『悪いこと』




 荒川涼の家出事件は七月の中旬まで、学校中の一番の話題だった。



 幸いにして、期末テストの時期と被ったこと、夏休みまで秒読みだったことで、無遠慮な好奇心と、心無い噂に触れる機会を減らした。むしろ搭乗する予定だった飛行機が、海上着水事故となったことが広まってしまい『予知者』だとか『奇跡の生還者』だとかの称号が涼に与えられることになった。


 代山基督学院。
 東京に近く位置する、神学系の中高一貫校。初等科からあり、共学制度が中等部まで続くものの毛色は女子校である。
 涼は中等部に通っていた。


 「いいなあ。涼ちゃんだけ、期末試験ないの」

 試験機関は早々と時間割が切り上げられ、昼下がりには人気が少なくなる。寮に下宿している子を除けば通学組だけだが、テストともなれば図書室や自習室へと籠もりっきりとなる。

 そんななか、教室の窓際の二番目の席でテスト範囲表と、ファイリングされたプリントとノートを交互に見比べ愚痴をつぶやく友人に涼は付き合っていた。ウェストミンスターの学校の入学にあたって、別途で受けた試験が期末試験の代わりと認定され、免除されたのだ。

 ゆえに教師陣からは、テスト範囲の内容に対して口止めされている。
 出席点のためだけにテスト期間でも通学をしているが、一限に顔を出すだけで良いので、コモンルームでお茶を飲んだり読書をしたりして時間を潰している。


 「向こうの学校の予習だってしてたんでしょ? 今回の範囲よりずっと難しいそうじゃない。ちょっと教えてくれたらいいのに」
 「それは……だめ、かなぁ。ミヨコちゃんにはお世話になっちゃったから、お返ししたいけど。こればっかりは……できっこないかも。ごめんね」
 「んーん? 全然。いいの。……元気でさえいてくれたら!」

 夏季制服のセーラー服。淡いマリアブルーの襟には白い線が三本入っている。薄手のシャツの袖が、窓から入り込んだ風に吹かれて、パタパタと音をたてた。

 「イギリスには、もう行かないの?」
 「……しばらくは調整中なんだって。お父さんも、ちょっとショックを受けてるみたいで。……本社のままかもしれないし、もしかしたら一人だけ海外赴任になるかもしれないって言ってた。……だから、私はもう行かなくていいんじゃないかな……?」


 ミヨコは深刻そうな顔をせずに、ごく自然に「そう」と相づちをうった。


 「……嬉しいけど、素直に喜べないよね。不謹慎だってわかってるけれど」
 「……うん」
 「その泊めてくれたお友達には、感謝しないとね。……あの日、学校から帰ってきた時、実はお母さんにバレちゃってて。もしかしたら……その日のうちに涼ちゃん、お家に帰されてたと思うの……だから」
 「そうだね」

 ミヨコによる小さな告白を受け止めて、一番目の席を借りて座っている涼は窓の外に広がる青空を見上げた。
 世間は過熱報道を続けている。テレビも、新聞も、ラジオも。電車の中の広告にも―――、百名近くの乗員乗客と、溺死した犠牲者。行方不明になった人。遺族のかなしみは、毎日どこかから溢れてくる。


 「夏休みが明けたら、みんな忘れて欲しいけど、そういうわけにもいかないよねぇ」
 「うん……」
 「………。ね、あの約束覚えてる? 一緒に行くって約束した、コンサート。……今度お家に行った時、一緒にお願いしてみるから行こうよ。……家出したばっかりだから、反対とか怒られちゃいそうだけど。……せっかくの夏休みがつまんないのってサイアクよ」


 ミヨコは、憂鬱な趣を察して、身を乗り出して力強く言った。
 すくなくとも、涼は慰められ助けられた。
 

 「ありがとう、ミヨコちゃん」

 涼の微笑みに、ミヨコは企んだときの愉快そうな笑みを深めた。
 「ね、楽しもうね」といって。






 午後四時。


 まだまだ青い空に広がる入道雲を、一筋の飛行機雲を、涼は見上げた。
 もし、七月七日に飛行機に乗っていたら。どうなっていたのだろう。―――きっと。

 「……死んでいたわ」

 それと同時に浮かび上がるのは、新しい友達の顔だった。
 終始、迷惑だと言いたげな態度をとっていたが、本当に悪人というわけではなさそうだった。
 直接的ではないものの、家に泊めてくれて、……その日なくなるはずだった、涼の命を救ってくれた。

