HAPPY BIRTHDAY DREAM A


 楽器の音色が聴こえた。
 管楽器だ。柔らかくしなやかで、芯の残る爽やかな音色。なぜだか、ハッピーバースデートゥーユーのメロディを奏でている。
 
 目の前には、大阪の、蒼天堀の小さな小さな部屋への扉があった。
 ドアノブに手をかけて回す。一人きりの部屋は板張りの薄ら寒さが居座っている。ほとんど眠るためだけに帰る部屋。背中に感じていたぬくもりは、ずっと彼方に。乾燥した唇は切れて、鉄の味が滲んでいた。

 部屋の中に薄く伸びる影は、夜の青さを纏っている。
 
 「真島ちゃんよ。わかっただろ? お前には、カタギのほうが向いてるんだよ。その方が、相手の女も幸せになれる。その女と幸せになりたきゃな」

 影はふっと誰もいないはずの、後ろを向いた。






 夢をみた。
 ほんの数瞬のうちに陥った白昼夢にしては、いやに現実的でシニカルな意味が籠もっていた。
 運転席に座る、組員が「お疲れですか?」と尋ねた。肯定も否定もせず、シートに仰け反った。今日は早く帰らねばならないが、交渉が難航している。構成員の一人が撃たれた。幸いにして命に別条はないが、発砲を受けた事実から緊張状態が続いている。
 
 当初、この交渉人役を引き受けるつもりはなかった。
 相手方組織が、地下に潜る中華組織の情報網を持っている、そんな噂を小耳に挟んだからだ。水面下でねずみ算式に増えていく可能性を潰すには必要な、きっかけだった。一歳四ヶ月の娘ををあやす妻と、それを見守る祖母のいる世界を守り続けるには、なんとしてでも交渉で妥協点に落とし込まなければならない。

 腕時計の針はそろそろ一五時を過ぎる。
 本日は火曜日。今日に限って、妻子は外出している。毎週土曜と日曜は横浜の方の家で過ごすが、今日の夜は東京に戻らない。
 今頃、晩ごはんの準備とセッティングに忙しくしている頃合いだ。刻限は遅くても二〇時。それを過ぎると、娘の就寝時間となってしまう。せっかく用意したご馳走の並んだテーブル。それを囲む女子供たち。無碍にしてはならない、優しさと愛の巣が待っている。

 「チッ……はようせんかい!」

 舌打ちは運転手の若衆へ、恐怖として伝播した。
 灰皿には三本のハイライトが押しつけられている。先陣を切った他の三次団体の組長がなかなか戻ってこない。一緒に行ってやると申し出たが、男が欲しいのは自分ひとりで収めた功績だろう。とりわけ、本部からは覚えめでたい、嶋野組の若頭を兼ねる真島が同伴することを嫌っていた。

 「なにぃ気張っとんのじゃ。目の上のたんこぶ早う潰さなアカンのや」
 「……真島組長」
 「……お前、あれは事務所にあったん、持ってきとるな?」
 「あれ、……っすか?」
 「あれ言うたら、あれや。特注の……」
 「トランクに入れてあります」
 
 にしししし。
 不気味な笑い声を聞いた若衆は青筋をたて、窓の外を見ると「あっ!」と声をあげた。

 「ほぉ……ようやく来よったか。えらい、待ちくたびれたのう……!」

 灰皿にハイライトをギュッと押し潰した。
 ドアのレバーを引きドカッと片脚で蹴り開けば、満身創痍の先発組の構成員が悲鳴をあげた。

 「す、すんません……へ、ヘマしちまいまして……」
 「おう、お前」
 「ヒッ……なんですか」
 「お前んとこの親に言うとけ。今日は特別にきれ〜いにナシつけて、ケツの穴まで拭いたるさかい。いがみ合いはナシや」
 「は、はひ……!」

 後ろのトランクを開けると、仕込みの品入りのジュラルミンケースと、いつものバットが積まれている。
 ケースの中身は、野球ボール。もちろんただの野球ボールではない。中には鉄。偽装凶器として非常に有用な一品である。

