セント・マーガレットハウス


 孤児院、セント・マーガレットハウス。
 米国旗がそよそよと風にはためき、白亜の城の壁で一際鮮やかに目立っている。
 賑やかな市街地とは打って変わり落ち着いた雰囲気に紛れて、かすかに子供たちのはしゃぎ声がこだましていた。
 

 「一九九〇年九月に訪れた里親……?」
 「はい。……私、エリカ・ラナマンと申します。こちらが書類です。……こちらの施設で引き取られたと……」

 受付ではいかにも生真面目な事務員が対応した。丸い眼鏡を中指で押し上げ、二度エリカとその後ろできょろきょろと館内を物色する男を見た。

 「えぇと……エリカ・ラナマンさんですね? ……ご用件を先にお伺いしても?」
 「……生母の情報が知りたいんです」

 ふうむと唸り、事務員は書類にあるエリカの名前を呼んだ。

 「イリス・ピオニーさんの母親?」
 「はい……」
 「応接室でお待ちいただけますか。三〇年前のことですから……私ではお答えできかねます。マザーをお呼びしますので、お待ち下さい」


 通された応接室では五分もしないうちにマザー・クレアという孤児院の責任者が登場した。

 「あらまあ……今日は良い日ですこと。マザー・クレアです」

 第一印象は朗らかで暖かく親しみやすそうで、子供を見守る大人の理想そのものに思えた。年齢は五〇前後で顔には目尻や口角にできた皺は、彼女の人生経験と表情の豊かさを表していた。マザー・クレアは握手を求めた。革張りのソファに腰を落とすとさっそく本題に入った。

 「はじめまして……エリカ・ラナマンです。イリス・ピオニーの母親についてお聞きしたくて。……なにかご存知ですか? 会いたいとまでは言いません……」
 「……そうねえ。ずいぶん昔のことですから。三〇年前は、ちょうど私もこの施設に来たばかりの新人だった。当時のマザーならしっかり覚えておられることでしょうけど……」
 「なんでもいいんです」

 応接室に軽いノックとともに先程の事務員が入ってきた。脇には色あせてくすんだファイルが一冊。それをテーブルに置くと礼儀正しい所作で一礼して去っていった。「彼女とっても仕事ができるの」とマザー・クレアは事務員を褒めた。
 テーブルに用意されたファイルの表紙には、『1990年 利用者名簿』と記されている。マザー・クレアはぱらぱらとファイルを捲った。


 「お母様のお名前ね……メイ。メイ・ピオニーだそうよ」
 「メイ・ピオニー……?」
 「………大変言いづらいことなのだけれど、彼女は亡くなってるわ」
 「えっ?」

 エリカは拍子抜けした。彼女の想像では、『生母は自分を捨てた』という思い込みがあったからだ。仮に死んでいたとしても、出産後まもなく死んでいる事は考えの内になかった。たとえば、小説とかであるように。孤児院の前で子供を置き去りにしたり、エリカの仮定が覆された。
 マザー・クレアはもっともらしい哀しみの表情を浮かべて静かに続けた。

 「一九九〇年の九月に。隣町にあるここの系列の養育院でね」
 「それって……その」
 「彼女も身寄りがなかったのでしょう。……養育院へ行きますか?」
 「は、はい……ありがとうございます」

 流れるまま返事をするが、エリカの内側では大きな波紋だった。
 なんとなく生母を悪人に仕立て上げたかったのだ。それが、育ての親であるチャン・ホンファを神聖に扱うための動機にしたかった。

 「最後に一つ。……チャン・ホンファという女性を知っていますか」
 「チャン・ホンファ……?」
 「……育ての母です。……行方が知れなくて。何か知っていたら教えて欲しくて」
 「ごめんなさい。何も知らないわ。……お母様について、なにか知れるといいですね。……あなたに神のご加護がありますように」

 マザー・クレアは優しく微笑みエリカを見送った。


 隣町にセント・マーガレットハウスと同じ運営元の『福音の家』という養育院がある。
 身寄りがなく自活能力の乏しい者、孤児などを保護し教育や医療を提供する目的の救貧施設である。エリカ――イリスの母親、メイ・ピオニーがかつてこの福音の家に世話になっていたらしい。

 マーガレットハウスと似た白亜の外壁が印象的な『福音の家』だが、高い塔のような建物が二つあるのが印象的だった。広い駐車場を囲むように芝生が広がり、雑木林がその周囲を覆っている。冬にもかかわらず鳥の囀りと小川のせせらぎがまだ遠い春の気配を感じさせる。

