六章『新たな監獄』@

 六章 『新たな監獄』



 王吟はオアシスのような存在だった。真島にとってそれは覆らない事に思えた。たった今までは。しかし、苦痛を味わう今、毒を食らい続ける今、幸福の味を知っているあとで食わされる不味いものには耐えきれそうになかった。

 「ぐっ、うえ……」

 今日で十五回目の嘔吐に体力を削がれ、胃液も出ないほどの苦痛に真島は独房のなかでうつ伏せに伸びていた。
 王吟の姿はあの一件以来見る影もない。代わりに、あのニヒルな底の見えない気色の悪い男が『拷問官』を務めている。

 とにかく痩身の男とは相性がいいらしく、ことあるごとに『拷問』が行われる。そして吟がいなくなったことで、衛生管理を担う人間も不在。それはニヒル男の計算のうちなのだろうが数日経っただけで、自分でもわかるほどの悪臭を放っている。部屋には糞尿を垂れ流し、虫が集まり、虫蔵のなかで生活している。

 「くそっ」

 油揚げにされた仲間の男たちはあのあとニヒル男に処分された。

 真島は今、食べ物を腹が膨れるまで食わされ、吐かされ続けている。暴飲暴食のあと催吐薬を飲まされ今しがた入れたものを口から出す。それは思っている以上に苦痛である。

 いくら食べようとも結局胃袋が膨れることはないのだから無駄に体力を摩耗させ、次第に体が摂食を拒むようになってくる。

 痩身の男は頭を使わずシンプルな苦痛を与えるが、ニヒル男は小賢しくより的確な苦痛を与えてくる。まだ男に尻を使われているほうがマシだ。

 「恨むなら、彼を恨んではいかがです?」
 「……」


 這いつくばる真島の頭上で声が降ってくる。ニヒル男、王汀州は吐しゃ物にまみれた真島に冷水を振り掛ける。


 「あなたがいま感じる苦痛。これが本来あるべき苦痛です。……それを中途半端な生ぬるいお気持ちで優しくしてきた彼がいたから、余計に苦しんでいるのです」


 それは至極当然な言い分だった。王吟の与えた手間暇のかかる世話が今になって真島を苛んでいる。事実だった。
 何も語らず、真面目で、不必要な暴力を拒んだ。しかし真島は恨みたくなかった。まだ吟に未練があった。優しさに甘えたのもまた事実だったからだ。


 「な、ァ、……インは…インは…どうなったんや…」
 「答える義理はありません」
 「あいつが……なに、したって、いうん…」
 「わかりませんね。どうしてあの子供に心酔するのか。あれはただの仕事なのですよ、それもあなただけの特別なものでもない」


 それも冷静な頭で考えればまっとうなことだった。吟の世話はなにも真島だけの特別サービスではない。しかし彼をはじめ多くの拷問受刑者はきっと同じことを言うだろう。
 『ただ、そこにいて、痛いことをしなければ十分』だと。吟が来るときそれは拷問では『ない』が『人がそばにいる』瞬間なのだ。


 「あんたには、わからんやろ…っなぁ」

 人を甚振ることしかできない人間には。他者の苦痛を喜ぶ人間。
 頭上にいる王汀州に向けられる真島の瞳はそう物語っている。それが気に食わなくて、王汀州はもう一度冷水を打ち落とした。びしゃりと。さらに海藻のようにうねった前髪が乱雑に掴み上げられる。言い聞かせるように男は言い放つ。


 「憐れ……ですねぇ。冴島…大河…でしたか。彼といい、あのガキの安否といい。知りたいことを満足に教えてもらえない、なんて。くく…無力とは、こういうことですよ」
 「——ぐぅ!」
 「知るに値しない、虫けら以下なのですよ、今のあなたは」


