過去からの手紙

 2020年 11月




 よく晴れた、暑い秋の昼下がりだった。
 黒いスーツの生地が光を吸収し、内側が熱によって蒸されている居心地の悪さも、それで済むなら軽い罰のようだと受け容れた。

 弔う花ばかりが増えていく。
 墓があることはいい。そこに行けば、生きた証明が墓標として残っている。

 「来たったで。きれーな色しとるやろ。光にあたると輝くんやと。ダイヤモンドリリーいうらしいわ。今年は暑かったさかいまだ残っとるそうや。……花屋のネエちゃんに贈答用ですか、って訊かれたわ。……ひひひ。せやから、このリボンはサービスやな」

 求めていたのは生者に向けた花ではく、供える花だった。
 仏花を買うつもりでいたが、自分より若い女の墓に慣習とはいえ辛気臭い花の取り揃えは文句が聞こえてきそうだった。

 「のう、美麗」

 彼女に呼びかける。
 ほんのいっときの間、結ばれていた女。彼女の権利の保証と、幸福な家庭を夢見て結んだ若い夢の断片。二人いれば、欠けたものを補い合えると信じていた。彼女が幸せになれるなら、道の上の置き石があれば取り除こう。…………置き石は、自分だった。
 そして、その置き石は一つではなかった。真島は、二つ持っていた。持たされてしまった。あるいは、利用された。その矢先に、美麗は死んだ。

 「ワシはもう、カタギや。肩肘張って、肩で風を切って歩くこともあらへん。……これがせめてもの侘び方なんや」

 時代に淘汰され、潔癖な生き方を求められ、社会の弱者に落ち込んでいく。沈み込んでいく船から飛び降りて、穏やかな砂浜へ乗り上げる。
 今の真島はその先陣を切り、後に続く者たちの居場所を作るために励んでいた。
 極道に将来はない。だが、人は生き続ける。明日を求める。脈々と道は延び続いていく。

 貫き通せぬ生き方、またそれによって巻き込み、妻だった女を直接的ではないにしても殺してしまった。
 まるで老人のようだ。それまでの自分ならありない感傷めいた自嘲だっただろう。

 「すまんな……」
 
 墓があることはいい。
 そこに行けば、弔う花を供して許されたような気持ちになれる。
 
 「アカン。年取るいうんは。若い頃はあないなもんにならへん、思とってもなるもんやのう。……そやから、行けるとこまで行ったるわ。真島吾朗は終わっとらん。まだまだやるで!」

 暗いのは性に合わない。
 慰め励まし、支えることこそが真島の本質的な領分だ。そのためには誰よりも気楽であれ、型破りであらねばならない。
 切りのついたところで墓前から一歩身をひき、立ち去ろうとした時だった。

 「真島、吾朗さんですか」


 怜悧な響きが耳朶を打った。
 黒のワンピースにパンプス。寒空にもかかわらず、日傘をさした長身の若い女が静かに佇んでいた。
 日傘の影からは、艶やかな黒い髪が覗き、遠望まで見渡せるような夏の夜の瞳がきらりと光った。忘れえぬ女の相貌が白昼夢に君臨している。

 「………吟か?」

 真島は呼吸することを忘れた。
 忘れた末に、――ほとんど無意識に。彼女の名前を呟いていた。

 「真島吾朗さん、ですね?」 
 
 再度、女は問うた。真島は肯定した。
 続けて「手を合わせてもいいですか」と尋ねた。真島は墓前を譲った。女は日傘を閉じ、朴美麗の墓標に向かって拝んだ。
 真島は密かに女を窺った。ここまで印象深い美人であれば記憶に残っているはずだが、いくら頭を捻ってもそれらしい取っ掛かりが出てこない。

 「おおきにな。拝んでくれて。………すまんのう。これも年のせいにしたないんやけど、お嬢チャンのことちっとも思い出せへんのや」
 「お会いしたことありますよ。……ずっと前に」

 真島を知るという若い女は、柔和に微笑んだ。
 記憶に残る彼女から、すべての不幸を取り払えばこのように笑えるだろう。そんな遠い気配を思い出した。かつて、真島が欲しがりながら、実現不可能だった天使の微笑だった。――心をかき乱すものとはつゆ知らず、若い女は名を名乗った。
 
 「私、エリカっていいます」
 「エリカ?」
 「国籍はアメリカ。今は、各地を転々と。ASEANではちょっとした有名人なんですよ?」
 「マイク……おお、歌手か!」

 エリカと名乗る女は胸の前で拳を作り、それを口元へあてた。
 歌手らしい。日本にいる限り、なかなかそれも他のアジアのコンテンツの流入、とくに東南アジアのカルチャーにふれる機会が少ない。
 
 彼女ではなかった。そのことが真島に深い安堵をもたらした。

 現実的にかんがえて、真島が若かった頃、忘れえぬ女とて若い女のひとりだった。生命の時間を一時凍結してしまわない限りほとんどあり得ないことだった。よって、別人なのは自然の摂理だ。――それに、ありないのだ。なぜなら、彼女は。

