暗証番号

 「おはようございます。エリカ・ラナマンです。宿泊のお支払いをしたいのですが」
 「おはようございます。よくお越しくださいました。……エリカ・ラナマンさんですね? お待ちしておりました。お支払いは、こちらに」

 アメリカに着いて二日目。
 南米寄りの気候は通年暖かいとイメージするが、冬になると朝晩の冷え込みが厳しく、日中との寒暖差が激しいようだ。
 ホテルを出たとき思わず身震いしてしまった。空気はよく乾いていて、喉の乾きによって予定よりも早く目覚めてしまった。レンタカーが開く八時まで、ホテルの購買で替えの肌着や服を買い、併設されたカフェで軽い朝食をとった。エリカの顔色は白く、一夜を明かしたといっても疲労感は抜けない。当然のことだ。

 部屋で警察へ連絡し、エリカがホテルの支払いを行い次第署まで向かうこととなった。
 レンタカーで車を借り、片道一時間かけて二人はタイタスビルのホテルへ赴いた。道中に会話は少なく、あるのは見通せないほど遠くにある、青に消えた道路と両脇に迫る草木だけだった。


 ホテルで支払いを終えて、二人は個室に通された。
 個室といってもロビーの端にあり、仕切りがされた簡単な応接室のようなスペースだった。

 ホテルの副支配人がノートパソコンをテーブルに置いた。彼はにこやかに微笑み「本日、支配人は休みでして。代わりにご説明いたします」と言った。ノートパソコンには、ホテルの内外に複数設置された防犯カメラのデータが保存されていた。

 「まずは、こちらをご覧ください」

 それは、フロントの風景が映し出された映像だった。時刻は朝の六時三分。早朝のフロントにはその時間帯の従業員が一名。静寂がたちこめる中、外から砂利を踏むタイヤの音が聞こえる。扉の開閉音が微かにして、一人の男がホテルまで入ってくるのがわかった。全身黒ずくめで、タートルネックにパンツ、シューズ、髪の毛に至るまですべてが漆黒の男。副支配人はそこで一旦動画を止めた。

 「この男が、六時……四分。当ホテルにみえて、あなた……ラナマンさんが泊まっているかどうか尋ねました。お客様個人の情報は当然守秘義務ですから、お教え出来かねますとお伝えしました。当従業員がね。……ラナマンさんは、たしか……この時、五時四五分には一度ホテルを出られましたね?」
 「……はい。……私的なことで恐縮なんですが、父を亡くして。このホテルに宿泊しました。家には居づらいですから。……夜中に急に怖くなって……それから、嫌な予感がして……助言をいただいて、その、彼に。ホテルから出たほうがいいって。その時は信じていませんでした。……私もパニックになっていて、冷静じゃなかった。そういう意味で一度頭を冷やしたほうがいいのは確かでした。……四時頃に一度、シャワーを浴びて寝付こうと努力しましたが……やっぱり駄目でした。……外に出ようと決めて、おっしゃるように、ホテルを一度出たんです」

 エリカは真島に目配せをし頷いた。
 副支配人は「そうでしたか」と嘆息した。

 「なんていったらいいでしょうか、お悔やみ申し上げます。……ですが、いいアドバイスだったでしょう。運が良かったと思います。……この男は、……ええと、昨日ご連絡させていただいた際には申し上げにくくてお伝えしておりませんでした。……この男はですね、あなたの宿泊した部屋を教えろと言ったあとに……『どこに逃げようが無駄だ』と、『携帯をフロントに預けてあるだろう?』と言ったんです」
 「あ………」

