透明な『  』


 フォークでさした付け合せの人参が、ころんと皿のうえに転がった。

 「……し、新婚旅行?」
 「なんや。そない驚くことあらへんやろ。籍入れただけや。もっと新婚らしいイベントがあってもエエんとちゃうかのぅ」


 スケート場に併設されたレストランで夕食をとることになった。
 落ち着いた店内は、レストランというよりは、こぢんまりしたレトロな喫茶店のような落ち着いた趣があった。

 二人分の白磁の皿の上には、ケチャップソースのハンバーグに、温野菜とハッシュドポテトが揃っている。ソースと主食用のライスとパンのそれぞれの温かで芳醇な香りが食欲を掻き立てる。卓上の会話は、二人の将来的な展望についてだった。

 涼は、一度くらい新婚旅行を考えたことがあった。しかし、相応しくないとも考えていた。

 「……うん」
 「ばあちゃんが心配か?」
 「それもある。けど……少しだけ、こわい。今がとても幸せだから」

 本音だった。
 希望に満ちた将来を観測するには、すっかり臆病になっていた。
 こんな事をいえば、なんて贅沢な悩みだろうか。真島はそれを望んでくれている。身の回りのすべての人が『幸せになるべきだ』と賛同していても、涼は、いつか幸せが翼を失って、破滅の海へと投げ出されてしまうのではないか。不確定な未来で傷つくことを恐れていた。

 「これ以上、幸せになったら……罰が当たるんじゃないかなって」

 食べきれないほどのケーキが積み重なって、途方に暮れるような贅沢な苦しみを味わっているようだ。
 続いて『幸せになることへ臆病でいる』と、きっと彼はこう言う。

 「罰なんか当たらへん。当たっても、そんときは一緒や」

 涼は、はっと息を呑み目を丸めた。
 向かい側の席について、彼は窓の方に顔を向けている。

 「宇宙でも海ん中でも、砂漠でも南極でも、引っ張ったるっちゅーねん」
 「………」

 気恥ずかしくなるような、キザったい台詞。こうは言ってはなんだが、真島はサマになってしまう。

 「……あー言うてて恥ずかしなってきたわ。黙らんといてくれや。まだ『愛してる』言うほうがマシや!」
 「………」
 「アカン。変に目立ってしもてる。のう涼ちゃん、なんか言うてくれやぁ。笑ってんとぉ」

 ざっと店中の視線が二人のテーブルに集中していることは、涼にもわかった。羞恥心はある。それ以上に、恥をかき捨てて涼の心を慮っての言葉である。潔く、愛おしく。たまらない気持ちにさせた。真島はきょろきょろと周囲を見渡して、肩を震わせている涼を咎めた。

 「……ふふ、……嬉しくって。……幸せだなって」
 「……お、おお。そうか、ぁ」

 ほっと一息。安堵のため息が聞こえてきそうだった。
 
 「……ちょっぴり恥ずかしい」
 「……っひひひ!」

 今度は真島が笑う番だった。
 恥ずかしいのも、二人一緒だ。涼は自然と、前向きに考えられるように努めた。そして一つの考えが頭に思い浮かんだ。昼間にきいた真島の話から、ふとそうしてみたくなった。 

 「旅行は、どこでもいいから。あ……でも、川で魚釣りしたいの」
 「釣りか! そやったら、渓流釣りはどうや。春先……三月はちと忙しいわ。いや下旬やったら……」

 腕を組んで真島はすぐさま思考を働かせた。こういう時の決断の速度は素早く、涼の希望を汲んで膨らませていった。
 釣ったものを食べたい。宿は渓流の近くの旅館がどうか。関東圏内か、足を延ばして東北か、近場の信州か。
 連想ゲームのように発展する構想が、積み木のように重なっていく。涼にとって『望んだ場所』に行く自由を選択することは、生まれて初めてだった。

 ほんとうは、真島と一緒であれば、どこへ行ってもいい。
 あえて告げることはやめた。これ以上、レストランで恥ずかしい思いをさせたくなかった。豊かな愛情が、涼を前向きに変えようとしてくれていて、何度も、何度も彼に惚れ直してばかりいる。


