さっき死んだみたい。



  1981年 7月8日



 「送ってくれてありがとう、吾朗くん」
 「もう家出なんかするなよ」
 「……うん」

 最寄りの駅まで、真島は涼を送ってくれた。
 一人で帰れると言ったが、またどこかへ逃げ出さないかと疑い、真島は切符を二枚買った。
 八日も、朝から暑かった。セミの鳴き声と、都会の喧騒と、夏の手前の焦燥感を背負って、涼は帰路についた。

 駅についてから、涼は少しだけ哀しくなった。
 これから家へ帰らねばならない憂鬱とは別の、真島との別れだった。しかし、そうは言ってもこれ以上留まって、彼が誘拐犯になってしまうことも嫌だった。努めて明るく、もうすこし、もうすこしと言葉を繋いでおきたくて、涼は感謝を口にした。
 
 「あ、……バナナ、買ってくれてありがとう」
 「ああ、どうも」

 真島は儀礼的に返事した。
 ひっかかりがなく、ならば次を――と続けようとしたとき耳慣れた声が駅舎の中に反響した。

 「涼!」

 兄だった。
 白い夏制服のシャツに黒のズボン姿で、佇んでいる涼の方へ走ってくる。
 傍らに立つ真島はそっと確認をとった。

 「……兄貴?」
 「う、うん」
 
 涼の体は固くなりはじめていた。
 それは緊張と物悲しさと、罪悪感がじわじわと迫ってきて、教会で深いお祈りを捧げなければならない憂いもあった。
 兄の後方に走ってくる女性の姿を認めた。母だった。涼の名前を叫び、少女の体を掬うように抱きしめた。持ち上がった体に追いつかず、靴が片方脱げるのも気にならないくらい憂いの波間にいた。

 「心配したのよ! どこに行ってたの!! ほんとに、どこに……っ」
 「お母さん………、ごめんなさい」

 謝罪を口にした。
 それ以上の言葉はなかった。母の顔色は白く、目は充血し、その下には青い隈があり、唇は噛み締めた痕なのか赤黒く変色した血が残っている。手入れを欠かさない髪すらも乱れていて、まさに憔悴しきった姿に、子供らしいワガママな言い訳をする度胸はなかった。

 それは、母だけでなく兄も同じだった。
 ほんのりと無精ひげが見えている。自分の行動が、家族を追い詰めている。実感から良心が痛んだ。自然と唇がまた「ごめんなさい」を繰り返していた。母は嗚咽を漏らし泣きだした。

 兄は腕で目を擦ると、見送りにきた青年――真島に声をかけた。


 「あの、すみません。貴方はどういう」
 「俺は……」

 涼は兄の眼差しが疑っていることを見抜いた。そうすれば、真島の善良な行動が咎められてしまう。

 「ご、吾朗くんは……! お、お友達で……、あ、怪しい人じゃないから!」

 涼はとっさの判断から叫んだ。
 兄は、疑り深い性格に加えて賢い。当然ながら「……本当に?」と言った。
 嘘ではないはずなのに、喉奥がつっかえるような感覚に声を振り絞って弁明した。
 
 「……本当、だよ。……お家に泊めてくれたり、……今日だって、送ってくれて、だから……信じて……?」
 
 懐疑的な眼差しをそのままに、兄は一旦状況を呑み込むことにしたらしい。

 「えーっと、じゃあ。ゴロウ、さん? ですか」
 「真島や」
 「真島さん。……妹がご迷惑をおかけしました。ありがとうございます。なんて、お礼をいったらいいか」
 「いやいや。そんな、大したもんとちゃいますし」

 真島は愛想よく、謙遜した。
 兄は一息つくと、今日までのことを明らかにした。

 「……ちょうど朝に、学校から電話がきてさ。お前、ミヨコちゃん? って子のとこに行ったんだって? 約束の時間になっても帰ってこないから親御さんに打ち明けたって。みんなが夜通し探し回ってくれたんだぞ……」
 「ご、ごめんなさい……」

 ミヨコの名前が出てきて、思わず泣きそうになった。口をつくのは謝罪だけだ。
 約束を守れなかったこと。真島と出会い、言い出す機会を逃したこと。それは、もう少しだけ彼の隣にいたいという浅はかな願望が理由であることを、わかっていた。

 だから、実は嬉しかった。
 最寄りの駅まで送るといった、優しさや、優しさに見せかけた彼自身の保身であったとしても、嬉しかった。


 「……はぁ。でも、よかった。……真島さんも、本当にありがとうございます」
 「あ、あぁ」


 心底ほっとした、といったように兄は何度目かの呼吸をついた。


 「……すみません。僕、連絡入れてこなきゃいけないんで。お時間に余裕があるならで構わないんですけど、もう少しいてもらっていいですか」

 たくさんの身の回りの人を巻き込んだ。兄は真島の返事もそこそこに、近くの公衆電話に駆け込んでいった。
 涼は幼稚な理由から、家族や社会を巻き込んだ罪悪感を強く感じた。それでもその罪悪感の隙間から、新たな願望が顔を出している。淡い夢である。どうか、それほどにしてまで――外の世界に行きたくないという意志を受け取って欲しいと思っていた。

 ゆえに、確認をするように、涼は訊ねた。「ねえ、お母さん。……お父さんは?」と。
 母は顔を濡らし、細かい刺繍の施されたハンカチーフで覆いながら答えた。

 「会社よ。……ああ、本当に良かった……、これも神さまの御業なのよね?」

 どくん、と心臓が跳ねた。
 かすかな歓喜と、相変わらずの妄執に感情が冷えていった。
 涼は、ずっと、母のこの取り憑かれたかのような『言葉』が好きではなかった。


 「……ごめんなさい、飛行機代だって……、無駄にしちゃった……」

 まるで聞いていなかったように、自然に、子供らしさを心がけて、謝罪を口にすると、母はハッとした顔つきになって、その大きな瞳が恐ろしいものを見てしまったようなものに移ろいだ。

 「涼、知らないの?」
 「え?」

 世界がゆっくりと、泥の中に取り込まれてしまったかのように、ドロドロと沈み込んでいく。その末に、キーンと耳鳴りがした。


 「私たちが乗るはずだった飛行機が、海に墜ちたのよ―――」


 なにかの音を聞いた。なにかの悲鳴をきいた。風とか、木の揺らめきとか、水が跳ね上がったときとか、あるいは、――泣きじゃくる、誰か、よく知った、自分の咽びとかを。
 もしかしたら、死んでいた。頭から、肩から、下へざあっと落ち込んでいく恐ろしい痺れに、頬の上の一筋の熱い体液が生きた心地をそっと教えてくれる。

 母らしき人は、それを一体なにと取り違えたのか、微笑んで――その嫌いな、『呪い』のような言葉を口にするのだ。

 
 『やっぱり、涼ちゃんは、特別な子なのよ』


 特別なんかじゃ、ない。
 すくなくとも、貴女の望むような。


 『あなたはマリア、だもの』


 涼にとって幸いなのは、家出をしたことが正しく悪、ではなかったということだった。
 ミヨコという友達。偶然にも再会した真島吾朗と、明日より先の世界がここ日本にあるということ。
 それが、何よりも彼女を勇気づけたのだった。 




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