ICE DATE



 「ぐるっとその辺走ってから行こうや。……それとも、行きたいとこ思いついたか?」
 「ううん」

 赤い前奏曲は、街の方へ降りて緩やかな海岸線を走る。
 しっかりおめかしと薄化粧をした涼は美々しく新鮮だった。

 昨日、洗面所で真剣な面持ちでなにやらしている――と思っていたが、女性雑誌を片手に化粧の練習をしていたそうだ。旅行をきっかけに見かけを整えようと意識を向けることも、すっかり馴染んだ家族のような感覚から、女性に立ち返ろうと努力する姿は真島を喜ばせた。

 「ひひ。せやな。ゆっくり、行きあたりばったりでエエのう」

 デートとしてノープラン。ひんしゅくを買いそうだが、ドライブの理からは外れていない。外泊の提案は、彼女の精神科医のものだそうだ。だから、つまりそういうことだ。外に出て陽光を浴び、不安を減らしながら自信に繋げ、日常生活を克服するためのプログラム。――真島がすることは、一緒にいることだった。

 
 せっかくの外出に肩肘張って疲れていては、静養にはならない。
 夜景も、遊園地も、スキー場も。今のタイミングではないように思えたし、喧しい都会での娯楽消費も必要ない。消去法ながらドライブを選んだ。彼女なりに、変えていこうとする気持ちが伝わってくる。

 とりあえずドライブ。それでいい。
 二人の時間を味わうデート。三十路を手前に、初心に立ち返ったような気持ちになった。

 深い濃紺の海。それを眺める涼の白い肌が輝いている。


 涼のいないところで、祖母から『新婚旅行には行かないのか』と打診を受けた。
 無論。自身がそれに付随する不安の種となっていることも、祖母の自覚にある。また、彼女は『それはね、不健康だわ』とも言った。
 

 『あたしのことを気にしてるんじゃないかって思ってるわ。自意識過剰かしら? ふふ、でもねえ。結婚した男女の間に何もないなんて、この上ない不健全よ』
 『……ばあちゃんは、なーんでもお見通しやのぅ』
 『そりゃそうよ』
 『役者の妻ですから、やろぉ? なんべんも言うさかい。覚えたわ』


 祖母の常套句は、その夫への愛だ。
 夫を支え、慎み深く愛してきた、軌跡と誇りである。家庭そのものと無縁の真島にはいつも、ひどく眩しいものに映った。

 『七八点よ、吾朗さん』
 『えらい中途半端な数字やんけ』
 『年をとると、わかってくるのよ。どんな事も熱いうちがいいの。情熱っていうのかしら』
 
 祖母は皺をくっきりと深くして笑った。

 
 『幸せになってほしいのよねえ。お二人には。……おばあちゃん心としては、ひ孫ちゃんのお顔が見たいんですけれどね』
 
 私の欲だわ、と。
 手を口にあて、ふふふ、と笑って。

 外泊の好機はある意味で、自然な流れだったのかもしれない。
 真島は助手席に座る涼を一瞥した。膝上にかけたブランケットに旅行雑誌を乗せて、近郊のスポットを吟味している。外泊旅行というと――頭を掠めるのは無粋にも、枕を交わすことだったが、欲望に満ちた思考を振り払う。

 涼に必要なのは、『平穏で何もない一日』を外で過ごすことだ。
 
 そして、何をするかよりも、ゆっくり話し合うことが大事だろう。
 刺激的で娯楽行動の指南に満ちた本が閉じられる。

 「昼飯どないしよ」
 「……あっ、あれ!」
 「回転寿司やな。アレでええの? 子ども連れもぎょうさんおって、なんや……ごちゃごちゃしとるけど」

 国道の両脇に立ち並ぶチェーン店の数々。ラーメン屋、定食屋、そば屋――と目移りしたくなる流れで、駐車場が一際埋まっている回転寿司屋をあげた。

 「廻るお寿司、食べたことがなくて」
 「ひひ、聞きようによっては、お嬢様なセリフやのう。わかった。Uターンするわ」

 時間帯はそろそろ昼時だ。回転寿司屋ともなれば待ち時間がある。落ち着きはないがカウンター席を希望した。見立てどおり、家族層が多いせいかボックス席が人気で、カウンターはものの十分で座ることができた。