 エリカは目を大きく見開き言葉を失った。
 
 「……五時四五分にホテルからお発ちになられる際、ラナマンさんからお預かりしたモバイルは大切に保管してあります。……失礼ですが、警察には……?」
 「……朝、別件で連絡したところです。この後警察署に伺う予定でしたし、そのときに持っていこうと考えていました。………持ち出すのは危険だと思います。……呼んでくださいませんか………」
 「かしこまりました。……ご気分が優れないようでしたら結構ですが、ご覧になりますか。……外のカメラの映像ですが。……そう、まだ暗くて車のナンバーはよくわかりません。警察への証拠として提出されると思いますから、解析でわかるようになるでしょう」
 「………はい、ありがとうございます」

 明けきらぬ暗い朝、ちらつくノイズの中。不明瞭に人形の輪郭を形作り、もぞもぞと動いている。
 車種も判別不可能のぺったりと塗りつぶされた黒の中で、ホテルの光に吸い込まれていく人影。それでも、レンタカー店にやってきた男とは同一人物ではないことは確かだった。

 副支配人は警察へ連絡した。
 派遣された警察官――シェリフが三名、二〇分後にやってきた。

 「失礼します。エリカ・ラナマンさんですね。私はブレバード郡オフィス保安官、ピーター・ベッカムです。よろしく。こちらの二人は、別件でご依頼いただいている方の担当刑事になります」

 体格のいい保安官の紹介にあずかった二名の刑事は名乗ったあと身分証を提示した。
 
 「ラナマンさん。まず、こちらの件ではなく……ご自宅の件についてお話しいただきたいのですが……」
 「お席でしたら、談話室がございます。どうぞお使いください」
 「どうもご親切に。……こちらの方は?」

 副支配人が個室を提案した。
 エリカはとっさの思いつきで「ボーイフレンド」と答えた。
 真島は思わず口を開きかけたが、警察官がそれぞれ納得した様子だったので弁明を諦めた。
 談話室に通されると、刑事はさっそく切り出した。
 
 「ジョン・ラナマンさんの件ですが、鑑識に再度依頼しまして……ちょうど一時間前にチェックしたんですがね。………あの、昨日はご自宅に戻られましたか?」
 「え……? い、いいえ。一度も。……このホテルを朝に出て……それからオーランドの方に行ったので。自宅には一度も戻っていません」
 「極めて言いにくいことですが、自宅に何者かが侵入した痕跡といいますかね、あったんですよ」
 「…………」

 その報せは死刑宣告の当日の朝のようだった。刑事はテーブルの上で指を組み、なおも続けた。

 「靴のサイズが一〇。およそ十一インチ。先日ご提供いただいたあなたのサイズとも違います。……ご兄弟がいらっしゃいましたね?」
 「はい。一番上がフレッドで、次男がダニエルです。……父のことで連絡はしたつもりですが、まだアメリカに来ているかは……」
 「はい。ラナマンさんが連絡先に記入していただいたお二方に、先ほど確認いたしました。フレッドさんの方は風邪で来られないそうです。ダニエルさんは、音信不通でしたのでまだフライト中の可能性があります」

 刑事が真島を見据えた。
 エリカが説明に取り掛かろうとするよりも早く、刑事は「後ほど捜査にご協力いただけますか」と命じた。真島はもちろん応じた。たとえ足のサイズが一緒であろうが、靴裏に付着した様々な泥や石や皮膚の欠片といった様々な成分から、犯人になる可能性のほうが少ない。なにより、昨日といってもずっとオーランドから出ていないのである。真島が犯人でないことは察かなことだった。

  
 「ご自宅に侵入した何者かは、リビングに入ったと思われます。それ以外の場所について詳しいことはこれからですが、……何か心当たりは?」
 「……いいえ。……あの、父は私を産んだ母と別れたあと、別の女性と結婚して……離婚したんです」
 「わかりました。お名前は?」
 「イヴ・スミスです」
 「イヴ・スミスですね。ありがとうございます。……それでは、ホテルでのお話をお聞かせください」

