ウォルナットの温かくも深いぬくもり溢れる仕立て屋。
渋い落ち着きと、ウッドの滑らかな色艶のなか、女の細く白い腕が胸板に押し当てられる。手には年代物の熟成したワインのような、血液を想起させるワインレッドの手触りのいいネクタイ。オールドローズの唇が、男の名前を呼んだ。女にしてはらしくなく、たった一言褒めた。
「よく似合ってる」
「………」
「気に入らなければ、別のでもかまわないわ」
「いや、これでエエわ」
全身鏡で確認する。青だろうが赤だろうが、黒と白のはっきりした容姿が変わることはない。
離れたところでフィッターが「よくお似合いです」と綺麗な歯をみせて褒めた。女はテーラーに向かって注文をつけた。
「予備にもう一式。その用意もお願い。この住所に届けて。……いま着ているのはこのままいただくわ」
「かしこまりました」
女は流暢な英語を喋った。
上質な高級オーダメイドスーツは、体によく馴染んだ。赤いネクタイが象徴的に鮮やかに映る。まるで首環のようだった。
「このまま街を歩きましょう」
見せびらかすの。
女は男へ、うっそりと微笑みかけた。甘く苦い毒のような独占欲。
男にとってはこの上ない、愛情の徴だった。
夢をみた。
ムスクの余韻が残る深い幻影。ビニール越しに射し込む鋭い陽光によって、夢の記憶は霧散した。
次に、鼻孔を満たすのは、芳醇な甘酸っぱい苺の香りだった。
視界一面に広がるのは、口元を真っ赤に染めた喜色満面の娘の顔。ぷにぷに膨らんだ腕に実る小さな手が、えいえいと掛け声似合わせて口元に苺を擦り付けている。
「千縁ちゃん。そこ口やのうてなぁ……鼻やねんなぁ。鼻水がイチゴジュースになってまう……」
「おいひー? ぱっぱ、おいひ?」
「んあ。おいしい、おいしい」
鼻を擦り付けた苺が口の中へ放り込ませる。
もしゃもしゃもしゃもしゃ……。
鼻くその味が混入しているかもしれない、微妙な心持ちである。娘はたいへんご機嫌さんで、たどたどしく二言、三言の言葉を繋げてはしゃいでいる。世界一目に入れても痛くない、腕の中に収まるぷにぷにのもっちもち。『ぱぱ』と仕込んだ呼び方をもって、庇護欲をそそる天使である。時々、小悪魔になるところが憎らしくも愛らしい。
一方、今回発案者である張本人は、苺天国を羽ばたいている。
『誕生日プレゼント、なにがいい?』発端は、そんな台詞だったように記憶している。常套句にも『なんでもエエわ』と、『涼ちゃんの笑顔』を天秤にかけ、後の方を告げた。妻はにんまり笑うと、『ずっと笑顔になれる場所に行きたいなぁ』とイチゴ狩りを提案したのだった。
「何してんの」
「イチゴの……、踊り食い……?」
「果物は踊らへんし、……ヒヒッ。ようけ食うたのぅ! 農家のおっちゃんの顔が青なるて」
苺のヘタを入れておくビニール袋は、ぱんぱんに膨れ上がっている。レーンのように並んだ赤と緑の茂みには、他の利用客ももちろんいる。節度を守ってお楽しみください、といった事前説明もあったが、他に妻のように食い意地を張っている客は見受けられなかった。
「妖怪イチゴ食らいやんな。……ひひひ。………あ? なんも言うてへんで?」
「んまんま」
「そや! んまんましとったんやぁ。美味しいのぅ」
「おいひー!」
失言に敏感な妻は、じとっとした視線を向けながら、その手はイチゴをもいでいる。
そこへ、娘の助け舟に乗っかると「もう……」と唸った。
「あぁ、重たなったのう」
腕のなかではしゃぐ娘も、少しずつ重くなっている。
ついこの間まで、おくるみに包まれて指を吸っていた赤ん坊だったのに。二歳になると、イヤイヤと拒絶し、好奇心から活動的になり家中を走り回っている。ものまねが増えたせいで、妻からのお小言も増えた。
『汚い言葉は禁止だからね』
『食う』はいけないとか検閲を厳しくしていたが、さっき『踊り食い』を自分自身で使ってしまっている。胸の内で笑い飛ばして、そっと流してやることにした。イチゴ狩りを楽しむ家族など、ゴールデンウィークの間ニュースで見かける、善良な市民にのみ許されているものだと思っていた。
「ふう、あっつう……」
