夢をみた。
ひどい悪夢だった。
外はひどい土砂降りだ。時折、びゅうびゅうと風が吹きつけ、地下に潜り込んだ場所にあるバーの扉をカタカタと打ち鳴らす。
不明瞭な意識の狭間で。視線を落とした先にはリキュールに浸かった、ミラーボールのようなロックが金色に輝いている。
「お客様。眠いようでしたら今日は……」
「あ、ああ。すまんのう……いや、ちゃうねん。待ってんのや」
「待ち合わせでございますか?」
バーテンダーはグラスを拭きながら、真島以外は誰も座っていない、カウンターに接するスツールを見渡した。
今夜は雨模様だ。よって、普段は来る常連すらも来ないだろう。そんな、悪天候の日に待ち合わせて来る者がいるのだろうか。
それでも、待つしかない。
「まあ……来るやろ」
「お連れ様の好みはございますか?」
「あぁ……なんやったかのぅ」
眠気に支配された頭が、記憶をたぐり寄せる。
酒はウワバミの自分にしては、ひどい悪酔いだ。手元のグラスさえも二重、三重に見えるのだから。
ロックが崩れて、カランと気持ちのいい音をたてた。
「ワシは……誰を、待ってるんや………?」
ドアが開いた。
停滞した空気を揺り動かす風が吹き込んでくる。
真島はスツールの上で振り返った。
「おお、来たわ」
そこは、天壌無窮の闇だった。
夢をみた。
うんざりするほど気怠い夢だった。にもかかわらず、内容はほとんど覚えていない。
思い返すのも煩わしい。それよりも、鼻孔を掠める甘い匂いに、真島は少年のようにうれしくなった。
「ほいっぷもーもーさんいれた? もーもーさんは?」
「入れたよほいっぷもーもーさん」
「シュガーは?」
「千縁ちゃん、それ幼稚園で習ったの?」
「りょーたが言ってたの、シュガー」
「ああ、……りょーたくんね。お金持ちだからねぇ……あそこのお母さんも海外行ってたから、その影響なのかな……」
妻はキッチンでカシャカシャとボウルの中身を泡立てている。
生クリームの甘さ、隠し味のラム酒とブランデー、ほんのちょっとの蜂蜜。
『今年こそは』の意気込みを聞いて早五年。涼はとにかく、手作りケーキを家族で切り分けて食べることを目標としていた。彼女の母親が、彼女にしてくれていた事の一つだったそうだ。
そろり、そろり。気取られぬように近寄ると、娘がいち早く気配に勘づいた。
「ぱっ……」
「しっ」
口元に人差し指をあてると、千縁は唇をきゅっと丸め込んで黙った。
「うーん。甘すぎるかな。果物も入れちゃうし……こんなものよね?」
盛大な独り言に夢中になる涼は、背後まで迫っていた真島に気づくことはなかった。
彼のその長い腕としっかりした胸板に包み込まれるとき、手に握っていたホイッパーが、カチャンと金属質な硬い衝撃音を響かせた。
「もお吾朗さん! 落っことしちゃうとこだったじゃない!」
「おはようさん。そないプリプリ怒らんでもええやないかぁ。……ひひひ! なあ?」
「ママ、もーもーぷんぷんしてる!」
妻が怒る時、『もお』と前置詞をつけるせいで、娘から『もーもーぷんぷん』と呼ばれている。
「味見さしてくれへんの?」
「夜までのお楽しみですぅ」
「いけずやのー」
「あっ。千縁ちゃん、千縁ちゃん、バスだよバス! ゴーゴゴー! 吾朗さんはそっち、ハムサンドとサラダがあるから! 食べて!」
時計をみればバスの時間。
「千縁ちゃん、いってきますしようや」
「いってきまぁす」
「よっしゃ。いってき」
涼は千縁の背中を玄関までせっつく。
玄関の扉を開けて「あ、もお……エプロンしたまま出てきちゃったよ〜」とボヤきつつ、致し方ないとそのまま出ていく姿を見送って、真島は席についた。ベランダに降り注ぐ朝の光。洗濯物が風に吹かれて、そよそよと音を立てる。平和だ。
朝食を食べ終える頃、涼がようやく帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり〜」
「待ち合わせのバス停行ったら、他のお母さんに捕まっちゃって。吾朗さん、食べ終わった? ……どうしたの?」
「……まだ、聞いてへんなぁ、思て」
にやっと笑うと、涼はそれが何かわかった。
照れ混じりに笑いながら、お約束の言葉が唇を震わせる。
「……へへ。お誕生日、おめでとうございます。吾朗さん」
彼女からの祝福を世界で一番愛おしむ日。
それが、五月一四日である。