 エリカは副支配人を呼び、ノートパソコンを警察官らに見せた。
 父の死後家には戻らずホテルに滞在したこと。そこから昨日の朝からオーランドに行き、車を返したあと、真島の言葉を思い出して待ち合わせ場所のランドまで行ったこと。それから夜になって合流したこと。レンタカー店にもう一度行くと、不審な男がエリカを探してやって来ていたこと。すべてを話した。

 刑事はエリカに対して、交友関係について尋ねた。
 タイタスビルには何人か知り合いや友人はいたが、ほとんど海外に散らばっていること、エリカ自身も大学を卒業してからヨーロッパに行き、ここ数年は東南アジアを一定期間滞在しては移動を繰り返す生活をしていると伝えた。

 「ありがとうございます。こちらの映像データについては捜査資料としてお預かりしても?」
 「どうぞ。ホテルの方からも承諾いただいています」
 「どうも。……解析後、ジョン・ラナマンさんが亡くなった前後の映像と照合してみます」

 エリカは刑事の組まれた手に目を凝らしていた。ある疑念を口にした。

 「あの……一つお聞きしてもよろしいですか」
 「なんでも言ってください」
 「どうして。……父が、ジョン・ラナマンが死んだあと……自殺だって、断定されたんです?」

 刑事はじっとエリカを見詰めた。それからもう片方の刑事と顔を見合わせた。

 「昨晩通報いただいた後、事件性が高いと判断したからですが……、失礼ですが、それを仰ったのはどの警察官でしたか?」
 「えっと……たしか、……名前は、……スティーブ……だったように思います」
 「彼はどんな風貌をしていました」
 「肌は……褐色で、目はブラウンで、……髪は帽子に隠れていたのであまり。身長は六フィートを越えていました。一般的なシェリフだと思います」

 エリカは記憶を巻き戻した。たった数日間の真新しい記憶だったが、刑事に問われれば正確に答えなければならない使命感が緊張感を走らせた。
 刑事の薄碧い瞳がきらりと輝いた。手早くメモした手帳から一枚紙を剥ぎ取ると、それを隣のシェリフへ差し出した。

 「……ベッカムさん、調べてください」
 「もちろん」
 「ラナマンさん。……私も本件に着任してからまだ日が浅いですが、ご遺体の検死と銃のグリップと角度を考慮しても、自殺とは言い切れないと思います。それを、また当日の検証のみではっきり言い切ることはありえません」

 言い切った刑事を前に、エリカは覇気を取り戻した。
 彼女の中の正義が情熱を取り戻そうと、しだいに熱を帯びていく。思わず彼女は立ち上がり食いかからんとするように、刑事に迫った。
 
 「そ、そうですよね……! 私は、ずっと……自殺のはずがないって! 何度もその方に言ったんです。でも、聞き入れてくれなくて!」
 「ジョン・ラナマンさんの件は我々がしっかり調べます。……無論、その狼男もね。……ベッカムさん、事件当日現場に駆けつけた警官を調べてください。防犯カメラの解析にあたった警官もです」
 「わかりました」

 エリカは小さいが、早い呼吸を繰り返していた。
 額から流れ落ちた汗が細い顎先からぽたりと零れ落ちる。刑事はシェリフを指して尋ねた。

 「……確認ですが、このピーター・ベッカムも記憶にありませんか」
 「今日が初対面、だと思います。………もしかして、私……はじめから、騙されていたんでしょうか?」
 「わかりません。……ただ、何者かは、すでに警察内部にも関わっている可能性が大いにありえます。……目的は、エリカ・ラナマンさん、あなたと、あなたに関係する『何か』だと思います。………推測になりますが、ジョン・ラナマンさんも一部関わっていたという可能性もあります」

 エリカは狼狽えた。
 静かに観察を続ける真島には、彼女がそれほどまでに動揺をみせるのには父親への哀しみだけではないと、なんとなく理解できた。

 「父が……? わ、わかりません。……わからないです……なにも、わから、ない……っ」
 「エリカちゃん」
 「……父は、ずっと優しい父でした。……でも、変わってしまった。いつの間にか、母がいなくなってから……何かあったけれど、教えてくれませんでした。最後の日、父とチキンを食べました。ファストフードで。……まるで昔に戻ったみたいで、嬉しくて。……母がいなくても、そのあとの女性がいなくなっても、父は私を娘として歓迎してくれた。嬉しかった。母の娘だから嫌われてしまったのだと思っていたけど、違った……」