 「大丈夫かエリカちゃん」
 「……ごめんなさい。手がかり、なさそうだなって思えてきちゃって。……生みの親になんにも感じていないし……。……この施設で終わりにするかもしれないです」
 「……さよか」
 「まだ、諦めてませんよ。……でも探るなら、まだ一人あてがありますし……」
 「あぁ……後妻か」
 「はい」

 実質、チャン・ホンファについては暗礁に乗り上げる形になる。

 行方不明のイヴ・スミス。
 父親殺しに関して、間違いなく疑わしいのはこの女だった。エリカをつけ回しているのも不可解で、イヴ・スミスと仲が良かったわけではないが、恨みを買うようなことは心当たりがない。禍根があり、元夫を殺害するならともかく、とっくに家を出た先妻の娘を狙う動機が不明なのだ。もし、エリカに対して恨みがあるなら――父親を殺害した当日に殺せばよかった。

 わざわざ、ジョン・ラナマンだけを殺害し――目撃させていることが腑に落ちない。

 「……わざわざ、教えてるみたい」

 誰かが、何者かが、エリカに。
 真島は神妙な顔つきで何かを語りたそうにしたが煙草を吸った。煙が窓の外へ逃げていく。エリカは車から出ると「すぐに戻ります」と言い残した。

 
 「マーガレットハウスのお尋ね人ですね?」
 「はい。エリカ・ラナマンです」
 「事情は伺っています。……なんでも、お母様について探られているとか」

 セント・マーガレットハウスから連絡が回っていたのだろう。受付の事務員が準備よくメイ・ピオニーの書類を窓口越しにエリカに提示した。

 「メイ・ピオニーさんですね。……入所されたのは……一九八九年・十二月です。年齢は……十八歳。自活不可能と書いてあります。要支援ということで施設を利用されています」
 「自活不可能ですか」
 「足が悪くて車いすを利用されていたみたいですね」

 「車椅子」と、しぜんとエリカはオウム返ししていた。
 
 「メイ・ピオニーは……亡くなったと聞いています」
 「………えぇ……自殺、です。とても罪深いことです」

 四〇台半ばの赤髪の女事務員は吐き捨てるように言った。胸の前で十字を切り固く祈った。

 「彼女の相手の方は……誰かとか……その」
 「ここへ来た当初、一人だったとあります。親族もいないようです」
 「そうですか……」

 エリカはそれ以上なにも言えなかった。
 メイ・ピオニーはそこで終わりの根無し草だ。エリカのルーツも同じく、そこで終いだ。

 車椅子のメイ・ピオニーは天涯孤独の少女だったのだろう。
 一人で身籠るわけがないので相手はいたはずだが、それすらも縁のない寂しい人生だった。エリカはエリカを捨てた母を非難したかったが、十八歳の女が一人で産み育てていくには厳しい。自活不可能で、足を不自由にしていたのであれば、なおさら絶望の濃度は濃くなるばかりだ。いっそ哀れとすら思う。

 然るべき結末に至ったというべきか。エリカは静かに息を吐いた。
 駐車場へ足早に戻ると、そこに真島はいなかった。少し離れた芝生の運動場で子供たちに紛れてサッカーボールをリフティングしている。エリカが近寄るのに気づくなり真島は労しげに声をかけた。

 「……エリカちゃん、どうやった?」
 「真島さん。……いいんですか、寝ていなくて」
 「おう。まぁ眠いわけやないんやが、……こいつらが遊んでくれいうさかい」
 「器用ですね」

 片目しか見えないのに、ひょうひょいと体を器用に使って身軽にボールを弾ませている。

 「すごーい、それどうやるのー?」
 「ヒヒヒ……!」

 子供たちの簡単で真剣な試合に参加して、真島は軽く汗を流した。
 ベンチに座って体力が尽きるまで走り回る孤児たちを眺めて、ぼんやりと哀れな女の名を口にした。


 「……メイ・ピオニーは若い妊婦で…………身寄りがなくて施設で私を産んだそうで。……そのあと亡くなったそうです」
 「………そうか。そら、辛いのぅ」

 それから。
 赤髪の事務員はこうも言った。

 「……三〇年前を知るマザー・グレイシーなら知っているかもれないと仰っていました」
 「……住所は教えて貰えたんか?」
 「はい……。……母のことは誰も知らないそうですし、マザー・グレイシー頼みでしょうね。オハイオにあるコロンバス近くのマウント・バーノンの住所を預かっています」
 「オハイオか……上のほうやろ。ちと遠いなぁ」
 「国内線で行きましょう」
 「このまま、気づいたら地球一周してまうかもしれへんな」