 目の前を寿司が一定の速度で流れている。涼はそれを目で追いかけては、また目の前のを追いかけてを繰り返し、手元のなにやらよくわからない設備に目を向けた。

 「ほんとに流れてる。……これなあに?」
 「あ、それ触ったらアカンで。お茶の粉入れてな、ここギューッと強めに押すとお湯が出んねん」
 「……す、すごいねぇ」

 手本として真島がやってみせると、涼は目を丸くした。
 
 「火傷せんようにな」
 「うん」

 それから、涼は首を左右に振ってきょろきょろと周囲を見渡した。
 店内を忙しなく行き来する店員。日曜日ともあって賑やかなボックス席のファミリーたち。ぐるぐると工場のベルトコンベアーを連想させるレールに、寿司が載った皿が押し流されていく。隣席に座る初老の男は黙々とレールから拾った皿から寿司をバクバクと口に詰めている。
 その様子からは、美味しいのか不味いのか、味の感想は読み取れない。

 「とっていい?」
 「ええで。好きなもん取り」
 「この、目の前の、前にきたのしか取っちゃだめ?」
 「せやな。……全然食べたいのあらへんかったら握ってもらうで?」
 
 世俗からかけ離れた生活を送っていた弊害は、涼にとって疎ましくも障壁かもしれない。しかし、そんな彼女を通して新鮮な気持ちになれるのを、真島は気に入っていた。よくよく考えてみれば、工場システムを応用し寿司の皿を流し、客は誰一人として疑念を捨て黙々と目当てのものを選び食べる。異様な光景である。

 涼も、その異様な光景にやや落ち着かない様子ではあったが、記念すべき最初の一皿を選び取った。
 マグロだった。二切れの赤身をシャリの上に乗せたシンプルなものだ。真島は小皿に醤油を垂らし「どーぞ」と差し出した。涼は熱めのお絞りで拭いた手で小さく合掌し、割り箸を割った。

 あっという間にぺろりと平らげて「おいしい」と言った。

 「よかったのう」
 「吾朗さんは、食べないの?」
 「食うで。けど、なんやろなぁ。見とると気分が膨らむっちゅうか」
 「そう? へんなの」

 涼は目を泳がせた。
 自分一人だけ食べ進めている。真島は本当に満足そうな視線を向けてくるので、気恥ずかしくなった。


 ひとしきり食べて、回転寿司屋をあとにした。
 涼はいたく満足した様子で、「お腹いっぱい」と締めた。

 「次どないする」
 「……お宿は決めてないよね?」
 「まったくやのぅ」

 旅行は続いている。
 駐車場の車内で、涼は針路について切り出した。

 まったくもって、ひんしゅくを買う、ノープランさである。

 真島としては、旅行ではないと思っている。旅だからだ。その時々の状況や雰囲気を鑑みて、次にどうするかを決めるための――人生の予行練習だ。
 涼は顔色一つ変えず、不満を述べるわけでもなく、雑誌の頁を捲って型のない旅を思索している。しかし、いくら旅と形容しているとしても――宿泊先の当泊にあぶれてしまえば御破算だ。

 カラフルな色の頁に目がゆく。
 真島は「お!」と声をあげた。ウィンタースポーツの特集記事。――その隣だ。

 「え? ……スケート場?」
 「いや、その隣にあるロッジ。オープンしたてやて。日曜は……入れ違いで空くかのぅ。どないする?」
 「うん。行きたい」

 屋外スケートリンクが近くにある、キャンプ場。新しく併設されたコテージの写真が目に入った。ホテルよりもカジュアル。ベッドと水回りの設備に不足はなく、周囲に自然も多い。圧迫感が少なく伸びやかに過ごせる環境はまさに、静養にうってつけの場所だろう。




 平野の山際にあるコテージ。
 四名を定員とした収まりの良いコテージは、開業したてとあって、真新しく、組み込まれた新鮮な木の香りの芳しさも、心を落ち着けるには十分だった。なによりも、リビングに薪ストーブが設えられているのは趣がある。
 
 「山のほうやしさっぶいのう。薪ストーブやったらようあったまるやろ」
 「薪、もらってきたよ。外にあるのも使っていいって」
 「よっしゃ。……涼ちゃん疲れたやろ。くつろいどき」