 力なく椅子に座ったエリカの肩に真島が手をかける。
 ヒステリックを抑え、ぼそぼそと繰り出す言葉は、幼い虐げられた子供のようだった。

 「普通の人です。……職業は民間のエンジニアで、東洋人の女性と一緒になり三人の子供がいた。母と別れて、別の人を愛する時間が必要だっただけ」
 
 真島は視線を落とした。
 エリカの知らないある真実を知っているからこそ、ジョン・ラナマンは狙われたに違いないと思った。諜報員の妻。その夫。ホンファの情報を探る人物がいてもおかしくはないからだ。ホンファ、すなわち藍華蓮にまつわるなにかを求める人間がいた。だから、殺した。家にも侵入した。そう考えるほうが自然だった。

 連中がエリカを狙っているのは、その『何か』を決定的なものにするため。
 推測の域からは出ないが、真島は一旦仮定し、真実につながる蔓を欲しがった。
 
 「なあ、エリカちゃん。……ホンファの部屋では何も見つけんかったんか?」
 「……母の……、あ……!」
 「なんや」

 エリカは声をあげた。重要な気付きだった。

 「母の部屋のクローゼットには、金庫があったんです。中身は知りません。数日前家に行った時には開いていませんでしたが……もしかしたら」
 「クローゼットやな」

 真島が刑事に目配せをすると頷いた。
 エリカは英語で刑事に問いかけた。

 「刑事さん、今その自宅の捜査は続いているんですか?」
 「ええ、まあ。そろそろ終わりかもしれませんが。……何か思い出しましたか?」
 「二階の母の部屋のクローゼットを調べてほしいんです。……中にある金庫が、……開いているかもしれません」
 「わかりました。……おい、掛けろ。いや! 待て……」

 そのままの勢いで、現場への連絡を飛ばそうとしていた片割れの刑事へ制止がかかる。
 ゆっくりと刑事が立ち上がり、部屋中を見回した。

 「我々が行きます。鑑識のメンバーだって怪しいでしょう。……現場は一度切り上げさせろ。それぞれチェックした箇所を挙げさせ、撤収させたら待機だ、いいな」


 



 刑事らの計らいにより、パトカーに乗せられたエリカと真島はラナマン家に向かった。
 現場の撤収作業を遠巻きに刑事は車内でエリカに「あの中に見知った顔があるか」と訊いたが、何一つピンとこず彼女は頭を横に振った。

 「……わかりました。署内の方の警官も足止めさせます。のちほど顔写真をお見せしますから、ご協力ください」
 「はい。……すみません、こんな大事になって」
 「いいえ。我々の仕事とは信頼あってこそなんです。名誉と誇りにかけて、必ず膿を出しますよ」

 刑事はほのかに笑った。
 鑑識を含めたシェリフが引き上げ、静かになったラナマン家の敷居を二人の刑事らと跨いだ。

 「立派な家ですね。スペースシャトルの打ち上げはよく見えるでしょう」
 「はい。ええ……よく見えます」
 「金庫というと、暗証番号があると思いますが心当たりは?」
 「……ええと……自信がありません」

 海岸沿いに近い町はヤシの木と低い家が多く見られた。
 その中に際しても、内陸寄りの家には二階建てもある。とりわけラナマン家は地下に一階と二階と豪邸だった。手入れの行き届いた芝生、白い屋根と壁に囲われ住心地は十分だろう。