 「さっぶ! お、雪やで、涼ちゃん。飯食ってるとき自動ドアが開いたり閉まったりしとって、そっからビュービュー吹いてくる風が寒うて寒うて」
 「冷えるね」
 「早う帰ってあったまろ」

 突き刺すほどの寒さは、雪の前触れだった。
 ちらちらと雪が降り、駐車場に並んでいる車はうっすら雪化粧している。
 
 この一泊二日の小旅行が終わっても、次がある。
 二人で出かけることは、始まったばかりなのだ。








 テレビもラジオもいらない。木の葉たちののざわめきと、宵の静寂がたちこめて。
 薪ストーブ越しの、赤い炎の陽炎の揺らめき。パチパチと乾いた木の燻り弾ける音。

 マグカップからもうもうとくゆる白い湯気が、頬を撫でる。微睡みから覚醒効果をもたらす、曖昧な感覚の中を揺らめいていると、柔らかいソファの軋む気配に、現実に引き戻される。

 「なんや。あっちにおらへん思たら」
 「……吾朗さん」

 スウェットのズボンを履き、まだ暑いのか上だけは裸で、白いバスローブを羽織っている。
 涼がベッドルームに行っていると思ったらしい。長い脚を放り出すようにソファに座った。ラグの上にぺたりと座り込んでストーブを眺める涼の背中を、じゃれつくように軽くつついている。

 「こっち来てぇやぁ」
  
 ストーブ上で熱された薬缶が汽笛を鳴らしている。
 白湯の入ったカップをテーブルに置いた。真島の脚の間に収まると、大きな掌が天使の輪がツヤツヤと輝く頭を優しく撫でた。


 「なんやかんや言いもって、よう滑ったのう。……尻痛ない?」
 「だ、大丈夫」
 「……ひひ! アカン、思い出したらもっぺん笑えてきたわ。涼ちゃんプルプルプルプルしとって……」
 「もお、いいでしょ……恥ずかしい」

 スケート場の一部始終を想起して涼は赤くなった。
 からかう真島は「ひひひ」と一段と笑みを深めた。――顔を背けるように炉の中で燻る炎のほうを眺めて、涼はぽつりと呟いた。

 「来てよかった」

 炎を見ると、あの島で、『吟』と名付けられた日を思い出す。

 涼ではなかったが、孤独と絶望の最中でも空腹を満たそうと、焚き木を組み込んだ小さな炉で、炙られる子豚の肉を待っていた。
 彼らは名前を決めたとき、ピンインではなく涼の教えたばかりの日本語をなんとか使って、ワンではなく『オウ』と言った。今にしては記憶の美化が働いて、正しいことも不確かだ。……歩み寄ろうとしていたのではないか。怒りも、悔恨も、ひりひりと焼け付くような絶望も。哀れみすら超越して、記憶の中の残骸に微笑んでいられる。

 そう思えるのは、隣に真島がいるからだ。
 自然に溢れた言葉を拾うように気配が揺らめいた。


 「吾朗さんといると、昔のことが、……ちょっとだけ良かったね、って思えるの。上手く言えないけど」
 「……ん」
 「――ありがとう、吾朗さん」

 真島は身をかがめて、涼のつむじに無垢なキスを贈った。
 涼はそのくすぐったさにきゃらきゃら笑うと身を捩った。真島の真剣な表情に音量を下げて、そっと尋ねた。
 
 「どうかした?」
 「なあ、涼ちゃん。……前に話したことあるんやけどな。涼ちゃんの前にな、結婚してたいう話」

 音もなく頷いた。
 真島は秘密主義というわけではない。彼が無闇矢鱈と過去を暴かないように、涼も倣っていたからだ。過去を告白しようとしている真島は、いつになく冷静で、とうぜん茶化すなんてことはもってのほか、涼は沈黙の相槌を続けた。

 「正直いうと、その娘との間に子供がいた。……けど、……この世界にはおらへんのや」

 密やかな声が真実を連ねる。意外に思うよりも、すっと馴染んでいく。

 涼はそれが、目には見えない真島の、罪と感じている傷なのだと感じた。
 真島は、家族の秩序を大切にするひとだから、相手の堕胎を願うような不義理な性格でないことくらい知っている。それ以外の不運や宿命によって、奪われたと考えるのが自然だった。口にせず見せぬだけで、真島はその懐に抱え、背負っているものが大きいのだと涼は実感した。

