃいけないから、明るいうちはここを出てほしいの」と言った。ガレージは彼女の家族が使用するだろうし、見つかれば言い訳をしなくてはいけない。ミヨコも匿ったことで何かしらの追及を受けるだろうし、せっかく得られた友情を儚くも潰してしまうことを涼にはできなかった。

 横浜にいれば、また昨日のミヨコのように誰かに見つかるかもしれない。両親もそろそろ捜索をはじめて警察沙汰になっていたら、と思うと近場からは離れないといけないと考えた。去年、ミヨコと遊びにいったときはじめて電車の切符の買い方を覚えた。電車に乗るのは、それ以来だった。駅のコンコースにある時計をみると、朝の八時半を迎えようとしている。
 電車に馴染みがなければ、行く駅も限られている。見知らぬ土地へ行こうという思い切りの良さはまだ持てない。ミヨコと行った、あの繁華街へいったほうがまだ安心であった。



 商店街のなかをぶらぶらと歩いていると目眩がした。思い返せば、夜通し起きて喋っていたことが原因だった。夜ふかしも経験になく、規則正しい生活を営んできた涼の体は想像以上に疲弊していたのである。少し休もうと思い、まだシャッターの閉まった店の軒先に腰を落ち着けた。ぺたんと座ってしまい、服が汚れてしまうなと思うと、母の叱責が目に浮かんだ。しばらくそこで、うつらうつら。船を漕いでいると、目の前を横切る気配や視線や、繁華街独特の飲食店などからの独特なかおりが一つにまとまって、意識が遠くなっていく。
 



 「おい、そんな地べたに座ってたらお尻冷やすで」

 涼の深遠な意識を呼び戻したのは、若い男の声だった。荒々しい物言いだが声の質自体は綺麗だ。重く下がりきった瞼をなんとか持ち上げると、涙がポロポロと溢れて、頬を伝った。

 「なんや、お前泣いとんのか」
 「……っ」

 若い男は身を屈めると、涼を覗き込んだ。それに驚いてしまって体が無意識にぴくりとはねた。「迷子か?」とさらに問いかけられると困惑した。迷ったわけではない。自らここへ来たのだから、と頭を左右に振った。
 「彼氏にでも振られたんか?」と男は笑いながら言った。なぜそこに彼氏が出てくるのか、その意味もわからなくて涼はちがうと否定した。そうすると、彼は「はあ」とため息をついた。涼の反応がお気に召さない様子で、涼以外の『普通』の人ならもっと上手い返答ができるのだろうという、自身の不甲斐なさを責めた。


 「俺いそがしいねん。あんたもそないな辛気臭い顔せんで、お家にお帰り」
 「……帰りたくない」

 男はすっと立ち上がって、はやく立ち去りたいとしているのが伝わってきた。
 涼には帰る家がない。厳密には、今帰れば、間違いなく海外へ行ってしまう。それは明白だった。ミヨコは大丈夫だと言ったけれど、家に帰ればあの母ときっとその味方の父がいる。兄は悩みを共有できる相手だが、同じ子供ゆえに無力だ。家庭に戻ることは、自ら危険な檻に戻ることと同じであった。 

 「はあ?」
 「帰り、たくないの」

 聞き返した男に、もう一度繰り返す。そのときになって、今まで気配だけで会話していた男をはじめてまともに見た。眠気の霧が晴れていく。その若い男は。

 背が高くて。
 細身で少々奇抜な髪形をしていて。
 少し目つきが悪くて。

 よく見てみると俳優のように顔も整っている。一年前よりまた少し背が伸びて、恰好がよくなっていて、涼はそこにいる彼にぼうっと見惚れていた。

 「なあ。お腹空いてへんか」
 「ううん……」

 返答は空返事だった。思い出したように空腹の報せが腹から鳴った。それを聞いた彼は足早に商店街の青果店へと向かった。スイカとバナナを買って戻ってくると、バナナの房から一本もぎり取った。

 「これ、食えや」
 「……ありがとう、ございます」

 まだ実感が沸かなかった。バナナを手にしてみて、それが彼から買ってもらったものなのだと、皮の表面の手触りを確かめた。それから剥いて、何口か食べる。それを見届けて、彼はようやく涼の隣に座った。さっきからずっと心音が速い。肩と肩の距離が近くて、手を伸ばせば触れられるところにいる。

 (夢、じゃ……ないよね?)