 真島の辿る記憶への思考を断ち切るように、エリカは懐かしそうに目を細めて昔話を語った。


 「……二〇年くらい前です。ええ、それが最初。日本にはじめて来たのは。次は、……二〇〇五年でした。いま思えば、二〇年前が運命だったんだろうって思ったんです」
 「運命……?」
 「……チャン・ホンファを……覚えていますか」

 それも懐かしい響きだった。
 チャン・ホンファの名前を出し、関連づけて様々な記憶が手繰り寄せられる。
 素早く合点がいった。なぜかといえば、チャン・ホンファには娘がいたからだ。

 「ウソやろ。まさか……あん時の娘ォか?」
 「……思い出してくれましたか。……二〇〇五年。私は友人と日本に来ました。……東京で迷子になったんです。母に届けなくてはいけない荷物があったんです。そこに、……あなたが現れて、母の泊まるホテルまで送ってくださったんです」
 「一旦、整理させてくれ。………エリカちゃんは、……チャン・ホンファの娘なんやな? ホテルのことは……覚えとる」
 「はい。……ふふ、急には難しいですよね。わかってます。いいですよ、全部思い出さなくたって」

 軽やかな声で笑って、エリカは「どこかでお茶しませんか?」と誘った。真島は小さく頷いた。
 霊園の近くにある、適当な喫茶店に入った。ホットコーヒーを二人分頼み、その合間にお冷に口をつけたエリカへ単刀直入に一番知りたいことを訊いた。

 「聞いてエエか? チャン・ホンファは今、どこにおる?」
 「……え。まさか、真島さんも……知らないんですか」

 カランと冷水に浮かぶ氷が気持ちのいい音をたてた。
 みるみるうちにエリカは顔を曇らせ、ほとんど期待外れだったと肩を落とした。

 「そんな……」

 失望感は大きく、彼女ははじめから真島こそ、チャン・ホンファへの手がかりを知ると過信していたようだった。
 そう。チャン・ホンファはある日消息を絶った。正確には、その予兆があったことを後々知った。それまで、交わしていた年に数回ある喫茶店での近況報告。……それが、二〇〇九年を境目にパタリと途絶えた。真島はその理由に心当たりがあったが、まずエリカの話をきくことにした。


 「父は、母とは離婚したと言いました。でも、信じられないんです。私には、何も話してくれなくて、……ありえないんです。荷物だって家にたくさん残してありました。……父はその後、再婚しました。他の兄弟は自立して家を出ていましたから、……私も家を出ることしました」


 チャン・ホンファはアメリカに住んでいた。
 夫がいて、子供が数人いると聞いていた。その内の一人が、エリカというわけだ。
 消え入りそうな小さな声で、エリカは手紙の話をした。


 「日本に、来たのは………先日、手紙が届いたんです。……過去から」
 「………」
 「二〇〇九年の手紙です。……母は、貴方のもとを訪ねるようにと……手紙に書いていました」

 真島の中で、点と点がつながり線となった。
 二〇〇九年。そう、その年の春先、彼女が――――王吟が死んだ。
 チャン・ホンファは、王吟の腹心だった。孤高な彼女をもっとも近くで支えた唯一無二の右腕であり、真島と彼女の間を取り持ち架け橋役となっていた。

 「母と貴方は……どのような関係だったんですか」

 エリカの湿っぽい瞳がまっすぐ真島を見据えた。
 その様子から、チャン・ホンファは家庭の中でもしっかりと偽ってこられたようだ。
 チャン・ホンファの本業は、中華マフィア組織に忠義を尽くした諜報員である。任務次第では、日本で中国大使館に潜り込んで暗躍していた。

 揺さぶりかけるように、縋るようにエリカは真島を詰めた。


 「教えてください。なんでも、なんでもいいんです。……何を聞いても驚きません。……優しかった母が、突然姿を消すなんて、ありえないんです!」
 「……知りたいんは……ワシかて……そうや。一つ言うとくが、……チャン・ホンファとは何もない。何にもあらへん」

 エリカは押し黙った。絶句していた。何が言いたいかははっきりと読み取れた。
 嘘だ。と、顔に書いてある。重ねて、念を押すようにもう一度否定した。

 「ホンマや」

 勢いついた姿勢は再び萎み、また肩を落とした。
 注文したコーヒーが二人の前に置かれる。白い湯気がため息のように見えた。
 なおも、エリカは食い下がった。諦めの悪いといえばそれまでだ。
 
 「……ですが、面識はありましたよね。……母のこと知っていましたよね。……母、は……いったい何の仕事をしていたか、知っていますよね……?」
 「それは……言えへん」
 「知っているんですね」

 エリカの中にある『何か』へ確信を得たようだった。
 危険だと感じた。エリカの瞳には執念の煌めきが宿っている。その瞳を真島は幾度となく目にしてきた。

 青年の頃に出会った盲目の女。夢を志し邁進する女。……幾度も人生に悲観しながら、人類に身を捧げた女。
 それらを知っているからこそ。――親切心から、踏みとどまるように忠告した。
 
 「エリカちゃん。……あんま首突っ込まんほうがエエ」
 「いいえ。私……諦めません。諦めませんから。……じゃなきゃ、手紙なんて。ましてや真島さんを名指しするなんて……」