 「目にもの見せたるでぇ〜!!」


 ぱこーん。


 「おうおうおうおう……! 誰やぁあ! 鉄球をおもちゃのボールにすげ替えたんはぁぁああ!!」

 ぱふっ……ぱふっ……。

 ひよこの玩具。座ると可愛い音の鳴る椅子。同じくして、腑抜けたような、気の抜けてしまう動物の絵柄がデザインされたボールを、人にめがけて放ちまくる嶋野の狂犬。ある者は絶句。ある者は、可愛いと侮るなかれ、ボールの餌食となり顔面にクリーンヒット。打ちっぱなしコンクリートの壁に体をめり込ませ瀕死状態である。

 ピコッ……パフ―ッ!! パフ―ッ!!!

 「ぐあああああーーーっ」

 ファンファンファン……!

 「攻撃を、直ちにやめなさい! こちらは警視庁! 双方、手に持っている武器を下ろし、攻撃を―――」


 パフ―――ッ!!

 人がまた一人吹き飛んだ。
 警察の突入の足音がうるさくなった。


 ◇ ◇ ◇


 「んま、んまあーっ! きゃっきゃっきゃ……!」
 「千縁ちゃん、お昼寝しようよぉ。ね、お腹いっぱいで、眠くなぁい? ねっ、みてみて〜お空のモクモクふわふわしてて気持ちよさそう。おふとんもモクモクふっかふかだよ? 千縁ちゃんがねんねしてくれたら、ママ嬉しいなぁ?」

 今日は吾朗さんのお誕生日。
 ケーキの土台はなんとか昨日までに用意できた。あとは生クリームとトッピングの盛り付け。ディナーのメインディッシュ、ローストビーフ作りが残っている。おばあちゃんがお寿司を取るって言っていたから甘えよう。別途、離乳食の準備に、おばあちゃんのお風呂の用意。

 「千縁ちゃぁん……おもちゃ片付けようよ。おふとん敷きたいな。小鳥さん待ってるよ〜。……ン、ンッ……ねえねえ! こっちでボクと一緒にあそばないかい?」
 「きゃ、きゃ……んまあーーぅ!」

 思い出深い鳥のぬいぐるみを手で動かし、数オクターブ高い声による腹話術で、娘の関心を惹こうと努力をする母親。世の大多数の親の一人になる日が来ようとは。五月の中旬。温かな昼下がりの陽気の下で。にこにこしながら娘と戯れ……。

 「ちょ、ちょ、まって、千縁ちゃんどこいくのー? あ、お片付けしてくれるの? あっもう、そのケース重たいから引きずらないでー! 床とか畳がへこんじゃう」
 「きゃっきゃっ、ぱーあ、ぱっぱ!」
 「うーん。ぴかぴかしてるの好きだねえ。これぴかぴかしてるでしょお。ぴかぴか。パパのカバンなんだよ? ホントは千縁ちゃんのおもちゃ箱にしちゃいけないんだよ?」

 「パパ、甘いからなぁ」と困ったフリをするけれど。実はちょっぴり、おもしろがっている。
 そう、たとえ指を鼻に突っ込もうが、乳首をもぎ取ろうとしようが、髭を紙粘土の研磨剤代わりにしようが。
 たいてい、「もー、アカンってぇ!」だけで済んでいる。世界中で、真島吾朗に挑めるのは、この一歳四ヶ月ただ一人しかいないのである。
 
 なお、「俺の鼻の穴はそんなデカいんか?」、「乳首って生えてくるらしいけど、これはファースト乳首やさかい譲れへん」、「うああ……ごっつエエ音してるでぇ」、などなど……リアクション語録が豊かに増えていっている。
 千縁は光沢のあるものが好きだ。ジュラルミンケースのツヤツヤした感じがお眼鏡にかなったようで、おもちゃ箱にしている。

 「この行動力、吾朗さんに似たんだわ……はあ」

 ゴトッ。
 ゴトッ。

 「やだ。こんな場合じゃない! 準備しないと! ……え? ねえねえ千縁ちゃん、変な音したよ? 引きずらないでよう。持ってきていいのブーブーだけだよう……」

 おもちゃからする音ではない。固くて重い。どうりで重たいケースだなって。
 重たい、おもちゃ……?