 「吾朗くん―――」

 
 助けられたのは、二回目になる。

 一度目は、一年前。
 二度目は、七月七日。
 
 これを奇跡といわず、なんとするか。
 涼は眉根を寄せた。これは、母のいうように神の御業なのだろうか。それを認めてしまえばいいのに、しこりが残る。


 「涼ちゃーん! アイス買って帰ろうよ〜」

 季節に似合う爽やかな声。ミヨコが呼んでいる。
 俯かせていた顔をあげて、涼は一歩を踏み出した。





  ◇ ◇ ◇





 期末試験最終日、ミヨコは「ちょっと悪いことしよう」と涼を誘った。


 世間体や学校のイメージを考慮して、校則のなかに『寄り道を避けること』、という一項がある。
 お堅い校則を踏まえると、涼のしでかした『家出事件』は理事長や教職員たちからは大目玉。それ以上の反感を買う重大な事件である。――場合によっては、停学か放校処分になってもおかしくない。


 しかし、普段の品行方正な生活態度を考慮して、また、現実の重大な事件を加味した上で不問に処されたわけだが。
 それをあっけなく、次の悪事への誘いに結びつけるのは如何なものか。


 以前の涼であったら、尻込みを決め込んだだろう。だが、日に日に涼の心の中で自我は肥大していった。そもそも、私立の学校に通っていることは涼ではなく母親が決めたことだった。その、母に対する反抗も兼ねて、少しずつ少しずつ、小さな悪を身に着けていくことにしたのだ。

 もっとも、母の癇癪を聞かないよう直接の口答えではなく、見えないところで、という条件付きだが――。


 「アイス、どれにするの?」
 「うーん。さっぱりしたものがいいかしら、暑いもんねえ。あ、パピコは?」
 「パピコ?」
 「うん。二つがくっついてて、分けるの。……せっかくだから、これにしよっか」

 下校途中にあるスーパーの冷凍コーナーに立ち寄って、ミヨコは慣れた手つきでアイスを選び取った。
 『ちょっと悪いこと』において、ミヨコは涼よりも遥かに先輩だった。ホワイトサワー味。の商品名を確認して、涼は小さく頷いた。

 冷凍コーナーからレジへ行く先で、涼は一人の少女とぶつかった。小さな悲鳴と、持っていたカゴが揺れたのをみて、とっさに謝った。

 「あっ! ごめんなさい」
 「大丈夫? ごめんね、痛かったねえ」
 「ああ……だ、大丈夫……あ、卵……よかったぁ」


 少女は涼たちと年齢がほど近い印象を持った。身長はわずかばかりに低く、穏やかで優しげな雰囲気をもった子だった。
 ミヨコはすっと前に出て、もう一度訊ねた。


 「本当に大丈夫? 卵割れてない? よかったらこれ私が買うから、新しいの買っていいよ」
 「ありがとうございます。えへへ。お気遣いなく」

 柔和な声に、すこしばかり訛りの加わった物言いが愛らしい。
 涼はきょろきょろと周囲を見渡して、少女の同伴者がいないか確認した。


 「一人でお買い物?」
 「お兄ちゃんがいるから、あ、お兄ちゃん。……ほんならこのへんで」

 「お兄ちゃん」と言った方向の先には、頭が三つ分は高いであろう、大きな体格の男がレジの方に立っていた。
 少女は片手を宙にひらひらと振った。それから、律儀にぺこりと頭を下げると、一足先にお会計へと向かった。


 「かわいい子だったね」
 「うん」

 二人の兄妹がスーパーから出ていく背中を見送って、涼たちも会計へ向かった。


 



  ◇ ◇ ◇





 その夏、生まれ始めて、”落ち着かない”コンサートに参加した。

 曲に合わせて叫んだり歌ったり、派手な演出とパフォーマンスが目の前に広がっていて、いつもの、舞台上から動かない奏者たちを、椅子に腰掛けながら浸るものとは違った興奮があった。



 「はい、ポカリ」

 売店で買ったばかりのポカリの缶の表面には、いくつもの水滴が浮き上がっている。
 差し出されたポカリを受け取ると、歓声と拍手が観覧席まで響き渡った。八月の初め。陸上大会に涼は兄と一緒に来ていた。
 