温度管理の徹底されたビニールハウス。五月とはいえ、よく晴れた日の直射日光が降り注いでいる。ハウス内の温度は真夏のようだ。おまけに、あったか人間湯たんぽを抱えている。一度、外へ出て風に当たろうか。思案していると、離れたところにいた妻が戻ってきた。
ひとしきりイチゴを狩り終わったことで満足したらしい。
「暑いねえ。吾朗さん、おつかれさま。リュックに水筒あるから飲んでね」
「ああ、おおきに」
荷物置き場からリュックを引っ張り出し、水筒に茶を注いでいると、娘を抱っこした妻のお気楽な声が響いた。
「お昼なにたべよっか〜」
「……ん? ……おう」
まだ食うんか。
「あ……いま、まだ食べるんかい、って思ったでしょう」
「めっちゃ食う……食べたやん。一年分先取りしたやろ。お腹びっちびちになるで?」
この間、体重計に乗りながら難しい顔をしていたのを知っている。
出産の代償に体型が崩れたのを気にしており、娘の残しがちな離乳食の残飯整理をしているとなかなか減らないので、晩御飯を抜くダイエットにも手を出した。が、続いていない。理由は、『吾朗さんが餌付けしてくる』だそうだ。その通り、餌付けをやっている。同じテーブルに座っているのに、一人で食べる晩御飯が楽しいはずがない。
一切れの刺し身、一個のからあげ、等などをちらつかせると『くれるの……?』と言うあたり、妻も確信犯である。
そして、おいしいおいしい、とニコニコ笑って平らげてしまう。そうすると、一つと言わず、もう一口と……つくづく自分も甘い男である。
「びっちびちぃ」
「お腹ユルユルじゃないから、大丈夫よ」
娘が真似て復唱する。
妻はやや恥ずかしそうに、口を尖らせた。
昼食はお誕生日様の決定権を行使して、蕎麦屋に決めた。
ざる蕎麦定食を二つ。子供用に温かいミニそばを頼んだ直後のことだった。
「……ちょっと、お手洗い」
「言わんこっちゃないで」
「……ちがいますう」
お手洗いに立って数十分。注文したものが届いても妻は戻ってこなかった。
娘のそばが伸びてしまう前に、食べさせてしまおうか。そうお子様フォークを手にとったとき、隣席にいた中年夫婦が声をかけてきた。
「お母さん遅いわねえ、大丈夫?」
「んーっ」
「先に食べさしますんで」
見知らぬ中年の女は、娘をみると「あら可愛い。お利口さんねえ」と褒めた。
赤の他人には人見知りをして、じっと固くなっているだけだ。そんな娘から爆弾発言が飛び出したのは、小皿に蕎麦を移し替え冷ましているときだった。隣席の女が「遅いわね? 見てこようかしら」とお節介を焼いたとき。
「まま、びっちなの」
「…………」
空気が、なにかが、おかしくなった。
訂正するべきだっただろうか。しかし、それをあえて触れることで、言いようのない疑惑を塗り拡げる恐れがあった。
「ビ……ッチ?」
「…………」
正確には、『お腹、びっちびち』である。掘り下げていくと、下痢。飲食店内でわざわざ下の話を用いるのは、罪に問われても仕方がないくらい不衛生な話だった。娘はその言葉の意味をよく知らない。知らないなら、そのままがいい。なぜなら、人の喋った言葉を真似して吸収してしまうのだから。
自然にその場をやり過ごす。不可抗力だった。
「ごめんねえ! お蕎麦伸びちゃうでしょう。……どうしたの、吾朗さん……そんな、世界が終わりそうな顔して」
「んまま、そば!」
「お蕎麦たべよっか。ねっ。くるくるくるー、はい、あーん」
妻はフォークに巻いた蕎麦を娘の口に運んだ。
店中の人々の視線が彼女に突き刺さっていることすらも、気にしていないようだった。
「やっぱり、おかしいよ。……なんだか、ううんと……冷たいかんじ? お蕎麦は美味しかったよ。でも、レシート貰うときだって……」
「………」
「ねえねえ……聞いてる? 吾朗さんってば」
「世の中にはなァ、知らへんほうがエエこともあるんやで?」
「え? ……へんなの」
帰り際、車の中でも妻は、納得のいかない態度でいた。
しかし、これも名誉のため。傷つけないためのものだ。
軽はずみに出た不用意な言葉が、あらぬ誤解を招くことになることを学んだのだった。