六章『新たな監獄』A

  ◇ ◇ ◇



 幼稚園の頃、マリア様は本当にいると思っていた。


 学級ではシスターが、家では母が「ちゃんとお祈りをしてね」と十字架に祈っていた。処女懐胎で神の子を身ごもった特別な女性、マリアはいつも彫像の姿をして私を見下ろしていた。その彫像も中に人間が入っていて、特別な人だけがマリア様になれるのだという空想を抱いていた。
 同じように父も母も私に空想を抱いていた。


 「涼はとても賢い子だから、ちゃんとできるわよね?」


 お勉強も、水泳も、ピアノも、バレエも。いい学校へ入って、いい成績を残し、いい職場にいって、いい男性と知り合って結婚して、子供を産んで、よき母親になる。すべて決められていた。常に最初から目標が決まっていた。意思なんて関係がなくて、そこに荒川涼個人の考え方や価値観なんか求められていなかった。

 学友の女友達のなかには聖書を読み、神に心を捧げるふりをしながら私生活ではボーイフレンドを作って遊んでいる子もいた。そこには聖母マリアがいなかった。



 「涼もさ、いつまでもバイブル読んでないで遊ぼうよ」

 学友たちは学校や親の前の顔と、遊ぶ時の顔の二つがあった。涼は生真面目に生きてきたせいかどこでも同じだった。糊のきいたシャツを着てきっちりと襟までボタンを締め、リボンをきつく結び、スカートにも皴なんか一つもなく、おまけに丈はひざ下まである。家と習い事と学校を往復する生活で、友達同士で遊びに行くのは中学生になってからだった。
 

 はじめて賑やかな場所で遊んだ日、それは起こった。
 繁華街に友達と遊びに行き、世の中にはこんなにも物や食べ物や娯楽があふれていて、自分の住んでいる場所はなんて寂しくつまらないのかと思い知らされた。
 歩き疲れた私は友達と一緒に喫茶店に入った。紅茶付きのケーキセットを頼み、友人はカフェオレとパフェを頼んだ。実はパフェを食べたことがなかった。家族で外出する時も頼んでいいメニューというものがあり、決まっていたのだ。


 「ね、涼ちゃん、ちょっと食べる?」
 「えっ」


 茶目っ気のある友達は一口食べないかと魅力的な提案をした。その人が頼んだものを少し分けてもらう食べ方はどこか浅ましいと感じていた。…母からそう教えられていたからだ。
 少し悩んでいる私を、友達は待ってくれた。


 「じゃあ、涼ちゃんのそのケーキ、一口ちょうだい、ね? これでお互い様だしフェア! こういうのをシェアっていうのよ。だから卑しくなんてないわ」
 「し、シェア。そうね、シェア」


 都合のいい理由はあとからでもいくらでも賄える。友達とお互いのデザートの一口を交換した。はじめての禁じられた行為にドキドキした。

 友達は最近、文通をはじめたことを打ち明けた。その相手とはまだ会ったことがないけれど、非常に好感触で、文通の数はもう二桁になると。そのうち会うかもしれないと言った。そして「涼はなにかそういうのないの?」と尋ねられる。外見も中身もそのまま堅物で面白味なんてちっともないことを私は自覚していた。この友達はなぜかそういう私に休日に一緒に遊びに行きましょうと誘ってくれて、心底有難いと思っていた。


 「ご存じだと思うけど、そういうの、ないの」
 「好きな人とかも? 四組の男子が涼のこと気になってるって聞いたわ」
 「それ、ほんとう?」
 「本当よ」
 「………わたし、まだ好きっていうの、よくわからなくて」


 友達は少し驚いた顔をみせた。その表情から、自分は周りより遅れていて子供なのだと思い知る。じわりじわりと顔が熱くなっていくのがわかった。親にも聞いたことがない話題だし、友達も少ない。勉強だけをしていればいい訳ではないことくらい、知っている。今日だって、電車に乗るのも初めてだった。切符の買い方に手間取り、次に何の知らないことが出てくるか緊張しっぱなしで出てきたのだ。
 ケーキの味をわからないまま食べている。

 デザートを食べ終えてもう少し喋った後、ブティックを見に行くことになった。
 喫茶店をあとにして、すこしした頃、友達は手を口に当てて「あ!」と声をあげた。


 「ごめんね、涼ちゃん! さっきのお店に忘れ物…しちゃったかも」
 「それは大変! 戻らないと」
 「ううん、大丈夫。すぐに取ってくるから、涼ちゃんはここで待ってて」