 「可哀想なことしたな思っとる。……その相手の子も、赤ん坊にも」
 「……うん」

 涼は詮索を選ばなかった。
 過去は変えられない。その延長線上に涼と一緒にいることを望んでくれている真島が、そこにいるだけで十分だったからだ。

 「負い目があるんやろなぁ。……けど、涼ちゃんが今言うたの聞いてな。嬉しゅうて。……ひひ、小っ恥ずかしいのう。性に合わへんことしてるんわかるわ。もっと男らしいこと言わなアカンな」
 「……どうして? そのままの吾朗さんの方が好きよ」
 「あ? あぁ……そ、そういうの、ずっこいわ!…………前から思とったんやが……たまに直球でくるのがのぅ」

 湿っぽい話を終わらせようと、明るさを取り戻す真島だったが、真面目なまま相好を崩さぬ涼の、真っ直ぐな愛情表現に面食らった。
 照れ臭そうに息を吐く真島は、前屈みになって腿の上で頬杖をついた。

 それが面白くて笑いを噛み殺すも、お見通しのようだった。

 「……おうおう、やってくれるやないかぁ」

 子供じみた悪ふざけの続きを楽しむように、涼に抱きつけば、しっぽを振った大型犬のような甘え方をした。
 涼の脇の下に腕を差し込むと抱き上げて、ソファに転がった。
 
 「ちょっとお、ご、吾朗さん……」
 「ん〜。温いのう。ぬっくぬくや。……お、顔赤いけど熱あるんか? ひひ」
 「ひ〜ちがう〜」

 備え付けのボディソープとシャンプーの、慣れない香りが匂い立つ。
 鼻をぴったりとくっつけて、くんくんと嗅いでいる。細身とはいえ高身長の大男。ふつう愛らしいという形容を抱くことはまずないが、仕草は愛玩動物そのものである。名前を呼べば、ちらりと視線を寄越し、熱を帯びた耳を柔らかく食んだ。すこしの裏切りに涼は声をあげた。ただの愛情表現に留まらない、一線を越えてしまいそうな気配に、危険信号が点滅した。

 「んっ……、ねえ」
 「………ん?」

 涼の問いを遮るように、真島は首筋を吸った。
 かねてからの期待と予感に舌がもつれて、上手く言えずにいる涼を見下ろして、真島はくすっと笑った。

 こめかみを伝い、額、目頭、鼻先、頬へと下り、唇にたどり着く。いつもならそこで途切れる。名残惜しく、余韻を残しながら、愛する女の身と心を案ずるために、欲望の扉の錠前に鍵をかける。涼は密かに懸けていた。愛の大義名分の前に、女としての不能の烙印を受け入れるかどうかを。

 じゃれ合いの地続きからの向こう側を越えて、真島がその身を引くことはなかった。
 今日は、鍵の閉まる音が鳴らなかった。

 「えっちしよ」
 
 後になるほど波紋のように心に広がった。
 短くも、熱っぽい誘い。言葉が音となり耳へ入り、肺に、胃の中に、その奥底へと下り熱くさせる。

 涼は瞳を伏せた。
 望みを言い当てられてしまった羞恥心からだった。また、心のどこかでそれを望んでいたことをはっきり自覚した。
 真島の黒い眸はそこにじっとある。拒めばその通りに、引き下がることを知っている。真島はいつだって、優しいからだ。今日でなければ、次に。次がだめならば、その次の機会へ。

 どれだけ愛を抱いていても。幸せであっても。それが障壁である限り。
 そうしていつか、形だけの夫婦になっていくのだろうか。

 妻に果たせぬ性欲を見知らぬ誰かに発露させて、心まで奪われてしまうのだろうか。危うい未来を想像すれば心が疼く。涼は、それだけは耐えられないと思った。

 返事の仕方に悩みながら、涼はこくりと頷いた。
 真島は満足げに微笑むと、もう一度唇を触れ合わせて吸った。一つ、二つと深まっていき、ぬるりと侵入した舌を撹拌させていく。
 