 頭を掴まれ、頭皮に鋭い爪が食い込む。うつ伏せから無理やりに喉を晒すように天井を向かされる。その力はあまりに強く、奥歯で食いしばる。
 己が弱肉強食でいうなら弱肉であることくらい、わかっている。真島はせめて抵抗を示すために瞬きをせずに、男を睨みつけた。
 酷薄な笑みが視界の端に映る。狐のような男。かすかにその肌からは薬と血生臭いにおいがした。『拷問官』にふさわしい姿をしている。


 「そうだ。足を折ってみましょうか…、それとも腕がいいかな。——私はね、強靭な肉体や精神を持つ人間を痛めつけるのが、とてもとても…好きなのですよ」
 「私欲、や、ないか…ぁっ!」
 「そうですとも。好きでなければ、こんな仕事していません。あなたもそうでしょう、……人を痛めつけることが好きでしょう」
 「ちがうッ——ッがあっ」


 ぐしゃり。吐しゃ物の海へと顔を沈められる。そしてまた引き上げられる。
 

 「同じ、です。同じ穴の狢。……やり方が違うだけです。命のやり取りをする興奮、あなたもわかるでしょう」

 こんなに卑怯な手段を使う人間と同列に扱われていい気になるものか。
 ニヒル男は気が済むまで散々に真島を嬲ったあと、「例の件、そうです。あなたの飼い主に口利きいたしましたよ」と言った。

 「………」
 「明日、嶋野が来ます。———『赤い波止場の竜』をお忘れなきよう」



 虫が体中に這っている。蠅だ。蠅が羽音をたて、新たな命を宿さんと腐敗を探している。
 ここを出れば、きっとずっとマシな世界に戻ることができる。朝も昼もない、夜だけの世界に居続けたせいで、光がどれほど熱くて美しいものかを忘れてしまった。

 冴島大河の安否が気がかりだ。せめてそれを知るまでは、と今日まで耐えてきたのだ。……それに王吟のことも。なぜなら、彼にはこの世界が不似合いだ。まだこの『穴倉』の世界にいるのか…それとも別の場所で…。もしくは、この男に殺されてしまったのか。もっとも考えたくない結末だ。





 久々に見た白銀の世界は、真島の一つしかない目を灼いた。
 腐ったこの世最低の場所から身一つで出てくる。風は柔らかく、様々な人の『生きている』気配に満ち満ちて、車や工事の騒音、靴の音、他愛のない会話、木々の揺らめきすべてが己の生を主張している。なにより、温かい。陽光が冷めきった肌を温める。それは吟の触れた手のぬくもりを思い出させた。

 『穴倉』から出てくるまで場所隠匿のため視界を覆われる。迎えに来た組の人間と思しき者に腕を抱えられて外に出て、車に載せられる。真島はなにも言葉を発することなく、おとなしく車に揺られていた。次に「着きました」と言われ、ようやく目隠しが外される。車内の窓には目隠しが張られている。また同乗していた男に腕を掴まれ外へ連れ出される。
 

 「…ぅ、あ…」


 痛い。光が目に沁みるのだ。地獄の底から渇望した、地上の光が真上に出ている。
 余韻に浸る隙も無く、真島に声を掛ける男がいた。


 「ふぅん、あんたが……嶋野んとこの、真島吾朗?」


 真島は耳に入った嶋野という名前に身構える。目の前にはスーツ姿の初老の男。一見知的だがその軽妙な口調に隙を見せてはいけないと思わせる雰囲気を感じた。

 その場を一度見渡す。大通りではない、裏道で人通りは疎らの白昼の下。脇には黒塗りの車が停まっている。今しがた真島が載せられていた車だ。反対側の車線にも、もう一台車が停まっている。運転席にはその男の部下と思しき男が座っている。嶋野はいない。


 「あんた、誰や。…嶋野の親父は、どこや」
 「まぁまぁ、落ち着いてよ。……まず嶋野はここにいない、組にも顔を出すなとさ。なんったってお前は破門されちまったってわけだから」
 「……ッ、な…!」
 「おいおい、一年もあの場所にいたから、忘れちまったのか? てめえが何をしたかって」