 エリカは曖昧に微笑んだ。
  
 「お、いたいた……!」

 そのとき、見知らぬ男が手を振って二人のもとに駆けてきた。
 手には一眼レフを構えていて、察かにカメラマンといった様態の男でエリカは連日のことから身を構えた。

 「あの、どちら様でしょう」
 「聞いたよ。さっき、マザー・クレアとお話してたんだって? 僕はジョージ。ジョージ・マルコーよろしく。写真家をしているんだ。町外れに住んでる」
 「どうも。……エリカ・ラナマンです。こちらはゴロー・マジマです」
 「日本人? よろしくね。……マザー・クレアが相談にのってほしいって言うもんだから声をかけたんだ」
 「マザー・クレアが」

 セント・マーガレットハウスのマザー・クレアが気を利かして連絡したのだろう。エリカはすぐさま、三〇年前を知る一人であることを予感した。
 鳥の羽ばたく音を気にして首を捻ったジョージ・マルコーは「ああ、ごめんね」と謝った。

 「野鳥の写真家なんですか?」
 「ん、まぁ……そうだね。動物全般だね、人間以外のね。僕はね、ここの施設で育ったんだ」

 エリカは胸に手をあて、やはりそうなのかと納得した。

 「ちょうど、三〇年前にも。ここにいたよ」
 「あ………あの、……メイ・ピオニーという女性をご存知でしょうか」
 「うん。その話をするつもりで来たんだ。……彼女とたくさんお喋りしていたのは僕だったと思うから」
 

 エリカは真島と顔を見合わせた。
 ジョージ・マルコーは軽やかににっと笑った。

 「歩かないかい。とっておきの場所がある」

 年齢は四二歳。独り身だとジョージ・マルコーは簡単な自己紹介をしながら、福音の家のあちらこちらを二人に案内した。
 食堂、サンルーム、応接室、図書館。中には入れないが施設での生活をかいつまんで説明した。駐車場から見えた二つの塔のような建物の片方に三人は入った。スロープの入り口を上がると土台が他の建物より一段高いゆえに、二階建てが三階建てに見える造りになっている。

 中は殆ど物置代わりになっているようで、車椅子や机や椅子が詰め込まれている。

 「昔は、C棟として使われていたんだけどやめたんだ」

 ジョージ・マルコーの説明を受けながら階段を上がり、建物の屋上に出た。
 遮るもののない広い空が出迎えた。くすんだ冬の色と冷たい風が肌を撫でた。

 「良い眺めだろう。川が見える。綺麗な街並みに教会。子どもたちが幸せそうに走り回っていて、ここにいると気持ちのいい風が吹く」
 「そうですね」
 「彼女はいつも……ここで過ごしていたよ」
 
 四方に囲まれた高い塀は囚人を捕える檻のようだった。
 ジョージ・マルコーはエリカを見詰めた。

 「……ラナマンさんが言いたいこともわかる。足が不自由だったのに、ってね。そうだよ。彼女は車いすが相棒だった。……僕がいつも頼まれて連れてきていたんだ」
 「……そう、なの。……母は、どんな人でしたか」
 「うん。……とても優しくて、物静かな人だったけど人気者だったなぁ……」
 「人気者?」

 訝しげに繰り返した。矛盾するニュアンスだからだ。
 彼もそれを承知でくすりと笑った。

 「なんていったらいいか、……人の悩みに答えてくれるんだ。ほしい言葉をくれる。すべてを肯定して、自信を与えてくれる」
 「………なんだか、神様みたいね」
 「そうかもしれない。マリア様みたいな人だったよ。……そうそう、彼女のいないとこでみんなそう呼んでた。マリアってね。……ここには馬小屋も大工のヨセフもいなかったけど……ああ、なんだかごめんね」

 皮肉なことだった。
 彼は、聖母を指しつつもマグダラのマリアをいっている。『娼婦』の烙印が事実だったのか知るすべは殆どないが、称賛と揶揄が子供の世界にも満ちていた。けれど、マリアは自殺を犯した。

 近年、娼婦だったマリアはイエスの妻だった仮説で盛り上がったが、彼女のイエスは彼女とその娘を捨てた。

 「良い人だったよ。僕に写真の素晴らしさも、自然の美しさ、鳥のやさしさを教えてくれた。……これで生活しているんだから、彼女のおかげさ」
 「………聞いてもいいですか。メイ・ピオニーが死んだときのこと」
 「いいよ。……九月だったかな。彼女は部屋にいた。……赤ん坊だった君に乳を飲ませたあと、苛立ってたみたいだった」
 「苛立ってた?」