 「……ん、んぅ、……は」

 涼は真島との口吻を気に入っていた。むき出しの感覚だけの曖昧な夢見心地へと陥る瞬間。無防備を晒す安心感を愛していた。今日はいつもの続きに、刺激的な予感と興奮がある。なお理性的であろうと、淵を掴んだ指を一本、二本と剥がされるような、目のない背中から落ちる恐怖と、安寧の気配に、真島の体にしがみつくと、それが訴求に思えたのか上半身を引いた。

 「ベッドがええか……?」
 「ううん……だいじょうぶ」

 くらくらと目眩がするのを堪えて、涼は首を緩やかに振った。
 ソファはベッドよりは狭いが、寝室ではストーブの熱も届かず、せっかく宿った熱も冷めてしまいそうだった。
 暗がりのなかのほうが恥じらいも薄らぐ。彼の優しい気遣いの手前で、遠ざかっていたはずの葛藤を思い出した。生娘らしい初な態度が場違いのように思えた。

 真島は着ていたガウンを脱ぐとソファに敷いてそこへ涼を座らせた。
 男の均整の取れた体躯。かっちりとした肩から二の腕にかけての稜線。すっきりと割れた腹筋。すらりと伸びた脛。
 鮮麗な刺青に宿る艶は、風呂上がりも手伝い赤みが透けている。ぼんやりとした中にはっきりと、『今から、この男に抱かれる』意識が芽生えてきた。

 恥ずかしそうに顔を伏せた涼に、真島は朗らかに笑った。

 「いっつも思いっきし見とるやん」

 その時と今は違う。口にすることも、余計に意識するのでもごもごと動かすだけに留まった。
 家族から生物。個の男として、女として。99.9%、まったく遺伝子が同じ人類。0.1%の小数点以下の差異を持つミクロの二人が、限りなく同じ意思を持って、巨きなコスモの下で一つの点になろうとしている。

 ミクロはマクロの感情を内包している。
 いくらその意識が宇宙からみれば極小であろうとも、女には消えない意識がある。

 ――今さら、何も知らない女のふりをして滑稽ではないかと。多くの女が幸せを得るための手段としてきたものを、自分は幸せとして享受しようとしている罪悪感が蔦を絡めている。


 「俺を見てや」


 涼の思い詰めた表情を案じてか、真島がそっと声をかけた。涼は言われるがまま見上げた。 
 赤々と燃ゆる炎の濃い陰影が、部屋の中で踊っている。揺れる影が、真島の彫りの深い繊細な造形にももたらされ、肌は艷やかに光を帯びている。
 どこかの世界を見つめる涼を引き捕え、真島はふたたび唇に喰らいついた。

 「ん、ふ、ぁ……」

 歯茎、歯根、上顎を愛撫し、舌を絡ませあい唾液を吸う。 
 すこしずつ、すこしずつ、溶け出していく。くっきりと明瞭にわかれた肉に包まれた意識を持つ二つが、曖昧に溶け出していく。

 すべてが、どうでもよくなっていく。

 催眠術をかけられたかのように。ぼんやりと形を不確かに、言葉の範囲には収まらない。外側から温かく緩まる、人間の理性とか格式やあるべき姿などは必要のない、肉としての快さにくらくらと目眩がした。
 
 「ん、んん……」
 
 優しく這っていた手が、寝衣の釦を指先で外す。白く滑らかな肌を露わにし、首筋に吸い付き、胸元へと下りていった。口周りを生える髭がきめ細やかな肌を触れると、涼は擽ったくなり笑い声をあげた。

 「くすぐったいかのぅ」
 「うん、……ふふっ」

 ちゅっちゅっとわざとらしく音をたてて、形の良い玉のような乳房を確かめるように伝い、赤い実をぱくりと頬張れば、涼の肩がぴくっと跳ねあがった。熱い口内に迎え入れ、舐られる感触は悪くない。幼く見せる下りた髪を指の間に掬い、耳裏から頭蓋の周囲を沿うようにさらさらと撫でると、真島は嬉しそうに目を細めた。

