予感と前兆



 2020年 12月



 サンフランシスコから乗り継いでオーランドに到着すると、すっかり夜になっていた。
 無謀な計画だ。かけてきたホテルの所在も、テーマパークで落ち合えるかどうかも実のところ怪しい。とっさの、行き当たりばったりの直感的な勘に頼った判断であった。時差や治安面を考慮に入れれば、あまりにも危険な賭けを彼女に課してしまったことになる。

 空港のロビーで手に入れた地図を広げて、真島はむうと唸った。
 頼りになるのは、ホンファとの記憶だけだった。およそ二〇年に渡る親交。そう、そういえば。―――大西洋とロケットの話をしたことがある。

 住まいの近くに空軍基地があり、宇宙センターがある。ロケットの発射基地を兼ねていて、ロケット発射も家族と一緒に見たことがあると言っていた。
 昨日、エリカは『明日には空港に行かなければ』と言った。北大西洋が望める沿岸地域。オーランド国際空港はちょうど地図でみれば、海から東に離れ、陸の中心にある。ケープ・カナベラルから空港までの所要時間はおよそ一時間。徒歩ではおよそ八時間半かかる。

 範囲はこの空港から、テーマパークを含めた七〇マイル、およそ一一三キロ以内。
 西側のうち沿岸地域と空港の間には、自然保護地区といって、大自然の庭のうえに点々と湖が散らばっている。さらに、空軍基地から南方にはメルボルン・オーランド国際空港がある。つまり、近隣に二箇所ある空港のうち、オーランド空港と言った。また、真島もテーマパークに行くように添えた。

 そのことからエリカの家はおのずと、たてに並んだ五つの街のどこか。
 その近隣のホテルに宿泊しただろう。街に行くには車が必要で、現在のエリカは各地を転々としている身の上である。自家用車は持っていない。すると空港付近にあるレンタカーで聞き込みをするほうが理にかなっている。

 「Hello」

 カウンターで呼びかけると、恰幅のいい黒人系の女店員が出た。
 英語は当然堪能ではないが、海外組織との取引経験もある。大切なのは自信とユーモアだ。

 ――若い女を探している。

 「エリカ・ラナマン」

 ――年齢は三〇前後。
 ――アジア系。中国系アメリカ人。髪は長い黒髪。
 ――一八日に借りに来たはずだ。

 黒人系の店員はじっと真島を見詰めて、リストファイルを開いた。それから、『あなたは、その方とどういうご関係で?』と尋ねた。
 真島は逡巡をみせた。血の繋がらない赤の他人で、最近会った利害の一致した関係。便宜上、近しい関係であり詮索に耐えうるのは、「恋人」だろう。

 店員は綺麗な白目を光らせて、小さく頷いた。
 
 「失礼ですが、お名前をおっしゃっていただけますか? ええ、あなたのです」
 「名前? ……真島や。真島。ゴロー、マジマ」
 「ありがとう。……Mr.マジマ。あなたに、伝言を預かっています」
 「伝言?」

 店員は一枚の折りたたまれたメモを真島に手渡した。
 
 ―――これを読んだら、夢の国の日本へ。

 「夢の国の日本……?」
 「なんて書いてあります」
 「To Japan.the land of dreams」
 「エプコットじゃあないですか?」

 「エプコット?」真島は復唱した。
 店員はにこっと笑うと「ランド内にあるんです、エプコット」といった。そして、デスク上にあるテーマパークのパンフレットを取って、真島の前で広げた。

 「Ah……、これです。ここ。ジャパン」
 「……なるほど。そないな意味か。万博みたいやのう」

 テーマパーク内に各国をテーマにした施設があって、エリカの伝言は『ランド内の日本館』で待っているという意味になる。
 真島は店員に礼を言って、空港に戻った。ターミナルバスでランド行きのバスに乗ると、賑やかなファミリー客が所狭しに乗っていた。時差ボケの頭を捻ると、そういえば今日は休日だったことを思い出した。夜のランドで遊んでから周辺ホテルに泊まる予定なのだろう。








 テーマパークには軽快な光と音楽と案内音声、熱狂的な歓声が一帯を占めていた。 
 まさか五六歳になって本場のランドに一人で訪れるとは。
 真島はマフラーを仕舞いこむようにコートの襟を上まで留めた。赤道付近。南米寄りの地形も合わさって、日本の冬よりはずっと温暖な夜だが肌寒く感じる。

 
 中央の湖の周りに沿うように、各国のテーマ施設が並んでいる。
 徒歩で南西に位置する日本館は、たしかに日本を切り取ったかのような城や五重塔。宮島を思わせる水辺に立つ朱塗りの鳥居といったオブジェが景観を構築している。漆黒の闇の中でも、ライトアップされ幽玄な雰囲気を醸し出していた。

 「……真島さん」
 「エリカちゃんか……!」

 鳥居の下で振り向いた女は真島の訪れを待っていた。
 駆け出し、両肩を掴んで「大丈夫やったか」と声をかけると、薄く笑み「はい」と沈みがちに頷いた。
 
 「……びっくりしました。ほんとうに、来てくれるなんて」
 「何言うてんねん……行くに決まっとるやろ。……伝言残してくれたんは、エリカちゃんの方やないか」
 「それはそうですけど……。半分くらいは信じてませんでした。…………昔、ここに家族で来たことがあったのを思い出したんです」