 「千縁ちゃん!! どうしたのォ、これ……!! すっごく、重た……あっこら! 投げない! 触らない! あぶない!!」
 「ンマー―ッ!」
 「ポイして! ポイ!」

 野球ボールに見えるそれは、かなり重く、きっと中身は鉄球だろう。
 娘は意味もわからず、音の響きを楽しんでいるのか鳴らしたがった。加減を知らず怪我をしてはなるまいと、小さな体を抱えると思わず悲鳴をあげた。

 「びッいいいん……!!? うそ、こんな事あるぅ……。ママの足にポイしちゃだめえ……ひーん」
 「ごーごーっ! ごーろ、ごー!」

 にこにこ穏やかな戯れ。理想の子育ては遥か遠く。
 足を引きずって、好奇心大怪獣を玄関に置いてあったベビーカーで固定し終えたところで、ジリリリリンと黒電話が鳴った。
 困り果てた。おばあちゃんは日中のデイサービスに行っている。祖母宅に電話をかけてくるのは、デイの方か、仕事に行った吾朗さんか、セールスくらいのもの。本当はいますぐ氷で足を冷やしたい。

 「はい、荒川ですぅ……。……あ、吾朗さん? あのねえ……うん、うん……帰れそう? うん……じゃあ……ぎゃん!!!」

 電話の向こうで「ぎゃん?」と聞き返す吾朗さん。私は目を見開いた。
 そんなことより、大怪獣の進撃を止めなければならない。一歳四ヶ月の怪獣は器用に体を使い、ベビーカーから液体のように抜け出して、玄関のガラス扉をガチャガチャと叩いている。

 「三分まってぇ!」



  ◆ ◆ ◆



 千縁ちゃ〜ん!
 ガラス叩かないで〜!

 半べそをかいている妻の声を受話器に控え、真島は硬貨をチャリンと投入口に落とした。三分後にもう一度電話するほうがいいか。しかし金を入れてしまったから、しばらくはこのままだ。娘が生まれてから、賑やかな生活となった。そして少しばかり、妻の性格も明るくなったように思う。

 離乳食をちゃぶ台返しされても、白い壁に干しぶどうを押しこんで、シミをつけて喜んでいても、おむつが外れた状態で癇癪を起こし、糞便のついた尻のまま床をローリングのように転がっていても。
 そのたびに、真島へと向けられる懐疑的な眼差しも。

 『いや、ちゃうし。……俺こんなん絶対してへんと思うで?』
 『吾朗さんに似るのかなぁって』
 『確定してるやん。……半分は涼ちゃんやで』
 
 生後十ヶ月健診の身体測定で平均身長よりも少し大きかっただけで、『吾朗さんに似てる!』と大興奮した妻は、それ以後も事あるごとに、あれが似てる、ここがそっくりだと、日々成長する娘の発見に忙しい。
 日々、忙しないが、家族が増えてよかったと思わない日はない。

 「ううー……吾朗さん、お願いがあるの……」
 「なんや、なんや。泣きべそかいて……」
 「……あのねえ、ケーキ買ってきて……ごめんねえ……あと、湿布も」

 『今年こそは、美味しいケーキ作るからお楽しみにね!』、数日前のことだ。瞳をキラキラと輝かせて意気込んでいた妻からは、どうやらすべてを悟り開いた末の諦めが伝わってくる。一昨年も、昨年も、今年も。誕生日は、どうやら彼女の理想の計画にしては、上手くいかない宿命にあるらしい。
 気落ち気味な妻へ、決まった言葉を告げる。

 「涼ちゃんの、おかえりなさいだけで十分や。……ああ、早う帰る。……そんで聞かしてや」

 バンバンと公衆電話の壁を叩く若衆の顔が青い。
 警察の事情聴取にパニックらしい。送話器を押さえる。

 「アホかお前、あないにピッコピコ鳴る球、どこが凶器やねん! 俺らは仲良う野球ごっこしてただけやろが! 早う車出せやァ!」


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List午前四時の異邦人