 彼は涼に気づいていないようだった。彼にしてみれば、一年前の出来事で、それは気にも留めない日常のほんの一瞬で、覚えているわけがないのだ。会うのは二度目だということを知っているのは、涼だけなのだ。


 「なんでお家帰りたくないのや。お勉強嫌なんか?」
 「……海外に行くの。お父さんのお仕事で、今日の夜から……。行きたくないって、おばあちゃんの家に住むっていったけど、だめって」
 「ほお。えらい、金持ちなんやな」

 彼は粗暴な雰囲気を持っているが、その中に優しさが見える時がある。関西の言葉を使っているがどこか自然ではなく、まだ拙さが残る。人の良さとでもいうのだろうか、無理をして悪ぶっているような、そんな気がした。彼の近くにいるとわかる、煙草の香りもその溌剌とした若さからは早熟という言葉のほうが似合う。


 ふと、斜め向かいにある、商店の軒下に飾られている七夕の短冊つきの笹が目に入った。そうだ、と涼は思い出す。一年前の七夕に願ったことを。

 「今日、七夕ですね」

 口をついて出たのは、それが小さな奇跡だったことを彼に教えたかったのかもしれない。
 きっとそんな説明をしても彼には伝わらない。運命だとか、奇跡だとか、信じてくれないかもしれない。彼は、涼のなんとなく始めた言葉を律儀に拾った。

 「ああ。願い事書いても叶ったことなんかないけどな」
 「……天の川って見たこと、……ありますか」
 「どうやろな。ガキの頃は熱心に見たかもしれんけど、きょうびどうでもよくなったわ。それに七夕の日は曇ってるか雨降ってるしな」

 それは、たしかにそうだ。
 晴れるなんてことは滅多にない。晴れたらラッキーなのだ。

 「自分、今日飛行機乗るんやったら、見えるんとちゃうか。それやったら晴れてようが、曇ってようが見えるやろ」

 別に天の川が見たいわけではないのだ。飛行機にも乗りたくないし、海外にも行きたくない。
 彼はもちろん涼の内情を知らないわけで、そうしたほうがいいということを彼なりに諭しているつもりなのだ。涼はじっと彼の顔をみた。「天気悪いと飛行機は飛ばへんけどなぁ」と付け加えた。

 わずかに、雨が降らないだろうかと祈った。

 「……それ食うたら、お家帰り。親御さん心配しとるわ」
 「でも」

 残酷なことに時は過ぎていく。別れの気配に、涼は内心ひどく焦った。
 

 「でも、やあらへん。俺はもういくで」
 「ま、まって」

 立ち上がった彼に追い縋るように涼も一緒に立ち上がった。彼の左手を思わず引き止める。

 「あんなあ」

 呆れ半分、面倒くさそうに涼を見下ろしている。そうさせていることは痛いほどわかる。困らせたいわけではないのに、彼にそう思われたいわけでもないのに。ただ、本当に彼が行ってしまったらもう二度と会えないのではないか。それが辛くて、家にも帰りたくなくて。
 涼の目から、本物の涙が溢れた。

 『大丈夫よ、涼ちゃんなら』と、ミヨコの言葉が。
 『反対の意見を持つこと、もう悪いことじゃないのよ』と、背中をそっと押す。


 「いや、いやだ。……帰りたくない」

 涙ながら、声を振り絞る。
 肺に溜まった、重く苦しい空気を吐き出す。
 脳裏に恐ろしい母の顔と、『言うことを聞きなさい』という台詞が耳奥に反響している。

 『そうだ、今度一緒にコンサート行きましょうよ』、もう一度ミヨコの声がした。彼女と約束をした。
 そうだ、日本に残って、ミヨコとコンサートに行って、陸上部の夏の大会にも出るのだ。それから、おばあちゃんの家で宿題をして、スイカを食べて。夜にはおじいちゃんの映画をみる。

 それから、それから、今度は、自分からミヨコを遊びに誘うのだ。
 そんな夏を想像する。強く、想像する。

 (出ていって、お母さん……)

 「つれていって」

 涼の唇から出たのは、短くも強い反抗の意志だった。
 彼は諭そうと、涼の目線に顔を近づけた。目がしっかり合ったのはこの時がはじめてだった。彼の目は黒く、持っていかれそうなほど力強かった。少し怖かった。


 「つれていって」


 押しつぶそうとする何かに向けて、はっきりと声を張る。
 しばらくの間、少年はじいっと涼を見詰めていた。何を考えているか分かりづらいが、納得した様子で繋がった手を引いた。彼の歩幅は一歩が大きくて、涼の足はもつれて転びそうになる。

