女スパイと真島





 真昼の太陽の下を、少しずつ、少しずつ、遠くへと消えていく船を見送って、真島は懐にある封筒を取り出した。
 中国大使館の車が並ぶそこへ歩いていくと、大使の脇に立つSPがぬっと庇い立った。

 「あーちゃう、ちゃうねんて。ウー・シュンメイに用があるんや」

 大使の後ろに立っていた、黒スーツに身を包んだ一人の女がヒールの音をたてて前へ進み出た。
 黒い髪をまとめ、切れ長にみえるよう黒いアイラインを引いた目元は、鋭い印象を与える。

 「ウー・シュンメイは私です。……この場を借りて大使へご説明させていただきます。私の個人的な依頼で、彼に藍華蓮の内偵をお願いしていたんです」
 「何者、だね? 秩父で運転手をしていただろう」

 中国大使は腕を組み、真島を訝しげに眺めた。吟の言っていた『ウー・シュンメイ』は中国大使に物申す立場にある女だった。それだけで身の竦むような相手であるが、真島は彼女、チャン・ホンファの表向きの姿なのだと信じた。

 「ええ。……本籍は東城会です。」
 「東城会……ああ、指定暴力団、日本ヤクザか。……まあ妥当なラインだな。それでパイプ確保は上手く行ったのか」
 「ふふ。詳しいことはこの封筒にある契約書と……、私の報告書をご覧ください。真島様は藍華蓮の者ではございませんし、今回は私のお願いで同行していただけ、ですから」
 

 真島は事実と異なることに違和感を覚えたが、ウー・シュンメイの瞳が『なにも言うな』と言っているように見えた。チャン・ホンファは大使館で諜報活動を行っており、組織と相対する中国政府の監視を随時行っているのだろう。……そして、真島には藍華蓮の人間であるという疑いを持っていて、朝になって吟が封筒を渡したのは、日本に居続けるための行動だったということになる。

 真島は瞼を伏せた。
 冷たい汗が首筋を伝っていった。吟を守ったつもりでいたが、いつの間にか守られていた。
 昨夜、あのホテルの部屋で昏倒した前後の記憶が薄い。一つ覚えていることは、僅かな意識のなか、椅子の上から真島を見下ろしていた。あの眼差しが忘れられない。


 足元の影の上を、カモメたちの影が走る。
 指切りをした小指に、吟の感触が残っている気がした。









 『内偵依願の報告書』

 1989年 7月10日
 作成者 呉春梅


 依頼人は日本国・指定広域暴力団・東城会系組織、嶋野組の構成員、真島吾朗氏。以下、敬称を省略。
 台湾省における本流・青幇派組織『藍華蓮』に日本国内において拉致され、私設施設にて拘束経歴あり。


 1989年6月26日。中国大使館・二等書記官、呉春梅が個人的に真島氏へ、内部調査を依頼。
 7月4日より、藍華蓮に潜入活動を実施。
 呉春梅は、7月6日に王吟に接触。7月7日、都内の署名式への潜入を実施。

 7月9日、真島氏から、潜入後の報告を受ける。
 同日、呉春梅は王吟と接触。その際にも事実確認を行った。

 藍華蓮は組織構造を改革し、他組織を買収。日本より正式撤退を決定されたし。



 また以後、真島氏とは共同で藍華蓮の諜報を進めていく契約を交わしている。
 以下はその契約書の一部の写しを添付………。




 

 

 にぎやかな夜。
 蒸し暑い電話ボックスの中で、一人の女が軽やかに笑んでいる。

 女の本職はスパイだ。いくつもの名前を持ち、影に徹することを生業としている。
 一人の女の言いつけを、否、本当の言葉を知った上で力を尽くすことを決めた。彼女の信に応えることで、彼女が組織のなかで力を発揮できるのであればなんだってする。

 『ねえ。最後に。……真島サンのことは、けっきょくのところ――好きなの?』

 女にしては失恋の鐘が鳴り響いた。傷心に耽りたい気分を仕事で紛らわせるほうがいい。
 少女のように幼く繊細な心を持つ人を支えているのは、その男の存在だった。誰しもが、愛し合う二人を認めて、そうなるようにお膳立てをした。そして彼女だけが、望まなかった。たどり着いた、一つの結末。女も受け入れるしかなかった。


 「恐縮ですわ。大使。……一度使ってみたかったんです。日本のヤクザも捨てたものじゃあ、ありません。ええ。仕事は完璧です。……おかげで、王吟とも接触が。……そうです、例の署名式です。ホテルへ行きました。はい。真島氏とは今後も共同捜査を。……承諾ありがとうございます。……あら、ふふふ。『狼』は、どこにいるんでしょうね?」