 テーブルの上に置かれた手がきゅっと強く握りしめられる。
 
 「……お父ちゃんは知らへんのか?」
 「父は……知らないと、思います。……いえ、知っていたのだとしても……」
 「手がかりの一つや二つあるやろ。……よう話し合って、それから決めようや」

 あいにく、父親のほうとの面識はない。
 チャン・ホンファは徹底した女で、普段は良い妻を、母親を演じてきたはずだ。エリカの鋭い勘は当たっているだろう。だからこそ、肉親よりも母から届いた手紙の方を信じ、はるばる日本にいる真島のもとへやって来た。行動力のあるところはしっかり母親譲りといえた。


 「母は、死んでいると思いますか?」
 「……わからへん。……けど生きとるっちゅう望みは捨てんといてくれ。……せっかく日本に来てもろて、なんもできひんで……すまんのう」

 真島は苦しそうに侘びた。
 できることなら望みに応えたい。だが、真実を告げることは……約束を反故することになる。
 チャン・ホンファは筋を通してきた。真島と吟の関係を繋いできた。彼女のほんとうの愛を知っているからこそ、報いねばならない償いだった。
 
 実際のところ、きっと死んでいる。

 二〇〇九年。
 最後に会ったとき、彼女自身が死を仄めかしていたからだ。

 春、アフリカで吟が死んだ。
 体制が崩壊したと考えるのが順当だろう。藍華蓮は香港三合会から除籍され、台湾の本拠地に撤退した。双腕である王兄弟も行方不明。かつ国際指名手配されている。組織は空中分解を免れない。

 チャン・ホンファが未来に宛てた手紙で、真島の元へ送り出したのは、ここが安全地帯だからだろう。たとえ未来で真島が死んでいようとも、日本にさえ来ればそれでいい。それがどうして、二〇二〇年だったかはわからない。

 チャン・ホンファが諜報員の一人で、組織の役職者でもあったことを、告げていいはずがない。危険に晒すことになる。明白なことだった。

 しかし、却ってその情熱を燃え上がらせてしまうとしたら。

 真島は顔をあげた。吟の最期に携わっているのは、間違いなくチャン・ホンファである。真島には、まだ一つの心残りがあった。
 二人の間で取り交わしていたのは、手紙だった。ある年の夏、再会してからずっとチャン・ホンファを介して年に二通送り合っていた。それは、いわば交換日記のような手紙で、彼女から貰ったら返事を書き届けてもらっていた。


 往復書簡が途切れたのは二〇〇九年の春以降。
 吟が死んだ。次は彼女が返事を書く番だった。つまり最後の一通が遺書のようなものであり、真島はまだそれを受け取っていない。
 『南アフリカの春』として、訃報が正式報道されたのは、死後一週間経ってからだ。報道の前日、チャン・ホンファはまだ生存していた。


 『――真島さん。来月、日本に行きますから』


 国際電話で約束をしていた。
 翌週の報道を知り、したがって次が最後の手紙であることを悟った。
 吟への返信が永久になくなってしまった。胸中に巣食った空虚な悲しみ。文通のために拵えた便箋を破壊衝動に任せ破いたことをよく覚えている。


 「エリカちゃん、交換条件や」
 「なんでしょう」
 「ある手紙を、……探してほしいんや」
 「手紙、ですか。……母の? それを、見つけたら……」

 エリカは瞳にたしかな強い意志を灯らせた。
 行方不明だったチャン・ホンファを探ることは、絶望的だ。偶然か必然か。彼女の娘が現れたことで、すこしでも吟に近づけるならば。
 手段を選ばず、利害の一致のもと協力してもいいだろう。


 「チャン・ホンファのことを話す。それでええな?」

 女の顔は次第に喜色を帯びていく。
 交換条件が成立した。……とはいえ、その時の真島は話半分、確率でいえば五分五分くらいのものだと考えていた。
 今になって、一〇年前に終わった真実にありつけるものか。

 エリカはほっと息を吐いて、メニュー表を手にした。

 「ふふ。落ち着いたらお腹空いてきちゃいました。ホットケーキ、頼んでいいですか?」
 「ああ、好きにしい」
 「……母がね、よく焼いてくれたんです。……ふっくらしていて……甘くって、チョコソースも蜂蜜もいらないくらい、生地が美味しいホットケーキ。お友達がくる時だけ食べられた味で……」

 ステンドグラスの吊り下げランプの光が頭上から降り注ぎ、アジア系ながら彫りの深い目元を、彼女の長いまつ毛が赤みのある影をおとした。
 沈黙の背中を押すように真島は繋いだ。

 「忘れられへん味やろ」
 「そう、そうなんです。もう食べられないけど……」

 しっとりとした沈黙に、真島は閉口した。
 じくじくと熱を持った思い出が一気に去来し、昨日の出来事のように立ち現れるショートケーキを頬張る彼女の幻影すらも愛おしく眩しい。

 二〇〇九年、三月。
 差し出した手を拒んだ彼女は、彼方へいってしまった。



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