 男はせせら笑う。そして「喜べ。カタギになったんだ」とおどけた調子で皮肉を言う。
 真島は背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。


 「さ、…冴島は! 兄弟は、どないなったんや…! あんた、知ってるんやろ!?」
 「でかい声出すなよ。鼓膜が破けちまう。……とりあえずあっちの車」


 男は親指で指し示し、反対車線の自分の車に真島に乗るよう促す。息を整えながら真島は従う。
 後部座席に乗り込む。男は助手席に座った。とりあえず煙草を箱から取り出して咥え、ライターの火で先を炙る。軽く吸って紫煙を吐き出す。


 「……佐川、佐川司ってんだ。近江連合の方の組の組長してる。……嶋野とは代紋違いの兄弟ってやつ。嶋野がさ、てめえの面倒を看ろってんで、厄介だけど頼みだからさ、引き受けたわけ」
 「……」
 「破門なんて言われたって、すっこまねぇだろ? まだ終わってねえってこと。『穴倉』から出て、はいよかったね、じゃねえんだわ」


 簡単に言えば親権譲渡とでもいうのか、とにかくこの佐川司という男が真島の身請けをすると言っている。近江連合の佐川。嶋野の内情の片鱗が垣間見える。バックミラー越しに真島を観察している佐川は、もう一度紫煙を吐く。車内には煙草の香りが充満し煙たい。「開けてよ」と運転手に窓を開けさせる。
 

 「俺を…どないするんや」
 「その前にほんとに、このままカタギで出ていかないのか、聞かせてよ、真島ちゃん」
 「俺は、親父と盃交わしたときから、のし上がっていく覚悟を決めたんや」



 佐川は咥えていた煙草を口から離す。身を乗り出して、その煙草を後部座席の真島の口に突っこむ。


 「今日からこき使ってやるよ、真島ちゃん――」
 
 佐川の吸っていたキャビンの味が口に広がる。煙草を覚えたての頃にとっかえひっかえ吸ったなかにあったが、結局ハイライトに落ち着いた。久々の煙草の味は余計に旨く感じた。
 凄惨な地獄の『穴倉』…あまりにもひどかっただけに夢でもみていた気分だ。すくなくとも、こんなに光り輝く午後の世界ではそう思いたかった。


 その後、佐川の口から冴島の話を聞かされた。上野誠和会襲撃事件の顛末は、「極道十八人殺し」で冴島は一人、殺人罪の極刑判決を受けた。真島は頭を抱える。あのとき、柴田に止められた。どうせ同じ極刑に処されるのであれば、振り切っていくべきだったのだ。冴島が今も生きていることを喜ぶ反面、己の情けなさに悔いるばかりだ。
 

 「まずはその薄汚れた身なり…だな。浮浪者みてぇだと今いる客も逃げちまう」
 「……何をさせるつもりなんや」
 「まあ、待ってな。先に話したんじゃおもしろくないだろ」


 車に乗って、東京を離れていく。真島はひと眠りする前に、言伝を思いだした。


 「なあ。『赤い波止場の竜』ってなんや」
 「赤い波止場の……なんだって?」
 「赤い波止場の、竜。……知ってるんか? 佐川はん」


 バックミラーを見上げる。助手席に座る佐川の表情は曖昧だ。そして鏡越しに目が合う。
 
 「真島ちゃんよ、そいつをどこで聞いた?」
 「穴倉のなかで、これを嶋野の親父に言ってくれって言われたんや。けど……親父には会えへんみたいやし、あんたなら近しいやろ」
 「………」


 佐川は黙り込んだ。その段階で真島は姿勢を崩す。体勢を楽にしてベージュ色の座席シートに深く座り込む。わかりきっている。その先は真島程度には教えられない領域の話なのだと。窓の外に一定の速度で流れていく高速道路のトンネル内の橙色のライトを見上げながら、真島は大阪までの道を眠った。


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