 暗がりでもわかるほど、エリカはやつれていた。
 
 「どっか座ろうや」
 「……ありがとうございます」

 館内のレストランはラストオーダーギリギリだった。
 鴨うどんと寿司を注文した。日本で安価に食べられるものが、値段が数倍した。それが余計に異国に来た実感を与えた。まさかアメリカに来て最初に食べるものが日本食とは可笑しなものだが、味は悪くない。

 「レンタカーは返したっちゅうワケやな」
 「ええ。……期限がありましたし……あの、……どこから話せばいいですか。……まだ、混乱していて」
 「……家に行ったんやろ。なんか、手がかりとか」

 真島の問いに引きつけを起こしたようにエリカが叫んだ。

 「家………っ」
 「あ、大丈夫か……すまん、堪忍や……」
 「いえ……すみません、食事中に……。……私のせいです、……私が帰ってこなければ……きっと……」

 頭を抱えて、なんとか噛み殺すように、はっきりとそれを繰り返した。

 「父が、死んでいたんです」

 電話口でもきいた台詞だった。
 ここに来るまで様々な想定を繰り広げる一言の答え合わせは、闘技場のリングの上で今まさに強敵と拳を交わし合うような興奮があった。エリカは、箸を置いてこめかみに肘をついた右手をあてた。

 「……一昨日です。一緒にお昼を食べました。ファストフードで。……そのあと家に帰って……父がお茶を淹れてくれてる間に……母の部屋を探ったんです。……一階でお皿の割れた音がして、おっちょこちょいな人でしたから……なんでもないって思ったんですけど、二階の窓から車が走り去っていくのが見えて」

 俯いた彼女の手指と髪の間から覗く瞳は恐怖に染まっていた。
 ひくり、と口角がぎこちなく上がった。

 「……一階に降りたら、父が倒れていました。……額に穴が空いていて……すぐ、警察を呼びました。警察は自殺を疑いましたが、あり得ません。間違いない。だって……お気に入りのカップにお茶を今から淹れようとしていたんです。リヨンの蚤の市で買ったアビランドのティーセット。大切な時にしか使わない特別な……! ……逃走する車も見ました。監視カメラのチェックもお願いしました。きっと、殺されたんです!」

 信じてくれ。訴えかけるようにエリカが叫んだ。
 悲痛な嘆きだった。真島は情に沿う気持ち半分、――警察の検証が間違っているとも言い切れないと感じていた。突然の出来事にパニックになり、前後にあった出来事を拡大解釈しているのかもしれない。……しかし、真島自身でさえも、彼女からの電話のとき、言いしれぬ危険予知が働いた。

 あり得ないと思っていても、あり得る。
 チャン・ホンファを取り巻く環境下では常識を覆すことがしばしば起こっていたからだ。一九八九年の夏の経験が、真島に信じさせようとざわめき立つ。
 取り乱したことを侘びて、エリカは喉につっかえたように振り絞る声で語った。

 「………その日は、ホテルに泊まることにしました。いつまでも眠ることができなくて。……まだ、訊かなきゃいけないことがたくさんありました。父は、知っていたと思います。何かを。……警察が現場検証をしました。監視カメラのほうの結果も……やっぱり、自殺だって。おかしいです。……なにかが、おかしい」

 う、と喉の奥で嗚咽をこらえて、彼女は核心を突いた。
 それから、右頬をつうっと涙の軌跡が光に濡れて輝いた。

 「そう、まるで………死ぬのが決まってたみたいに」

 また薄い笑みを零した。
 震えを鎮めようと彼女は自分自身を抱きしめた。

 「そう思ったら、もしかしたら、次に殺されるのは……私かもしれないって……だから、真島さんに……電話をかけたんです」

 もう一度、「本当に、来てくれるなんて思いませんでした」と言った。
 いつしか彼女は泣きながら声をあげて笑っていた。

 「母の手紙。覚えていますか? あなたのもとに行けって書いてあったんですよ。……ねえ、真島さん。教えてください。母は……何者だったんです? 父が死ななきゃいけない理由ってなんですか? 隠すことなんですか? 母がいなくなって、父が死んでも? そんなに、大切ですか。命よりも……?」
 「エリカちゃん。……落ち着いてからや。落ち着いてから話す。エエな?」
 「はぐらかさないでください。……棘が、刺さったままなんです。ここに……! 私は、子供じゃあないんです、もう。そんなの、優しさじゃない………目隠ししないで……、真実をおしえて」

 エリカは思わず途中で英語混じりに話した。完璧にほど近い日本語の中で、棘が刺さったままといって心臓にトンと親指を突き立てた。『Heart』に強いアクセントをつけて。真島はそれでも、引き結んだ唇から真実を伝えるのをためらった。優しさからではない。まだ、背景を把握しきれていなかったからだ。

 「ホテル行こうや」
 「Why?!」
 「昨日泊まったホテルや。……支払いはしてへんな? 答え合わせしてから、話す。エエな」
 「………また、レンタカー借りないと……。これって、二度手間?」
 「それを決めるんは、ワシらちゃう」

 エリカはぶつくさと不満を垂れたが、「わかった」と承諾した。
 再び手をつけた鴨うどんはすこしのびていた。


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