2020年 11月
マレーシアのウィークリーマンションに届いたのは、一通の手紙だった。
『ホンファが昔、きみ宛てに出したと思われる手紙が家に届いたから、そちらに送るよ』と父が事前にメールで知らせてくれた手紙だった。
手紙の日付は二〇〇九年、三月だった。
二〇〇九年。
エリカは大学に進学し、心理学か社会学を学ぶつもりでいた。
しかし、父への疑念と、プライベートに起こったささいなきっかけで、音楽科のある別の大学に転入することに決めたのだった。
手紙には写真が一枚添えられていた。
隠し撮りのようだった。中心人物の視線はカメラを向いていなかった。高級生地で仕立てられたスーツ姿。アクセントはワインレッドのシャツ。
ブラックスーツの男たちに囲まれ、ちょうど車から出てくるところをこっそり撮られたような写真。最初の印象は、黒がよく似合うはっきりとした雰囲気の男。左眼の黒の眼帯が、それがよく見知った人物であると既視感に訴えかけた。
「あ……真島さん……?」
真島吾朗。
日本へ行った際に、たびたび遭遇する機会に恵まれた人。
最初に会ったのは、九歳の頃。父母と一緒に日本に行った。父を待っていたが友達を追いかけて見知らぬ街中で迷子になり、エリカを交番まで連れて行ってくれたヒーロー。
その次は、……そう、その四年後のことだ。
一五歳のエリカは、スクールの友人と一緒に父の引率のもと日本に再訪した。あれはちょうど、夏季休暇の頃だった。
2005年 6月
夏休みは長い。
勤勉なクラスメイトのひとりがハーバード大学へ行くと意気込んでいるのを聞いて、エリカ自身ももうそろそろ真剣に考えなきゃいけない、なんてぼんやりと思い浮かべていた。晴れあがった青く広い空の下。ヤシの木の葉がサラサラと揺れている。堅い将来のことをなんて、せっかく気持ちのいい日には不似合い。南米寄りの温暖な気候が能天気な気性を育んだ。
「卒業まで……えっと、三年だわ」
義務教育の最高学年まであと三年はある。高校まで義務教育のアメリカにおいて、その道程は長い。
リオ・デ・エイスとも呼ばるインディアン川をすぐそこに、エリカは学校帰りにベスを誘った。オーランドから迎えに来る親の車を待つために、チキンが売っているファストフード店のカウンター席にいた。いつものことだった。
「ねえ、夏休みどうすんの?」
「今それを考えてたわ。……さすがにガールスカウトの合宿は食傷気味。ジェニーみたく、タフだったら楽しめるけど」
「ふふっ。クールな言い回しね。いつもより数倍賢くみえる」
「どうもありがとう。新しい、なにか……特別なバッジが欲しいわね」
骨付きチキンを丸かじりしながら、ベスはヴァイキングのモノマネをした。
これでも彼女は人気者で、とくに男子が噂している。金髪のストレートヘアーはユニコーンのたてがみみたいで魅力的だし、北欧系のルーツが二つの瞳に神秘的な翠緑を宿している。深窓の令嬢を思わせる容姿に恵まれているものの、気質は豪快。放課後はもれなく、先祖返りを起こしてヴァイキングになる。
素の性格をそのままに味わうのは、彼女の友人として特別な権利だ。
「とってもワイルドね」
「いつ食べても美味しいわ。ジャンクは大事なガソリンよ。おかげで、ちょっと、うん。下着を新しくしなきゃだけど」
「今度、ショッピングモールに行こうよ。最高にイケてるやつ買おう」
「いいわね。夏休みの計画、第一号ね!」
男子はベスの性的な魅力を揶揄するのを知っていて、ときどきエリカを橋渡しのために利用して近づいてくることもある。
ベスはバービー人形じゃない。クラスのクイーンビーからは目の敵にされがちで、男子からは性的な発露に使われている。エリカはスクールカーストにおいては下層寄り。おまけに混血で、スタンダードに比べてアジア系の淡い顔立ちをしていたから、ベスが混ざれる会話からあぶれ空気になることがあった。差別はあった。エリカは悲観的にならなかった。これでも友達は多い方で、校外にもチャット友達がいるし、チャーチのバザーでは年上と交流があった。
ベスとの親交は彼女の母親がランチの用意を忘れたことから始まった。
校内のカフェテリアで手持ち無沙汰にしているベスに「残すとパパがママに泣き言メール送っちゃうから、手伝ってくれない?」と誘ったのが始まりだった。二玉のリンゴとポテトチップス。カフェテリアでサラダを買った。
