猫を拾った。
いや、犬かもしれない。
バナナを餌付けしたら、ついてきた。
午後七時。
組の雑用が終わって、その兄貴分たちが『今日は、飲みに連れてってやる』と誘ってくれたが、真島はそういうわけにいかなかった。
昼のうちに、女を、正確には未成年の少女である。それを、自宅の部屋に押し込めてあるのだ。内側の鍵を開けて出ていってさえいなければ、その少女は自分の帰りを待っているだろう。少女の名前は、『荒川 涼』といった。
俗に言う、家出少女というやつだ。ともかく家へ帰りたくないと真島に『つれていって』と誘拐をせがんだ。真島はそれに従っただけだ。その少女は金持ちの家に住んでいて、苦労を知らなさそうな温室育ちかつ、世間知らずなやつという印象があった。あたふたとする姿は馬鹿っぽくて、嗜虐心を煽るようなやつだ。
(あいつ、なにが食えるんだ)
普段はそれはそれは美味しいものを食べているに違いないのだが、誘拐してもらっておいて飯に文句をいうことはあり得ない。自炊はたまにするが、今のこの時間からでは手間がかかる。事務所の帰りに、アパートの近所にあるスーパーに立ち寄って栄養価を無視した安い弁当を二つ、お茶に明日の朝に軽く食べられるものを適当に買った。
アパートの前まで近寄ると、階段の上の手前の部屋に灯りが点いていないことに気づく。部屋から出るなという脅しは無意味だったのか、買ってきた弁当の入った袋を見下ろすとなんだか馬鹿らしくなった。所詮は、『家出をしたい』というワルに憧れる子供だっただけだ。こうなるなら兄貴分についていったほうが美味い晩飯にも、ちょっとした遊びにもありつけたかもしれない。今日は損をした。そんな不貞腐れそうな気持ちを引きずって、真島は自室の鍵を取り出した。
解錠し部屋に入ると、内側の扉の隣についているスイッチをパチっと押す。部屋が一気に明るくなると、床上に丸まっている子供がいた。
「……帰ってなかったのかよ」
想像に反する結果に、嬉しいような嬉しくないような微妙な心境になる。靴を脱いで狭い部屋の床を数歩も歩けば、うずくまる少女の背中に突き当たる。
「おい」と一声かける。それでも起きない様子なので背中をつま先で軽く突っついてやると、わずかに眠たげな声をあげた。小動物のような塊はのそりと起き上がると、目元を擦りながら「おかえりなさい、吾朗くん」と喋った。
「……飯、食えや」
「うん。……えっ、やだ。もうこんな真っ暗。お弁当買ってきてきてくれたんだ、ありがとう、吾朗くん!」
少女は律儀に明るい声でお礼を言った。こそばゆい。素直にそう感じた。快さというよりも、気恥ずかしさにも似た何か。
真島から受け取った弁当を受け取って、正座に直った太腿の上にちょこんと乗せ、そのまま食べてしまうのかと思いきやぐるりと部屋を見回した。
「机はあらへん」
「そうなんだ。このままいただいていいの?」
「お好きなように、やな」
わかった、と頷いて少女は両手を組んだ。
目を閉じブツブツと何かをつぶやいて、十字を切った。真島は食前の祈りを直に見るのは初めてだった。
「クリスチャン?」
「……そうなの。……えっと、……おかしい?」
「いや。初めてみたっちゅうか、……そんだけ。いただきますとごちそうさまと同じもんやろ。気にせず食べろや」
「うん」
食事への感謝をしない人間よりはずっとマシだろう。真島はそう思った。
たとえこれが数百円程度の弁当であっても、少女の価値観は揺るがず、普段ある生活圏内のルールを、今日出会ったばかりの人間の前でもやってのける、ある意味緊張感のなさのほうが気になった。
弁当の蓋を外しもくもくと食べ始めると、いよいよ部屋の中は、外の喧騒のほうがうるさくなった。
「……なあ、なんで家出なんか」
「………」
「やっぱ、お勉強とか、習い事とかが嫌か?」
「………ごめんなさい。食べてる間はお話できないから」
「あ? ……あぁ、そうか」
家の中の躾なのか、宗教のルールなのか。少女は規則正しく食事を続けた。そういうものだと言われてしまえば、それまでである。ただ、これまで真島の付き合ってきた人間にはいないタイプ。それが一番最初の印象だった。
「美味しかった。ほんとうにありがとう、吾朗くん」
「あいよ。ゴミは袋ん中や」
「ありがとう」
袋を広げてやると、そのなかに空になった弁当箱を差し入れた。そうし終わったあと、なんとなく手持ち無沙汰のような、やることのない空白が生まれた。しばらくの後、少女は正座を崩すことなく、ぽつりぽつりと語り始めた。
「……お父さんの仕事で……イギリスに行くのが嫌だったの」
「それはもう聞いた。……なんや、怖いんか?」
「怖い? うん、……そうかも」
「ふうん」