 「ありがとう、お兄ちゃん」
 「どーいたしまして」

 観覧席の硬い椅子。一つ席を空けて、兄が隣に座ると冗談めかして言った。

 「びっくりだ。……涼が陸上競技場なんか行きたいって言い出すからさ」
 「うん、私もびっくり」

 兄は意外そうな顔をして、一度、競技中の場内の中央をみた。

 本当だった。
 社交辞令の一つと受け取ればそれまでだった。涼に期待をかけて勧誘してくる陸上部の先輩やメンバーが本気でそう言っている、としても。自分には期待に応えられるだけの情熱がないと思っていたし、自信がなかった。


 「好きなヤツの応援とか?」
 「えっ」
 「なんだよ。えっ、て。じゃなきゃ、行こうなんて言わないだろう」

 思考を遮断するように兄は言った。涼は驚いたが、理由を考えるにあたって、自然な考えとしては間違っていない気がした。
 あの家出をしてから一ヶ月。少しずつ、涼とその周りが変化していっている。主に、それらを総称するなら『悪いこと』なのかもしれない。――陸上大会へ行きたいと願い出たときでさえ、母はいい顔をしなかった。条件として兄を同伴させることで許しを勝ち取った。

 ミリ単位で、涼の意思を反映させようと努力を重ねている。
 ミヨコと一緒に行ったコンサートは、とくに涼を勇気づけた。勇気の連続。――遡っていけば、あの七月七日に行き着くだろう。

 アーケードの下で、真島と出会い、追いすがった。
 しぶとく、泣きながら、拐われても構わないと願って、『悪いこと』をする最初の勇気を得た。彼の、力強い二つの黒い瞳が諭そうとしていることを知っていながら、意志を貫いた。


 「違うよ」と、もう一つ否定を重ねると兄は肩をすくめて笑った。



 「でさー。花中の岡村って男子がさ、ちょっかいかけてくるのよう。それが、………ああーっ!! ちょっ! ええ? まってまってミカ!」
 「あー? あーっ!!」
 

 他愛のない女子二人の会話が流れていくと思いきや、涼の座る席の近くで止まった。「えっと……ご、ごきげんよう……?」と、ぎこちのない決まった挨拶をつぶやいた。よくよく目を凝らしてみると、しばしば勧誘に訪れていた面識ある先輩だった。運動をするにふさわしいスラリとしたスタイルをしていて、日々の練習からか他の生徒に比べれば、健康的で濃い肌の色をしている。

 感極まった様子で、声がワントーン高くなり、二人してはしゃいでいる。

 「うそお! やだ、マジ? ちょっと泣きそうなんだけど! み、み、ミカってばボサッとしてないで! 猪崎呼んできて! はやく!」
 「わわわ、わかったぁ!」
 「あははは。ごめんねえ、慌ただしくしちゃって。ごきげんよう、荒川さん……と、お兄さん……すよね?」

 急に振られた兄は、人見知りの性格を発揮して声が急におとなしくなった。

 「……ども。……なあ、涼。どういうことだよ」
 「じ、じつは陸上部には名前だけ入ってるの。……大会があるから、見学においでってお誘いがあって……、色々あったから……。せめて観戦にはとおもって、そのう」
 「なんだそういうことか。……涼って足速いんですか?」

 あとあと挨拶に伺う予定だった。このような形で先輩らに見つけられるとは考えておらず、意外な形で観覧目的がバレてしまった。しどろもどろになる涼に対して、やはり信じきれないのか疑わしそうに目を細めている。
 先輩は目を見開いて、ヒートアップを加速させていく。


 「は、速いのなんの。うちの学校じゃ一番か二番ですよお!」
 「まじ? おったまげたな。なんか歩くのがノソノソしてるから、走るのも苦手なんだろうなって思ってたけど。泳げないし」
 「いやいやいやいや……! オニーサン。走れるんスよ。私たちずうーっと勧誘してて。名前だけならいいって。大会にも出てみないかってお声掛けさせてもらってたんですけど、まあ。なんやかんやとあったんで。……でも、今日来てくれたってことはその、あの、つまり……やっぱ、その気になってくれたってコト……?!」


 早送りボタンはどこにあったのか、先輩は矢継ぎ早に捲し立てた。
 そして、涼にその気があるのかと、期待と焦燥感と熱のこもった眼差しを向けて尋ねた。勢いに気圧され――薄い声で「はい」と答えるや否や、その場で足を鳴らした。