チキンファイターをする食べ盛りのベスは「新しいバッジねえ」と呟いた。
「浜辺のクリーン活動はどう?」
「浜辺って……ゴミ拾い?」
「まぁね。リサイクルアートやってみるのはどう? マスコットを作ったり。材料費は投資してもらうの、私たちのボスたちから!」
「いいね。考査までの得点レースってとこね」
観光地らしくビーチには旅行者が詰めかけている。
リゾートの景観保護のためのボランティア活動。これからシーズンを迎えるから好都合だ。サマースクールで農業体験に缶詰されるよりは刺激的だろう。
「ノッたわ。良い夏休みになる気がする」
「さすがエリカ。おっとっと……ダディの車が見えたわ。続きはメールで! それじゃ、バーイ!」
紙袋に骨だけになったチキンを詰め込んでパンパンになったゴミ箱に突っ込むと、彼女は颯爽と店から飛び出していった。
エリカはバス停まで歩いた。タイタスビルの内陸寄りの際に建つ家までバスで帰るために。
「よう、エリカ。乗ってけよ」
「ダン。どうしたの、その荷物。今日って買い出しだっけ?」
「うーん、本当は違った。バーベキューするっていうから、お前もしかしてチキン食ったのか? ははは」
「私は食べてない。ベスのを見てただけ」
二人いるうちの二番目の兄ダンがバス停を通りかかった。
後ろの席には大量の食材が見えた。エリカが助手席に座ると家路へと発車した。この車はダンの貯金の成果物で、型落ちの中古車だったが味があって気に入っていた。
「母さん帰ってきてるぜ。お土産もあるってさ」
「なるほど、だからバーベキューなのね。また便箋かしら。オルゴール? カウベル?」
「俺は……時計だった。学部主席のお祝いだからさ」
「おめでとう。よかったじゃない」
父親譲りの青い瞳は濃いサングラスに隠れて見えないが口角が綺麗に持ち上がっている。
家に到着した頃、人々の興奮した歓声が沸き起こった。やがてそれが轟音に呑まれていく。
「え、今日だったの」
「忘れてたのか。ビーチの方は人だかりだったぜ。おかげでスーパーのドリンクコーナーは品薄だったけど」
青空を縫うように昇る白銀に煌めくシャトル。
オレンジ色の炎の先から噴煙がもくもくと漂い、海上を包み込む。大勢のロマンをのせて宇宙へと旅立っていく。
「大成功だな。俺たちもバーベキュー大成功させようぜ、エリカ荷物持ってくれ」
「はいはい」
宇宙センターから飛び立ったスペースシャトルを見届けて、母のいる家へ。
お土産は、犬だかクマだかわからないぬいぐるみだった。
バーベキューのあとは、家族でラジコンレース大会を催すのが催しの一つになっていた。母はキャリアウーマンで、しょっちゅう海外に行っていたから家にいられる時間は貴重だった。一方父のほうは、エンジニアでオーランドの都市部の民間IT企業で働いていた。よって、エリカを含めた子供たちの面倒をみるのは父の仕事だった。
両親の出会いは、大学時代。
取っている授業が一緒で、優秀なのに出席単位の足りない不真面目な女学生だった母を気にかけている内に、イイ感じになったらしい。母は香港出身で、英国籍も持っていたからイギリスの大学に編入できた。父の父は母を差別していた。統治下の国の黄色人種と世間体を気にしていた。なぜなら数百年にも及ぶ伝統と古い血が、彼に流れていたからだ。
父は母よりも傷ついた。
父は大学院まで進み博士を取ってイギリスではなくアメリカ企業のオファーに応じた。母を伴って新天地、自由の国へ。
二人は子宝に恵まれた。
二人の男の子と、一人の女の子を授かった。
二人はよく、エリカと兄弟に語って聞かせた。
――あなた達は、特別で、世界のなによりも素晴らしく大切なんだよ。
ベスと約束した通り、計画していたクリーンアートは二人のポートフォリオの一つになった。
母は二週間もしないうちにまた仕事に出かけていった。その夏がいつもの夏ではなかったのは、八月のある日のこと。
後半に入った夏休み。次のプロジェクトについてベスとチャットをしていたとき、父が部屋をノックした。
「やあレディ。調子はどう?」
「ふふ、なに。超ご機嫌じゃない。……なに? 隠し持ってる?」
「おっと。……んんッ、ママからだ。さっき電話があってね、家にきた手紙を持ってきて欲しいとのことだよ」
「ママ宛ての? いつものことよね。転送ミス? どこに持っていくの」