真島は曖昧に頷いた。
新しい環境への恐怖。異国で生活する障壁は、数え切れないほどあるだろう。
けれど真島にとっては悪い事のようには思えなかった。すくなくとも、飢えているわけでも、貧しい生活を強いられているようには映らない。平均よりは恵まれた生活を送っているはずの少女の悩みの性質が、それよりも低い世界に接している真島からは、『恵まれている』ように思えたのだ。
「羨ましいのう。……俺にはない悩みや。親も元気やろ?」
「あとお兄ちゃんが一人いるわ」
臆することなく真島は羨ましがった。
母親の存在はかろうじて残っているが、今はどこで何をしているのか。決して死に別れたわけではないが、目に見えず近くにもいない。それは捨てられたことと一緒なのかもしれない。幸いにして、悲観的になりすぎないのが、真島の取り柄だと思っている。
湧き出す自分の感傷と、少女の持て余す贅沢な悩み。
同じ世界、同じ国、同じ時代に生まれながらどうして、こんなに不公平なのだろう。
そんなことを、決してぶつけたりなんかはしない。だけれども、すこし、意地悪をしたくなる。
「ああ。……じゃあ、あれか。いじめられとんの? お友達は? 一人くらいはおるやろ」
「一応、いる。……けど、わからない。みんなと違う気がしてしまうの」
「…………当たり前だろ。全く同じ人間がいるか?」
ふわふわと曖昧な靄がかった物言いに、奇妙にも、ささやかな苛立ちを覚えた。わずかに語気が強くなるのを自覚して、とっさに真島は力を抜いた。
少女は軽く頷き、「そうだよね」と言った。
きっと、涼という名前の少女は、『浮いている』のだろう。
直感的にすぐわかった。普通であれば当たり前として受け入れてしまう何かに気づいている。それが『何か』なのかは皆目検討もつかないわけだが。
「でもね、吾朗くんの言ったみたいに、お勉強も、習い事も嫌だって最近思ってて。……悪いことだって思ってるけど、嫌なの」
「ああ。なら、それが答えなんやろな」
「うん、嫌なの」
少女にしては強い主張だった。優柔不断な雰囲気を言葉の節々から捉えていたが、それだけは、はっきりとした意思表示に思えた。
真島はその先の、掛けたかった言葉をすべて忘れることにした。出会って、一日未満。少女のことは何も知らない。関わることも今後ない。だったら、何かをもたらす必要はない。単純明快な答えだった。ともなれば、せめて家に帰すのが真島の出来ることのすべてだ。
「……明日にはさ、ちゃんと家帰れよ。いい加減、心配してるだろうし。ほんとに誘拐事件になっちまったら大事だぜ」
「うん」
癖付け途中の関西弁から標準語に戻ってしまう。この場に冴島がいなかったことが救いだった。
少女は聞き分けの良さそうに頷いた。
「寝るトコ、用意してやりたいけど俺の寝汗つきなんか嫌だろ。バスタオルくらいなら使っていい」
「ありがとう。吾朗くん」
「………」
真島はよくわからない気分になった。
少女は「どうしたの?」と首を傾げて眺めている。幼く丸い瞳が心配していた。
まったく女っ気のない生活をしているわけでもなく、家族に縁はなかろうとも、気にかけてくれる馴染みの異性に名前を呼ばれることだってある。
だが、なにか、不思議な感触に戸惑っていることに、驚いていた。
「その吾朗くんっていうの、やめろよ。なんか……ムズムズする」
「吾朗くんは、吾朗くんだと思うけど。だめ?」
だってそうだろう。
たった一晩寝床を貸すだけだ。明日以降も続く関係ではない。そのほうがこの少女と真島にとっていい。
なぜならば、生きている世界が違うからだ。ドブ臭く虫の這う穢れた世界よりも、涼の元来あるべき世界は、真島にとっては生まれ持たない、隔絶された天界に等しいところだからだ。しかし、真島はそれ以上の否定を続けられなかった。涼の瞳は清浄な水面を走る光のように、きらきらと輝いている。子犬を想起させるつぶらな瞳に負けた。
「……ところで、吾朗くんって、たまに訛るよね。なんで?」
「訛ってるてか、……あー、いや訛りたいっていうか。なんや、お前と話してるうちに戻ってしまうのが腹たつ。……調子狂うわ。……これは、親父のマネっていうか、あ、親父は師匠みたいなもんか――」
純粋な質問に関西弁と標準語の混ざった、チグハグな物言いに翻弄される。
少女はそれを悪いとも思っていない様子で、綺麗な瞳を細めてくすくすと上品に笑った。
「お父さんが関西の人なんだね」
「―――はあ、そう。そういうことでい、……ええ」
少女なりの最適解に、真島は軽く息をついて諦めた。
ヤクザとか。極道とか。荒々しい男の世界とは、一切無縁そうな世界に生きていそうな少女だから。
だったら、この先も一生知らなくていい。