 「あっ、ちょっと」

 呼ぶと彼は立ち止まる。その弾みでドシンと体ごとぶつけてしまう。見上げると、視線がまた出会う。「けったいなヤツ」と一言こぼすと、歩き出す。今度は涼のペースを気にしながら歩いてくれる。この人は、やさしい人だと思った。商店街から離れていく。外はより暑くなっていて、涼はきっちり締めてあった服のボタンを一つ外した。
 そうすると、少し息がしやすくなって、こもった熱が逃げていく。

 「……あの、どこへ……いくんですか」
 「……あのな。つれてけって言ったのはお前のほうだろ」
 「……」

 ついに関西弁が抜けてしまった少年に、なんだかおかしくなって、くすりと一笑する。それに気づいたのか「おい、なに笑ってんだ」と睨んできたが、ちっとも怖くなかった。「まわして、ソープに沈めてやってもいいんだぜ」と彼は低い声で脅している様子だったが、涼にはまったくその言葉の意味がわからない。

 「お洗濯してくれるの?」と尋ねると、彼は「はあ?!」と驚いたので、びっくりしてしまった。そして「洗濯か……近いっちゃ、近いけど」とぶつぶつとなにか言っている。

 「お前、いくつ」
 「じゅ、十二歳……」
 「あ? ……とんでもなくガキだな。早生まれか?」
 「う、うん。一月生まれ」

 「そこまできいてない」と言われ、黙れば今度は泣いていると勘違いされて「泣くなよ」と言われ、どうしたらいいのかわからなくて「泣いてないです」とせめてもの意思表示をした。

 「名前は?」
 「………」

 涼は少年を見上げる。
 その視線が懐疑的だったのが伝わったのか、「このままだと、お前ずっと俺に『お前』って呼ばれるぞ」と言った。それも嫌なので、涼はうんと素直に頷いた。

 「涼っていうの」
 「涼……?」
 「荒川、涼」

 少年は前を向いて、「涼ね」と音を確かめている。ずっと気にしていた人から名前を呼ばれる日が来るなんて、誰が想像できただろうか。それだけで、幸福な気持ちになった。涼は斜め後ろからもう少し歩幅を合わせようと、一歩大きく踏み出す。少年の隣に追いついて「あなたは?」と尋ねる。少年はぶっきらぼうに答えた。

 「真島」
 「……まじま? ……それだけ?」
 「なんだよ」
 「わたしは、ちゃんと下の名前いったのに」

 不公平だとむっとした顔をすると、真島は「ひひっ」と笑った。
 なにが可笑しいのだろう。怪訝な顔をした涼にむけて「あー、お前、わかりやすいな」とそれがなんだか小馬鹿にされている気がしてそっぽを向いた。

 「拗ねるなよ」 
 「……このままだと、あなたずっと私に『真島』って呼ばれますよ」
 「おう、ええ度胸や、『さん』つけろや」
 「嫌ならおしえてください」

 先程の仕返しだと真島はわかっている。
 そんなやり取りをしていると、小さなアパートが見えてきた。小さな石の門から敷地へ入り、階段を上る。一番手前の部屋の扉の表札に『真島』とあったので、ここがおそらく彼の部屋なのだということが知れる。懐から鍵を取り出して、部屋の扉を開けている。

 「吾朗」
 「え?」
 「名前。……真島、吾朗」

 扉が開く。
 小さな部屋だ。真島は「お腹すいたらそれ食べとき」と涼に残ったバナナを房ごと手渡した。

 「今日はできるだけ早く帰ってくるから、勝手に帰るなよ。あと、宗教の勧誘きたら絶対出るな、公共放送の集金もな」
 「えっ、ええと……!」
 「喉乾いたら水道の水でも飲んでろ」

 矢継ぎ早に説明事項を述べられてあたふたしてしまう。涼のその慌てっぷりも涼自身はなにも面白くないが、真島にはおもしろいみたいだった。「ほな」と最後だけ関西弁に戻って、真島は涼を部屋に入れて扉を閉めた。施錠音がして、彼が階段をカンカンと音をたてて下りていく。遠ざかっていく気配に、涼はとんでもないことになったと、そこでようやく息を吐いた。


 彼は、真島吾朗といった。
 
 一年前に、助けてくれた少年。その少年の住む部屋に今いる。


 「………吾朗、くん」

 吾朗くんに、吾朗『さん』は似合わなかった。
 覚えたての彼の名前を愛でるように、もう一度「吾朗くん」と、彼のいない空間に向かって呼んだ。


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