 物静かな性格の人間には重要な兆候だろう。
 ジョージ・マルコーは肩をすくめて、目を伏せた。

 「僕は女性じゃないからわからないけど、気が立ってたんじゃないかな。その時驚いたのを覚えてるよ。あんまり怒らない人だと思ってたから。……よく考えてみたら普通のことだ。思うように体が動かなくて、四六時中子供の面倒をみてないといけない。……子供の頃の僕はそれでも母親なんだからしっかりするのが普通で、そうするべきだって考えてた。羨ましかったんだと思う、君が」
 「………」

 エリカは何も言えなかった。
 ジョージ・マルコーの瞳には悔恨の影がちらちらと映っていた。

 「そうじゃなきゃ、この一人ぼっち生まれてきた世界で、母親にしっかり愛されない苦しみを増やすだろうって考えていた。……マザーたちも、他の子供も、障害者たちも。密かに母親であることを願っていたし、強いていたのかもしれない」
 「―――――」
 「彼女はいつもどおり、唯一ひとりになれる場所に来たんだ。……ここにね」

 彼は人差し指を地面に向けた。
 ちょうどそこは、建物の縁があり柵の際だった。

 「そして、この柵をこえた。……この高い柵は……彼女が死んでから取り替えたんだ。……車椅子は階段の下に乗り捨てられてた。一人で、よじ登って、一人で一線を越えたんだ」

 死ぬための強い意志によって、メイ・ピオニーはそこから身を投げた。
 C棟の建物が物置になるのも当然だろう。高い柵が作られるのも彼女がきっかけだろう。エリカはしゃがみ込んだ。目線が下がると、メイ・ピオニーの見える低い位置の世界を連想した。胸の下からこみ上げる痛みに似た哀しみに息苦しくなった。

 「……すみません、真島さん」
 「……。写真は、残っとるんか」
 「ピクチャー……、フォト? ですか……もちろん、彼女を撮ったものですよね。……ああ。……メイは、写真嫌いな人だったけど……一枚だけあるんです。隠し撮りってやつですかね、悪い子供でした」
 
 雲の隙間から白い太陽が顔をみせる。ジョージ・マルコーの顔は逆光で暗くなった。

 「家にご招待します。ケーキはいかがですか」




 街はずれにあるといったジョージ・マルコーの家は一人暮らしには十分な広さの一軒家だった。
 リビング、キッチン、応接間。シャワールームに二階がある。玄関には植木鉢が並んでいて、マメな性格のようだ。
 
 「好きに掛けてください」
 「ありがとうございます」
 「お茶を淹れますね」

 暖かい色合いの内装は趣味が良い。
 間接照明と、さっぱりした無地のクリーミィな壁紙。オレンジ色のソファ、木のテーブル、レースのカーテン。応接間にはたくさんの作品が飾られていた。人間以外の、鳥を中心とした風景や、動植物の多彩な表情を捉えている。

 「メイ・ピオニーの話ができるなんて、嬉しいですよ僕も。あのときの当事者は殆どいません。僕と……マザー」
 「グレイシー」
 「そうです。マザー・グレイシーだけです。……彼女はこの近くの病院の看護師だった。お産であなたをとりあげたのもマザー・グレイシーです」
 
 ベリーの入ったパウンドケーキが盛られた皿、ダージリンを淹れた紅茶のカップを配ってジョージ・マルコーは満足げに頷いた。
 
 「どうぞ、召し上がれ」
 「ありがとう」

 昼食をまだ食べていなかったエリカはパクパクとあっという間に食べた。ジョージ・マルコーは「まだありますので、どうぞ」とおかわりを勧めたが、なんだか気恥ずかしくなり遠慮した。彼は宙を見上げながら、メイのことを思い返した。

 「マザーとよくお話していたと思います。難しい話です。なんだったかな……マザー・グレイシーは楽しそうでしたし大人の世界だとよく思ったものです。僕も大人になればわかる気がしたけど、未だによくわからない。……メイ・ピオニーは賢いひとでした。同時に、僕らに話しかけるときは、僕らのレベルに合わせていたんだってね」