 ウー・シュンメイは笑う。内局で、日夜問わず行われている狼狩り。これで自分は、リストから外れることを確信していた。挨拶もそこそこに受話器を置いて、コイン投入口に積んでいた硬貨を一枚、二枚と落とす。把握しているダイヤルを回し、一人の男が出た。
 落ち着いた声で最初の一言を発する。チャン・ホンファに戻って、王吟の言いつけを守るために。

 「……夜分遅くに失礼いたしますわ。ウー・シュンメイです。そうかたくならないで……ふふ、ちょうど一週間ぶりですね、真島さん。ぜひお会いしたくて。……ええ、そうです。先日の続きです」










 一週間世話になったシャツとスーツをハンガーにかけ、パイソン柄のジャケットに袖を通すと真島はほう、とため息を漏らした。

 「……やっぱ、こっちのほうがしっくり来るのう」

 ベランダに出て、煙草をふかす。次第に緊張の糸が解けていく。非日常から日常に戻ってきた安心感とでもいうのか、平和の生温さとでもいうのか。それこそ認めたくはないが、吟の言っていたような、『次の七日目が来た頃には忘れている』が真実味を帯びてきている。さすがにすぐ、忘却の彼方へいってしまうことはないが。


 「夢ん中みたい、やったなぁ」

 起こることがすべて、現実離れしている。真島のいる世界も同じはずだが、吟のいるところは際立って異質に感じた。
 煙草を咥えたまま、バッグの中の荷物を漁っていると丸いボールが出てきた。思い出になる草野球の拾得物だ。

 「吟のボール……、ひひ。……あ? なんやこれ、鍵……ホテルのとは、ちゃうな」

 バッグの内ポケットにあった、見ず知らずの鍵に首を傾げた。それはキーホルダーもなく、シンプルな鍵だった。このバッグに細工をしようとするのは簡単だ。誰がした、というよりもなんのための鍵かが気がかりである。



 「お久しぶりです。真島さん」

 チャン・ホンファと会うのは実に一週間ぶりだった。嶋野組への報告と後始末に、その他諸々の所要をこなしていればあっという間の時間の経過だった。都内某所、落ち着いたレトロな趣の喫茶店にホンファはいた。

 「お、おう……」
 「緊張なさらないで。ここは、安全ですから」

 ホンファが『安全』というのなら、そうなのだろう。
 真島は席につくまでに周囲を見回して確認していると、目の前の女はくすくすと笑った。チャン・ホンファはお堅いスーツではなく、年相応の女性らしいワンピース姿で、アイスコーヒーを吸った。

 真島は納得を示しながら、単刀直入に鍵の話を切り出した。

 「そうか。……せや、これなんやけど見覚えあるかいの。鞄のポッケに入っとったんや」
 「ふふ。もちろん存じております。王大哥からのプレゼント、かしら」
 「プレゼント? はあ。これが、か? なんの鍵や」

 口達者な王汀州の言葉の節々に色々なことを言っていたが、この鍵がそうらしい。チャン・ホンファはテーブルの上にあるミックスサンドを口いっぱいに頬張っている。真島の注文を取りに来たウェイターを見送ると、またくすくすと笑った。

 「スイス銀行の金庫の鍵、といったら?」
 「……なんやそれ、意味がわからへんで」
 「こちらに今回の給与があるんです。いわば小切手代わり、かしら?」

 そこまで聞いて真島はようやく腑に落ちた。
 一応、王汀州とは個人契約を交わしていた。どこまで本気なのか、半信半疑でいたが、金は本当に用意されていたらしい。

 「あー、ああ。そういうこと……って、待てや。そんな事のために、わざわざ金庫開けにスイスまで行かなアカンやないかぁ」
 「……ご安心ください。おっしゃっていただければ、いつでもお渡しできるように整えてあります」

 用意周到だ。チャン・ホンファはにっこりと笑って、真島から鍵を受け取った。

 「ほ、ホンマか? そら……おおきに?」
 「今後とも、よろしくおねがいしますわ。真島さん」


 ホンファは、吟が香港に到着したこと、香港三合会に入党したことを語った。
 吟は歴史の歯車、あるいは奔流のなかにいる。真島にできることは、交わした約束を守ること。それだけだ。……しかし、心のどこかで『正解』と言い切れないことをわかっていた。一抹の不安や後悔ともえいるそれは、ずっと昔どこかで記憶したものだ。

 そう、たとえばこの七月の。
 たとえば、誰かの死。
 不明瞭な輪郭の、眩しい季節の残り香が呼び覚ます何か。

 だが、そんなものは、『そんな気』がするだけだ。
 




 1989年 7月18日 fin.
 


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