 手を打ち、真島は早速準備に取り掛かる。
 貰った薪を床に置いて涼は、天井の高い室内をぐるりと見渡した。天辺にくり抜かれた天窓があるせいか、曇りがちな冬でも燦々と光が降り注ぎ、舞った埃が、雪が吹き上がるようにキラキラと反射した。

 深緑の広いソファに腰掛けると深く沈み込んだ。
 空気を吸った音が反響するほどの静けさ。お茶でも淹れようと思い立ったところで、真島が振り返った。
 
 「ストーブでお湯沸かして、コーヒーでも飲もか」
 「……今ちょうどそう思ったところ」
 「ひひ。……さっき台所みてんけど、ミル置いたったで。コーヒーの豆ゴリゴリするやつ。豆はな、売店で売ってるヤツやわ。試供品いうんか? 商売上手いなぁ思たわ」
 「ふふふ。……なんでもあるねここ」

 ミルで豆を挽いていると、独特の芳ばしさが立ち昇る。
 外では風が吹き、木がざわめく。子供の弾んだ笑い声も溶けるように遠ざかる。時計の針がゆっくりと進んでいく感覚が愛おしく、涼は穏やかな気持ちになれた。真島は、ダイニングテーブルの横にある椅子に座り頰杖をついている。何をするわけでもない、余白の時間。

 沈黙を破ったのは涼からだった。

 「夏のキャンプとかに、ぴったりだね」
 「せやなぁ。藪蚊がブンブン飛んどってイヤぁになるんやろな。……ヒヒヒ。……あー、あー、なんや。思い出した。親父の川釣りについて来い言われて行ったとき、もう夏のな。あれは地獄やったわ。暑いし、釣れへんし、虫は寄ってくる。釣れへんと親父不機嫌なってな」
 「うん」
 「そないなもんしゃーないやろ? 俺らかて釣れへんし。でもま、ウマいことやらなアカン。近くの割烹料理屋に電話してなんとかしてくれへんか、って泣き入れたことがあるわ」
 「え、大変だったね」

 「突拍子もない思いつき言い出すとこ、親父の悪いとこや」などと、真島が言っているのを聞いて涼は笑った。
 確実に似てきているのは言うまでもなく。あえて教えることもないだろう。 

 「できました。ふーふーしてね」
 「おおきに」

 臙脂色のマグカップに溜まった珈琲を受け取った真島は、その通りに息を吹きかけた。白い湯気が湧き上がり、よい匂いがふわりと広がる。涼はなんとなしに、持ってきていた雑誌に載っていたスケートリンクのことを思い出した。
 
 「吾朗さんってスケートできるの?」
 「ローラースケート走れるし、出来るんちゃうか」
 「ロ、ローラースケートを?」

 質問に対してあっさり答えると、涼はたいへん驚いた顔をした。

 「なんや。そない驚いて。……ひひ、そない気になるんやったらスケート場覗きに行こうや。……吾朗ちゃんは、これでもアイドルやってたんやで〜?」
 「あ……アイドル?」

 ローラースケートを履いたアイドル。
 流行に詳しい祖母なら意味がわかるのだろう。アイドルとローラースケートが上手く結びつかないもどかしさを抱えながらも、涼は「見たい」と言った。真島はニシシと笑うと「今日のゴロちゃんは、特別出血大サービス、氷上のアイドルや!」と冗談を飛ばした。






 

 「ご、吾朗さん、まってぇ、……ちょっ、あぁ!」

 情けない悲鳴が氷上に響く。
 貸し出しのスケート靴を履き、リンクにおそるおそる足をつけてみて大丈夫と思ったのも束の間。
 一足先に氷上に飛び出た男とは違う方向へ体は進む。どてんと尻もちをつけば、この上なく冷え切った氷の硬さと冷たさに唸る。こんなときに限ってワンピースで来てしまったことを悔やむ。掴まり立ちのできる柵により掛かかると、真島が戻ってきた。