「推理してごらん」
父は母に宛てで届いた何通かの手紙をエリカの前に見せた。
白、ベージュ、グレー。ちょっとずつ違う色の手紙を食い入るように見詰めても、宛先がそれぞれバラバラなことくらいしかわからない。
父はこめかみに人差し指を置いて「思い出してごらん」と言った。
「ん?」
「きみのママは今どこにいる予定?」
「あ、そっか。そうね。うん、そういうこと。あはは。わかったわ。答えはジャパンね」
「正解。さあ、これをあげるよ。エリカのものだ」
「私の?」
反対側の方から新しい手紙が登場してエリカは眉を顰めた。
他の無地の手紙と違って、カラフルで差出人と場所もはっきりしている。差出人は母だった。そしてなんだかよくわからない可愛らしいキャラクターのスタンプが押印されている。住所は英語と併せて漢字が並んでいた。
「……日本から、ママがだしたの?」
「そうだね。さ、開けて」
「あ! チケット?! シー! 断然こっちのほうが良いけど、……興味深いわ! とっても!」
エリカは興奮して飛び上がった。
「ありがとう、パパ、ママ!」と叫んでくるりと回った。
「提案なんだけど……きみの一番仲良しの子を誘ってみるのはどう?」
「ベスを連れて行ってもいいの?!」
「もちろん。……君たちのこの間の企画はおもしろかったし、バザーも好評だった。制作中のムービーの撮影もいいアイディアだ。投資額もリターンプラス二パーセント上乗せされていたしね。そのご褒美だよ」
「愛してるわパパ! ベスにさっそく電話しなくっちゃ!」
スキップしてエリカはリビングにある電話に飛びついた。
ベスはお気に入りの小説を読んでいる最中だった。彼女ももちろん喜んで日本行きを承諾した。
2005年 8月
東京 新宿
二週間の長い滞在は父の夏季休暇を伴ったものだった。
とはいうものの、イレギュラーな事態が起きたらしく、ホテルの一室で朝から二台のパソコンに齧りついている。『凡才に恵まれた僕じゃなきゃ出来ない仕事らしい。エリカ、きみは半分は僕の娘なわけだから今後、こういうイレギュラーも起きるかもしれない』と言っていた。ブリティッシュな皮肉だった。
「本当は僕も行きたいし、なにより君たちはまだ一五歳だ。日本が安全で女性二人で歩くにはマシだっていうけど、プリティでチャーミングなレディたちに声をかけてくる奴だっている。携帯ですぐに僕に連絡するんだよ。ボスの連絡はオフだが、二人からはいつでも大歓迎。いいね?」
「わかったわ、パパ。大丈夫よ。昔来たことだってあるし……なにより、ほら。ママと待ち合わせのホテルに行くだけ! ついでにスイーツをたかっちゃうかもしれないけど!」
パパの頬にキスをおくって、エリカは隣接するベスの部屋に向かった。
キラキラの金髪はまとめて結い上げられ、つるりとした丸い額がみえていた。サングラスをかけてシャツとジーパン姿でエリカが来るのを待っていた。
「ハーイ、プリンセス。お待たせ」
「ハイ。プリンセス、とってもいい朝ね。刺激的な太陽だわ。ロスよりキツそうだもの。汗っかきには強敵」
「ふふ。日焼け止め塗った?」
「塗ったわ。魔法の傘持ってる?」
「ええ。メリー・ポピンズしましょ!」
意気揚々と東京の街に飛び出した二人は迷子になった。
理由は複雑な地下鉄の路線図だった。いくら色分けがされているとはいえ、フィーリングに頼ったのが間違いだった。地上に出てタクシーを使おうという結論に至り、新宿で降りたが今度は駅構内で迷う羽目になった。
「やっちゃったわ。約束の時間まであと一〇分だもの。……一旦パパに連絡して、ママにも言うわ」
「そうね。明後日いくシーも気をつけなきゃ。車は確定ね」
エリカの電話の傍らで、ベスはガイドブックを開いた。
連絡を終えると、エリカの腕をベスが捕らえた。
「どうしたの?」
「新宿って、あのカムロチョウがあるんでしょ? 東洋一の歓楽街って書いてあるわ。ラスベガスよりもすごいのかしら」
「もしかして、行きたい?」
「興味あるわ。休み明けの自慢話にもってこいよ! あ、もちろん……エリカの用事が終わってからでいいの」
エリカの提案に頷いて、そのあと五分も駅周辺を歩き回り、タクシー乗り場を求めて彷徨った挙げ句入り組んだ道に迷い込んでしまった。