 そういって友達は足早にその場から喫茶店のほうへと走っていった。
 日曜日の午後の繁華街は人でいっぱいだ。人に慣れていないゆえに気分がよくない。通路の壁になるような場所に寄って友達を待っていた。
 ここにはたくさんのひとがいる。普段会うことがないような人たちが、すれ違っていく。人生すら交わらない一瞬の交錯。新鮮な光景だった。


 「ねえねえ、そこの君」
 「……」
 「そこの君だよ。きみ」
 「……? えっ、わたしですか?」
 「そうだよ」


 数人の奇抜なのかだらしないのかよくわからない恰好をしている男の子たちが声をかけてきたのだ。彼らは私をみてなぜか笑っている。ちっともおもしろくないのに。
 そして「きみ、かわいいね」とか「どこの学校通ってるの?」など容姿を評価し個人情報を聞いてくる。あからさまに不自然だ。しかし逃げようと思っても数人に囲まれてしまっていて、走っても追いつかれてしまう。それに何か怖いことをされそうで、動く勇気がなかった。はやく友達が帰ってこないかと思っていると、その三人のうちの一人が声をあげた。


 「いってえ!」


 「え?」とよく見てみると、通行人のなかから一人の背の高い細身の男子がぶつかってきたみたいだった。
 

 「んだよ! てめえちゃんと前見て歩けってんだよ」
 「あぁ? ここはガキの遊び場じゃねえぞ。とっとと帰れよ」
 「んだとぉ!?」


 細身の少年は金のネックレスを首にかけ、目つきが鋭く、煙草を吸っている。
 三人は腕には自慢があるようで、少年に喧嘩を吹っ掛けた。……だがあっという間に勝敗は決した。少年は喧嘩慣れしているのか拳一つで三人を撃沈させたのだ。
 後頭部の剃った襟足から髪の毛を逆なでするようにかき上げて悪態をついた。


 「……なぁ、お前大丈夫か。……財布とか、とられてへんか」

 私はびっくりして声が裏返った。暴力を間近で見る機会なんてない。それだけで失禁してしまいそうになる。
 少年から発せられた声は思いのほか落ち着いたもので、それが余計に胸を高鳴らせた。

 「自分、こっち」

 少年は関東では馴染みのない関西弁のような訛り混じりで地面に突っ伏する男たちから離れるように、私の手をひいた。
 その手は大きくしなやかで温度は冷たかった。


 「あのう、ありがとうございました…っ」
 「ん? ああ、べつに。……ああいうの、ここら辺じゃしょっちゅうあるから」
 「お、お礼とか…いりますか?」
 「いらんいらん」


 片手で断るジェスチャーをして、少年は私をその場から少し離れた場所へと連れてきた。
 彼の顔は目つきこそ悪いが、よく見てみると目鼻立ちが整った面長の綺麗な顔をしている。先ほど三人の男たちに「かわいい」などと冗談を言われたが、そう言ってしまう気持ちというのはあるのかもしれないと思った。それほど、褒めたくなるほどの容姿の人というのをはじめて見たのだ。俳優でもしているのだろうか。だとしたら、さっきの拳の強さも演技に活かせるはずだ。


 「あんた一人か?」
 「い、いえ……、実は友達と来てて」
 「そうか、ならはやく行ったほうがいい。遊ぶのもほどほどにな」
 「は、はい!」


 そのとき喫茶店から戻ってきた友達が遠くで私に向かって手を振っている。私は一礼してその子の元まで走った。
 「あの人誰?」なんて友達に聞かれたがうまく答えられなかった。振り返ると、その少年は人ごみに消えていってもう見えなくなった。
 名前も知らないまま彼は行ってしまった。あのまま少年が助けてくれなかったらどうなっていたのだろう。


 彼に握られた右手の感触が残って、それからあの時の少年のことを考えると心が疼くようになった。はっきりとした意味を知らないまま。
 ただ、もう一度会えたらいいのに、と願うのだ。
 その年の七夕には、『彼ともう一度会えますように』と願いを書いた。


 一年後の七夕の日、彼に会えるなんて思っていなかった。






 懐かしい昔の思い出を夢みていた。



 三人のガラの悪い男たちから助けてくれた人は、一年後の七夕の日にもう一度現れた。海外赴任の父が家族も海外で住もうと言い出したのが始まり。人生ではじめて親に抵抗したのだ。どこか遠くに行こうと家出をしたけれど、お小遣いなんてたかがしれてる。それに「やっぱり涼はここにいていいよ」という言葉を期待していたのだ。