 現場保存のテープを踏まぬように一向は二階へと向かった。
 東側の道沿いを見渡せる部屋がエリカの母、ホンファの部屋だった。ジョン・ラナマン殺害時、逃走する車を目撃したのもこの部屋だ。ホンファの部屋は整然と片付けられており何者かが再侵入で漁った形跡はなさそうだった。

 クローゼットを開くと、彼女の言う通りそこに一つの金庫が眠っていた。
 二箇所の錠前が施されていて、容易に開けられる代物ではないがやむを得ずこじ開けることも必要になるかもしれない。

 エリカはふと、真島を見遣った。それはホンファにまつわるなにか、暗証番号のヒントを期待する眼差しだった。
 実のところ、チャン・ホンファの生年月日も知らない。彼女も孤児の一人だった経緯は知っているが、書類に必要な仮初の数値に過ぎないだろう。

 「あー……アカンわ。情けないが、ノーヒントやのぅ」
 「そこをなんとかお願いします」
 「……定番通りでエエんなら、そやなぁ。……エリカちゃんの誕生日っちゅうんか? 家族の誕生日でもエエわ。片っ端からやったらええ」
 「……わかりました」

 エリカは助言を受けて錠前のダイヤルを捻った。
 一九六八年。父親の生年月日のようだ。錠前はぴくりとも動かなかった。エリカは無言で落胆を表した。彼女にしては、母にとって父は大切ではなかったのではないかという疑念の裏付けになっているようだ。

 「まだや。ホンファのことやし、語呂合わせもあるやろ」
 「……」

 二つで八つの数字が必要。一億通りの組み合わせを総当りするには時間がいくらあっても足りない。
 エリカはぎこちない手付きで、一九九〇を回した。するとカチリと音をたてて錠前が外れた。刑事の一人が息を呑んだのがわかった。エリカの目は大きく見開かれて、もう片方の錠前を回すのが早まった。しかし、彼女の思惑が外れた。

 「……私じゃないの?」

 ぽそりと彼女はつぶやいた。
 〇五一八の数字は終始無言を貫く。震える指先は適当に回し始める。
 一九九〇年。真島は目を細める。彼女たちの良心によって、日本に残ることができて一年。ホンファに何が起きていたか当然知る由もなく。真島と会う喫茶店での彼女はいつも取り澄ましていて、仮面を被っていただろう。

 ダイヤルの数字が〇九三〇にたどり着いた時、彼女の歓声とともに錠前の終止符が鳴り響いた。

 「外れたんですね?」

 刑事はまさかと声を弾ませていた。
 外れたものの、エリカの表情は物悲しげで、容易い慰めすらも躊躇うほどだった。

 「開けますよ」
 
 掛け声とともに金庫は開かれる。
 中には黄ばんだ書類の山が積まれていた。白い手袋で刑事はそれらが何かを探りだす。

 「……一九九〇年、九月……セント・マーガレットハウス……」

 書いてある通りに音読する刑事にエリカは飛びついた。

 「な、なんです、それ……っ」
 「ああ……いや、これは……」

 エリカの視線は英文の上を彷徨い、何枚か重なった書類がバラバラに床へ滑り落ちては散らばった。そのうちの一枚を拾い上げると、新聞の記事をコピーしたものだった。建物の写真と一緒に刑事が口にした『セント・マーガレットハウス』の英字が載っている。エリカは落盤の勢いで泣き崩れた。
 彼女の手から書類を引き抜く。それは手続きに必要な証書だった。二枚めの書類には、彼女がその『セント・マーガレットハウス』に預けられていた証明があった。

 一瞬、真島は悔いた。昨晩、ホンファの出自を明かしたことを。
 しかし、いずれ知る必要があったのであれば、エリカにとって当然の帰結だった。

 つまりエリカは、エリカではなかった。
 ジョン・ラナマンとチャン・ホンファの正統なる息女ではなく、『セント・マーガレットハウス』から引き取った養子だった。
 本来の名前は、イリス。イリス・ピオニー。それが一九九〇年五月。春の息吹とともにその生命の誕生の祝福から授かった名前だった。