 綿のパジャマのズボンをくっと下げ、もどかしそうに膝小僧を擦り合わせた。胸の上で戯れていたのを止め、足跡をつけるように胸から腹をキスで辿り、下着に覆われたまるい恥丘の上を鼻で吸った。不意に噛み合った視線が涼の羞恥心を煽った。
 
 「や、やだ……もう、その……」
 「まだ何もしてへん」
 「あっ! ちょ、っとお……」

 中途半端に脱ぎきれていないパジャマと、その股の間で犬がグイグイとマズルを押しつけるように、布一枚隔てた恥部のにおいを吸っている景色を想像したことがあろうか。愛する夫の変態的ともいえる前戯は、困惑とともに別のなにかが呼び覚まされていく気配。下着なんてあっさり取り払われるものだと思っていた。

 「ええ匂いする」

 鼻孔を押し当てたまま前身頃から、クロッチ部分へ下りていく感触と、吸い込まれる感覚。それから、薄い布越しにある恥部への刺激が重なり、下腹部に集中する熱への動揺がさらなる羞恥心を掻き立てる。

 「そこ……きたないから、だめ」
 「汚いとこなんか一個もあれへん」

 あまりにも真剣に、嘘のない人の言葉だからこそ、まごついた音に変わるだけだった。
 
 「一回だけ試してみぃひん?」
 
 わずかな恐怖と期待のせめぎ合いの末に「ちょっとだけよ」と手綱を緩めると、真島の瞳が煌めいた気がした。とんでもないことを承知したのでは、と考えるうちに下着は脱がされ、恥丘の草むらの香りと、柔らかな肉の感触を楽しむように手指や唇で愛撫した。どこまでも男らしく、拳を振るうことも厭わず、涼を前にしては優しく名前を呼び、優しく触れる男が、たった今。排泄器官という名の内臓の入り口に顔を寄せて、舐めしゃぶっているのだから、これを自惚れずとしてなんというか。

 「あっ……」

 ぞくりと背中を罪悪感と高揚感が駆け巡る。それが、あっさりと羞恥心を越えてしまったことに、涼は自分自身が高尚な人間ではなく、ただ動物の一種であることを思い知らされたかのような気持ちに陥った。

 「吾朗さ……っ」

 秘裂に舌が這い解すように動き、真島は時折加減に沿って涼の反応をうかがった。涼は入り混じる複雑な感覚と一つの官能に従順である己の乖離に、果たして正しい反応なのか不安になった。理性を手放してしまえば良いものを、容易にはできない智性の高さがそれを阻む。脳と肉体が分離して別のことを考えている。――それは、なにかに恐れているかのように。

 細くしなやかな指が腟内をくじり溢れる蜜を吸い、涼の肌は際立った。ぬるぬるとヌメついた体液がとめどなく体の奥から湧いてくるような感覚に、粗相をしている気分にもなるが、真島の猫のようなグルーミングの様子に悪いという思いが薄れていく。


 「あぁっ!」

 じゅっと音をたてて真島が啜った。膨らんだ花芯を唾液混じりにじゅるじゅると甘く吸われ、涼はしっとりと汗に濡れながら身を捩った。瞬発的に脳の芯が焼けて、背中には温かい湯がかけられたかのような心地よさに、思考回路は停滞していった。

 「ん、……涼ちゃんイッたん?」
 「……い、………そうかも」


 呼吸を整えながら涼は、これが人々が口にする『イク』という平易な言葉の正体なのかと思った。
 真島は心底嬉しそうにはにかんだ。片腕をついて身を寄り添うと、親鳥が雛に与えるようなキスを繰り返した。

 「めっちゃかわええ顔して。……びっしょびしょや。……ヒヒ。モノ欲しそうやのぅ。……俺も我慢できん」

 涼の目線は、しっかりと勃起し、下着を窮屈そうに押し上げているものに注がれている。真島の言うとおり、体は求めていた。暗躍していた数本の指が引き抜かれると、腹の奥が余計に切なく熱くなった。真島は下着を器用に脱ぎ捨て、極めつけの確認をした。

