MAJIMA



 1999年 12月

 

 「それじゃあ、エリカ。ママ、ちょっとご用があるから。もうすぐしたらパパが来るからね、待っててね」
 「はーい」
 「お利口にしてるとハルクをゲット! かも?」
 「やったー!」

 ブラックのジャケットとスカートを着たママはお仕事だ。
 ハルクはマーベルの『お友達』だ。どんな徹甲もハチャメチャに破壊する。クラスメイトのベスはグリーンモンスターって言って嫌そうな顔をするけど、あんなに強くてかっこいいヒーローはいない。

 高いビル。荘厳な建物に囲まれた東京の直下にあるカフェ。オープンテラスでパパと待ち合わせの予定を約束していた。
 エリカは首をぐるぐると左右に振った。

 (ブラックスーツの人がいっぱい。急いでどこに行くんだろう。……高いビル……でも、ホワイトハウスだって負けてないわ)

 ママはブラックスーツの集団に溶けていった。お仕事場所は『タイシカン』らしい。ジャパニーズの音は固くってどれも一緒に聞こえる。パパのお仕事は、エンジニア。いつもは家で仕事しているけど、エリカの誕生日のお祝いとママのお仕事の都合でジャパンに来た。お仕事が終わったら、アキバに連れて行ってもらえる。そこでハルクのホビーをおねだりする予定。


 エリカは頭の中で未来の行動予定を少しずつ編み出しながら、椅子の上で足をぶらぶらさせて遊んでいた。
 同じビルのガラス張りの大きな扉から、新しいブラックスーツ軍団の登場にエリカはあっと声をあげた。
 人だかりのなかに見知った人がいたからだ。それは、エリカのお友達だった。『ハルク』以外の人間のお友達。いつもは、アメリカの家で時々一緒に遊ぶのに今日は、日本にいた。


 エリカは椅子から飛び降りると、その黒い集団のあとを追いかけた。
 友達は黒い車に乗ってしまった。エリカは叫んだ。彼女の名前を。今年のクリスマスは、会えるのか。一昨年はカードだけだった。赤いクリスマスカード。そこに、なぞなぞが書いてあった。次に会ったときに答えを教えると。


 エリカはすぐに、なぞなぞの答えを用意できた。しかし、去年は会えなかった。届いたのはグリーンのクリスマスカードだった。トナカイとサンタクロースの絵が描かれた綺麗なカードには、クリスマスに会えないことの謝罪。なぞなぞの答えは『エリカ』だった。そして、新しいなぞなぞが増えていた。エリカは、今度は頭を捻った。


 ママにヒントをもらって、答えを用意した。
 その答えは、今年のクリスマスに明かされる予定、だった。彼女を乗せたピカピカに光る車は、どんどん遠ざかっていく。


 「クリスマス、会えるかな」


 エリカはカフェテラスから随分離れてしまったことに気づいた。
 街角に設置されている地図を頼りに戻れるかどうかわからなかった。見慣れぬ異国の土地、地図には日本語の隣にアルファベットが並んでいるが、見慣れぬストリートネームと、絵のような文字とが違和感を増して困り果てた。

 三年前のクリスマスのこと、ふと彼女の言葉を思い出した。
 その時、友達は日本のことを話してくれた。アメリカに比べればずっと小さい国だけど、ミニチュアみたいでおもしろい、と。エリカはそこで、興味を持った。クリスマス休暇のあと、スクールの普段はあまり話さない、日本人の子に声をかけた思い出がある。

 その子とは親しくなったが、今年ロサンゼルスに引っ越してしまった。




 
 エリカは道なりに東京を歩いた。
 ポリスのところに行けば、パパとママに会える手段の一つになることは理解していた。一〇歳のエリカは好奇心に満ちていて、なにより一人で歩いていても声をかける怪しい大人がいなかったこと、日本人は銃を持っていないことを知っていたから、両親に会うのはまだ早いと思った。

 クリスマスに彼女と会えるなら、日本のことをもっと知っておく必要があった。
 

 賑やかな通りに出た。
 昼間なのに電飾が輝いている。通りの向こうにはビルと店が箱詰めになっていて、食べ物の匂い、煙草のにおい、ゴミの臭いが少しずつ混ざった派手な世界の入り口の大きな看板が印象的だった。