 『今日、七夕ですね』


 涼にとっては、小さな奇跡だった。

 『命の恩人』にもう一度会えるなんて、思わなかった。去年の七夕に『彼ともう一度会えますように』と願いを書いた。それが叶ったのだと思った。その日はたまたまに七夕で、偶然だと思うだろうか。偶然のたまたまの奇跡を引き当てたのだ。彼とは七夕の話を少しだけした。本当は一年前に願ったから会えたのだと言ってみたかった。

 まるで織姫と彦星だ、なんていえば引かれるだろうけれど、運命を信じた。
 彼は相変わらず、背が高くて細身で少々奇抜な髪形をしていて少し目つきが悪くて、よく見てみると俳優のように顔も整っていた。一年前より、また少し背が伸びて、恰好がよくなっていて見惚れてしまった。このまま本当に海外へ行くのかと考えるとますます憂鬱になった。バナナを食べ終えたら帰るように、と彼はなだめた。いや、煩わしかっただけなのかもしれない。

 その時不覚にも泣いてしまった。だってほんとうに永遠にもう会えなくなる気がした。せっかく会えたのに。


 『…帰るから、商店街の外まで…一緒に…っ』
 『わかった、わかったから! 泣くなや…』
 

 あしらわれていることくらい分かった。彼にしてみれば、一年前のことなんて忘れていて、流れていく日常に埋もれてしまう一幕だったはずなのだ。本当に彼は困っていたし、面倒な事をしていると自覚があった。その証拠に彼が毒吐いた。『初対面』の相手にいきなり泣かれるなんて自分でも困ることをしたのだ。迷惑だろう。恥ずかしかった。悔しくて、情けなかった。


 彼と繋いだ右手はあっけなく振りほどかれて、切なく空気を掴んだ。外気が暑くて、彼の大きくてしなやかで冷たい手の感触を鮮明に感じさせた。セミの鳴き声が早くなる心音に重なった。
 努めてこれ以上困らせないように、涙を流さないよう目頭を押さえた。気遣う彼の声が涙を誘った。とっさに涙声を呑み込む。


 「ほれ。着いたで」
 「……う」

 アーケードの下までの約束をしたのは涼自身だった。それを覆すことはできない。本当はずっとずっと、このまま一緒にいてほしい、いっそ拐ってほしいと思った。顔がまた熱くなって堪えていた涙がたくさん溢れて、彼の名前もお礼も別れの言葉もきけずに、追いかけることもできたくせに立ち去る背中を見送った。せっかく神様が与えてくださったチャンスを逃したのだ。涼は悔いる。『愚か者』だったと。


 ぼうっと、薬の効いた頭で闇夜に横たわっている。どうしてここにいるのだろう。

 そんなことを目覚めては眠っての繰り返しの中で何度も自問自答している。答えはなく、少しするとまた眠ってしまうのだ。ゆっくりと死んでいくのだろう、なんて暗い部屋のなかで思う。まだ靄がかかっている。思い出そうとするたびに、『いけない』と誰かが囁く。どうして思い出してはいけないのだろう。どうしてここにいるのか、あのあと兄が迎えに来て、その夜に飛行機に無理やり押し込められた。日本を発ったあとの――記憶がない。


 『壊れてしまうよ』


 『私』ではない誰かが、喋っている。

 壊れたっていいのだ、もう。彼の前であんな恥ずかしい涙を晒しておいて、不甲斐ない自分を呪いきれなくて。両親の望む理想の娘になれないのだから、もうどうだっていい。それでも誰かは『壊れてしまったら、二度と今の君には戻れないんだ』と言う。どうしてそんなことがわかるの?……まるで今まで見てきたかのよう。『私』以外の誰かが『私』を知っているなんて気味が悪い。誰かは言う『そうだよ、君の代わりに、君を生きてきたから。詳しいんだ』といった。

 「ほん、とうに…?」

 しゃがれた声が出た。一気に老けて老婆のように醜い声だった。

 涼の体の奥に誰かが住み着いている気配がした。とても申し訳なさそうに誰かは謝った。『ごめんね、そうしないといけなかった』言葉の意味も、誰かが誰かもわからない。

 あきらめた。涼は知りたかった。記憶にない間になにが起きたのかを。

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