 「ほんまにええな?」

 真島はその情欲を、最後の最後まで手綱を握っていた。
 涼は、何もかもを捧げてもかまわないと思った。そして、細い顎に指をかけた。唇を甘く触れ合わせ、腰に腿をひっかけた。
 

 「んっ……ふぁ……、あ、ああ、あっ……!」
 「っあ……!」
 
 涼のひっかけた脚を持ち上げ、灼熱の剛直が花園の扉を突きひらいた。
 めりめりと粘膜を捲りあげながら進入する肉に圧され、指などとは違う質量がぐっぽりと埋め尽くしていった。想像を遥かに凌駕していた。体内で発火し、燃え広がっていくような感覚に囚われ、そのあまり苦悶を浮かべ、真島の身体にしがみついた。

 痛みもあった。
 肉が引き千切られるよりも、烈しい痛みをしっている。しかし、それ以上に、真島と結ばれたことのほうが幸せだった。
 奥歯を噛み締め、細い喉笛を鳴らす呼気も、汗と随喜の涙が混じり溶けて頬を伝った。

 「涼、痛いんか? ……涼」

 真島はそれを、苦痛の象徴だと思った。
 いつもの癖で次には侘びてしまう唇を掬うと、彼は舌を絡ませた。

 「っン……いい、よ」 
 「……動くで……、痛いならいうてや」

 気遣わしげな瞳に「大丈夫」と濡れた唇を動かせば、一度引いた腰が、愛液のぬめりに助けられながらぬるぬると這入っていく。
 真島は張り詰めた緊張をわずかに解いて、息を吐いた。白い肌は赤みを帯びうっすらと汗が浮かんでいる。男にしてはくびれのある細い腰がぴくっと跳ねた。今にも情の赴くままの欲求を理性の鎖が阻んでいる。愛しさが、腹の底で溶かすように潤むのがわかった。

 
 涼の胸中は温かくなった。

 「……ふ、……う……んん……、ごろう、さん」

 しっとりとした呼び声が合図となったのか、泥濘む最奥を探る動きによって涼はまた甘く呻いた。
 「涼」と真島が呼んだ。声は掠れていた。余裕が削げ落ち、細かい息遣いと脈動が内側からそのまま伝わり、涼はいまだ遠慮がちな優しいひとに「もっと」とねだった。真島は喉の奥で音を詰まらせて、興奮をやり過ごすように息を長く吐いた。

 「もっと……きて」

 声に導かれるように、真島は繋がったまま、身を両脚の内へ入ると覆いかぶさった。
 熱塊は最奥の炉。熱源を探し当てるべく、加速する蒸気機関車のように腰を引いては進めてを繰り返した。甘い呻吟が聴覚を刺激し、男を最果てへ駆り立てた。

 「――あ、あ、ああっ――!! あう、うぅっ………!」 

 車輪の蹂躙のさなか。涼は、まるで自分ではないような嬌声が溢れ、糸をひくように粘りつくのがわかった。
 名前を何度も呼ばれるたび、それが少しずつ自分ではなくなにかに置き換わっていく。――されども、愛されている。満たされる歓びに、いまこの世界、このときだけ、切り取った刹那。彼は真島ではなく、彼女も涼ではなくなっていく。

 人間でなくなってしまう。恐怖と安寧。
 名前など、記号にすぎない。今ここにあるのは、『彼と私だけ』の、一瞬ある死の狭間のなか。

 蠕動する肉。弾け、吠えるような呼応が、聴覚を満たしたとき。
 一体化していく狭間で、彼の快感を想像する。至極のなにか、透明な『  』をこえて、扉が見えたような気がした。

 どくどく――と。
 早い脈動と、荒い息遣い。意識はぐるぐると回り続け、生暖かな、ずっと眠り続けていたい心地よさ。
 じっとりと汗ばむ肌越しに、真島の鼓動も伝わってくる。身体の重ささえも愛おしく、張り詰めた息を漏らす。真島の頬を指で撫でれば、彼は慣れ親しんだ動作の一つのように、彼女にキスを贈った。

 言葉を越えた、官能の淵の輪郭を触れた手応えから、真島とであれば其処へ行けるとわかり、涼は満足気に微笑んだ。




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