困り果てて道の往来に留まっていると、人相の悪いスキンヘッドの男が声をかけてきた。日本語は九歳からしっかり学ぶようになって、カタコトであれば喋れたが、そのふわふわした発音が男にはチャーミングに聴こえたようだった。
「お二人さん観光? 日本はじめて? いい店しってるけど、どう?」
「あー、遠慮します」
「おお、いいねえ!」
なぜか喜んでいる男を尻目に、エリカはベスの手を握ると後退りした。すると、一歩を詰めてくる。
「なんだぁ? 俺が怖いのかぁ?」
エリカは息を呑んだ。これが父の言っていた良からぬ人間なのだと思い知った。
しかしそこへ救世主が登場した。その男は遥か後方でバットを担ぎあっという間に距離を詰め、危険な男に声をかけた。黒い眼帯をした長身の男は身を竦ませるほどの打擲を繰り出し、それは軽々とボールのように宙に舞った。
「オー、アメイジング!」
隣でベスが歓声を上げ、拍手した。
彼女にはこれが、特別なショーの一環に見えたようだった。
男は腫れた顔を擦りながら、足を引きずって脱兎の如く逃げ出した。なにか叫んでいたが、意味はわからなかった。
「お嬢チャンら怪我ないか?」
「Oh…Thank you」
「助けてくれた、ありがとうござい……Oh!」
エリカはそのファンキーな見た目をした男が初対面でないことに気づいた。
金ピカのジャケットの奇妙な柄はパイソン。イカしたツーブロックスタイルのヘア。色白で半裸を呈し、その肌には花とパイソンの鮮やかなタトゥー。バットを握る手には黒い革手袋があり、昔の記憶を呼び覚ますには十分な情報だった。
はじめて日本を訪れた時。迷子になったエリカを助けてくれた男。記憶と寸分違わず、彼は再びエリカの目の前にいた。
エリカの胸の中はデジャブへのときめきでいっぱいになった。
「アハー。彼は、ヤクザ?」
ベスが能天気に口にした。エリカははっとして咎めた。
「ベス、あんまり……その。失礼よ、助けてもらった人に対して。お礼をするべきだわ」
「ヒヒッ。なぁ〜んや、お嬢チャンら、東京観光に来てんの?」
男の日本語は伸びやかで優しげなものだった。親しみが籠っていて、少なくとも先ほどの男よりは悪意がなかった。
「エリカ、……お願い。なんていってるの?」
「えー……、カンコウか? だって」
「マイゴなん? お二人さん」
日本語を復唱すると、男は身をかがめて二人を見比べた。
彼は人気の少ない通りをふらついている女子二人と受け取ったようだ。
「どこ行きたいん?」
「……テートホテル……」
「テート……テイトて、ああ! 帝都ホテルかいのぅ」
「オー! イエスイエス!」
キワドい任侠映画の影響でベスはひそひそと興味をエリカの耳元で囁いた。
どこからどうみても日本ヤクザだ。彼は、「マジマ」と名乗った。エリカは記憶のなかにいた恩人との再会を喜んだが、マジマはエリカのことを覚えていないみたいだった。それもそうだ。あの頃、エリカは九歳で六年も前の出来事なのだから。
彼のお陰で、日本という国に興味を持ち、日本人の友人も作ったし、日本語の勉強をしていた。母国語の英語と母のルーツの日本語。フロリダの地域性も相まって、スペイン語、……それから日本語。完璧というわけではないが、多少はわかった。
マジマは二人を送ると申し出た。二人が未成年だと気づいたからだった。
帝都ホテルに到着すると、ベスはほうとため息をついた。規模はアメリカサイズでないのは承知済みだが、格調高さは知っている。そのクラシカルな佇まいは父の故郷にも少し似ている。
「帝都ホテルて、エラい高いホテルに泊まっとるんやの〜」
「泊まってるのは私じゃない。ママ。パパと来るはずだった。……パパは忙しくて来られなかった」
「おつかいエラいやないか」
ホテルに入ってラウンジまで向かうと、エリカは一面を見渡して母を探した。
「あ、ママ!」
「エリカ! いらっしゃい、ベスも!……あら」
「お、おう……」
オフホワイトカラーのジャケットとスカート姿の母がエリカの前に現れて抱きしめた。
ふと、同伴した男の存在を認めると微かに微笑み、ややぎこちない空気が流れた。エリカは二人が知り合いなのかもしれない、という予感を抱いた。
「ママ、この人と知り合い?」
「……ええ。そうよ」
「……オー・マイ・ゴッド! あはは。……はい、これ、パパから。約束の手紙」
「ありがとう。……まさか、ここで会えるなんてびっくりだわ」
手紙を渡すと、ちょうど母の携帯が鳴った。