 出生地は米国。出生日は五月。施設から養子に迎えられたのは九月の末。生まれてすぐに彼女は母親と離れ離れとなった。
 金庫の書類の中をくまなく探しても、吟の最後の手紙は見つからなかった。
  
 

 パトカーの後部座席でミネラルウォーターを口にして、エリカはようやく落ち着きを見せるようになった。
 
 「……最初から、私は何者でもなかったんです」
 「………」
 「人一倍気にしないように誤魔化していたのかも。……兄妹の中で一人、みにくいアヒルの子だった。……両親のこと何一つ見破れなかったくらいですから、きっと、いつも私を可哀想な子だって思ってたのだとしても。わからない。……いつか、話してくれるつもりだったのかさえも」

 空は濁った色をしていた。
 風が強く吹き付けてヤシの木がしなっていた。


 「……葬儀が終わったら、探しに行こうと思います」
 「探すって………ホンモンの母親をか?」
 「……私にとっての母親はチャン・ホンファだけです。まだ、終わってません。生きています。……とはいえ、足取りが何もわかりませんから、……セント・マーガレットハウスを訪ねてみようかと」

 聖マーガレットハウス。
 キリスト教会系の孤児院で、ジョージア州サバンナにある教会系の独立法人が運営している。企業や実業家の寄付によって賄われており、設立は一九〇三年と古く、孤児院を経てスターになった偉人も多い。スマートフォンで調べた画面には白亜の美しい外観の施設があった。

 エリカは生まれて数ヶ月でその施設に預けられ、ラナマン家に迎え入れられた。
 他の兄弟がどんなものかを真島は知らないが、養子を迎え入れることは決して珍しいことではないだろう。とくにアメリカの風土において、チャン・ホンファの実情を知る上でなんら不思議のないことだった。素性を隠しカムフラージュを施すために、他人の子供を欲しがるのはもっとも自然なことだ。

 もちろん、真島はその真相を告げようとは思わなかった。
 エリカを支えているのは、ささやかにも育ての母親が生きていることだけだからだ。

 真剣な顔つきでエリカは意を決し口を開いた。
 
 「……真島さんには、危なくなる前に……日本に帰って欲しいです」
 「ジブン、なに言うとるかわかっとんのか」

 エリカの思考が手にとるようにわかった。
 彼女の優しさが、真島を危険から遠ざけようとするゆえの物言いで、それはすでに何度も彼の人生のなかでは経験してきた事だった。

 「……もちろんです。せっかく、こんなところまで……お越しくださっておこがましいとは思ってます……ですけど、手紙はありませんでした。あなたが大切に想っていた相手の方からの手紙を、母は預かっていなかったんです。……それに、ここからは……個人的な事情です」

 エリカは手紙の存在を持ち出した。
 手紙は大事だ。愛した女の言葉を知りたいと常に願っている。しかし、意味を還元すればたった一通の紙でしかない。
 そしてそれは今目の前に確かにある物ではない。エリカこそが正しい意味で大切にするべき人である。

 真島は隣に座る若い女の、自殺行為的な願いをきくわけにはいかなかった。

 個人的な事情というのは、エリカ自身の話だ。
 無駄骨を折る結果になることは目に見えているし、真島がいくらホンファに恩義を感じていようとも、そこまで付き合わせる気にはなれないのだろう。

 真島は実に不愉快そうに眉を顰めた。

 「わかっとらんのう。……タマ狙われとるんやで? エリカちゃんの優しさやとしても、そら受け取らんわ。ホンファは、ワシんとこに預けるつもりやったんや。それは、守ってくれっちゅう頼みに決まっとるやろが」
 「……ありがとう、ございます」

 エリカは反論を諦めた様子で、渋々頷いた。

 






