きっかけは――いつの年かの、八月だった。あれは、朴美麗と結婚した年だった。
馴染みとなった、いつもの喫茶店。決まりきった席にチャン・ホンファはいて、コーヒーフロートを吸っていた。
表向きは『ウー・シュンメイ』と名乗る女諜報員は、真向かいの席に座った真島に笑いかけ、祝福の言葉をかけた。
「ご結婚、おめでとうございます」
足元でゆらゆらと陽炎が踊っていた。
こんな夏の、咎められるより祝福を受ける居心地の悪さより、灼熱地獄の鉄板の上にいるほうがいくらか良かった。
1992年 8月
大阪での仕事を一旦切り上げて、東京の年に一度か二度ある近況報告を開くことが、二人の接点だった。
吟は別れ際に、『いつか、……優しいお前にふさわしい人が、いつか現れる』と言った。『その人を幸せにしてほしい』と願い、世界の平和を祈った。真島は受け容れた。若い男の無力さも、自分は彼女には必要でないという結末も。
大阪で勝矢直樹と朴美麗に出会い、そのうち美麗と交際を経て結婚した。
自分の人生を進めながら、傍らで別のレールを走る彼女が、どうか脱線してしまわないように気にかけていた。
その機関車が暴走したら、ブレーキが壊れてしまったら、いつだって走って飛び乗っていく覚悟をしていた。もしくは、行く先で待ち構えることも考えていた。たとえ、この身が破滅を迎えても。
「ホットケーキ頼んでいいですか」
「ええで。しっかし、暑いのにホットケーキかい」
「味比べですよ。……大姐が、焼いてくださったんです。もう一ヶ月前のことですけど」
「ああ」と真島は頷いた。
頼んだアイスコーヒーをストローで吸うと、まろやかな酸味が口の中に広がった。
大姐とはダァーヂィエと読み、意味は組織内の上位女役職者の呼び方だった。日本語でいえば『姉御』みたいなものだとホンファが言っていた。吟はどちらかといえば、『姉御』というよりも『お嬢さん』のほうが似合っていたが、仕来りらしい。
ホンファを挟んだ向こうに吟がいる関係性は奇妙だが、それでいいのだと落ち着いていた。彼女は長い休暇を楽しんでいた。きけば軟禁生活とも隠居とも思えるひきこもりのような生活で、香港の郊外で一人で暮らしている。
「朴美麗さんとは、大阪でお知り合いに?」
「……ひひ。……なんでもお見通しっちゅうわけやのう」
「はい、なんでも知っていますよ。………ですが」
私生活における嘘はほとんど筒抜けだろう。ホンファは何も言わない。責めることも、揶揄すらも。あれから三年も経ったのだから、真島の進む道を許していたのか、私情を挟まないでいただけなのか。
テーブルの上に並んだホットケーキを熱いうちにフォークとナイフでつっつきながら、ホンファは意味深に呟いた。
「……心だけは、見通せません」
切り分けた一口を頬張って、ホンファは軽く笑む。
「私は、笑っているから嬉しいのだろう……と、思い違いをするところがあるんです」
「……普通はそんなもんちゃうか」
「……普通の人間であれば、です」
ホンファが知りたいのは、吟の心の内側だろう。
そういう意味では、真島も同じ境地にいた。彼女は本音を黙殺し、周囲はそれを是とし続けてきた弊害が起きている。
「大姐は、わかるんです。……すべてが見えているときがあるんです。違う世界にいって、戻ってこなくなるんじゃないかって。私のそんな不安も、言い当ててしまうんです。……価値観が反目し合うほうがまだいいです。好きと嫌いのようにはっきりしていて。………おまけに頑固ですから困っちゃって」
真島は苦笑した。
ミステリアスといえば聞こえはいいが、こちらの話をずっとしなければならないのは退屈だ。たとえ機嫌をとろうが変わらず、損ねれば勝手に嫌われているのだから。
「そういえば、馴れ初めを話していませんでしたね」
「二人の?」
「はい。……大姐と会ったのは、彼女が……十三か、十四歳くらいでしたか。香港で。……すぐに特別だとわかりました。特別な人だって。言葉にできないくらい。……最近わかったんです、恋とやらとは少し違った、そう崇敬のような……眼差しってあるじゃないですか」
ホンファは窓から射し込む光を見上げ、眩しそうに目を細めた。
「王大哥も見る目があります。……彼は言っていましたから。いつか、理想の支配者になると」
真島は知っていた。
吟の孤独を、境遇を。特別ではない、ただ普通に生きられないだけの、少女だということを。
そして、真島自身も自己矛盾を抱えていることにも気づいていた。吟に拒まれたことを言い訳にして、納得したふりをしながら、美麗を選んだことを。いくらでも、拒む隙間も、自由もあったのにそうしなかった。
――幸せにできる相手を選び、満たされたいだけなのではないか。
一番の安全圏で、偽善を謳っているだけの道化。
しかし、男は信じた。
選んだ女を幸せにすることで、吟との約束を果たせるのだと。
世界の幸せを、平和を増やすことが、幸福の総量を増やすことが、彼女の救えない世界を癒すと信じて疑わなかった。
「吟は」
「はい」
「……元気か?」
チャン・ホンファは笑った。「元気ですよ」と添えて。
ホットケーキを食べて、「さすがにお店の味が美味しいですね」と味にうるさいグルメな顔をのぞかせた。
喫茶店を出ると、道沿いにわらわらと人だかりができていた。
録音された騒がしい笛や太鼓のお囃子。道の左右に構えた露店。ホンファは興味津々で「へえ」と感嘆をもらした。
「お囃子ですね。夏祭りでしたか」
「あぁ、そうやな」
「屋台のおすすめはありますか」
「今食ったばっかやろが。食い気やのう」
真島の呆れた指摘に彼女はくすりと一笑に付した。
「土産話を作っておかないと、いけませんから」
真島は相槌を打った。
饒舌多弁が鳴りを潜める真島に対し、ホンファは気を遣ってか励ました。
「幸せになってください」
「おおきに」
「人生は一度きりですから」
チャン・ホンファとは、本当になにもなかった。
年に一度、二度。喫茶店で会うだけの、一人の女の近況をきくための機会提供であり、これは朴美麗と別れてからもずっと続いた。