 ジョージ・マルコーは苦く笑った。
 
 「おっと、申し訳ない。写真だ写真。探してくるよ。……ごゆっくりどうぞ」

 約束通り、彼は写真を持ってきてくれた。
 それは日焼けしたアルバムの中に仕舞ってあった。
 
 「たくさんあるだろう。……これが、福音の家の写真。……マザー・グレイシーは最前列の中央の人だよ」

 施設の職員とその利用者たちが一緒に並んだ集合写真が一番最初のページにあった。
 一九九八年・六月とある。若い頃のジョージ・マルコーと思しき青年も写っている。中央にいるマザー・グレイシーは白人で修道女の黒いウィンプルを被り、ロザリオを首から下げている。

 ジョージ・マルコーは後ろの方のページを探った。

 「……ああ、これだこれ。談話室から撮ったんだ。テーブルの向こう、サンルームの中にいるのがメイ・ピオニーだよ」
 「これが……?」
 「撮ったのは六月だから、君が生まれてひと月めかな。……遠くて顔がはっきりしないけど、腕の中にいるのは間違いなく君だ」

 サンルームにはピンクや白の花が咲いている。その中で、黒く長い髪の女が白い服で赤子をあやしている。
 亡霊を思わせる佇まいで、ジョージ・マルコーのいうようにその顔は髪に隠れて表情はわかり辛い。エリカはアルバムの写真を指でなぞった。世界でただひとつの、生母の痕跡。大切に赤子のエリカを、彼女の名付けたイリスを抱いている。

 ジョージがこっそり撮った意味も、言葉にせずともわかる気がした。
 それから彼はメイとの思い出をいくつか語った。十二月に入所したこと。友達になったこと。花壇に花を植えたこと。どれも貴重な痕跡だったがエリカにとって重要な内容ではなかった。

 最後にジョージ・マルコーは自身の名刺をエリカに渡した。

 「名刺だよ。また困ったことがあったらいつでも。……マザー・グレイシーの住所は知っているね」
 「はい。……お話、ありがとうございました。………最後に、チャン・ホンファという方をご存知ないですか」
 「……チャン・ホンファ……? ごめんね、僕には知らない人だ。……マザー・グレイシーなら知ってるかもね」
 
 何度目かの定型文のような質問も、やはり手がかりらしい手がかりには結びつかないまま。エリカはそれ以上、生母について探ることに情熱を保てなかった。メイ・ピオニーがどこから来て、エリカを身籠ったのか。当たり障りのない不幸を知ったからといってエリカの過ごした一八年の時間になんら関係ない。

 せめて、生きていれば顔の一つ拝みに行くくらいは検討したが。怪しいのは父親と後妻周辺に絞り込めただけマシだろうか。

 「ありがとう。Mr.マルコー。お茶もケーキも美味しかったです」
 「どうも、こちらこそ。……マザー・グレイシーには会いに行くかい」
 「えっと……」
 「よければ僕が連絡しておくよ。彼女、花が好きでね。一〇年前から弱っちゃって今は寝たきりで、趣味のガーデニングも辞めたんだ。たまに会いにいっては花を見せてあげたりしてる。八〇歳の誕生日がもうすぐだから、そろそろお祝いを考えてるんだけど……欲しいものを聞いてきて欲しいな。……すまないね、お節介かな」

 エリカは口ごもり、曖昧に返事した。
 そう頼まれては聞いてしまうのがエリカの長所でもあり短所であった。「ありがとう」と先に出た感謝の言葉を遮ることもできず、エリカは手を振ると家の前に停めていた車のドアを引いた。

 「エエの。引き返してもワシは何も言わへんで」
 「……マザー・グレイシーに会って最後にします。……当時の責任者ですから、養子を迎えるにあたって養父母の面談はあったはずですし……なにか聞けるかも」
 「……ああ」
 「……母は諜報員だと仰っていましたね、真島さん。……母は、……どうして、アメリカで……いいえ、世界中を飛び回って、……ごめんなさい。上手く言えなくって」
 
 チャン・ホンファのことを考えると、次から次へと疑問が浮かんでは疑問を上塗りするように新たな不安があらわれる。彼女の多角的な面のうちの一つがエリカの母という役割だったのなら。本当の彼女はいったい何者なのだろう。なぜ父は殺され、エリカが―――何度もその思考のループが有効なリソースを食いつぶそうとする。

 ハンドルを握る手が細かく震えている。
 そっと影が落ち、真島の革手袋に包まれた手がエリカの手を包み込んだ。

 「……ごめんなさい」
 「謝ってばっかりやのぅ。……ぼちぼち行こうや。焦ることあらへん」

 真島の優しさがじわりと胸の内側を温めた。
 深呼吸を二度。そして、エンジンをかける。玄関の扉に手をついてジョージ・マルコーが見送るために待っていた。彼を見詰めて最後に「ありがとう」と言った。



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