 葬儀は慎ましく営まれた。
 駆けつけた兄弟のうち次男のダニエルことダンが、たった一人の他の親族だった。イヴ・スミスは見つかっていない。行方知れずらしい。父親の仕事関係者も呼ぶか迷ったが、事件性を考慮して近親者のみで執り行うことにしようとダンが言った。彼はずっとエリカが養子であることを知っていた。というのも、酒が飲める年齢になったとき父に連れられて入った酒場で聞かされたそうだ。

 『俺は言ったぜ。エリカはラナマン家の一員だって。そりゃあ、髪の色とか目の色は違うだろうけどさ……二人の子供だったのは間違いないんだ』
 『……ダン、ありがとう。……ごめんなさい、気の利いた言葉が思いつかなくって』
 『気にすんな。……まあまあ、ダディについては俺が全部やっとく。エリカは気晴らしにあのコワモテボーイフレンドとビーチにでも行って遊んでこいよ』
 『えっ。あの人はべつに……』

 エリカは言い訳を探したが見つからなかった。年齢は親の年齢ほど離れている。恋愛対象に年齢制限を設けているわけではないが、縁あって何度か会ったことのある人で今回はわざわざアメリカまで来てくれた人を他人だと突き放すには勇気がなかった。

 ダンは面白可笑しく白い歯を見せて笑った。

 『ボーイフレンドなんだろ? 久々にビビっちまったよ。海賊みたいでよ。俺もまあまあデカい自信はあるが、ジャパニーズであの身長は珍しいんじゃないか?』
 『そうかしら。探せばたくさんいるわよ、そのくらい』

 児童文学に登場しそうな恐ろしい見かけだが、慣れてしまっては違和感が失せて久しい。エリカはわざわざ取り繕うのを諦めてダンにもう一度お礼を言った。


 セント・マーガレットハウスへの日程を繰り上げて早々に二人は出発した。
 隣の州ということもあり、陸路で向かうことにした。運転席でハンドルを握りながらエリカは、変わっていく景色を眺める男に言葉をかけた。
 真島がアメリカに来て明日で七日目になるが、彼についての本格的な質問はその時がはじめてだった。


 「……真島さんは、お仕事はなにをされているんです? ……その、足は洗われているんですよね?」
 「ああ。警備会社の一応、社員やっとる」
 「そうなんですね。……じゃあ、もしかしてスマートフォンのGPSも……仕事上の経験からってことですか?」
 「そんなとこかのぅ。今はややこしいシステムが多くて敵わんわ。……トラブルの種が昔よりもぎょうさん増えとってなぁ」

 真島は煩雑な仕事を思い出してか面倒くさそうに頭を掻いた。
 警備の仕事も多岐にわたるが、元肉体派の彼は書類仕事よりも現場のほうが好みなのは間違いなさそうだ。ITシステム関連でのトラブルが頻発する現代において、実情がシステムトラブルであることは容易に考えられる。

 結果として、真島のそういった経験にエリカは救われたというわけだ。

 「運転替われへんですまんの」

 申し訳無さそうに真島は侘びた。
 本来であれば、二人が交代して運転したほうが目的地に早くつく。違法覚悟で運転も厭わないと真島は言ったがエリカが止めた。ここは日本ではないし、警察も人種で判断することがある。建前上差別はないというが実際ある。怪しいと思われたらそこでおしまいだ。真島にハンドルを握らせないに越したことはない、リスクヘッジの一つだった。

 「気にしないで。飛び入りで来ていただいているんですから……申請も間に合わないのは当然です。……すこし、眠りますか」
 「いや、エリカちゃんに任せっきりで寝んのはな……」
 「次の休憩のときに仮眠をとるので……その時に起きててほしいです」