 「くぅ―――! ちょっ、ちょっ、ちょっとだけ借ります!!」
 「はーい、どうぞ」

 先輩は涼の両肩に手を置いた。ポカリの缶を両手で握ったまま、息をつく間もなく、観覧席の階段をぐんぐんと下り、気の抜けた兄の返事が遠ざかっていく。





 風鈴が風に揺れて、チリリンと趣の音を響かせた。
 その涼やかさを打ち消すように、熱い声であらましを説明するのは涼の兄だった。
 

 「そうなのぉ? 涼ちゃん、運動部に入ってたの。あらあら、びっくりねえ!」
 「でしょ。俺もう、あの涼が? って何回も思ったし!」
 「や、やめてよ〜。もう、あんまり蒸し返さないで……顔が熱いわ。……入部していたって、幽霊部員みたいなものだし……」

 陸上大会のその日。
 兄は驚きと興奮を祖母に打ち明けた。涼はまさか、これほど話題に上げられるとは思っていなかった。掻き立てられる羞恥心に、早く終わって欲しい一心で、切り分けられたスイカをかじってやり過ごすことにした。

 「ふふふ。おじいちゃんにも言ってあげなきゃ。ビックリしちゃって、ぎっくり腰になっちゃうかしら……?」
 「いいけど、そっとよ。そっと言ってね……? 長生きして欲しいから」


 祖父母の家は、涼にとっていつもオアシスだった。
 家から近いところに、祖父が終の棲家として建てた家だった。……とはいっても、仕事を続けられるうちは続けるといって、家に帰ってくるのもまとまった休みになってからだ。 

 祖母が台所に向かったのを見計らって、兄は話を続けた。
 
 「で、夏休みのその、部活やるんだろう?」
 「来週からだよ。……日曜日と被っちゃうから、その……お母さんが怒りそう、なんだけど」

 兄は我が身のことのように喜んだ。
 涼はためらいがちに、ゆっくりと予定を口にしたが、やはり母のことが心配だった。

 母に反抗はできても、いつかどこかで、その罰をお与えになさる時がくるかもしれない。――信教していない人のしていい自由を、享受して良いはずがない。その考えが未だ捨てきれないでいた。また、神さまに対して信じられない心持ちを誤魔化し続けていることも。

 不思議なことに、同じ信教心を持っているはずの兄には、葛藤の影が見えないことだった。

 「そっか。そうだなあ……、よし、わかった」
 「どうしたの?」

 兄はおもしろそうに笑い、頷いた。

 「ははは。まあ、一波乱来るだろうけどさ。やってみるよ。実は父さんもさ、気にしててさ。……母さん、涼のことをちょっとお気に入りにしすぎってか、大事にしすぎっていうか。涼は、涼であるべきだし。いい加減そういうのウザいよなぁって」

 涼は目を見開いた。
 家族の中で流れている暗黙の空気。それを、臆することなく口にした。


 「涼は、涼がしたいことをすればいいと思う。……俺はたまたま運良く、勉強が得意だから、”いい子ちゃん”の皮かぶれてるけど」 


 兄は肩の力を抜いて、天井を見上げた。風鈴の音と扇風機の音が静寂に流れた。
 涼はどうしていいかわからなかった。しかし、同じ悩みを持つ兄がいることが救いだった。

 「……神さま、はお赦しになるかな」
 「神さまはそんな程度じゃお怒りにならないよ。だって、なんにも悪いことしてない。母さんは神さまじゃないだろ? ははは」
 「う、うん」

 兄はまた朗らかに笑った。
 涼にはもう、気づいていた。いつか自分もその後を追いかけるだろう。
 彼は聖典ではなく、植物図鑑や鳥類図鑑を好み、ロザリオよりも双眼鏡を持って出かけるのが好きな青年だから。

 すこしずつ、すこしずつ、『悪いこと』をするのを得意になっていって、大人になっていく気配。
 涼にはわかる。兄の方が思い悩んだことを。だから、こんなにも喜んでいるのだと思った。涼がしたことを『なんにも悪いことしてない』と、言い切ったのは――やはりそういうことなのだ。


 「それでも心が苦しいと思ったら、告解したらいい。教会のさ、神父様がいらっしゃる部屋で……聞いてもらうんだ」


 涼はようやく微笑んだ。
 そうして、また背中を押されたような気がした。その次にまた、彼の青年の顔が思い浮かんだ。
 人生を変えた日に出会った、真島の顔が。




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