2020年 12月
クリスマスまで残り一週間に控えた日、一本の国際電話が真島のもとにかかってきた。
電話越しの女は硬い声音で、その第一声にこう言った。
「……アメリカに、来ていただけますか」
「あ、アメリカぁ? エリカちゃんやろ。どないしてん。……できひんことは無いけどな。なんか見つかったんか?」
「わたし、……どうしたらいいんでしょう」
「あ、おい、エリカちゃん」
電話の向こうで、エリカは泣いていた。
相当参っている様子で、荒い呼吸をなんとか鎮めようとしている。
「………父が、死んでいた、んです」
「お父ちゃんが?」
「こ、……こわく、て……あの……どうし……うっ……」
悲しみというよりも、恐怖。
なにかに怯えている。犬のように細かい息がノイズを走らせた。錯乱状態のようなエリカは、なんとか頭の片隅にあった、真島へ電話を寄越すコマンドを選択できたようだった。にしても、まったく状況が伝わってこない。真島は逸る気持ちを抑えて優しく呼びかけた。
「落ち着けや。今どこにおるんや」
「……ホテル、です。でも、明日には出ていかないと。……フロリダにいる……っ。明日オーランドの空港に行って……それから……どこに……行けば」
真島はまずこの通信について尋ねた。
「エリカちゃん。この電話は、携帯か?」
「う、は……はい」
エリカが寄越した電話の相手は真島一人だけのはず。一度きりの再会の縁。ふつうであれば、警察に頼るように促す。しかし、エリカはアメリカにいる。つまり、父親の死に際しなんらかのトラブルの渦中にいる。父に会いに行ったということは、例の手紙についても探ったはずだ。
エリカの友人関係は知らない。だが、兄弟よりも先に真島に電話をつないだ。
それだけで自ずと推し量れるものがある。『何か』を『知った』のだ。もっとも最悪なことは、エリカの行動を先回りしている人間がいるということ。これはあくまで推測であり、普通の殺人か事故死かは定かでないための仮定に過ぎない。
安全策として、真島は行動順序をエリカに授けることにした。
「ええか。今から行く。一番早くて二〇時間はかかる。そっちは夜か? テーマパークに行くんや。そこで落ち合う。ええな? ほんで……携帯は部屋に置いて出るんや。一日経てば回収する。ホテルはそのまま出る。明日延長料金を払ったるさかい……信じて待っててくれや」
ぐずぐずと嗚咽を漏らしながら、エリカは「はい」と返事した。
携帯はスマートフォンだ。再会した日、彼女が使っているのを見ていた。GPSが取り付けられているか、ネットワーク経由でアプリに仕込まれている可能性があるため、一旦捨て置いてもらったほうがいい。ホテルでは客の貴重品は通常のゴミよりも長く保管するマニュアルがある。
真島は通話を切った。
最低限の手荷物とパスポートを持って家から飛び出した。
警備会社に嵐のように駆け込むと、冴島がいた。
「おう兄弟。今日休みやろ……なんや、そない慌てて」
「悪いのう、有給申請や! 早めのクリスマスと正月休みっちゅうトコかのう」
「有給……て、騒がしいやっちゃな、それ持ってどこ行くんや」
「ああまどろっこしい! 事情はあとや! 命懸かっとんのじゃ! コレ名前は書いたさかい、あとのモン全部埋めて大吾チャンに提出しといてくれや!」
粗いサインつきの書類を押しつけられた冴島は眉に難しい皺を寄せた。
「ほんで? どこ行くんや」
「フロリダ」
「あぁ?」
「フロリダのでーっっっかい、テーマパークやのう」
マウスがメインマスコットを務める、世界有数のエンターテイメント複合企業が運営するテーマパーク。
つつがなく事が運べば、明日エリカと落ち合う場所だが、冴島に事情を一から説明していると太陽が三周してしまう。
「ま、ええわ。詳しいことは終わってからや。……兄弟、ワシが留守の間になにが起こっても、その冴え渡る直観働かして気ィつけてくれや」
「ほんま騒がしい。お前のことや、止めても止まらんやろな。はよ行きや。……おい、真島ァ! 記入漏れあるでぇ!」
冴島の叫びを背後に真島はビルの外に駆け出し、客待ちのタクシーに素早く乗りこんだ。