 国際運転免許証があれば運転は可能だが、そうしていたら今頃エリカはこうして青空の麓にはいなかっただろう。
 昼夜交代で寝ることに納得して真島は座席を倒した。 

 「お言葉に甘えて休ませてもらうで」
 「どうぞ」

 寝入りは早かった。
 助手席のシートの上で、腕を組みジャケットの上着を布団代わりに瞼を閉じていた。
 真島は弱音を吐かない。強さと優しさを兼ね備えた男であることは六日を共にしてわかりきっていた。こんな状況とはいえ、彼は男で、エリカは女だったがそれらしい雰囲気は一度もない。

 ボーイフレンドといって、都合のいい嘘をついていても真島は仕方ないと許した。
 日本とアメリカは違う。一人では何もできないことを彼は気づき始めていた。
 

 「……イン……」

 ふと、真島が誰かを呼んだ。
 エリカはそれが、手紙の相手であるとすぐにわかった。真島のふわりと和らいだ表情がすべてを物語っている。こんな男に愛される女とはさぞ幸せ者に違いない。母であるホンファが手伝っていた手紙のやり取り。望み薄とわかっていながら、エリカを守ってくれようとするような男をがっかりさせて国へ帰したくない――そう、エリカは思った。
 









  ◆ ◆ ◆




 『死ぬときは、蝿の羽音が聴こえるわ。羽音を数えているうちに、飛んでいる蝿を数えているようになる』

 宙にいた蝿を掴んで退廃的な詩を嘯いた。
 情愛を貪り合う二度目の夜。曖昧なキスからなだれ込んだ彼女の一等客室は立派な設え。さながら船上の城だった。

 タイトで完璧なナイトドレスを脱がせるのに手間取っていると、挑発的に微笑みするりと呆気なく敷き詰められた絨毯の上に落とした。生まれたままの裸体は白百合のように芳しい匂いを放つ。二つの耳と鎖骨の上に浮かぶ宝石の輝き。月光に照らされる玉貌に吸い寄せられるようにひれ伏し、踵の高いハイヒールを手ずから脱がせ、脚をくまなく愛撫した。
  
 禁欲的で超然とした雰囲気を持つ女が、己の手によって悩ましげに息を吐く様というのは格別の趣きがある。得難いトロフィーを獲得した高揚感を懐き、彼女を抱いた。

 目覚めたとき、夕陽の眩い一筋が目を焼いた。
 
 「おはようございます。……夕食にしませんか。もうお腹ペコペコ。……孤児院は明日の朝です。連絡はもう入れました。……もしかして、まだ寝ぼけてます?」
 「……ああ。すまんの、ぐっすり寝とったわ」
 「ふふ。……さあ、起きて。ビッグハンバーガーにしようかな」

 ジャンクフードで腹を満たしたあと、その日はモーテルで一夜を明かすことにした。
 運転手であるエリカの負担が大きいため、休み休みの旅路になる。ベッドサイドの間接照明だけの光源に照らされて、エリカはうとうとと舟を漕いでいる。半眼でじっと真島を見つめるものだから尋ねた。

 「……寝えへんの」
 「………インさんって方が真島さんの……手紙をやり取りされていた人ですか?」
 「寝言でも言うてたかワシ」
 「……はい。……名前だけです。……中国の方です、よね。姓はなんて方です?」
 「王吟や」

 似たような名前はたくさんある。
 とくに王はもっともポピュラーな姓の一つだ。「王、吟……」とエリカの視線の動きは記憶の海を探っていた。

 「知ってるか」
 「いえ……すみませんお役に立てなくて。母は交友関係が広く浅くの方でした。家に招いていてお会いしたこともあるかと……」
 「おおきにな」 
 「母が一番親しかった人への手がかりがあればいいんですけど……なにせ九年前です。あのとき気を回していたらって……」
 「ええんや、エリカちゃん。……疲れとるやろ。もう寝とき」
 「……ごめんなさい、真島さん」

 謝りながらエリカはすぅすぅと寝息をたてて眠りにおちた。
 照明を消すと部屋は一気に暗くなる。闇に紛れて迫る何者かの気配が来ないように願いながら、朝になるのを身を固くして待った。
 
 


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