顔つきが変わり、仕事モードになった母は格好よかった。短い通話のあと「ごめんなさい」と謝った。
「本当はお茶したかったんだけど。予定が詰まってて。……そうだ、これお小遣い。使いすぎないようにね。……最終日の見送りには絶対行くわ。ここにエリカたちが来たってことはあなたのパパに伝えておくから。ベス、旅行に付き合ってくれてありがとう。あなたも観光楽しんで。良い夏休みを」
「どうも、ありがとう」
母は二人を見送ってくれた。
マジマはちょうど母との用事があったみたいで、ホテルに残った。
お礼もそこそこにホテルを出ると、ベスが小腹がすいたと言い出して、再びガイドブックを広げた。この辺りで有名な老舗のカフェテリアがある。名物は生クリームの上にイチゴの載ったショートケーキという日本限定の美味しそうなケーキだった。
日本のイチゴの味は母から度々聞いていた。
彼女はグルメクイーンだからその舌は信用に足りた。たしかに、甘くてジューシーでいくらでも食べられそう。クリームの方もふわっとまろやかで繊細な甘さをしていて、二人は日本のスイーツの虜になった。
2020年 11月
二〇〇九年からの手紙が、ありありと彼女と母と――マジマ、真島吾朗との記憶を紐づける。
純粋だった一五歳の少女。疑うことを知らなかった少女。
二〇〇九年、母は突如として姿を眩ました。父は母と離婚して、新しい母を迎えたがエリカの中で疑心が巣食っていた。真剣な話し合いもしたが、父は「大人になれ」と冷たくあしらった。母の話になると特にそういう態度になった。二人の仲がなんらかの事由によって悪化したのだと、一九歳のエリカでもわかったが、どうすることもできなかった。
ベスとは今でも友達だ。
彼女はいま、スウェーデンでIT企業の優秀なエンジニアとして働いている。三児の母で忙しそうだが楽しく暮らしている。テレビ電話で近況を伝え合っているが、家庭を持った彼女に何かをしてもらうことは躊躇いがあった。
二人いる兄の一番目は、ミュンヘン。二番目の兄ダンはリヨンにいる。
兄弟全員バラバラに散ってそれぞれの場所で上手くやっている。頼めば協力してくれるだろうが、いずれにしてもその家族がいる。未婚のエリカにパートナーと呼べる相手がいないだけで。
エリカは確認のために、二人の兄に連絡をとった。
「Hi.……エリカよ。ごめんなさい、そっちは夜? ……ええ元気。今度また会いに行くわ。ジョルジュは元気? やんちゃ? ふふ。お土産期待してって伝えて。……あのね、パパから手紙がきたのよ。パパっていうか……ママなんだけど。もちろん、今の方じゃないわ。ママは一人だけだもの。……そう、ママの手紙。二〇〇九年に、書いた手紙なんだけど……届いたのよ。それで……ダンにも届いてないか気になったの」
ダンの方に手紙は届いていなかった。
もしかしたら後々届くかもしれない、そのときは伝えてくれと頼んだ。
「え? ……あの人と別れたって? いつの間に? ううん、聞いてないわ。言いにくかったのかも。だって一番嫌ってたもの私が。……そう、ありがとう教えてくれて。今度会いに行ったら、励ますわパパを。ええ。わかった。それじゃ」
ダンから聞いたのは、父が後妻と別れた話だった。
彼が母のあとに選んだ女性は、豊かで金砂のように美しいブロンドを持つ気の強い女性だった。知的で狡猾な言葉のエッセンスを持ち、女性としては魅力にあふれていたが、新しい母親としては受け容れられなかった。エリカは、密かに父に幻滅していた。
母と一緒になった話を知っていたからだ。
そのために、イギリスを出てアメリカで結婚したはずなのに。エリカのアイデンティティが激しく揺さぶられた。
肌の色、人種も越えた愛を、神話のように信じ切っていた。母は孤児だったから親戚はいない。頼るルーツもなく、アメリカの広大な前時代的な意識に放り出されて、急に梯子を外されたかのような恐ろしさを味わった。
そして、大学を一年休学した。
バイトをしたお金で、母の故郷である香港を訪ね、父と出会ったイギリスで自分を探った。しかし、どこへ行っても自分は外側から来たお客様だった。
音楽と出会ったのはそんな頃だった。音楽はその後の人生の道標となり、今のエリカの生活を助けてくれるものになった。
エリカの人生の転機を与えた、父と後妻が別れた。
それはそれは虚しい事後報告だった。