「関空まで行ってくれ。なる早で頼むで! はぁ〜こないな時に伊丹が恨めしいわ。あの名前で国際空港ちゃうねんでアレ」
運転手は笑うと「ほな出します」といって、法定速度の際を守りつつ高速の四号湾岸線を滑走した。
大阪湾のカーブがはっきりと見える頃、赤紫色の黄昏が世界を囲っていた。
「………あぁ」
雲がくだけた白波のように押し流されていく。
窓ガラス越しにも伝わる冷気と、儚い輝きが正反対の季節の名残りと、二つの夜を思い出さずにはいられなかった。
一九八九年の七月の夜。一九九九年の七月の夜。
錯乱状態の彼女を止めた夜。……ベッドの上で銃口を突きつけるように仕向けて、『嘆願』された夜。
『……――殺して』
いまだ耳の奥に、彼女の悲痛な願いがこびりついている。
女が泣いているというのは、それからどうにも苦手になってしまった。愛らしい、情があるだとか、そんな事よりも、これから死んでしまおうとしている。残酷な世界の果てを見せつけられているかのような、いつにしても己の無力さを痛感するのが嫌なのだろう。
どれだけ、強敵を倒しても。腕が上がっても。いざという時、女ひとり守り通せない男は意味がない。
『―――必要なかったのよ。誰も、あなたを必要でなかった』
悔しかった。心の裏側までも見通す、彼女の鋭いナイフのような千里眼が真島を追い詰めた。
女に手をあげたのは二度目だった。勢いあまり、彼女の尊い望みを叶えようとしてしまった。
『――もうすこしだったのに』
真島の怒りを駆り立て、憎しみを増幅させ、願いを叶えようとした女の策略……思惑通りに。
両指がいまだ柔らかな肉と温もりを忘れられないでいる。真島は何度も、懺悔し、ひれ伏し、明るい夏の夜を見上げる彼女の夢をいつまでも聴いていた。それから――もう、誰も愛せやしないと、愛する資格を放棄した。吟以上に愛する自信など、もうどこにもなかった。
空が白み星々の輝き、その残響が薄れゆくまで――いつまでも、いつまでも髪をなで続けた。
内ポケットに入れていた携帯が震えた。
「……冴島か。空港向かっとる。あ? おう……」
冴島だった。書類の話ではなく、目的を知りたがっていた。
「あと一〇分で着くんや。長話してられへん。……けど、そうやな。世話になった女がおるんや。この世界に二人おる。……その女たちの忘れ形見っちゅうんかのう。……話さなアカンことは仰山ある。……嘘ついてたワケやない。巡ってきたんや。……今度こそ、間違うたら終いなんや。……ああ、洗いざらい全部話す。終わったらな、ほな」
空港に到着し、次発のオーランド行きの航空券をカウンターで買い、急いで保安検査場に走った。
途中ニューヨークで乗継をするが、明日の夕方には着いている。真島はなんとか搭乗した機内で息をつくと、薄い瞼を閉じた。
着の身着のまま。手荷物など数枚の着替えと財布、パスポート。ライターにハイライト一箱だ。
エリカは、『何か』を『知って』しまった。それが、ただ父が死んでいるというだけなら勿論電話など寄越さないばかりか、涙を流すことはない。――つまり、エリカでは対処し得ない事態が起こり、気づいたのだ。
電話で彼女は父が『死んでいた』と言ったのだから。
急いでフロリダを出なければいけない、追われている、追われるかもしれないという危険信号を察知した。……真島がとっさにアメリカに行くと決意したのは、エリカが泣いていたからだ。やはり、嫌いなのだ。女がすすり泣くのが。吟のために、何かしてやれたはずの人生を悔いているから。変えることのできない過去が、罪の意識を呼び覚ましてしまうからだった。
「……ワシは、間違うたんや」
女の『大丈夫』、『帰る』、『こないで』などはその通りにしてはいけないのだ。
もし、チャンスがあるなら。次は間違えないだろう。間違えてはいけない。女たちが遺した、平和の時代を生きる若い女を救うことが真島のしてやれる弔いだと思った。
チャン・ホンファが二〇二〇年に真島のいる日本に預ける計画は、まだ終わっていない。
真島は、薄い瞼の暗がりの向こうで、波音を聞いた。
懐かしい、あの七月の記憶がまた蘇ってくる。吟と過ごした、最後の夏だった。シンガポールの浜辺でみた、焼けるように美しい夕日が沈むゆくまで、繋がれた手の感触すらも。