 「すっごおい!」

 フロリダのテーマパークのキラキラと輝く世界とは趣は異なるが、エリカにとってそこはテーマパークに匹敵する興奮を覚える場所だった。
 ワクワクが最高潮に達したエリカは、リズムよく足を踏み鳴らした。


 エリカは目を見開いた。
 人はあれほど空高く舞い上がるものなのか。アスファルトに擦り付けられても、熱湯をふっかけられても、鮮やかな回し蹴りを受けても、男は生きている。圧倒的な力を前にひれ伏し、負け犬の遠吠えと共に逃げていく姿は痛快だった。

 男は女の財布を拾うと、返してやっていた。
 
 「ありがとうございます!」
 「おう、気ィつけや〜」

 男は奇抜な格好をしていた。黒い眼帯が何よりも目を惹くポイントだった。金色のネックレス、黒と黄色の難しい柄の上着。赤い絵の具が胸にペイントされていて、お腹の筋肉がしっかり見えていた。

 「は、……ハルク!」
 「あん?」

 ハルクはグリーンの逞しい肉体を誇る。男は決して肌がグリーンでもなかったし、身長も劣るだろう。しかし、人を軽々と空高く打ち上げてしまう。悪いことを糺す正義のヒーローにふさわしい。エリカは、立ち上がると興奮気味に「ハルクだ!」と叫んだ。

 「は、ハルクぅ? なんやハルクて……なあ、お嬢チャン、どっから来たのん」
 「You Are HERO?」
 「ヒロ……ヒーロー?」

 男は身を屈めて、少女の目線に合わせた。エリカは力強く濃い黒い瞳に射抜かれて、言葉を失った。ほんのりと漂う煙草のにおいが胸をドキドキさせた。エリカも東洋人だったが、男は色白で彫りが深く、繊細な彫刻のようでありながら口周りには髭を生やしている。男らしい雰囲気を纏っており、ムービーアクターのように格好が良かった。それまで、エリカは世界で二番目にかっこいい人をパパにしていた。

 パパも色白だったが、髭は生えていないし、ハルクのように強くもない。けれどとびっきりに優しい。
 その好きな上位二つを、足して割ったような男が目の前に現れた。エリカの小さな胸の中は熱い感動に満たされていた。


 「お嬢チャン、迷子かのぅ。あー交番は、あっちやで。……よっしゃ連れてったろ!」
 「Ah……So Cool…」
 「……ワシ、褒められてるんか?」

 クール、そしてアメイジングな彼はむず痒そうに笑った。
 すっと立ち上がった彼はそびえ立つビルみたいに高くて、黒い革の手袋がエリカの手を包むように握りポリスのもとへ連れて行った。

 「おう、おまわりさん。迷子の子ぉや。待てや、誘拐とちゃう! ちゃーんと連れてきたったやろが」
 「ねえ、ワタシいくつかな?」
 「この子、日本語喋らんで。英語や英語、サツやったら英語くらいできるやろ。ママがどこにおるんか聞いたってくれや」

 ウサギ小屋みたいな小さな部屋の中でおじさんポリスがエリカに質問した。

 「んーと、ママは日本人?」

 エリカは否定した。「チャイニーズ」と答えた。そして、エリカは自分を指差し、「USA」と続けた。警察官は「中国系のアメリカ人ね」とメモに記入していた。

 名前と年齢を教えていると、交番に荒々しく男二人が入ってきて、エリカを連れてきた男を呼び立てた。
 男は顔を顰めた。そしてもう一度、エリカの目線に腰を屈めて謝った。

 「すまんのぅ。どないしても急がなアカン用ができてな。おっちゃん先に行くわ。……ママのことは安心や、ここにいるポリスメンが探してくれるさかい。ほな……あとは任せたで」

 エリカは男の言葉の意味は不確かだったが、とても誠実な態度に『日本人は優しい』と感じていた。
 男は交番を去った。去り際、仲間の男たちが彼をこう呼んだ。「MAJIMA」と。



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