 「大丈夫か? お尻ちべたいのう」
 「うー。はずかしい。……あ、ありがと。……足が震えちゃって」

 真島の両手を借りて涼は立ち上がる。
 しかし、ガクガクと膝下は自信なさげに震えるばかりで、さもありなんと自立している真島に首を傾げたくなる。

 宣言通り、『氷上のアイドル』となった真島は流麗なスケートを披露した。
 スケート場の規則には、『他のお客様のご迷惑になるような〜』といった条文がいくつか並んでいたが、真島の登場を予期しないアイスショーと勘違いしたその他大勢の客の静観により秩序が保たれ、まったく不思議なことだが、簡単なアイスショーが成り立ってしまった。
 
 すっ飛んできたスケート場の管理人から注意を受けてもふてぶてしいまでの真島は、リンク外で待つ涼のところに戻ってくると「涼ちゃんも滑ってみいひん?」と誘った。このときは、滑れるだろうと思っていた。過信していたのだ。氷の上に乗るくらい朝飯前と見くびっていたからだ。


 最初に転んだとき、真島は止めようと提案したが涼が拒んだ。意地っ張りな性分が顔をだしたのだ。
 氷上を沸き立たせた男と、まったく滑れない女。この対比に抗うように。


 「まぁ、多少の違いはあるが。滑れへんことはないな。……つかまり立ちからしよか。せや、縁掴んでな」
 「足が、ぷ、ぷるぷる、ぷるぷるする……! ぜっ、絶対離さないでね!」
 「離さへん、離さへん」

 必死な涼に対して真島はおかしそうに笑う。
 氷の上ですってんころりんをするという痴態を、これ以上披露してはなるまいと、慎重に手を縁へと伸ばす。
 シャッと小気味よい音が耳に届く。立てるか歩けるか。そんな次元にはいない、子供らの楽しげな姿を横に、涼は情けなさもありつつ感心した。

 「……向こうの子、回ってる」
 「俺かて出来るで?」
 「また管理のひとに怒られちゃうでしょ。や、……今回ろうとしたでしょ。離さないでえぇぇ!」
 「……いっひひひ! なんやその、今のすごい声やった……なんやねん、ええ? めっちゃプルプル伝わって、くんねんけど」

 片手はアイスリンクの縁。もう片手は真島の手を掴んでいる。

 「だ、だって。……なんで、みんな滑れるのぉ? や、やだ、離さないで」
 「いや、顔がちょっと痒かっただけやって。うお……!?」
 「ひいいぃ」

 ドシンと体当たりをするように全体重を真島に預ける。よろける気配もなく、受け止めてしまえる体幹の強さに、『吾朗さんすごい』と、素直な驚きとときめきを覚える。真島は励ますように褒めた。
 
 「涼ちゃん、ちょっと歩けたんとちゃうか? にしても、めーっちゃプルプルするわぁ」
 「あ、ああ、動かないで。……ううう……、あっちの子絶対笑ってるう」

 リンク外で休憩する高校生グループからの視線を受けている。集中していて気づかないでいたが、周囲で歩くどころか立つこともままならない成人はいない。スケート場の本日限定の有名人。その連れが、ほとんど滑れないことが失笑を招いている。

 「しゃーないのう。よっしゃ、ほれ」 
 「ご、吾朗さぁん……」
 「腰支えたるから、足元見んで背すじピンやで。一歩だけ前行こ」

 真島は半泣きの、情けない声をあげる涼の腰に手を回した。
 小刻みに震えながらも一歩、二歩。カツ、カツとぎこちない音をたてる。

 「ひひ。できとる。呑み込み早いのぅ。……体重をやな……おう、がっしり掴むやん」
 「ぜ、ぜったいよ……?」
 「離さへんって。掴んどるんは涼ちゃんの方やし……ん?」

 背後に真島がいる。顔を反らしたことで身近な距離感を掴んだ涼は、不意に胸がとくんと高鳴ったことに驚いた。覗き込むように見下ろす真島の頬は、肌の白さが極まって愛くるしい赤みが際立つ。

 「なんや、見惚れてるんか? ひひ」

 図星だった。躍起になって否定することも、誤魔化すこともせず、産毛の生えた恋のようにはにかんだ。
 真島は笑みを深くした。

 「男前やもんな」

 尊大に聞こえる物言いも、真島にはよく似合うし嘘がない。
 駆け引きを楽しむ技量も持ち合わせぬ涼は「かっこいいよ」と認めると、今度は真島がたじろぐ番だった。



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