メイ・ピオニー




 早い黄昏の金色の光がレースカーテンを透かしている。
 二人の東洋人の来客が帰ったあと、ソファに座って懐かしさに浸っていた。

 ジョージは古いアルバムを閉じた。

 それは、思い出深い代物だった。同時に、ずっと封印し続けてきたものでもあった。
 このアルバムをみると、罪を思い出すからだった。罪。罪とは、業の深いものだ。十二歳の少年が抱いた一つの重たい枷。ジョージ・マルコーが抱えてきた枷。封じ込めていたのに思い出すのが嫌だった。

 尋ね人であるエリカ・ラナマンに語ったことなど、ほんの氷山の一角に過ぎない。
 メイ・ピオニーに関しての思い出はたくさんあった。なにより彼女は特別で、美しい人だった。人種でいえば黄色人種の彼女を魅力的と思うのは、集団の共通の理想からは外れていた。女児の定番の玩具人形がまだ白人種の八頭身で、一般的にみんなの共通する美の価値観は決まっていた。アメリカのセックスシンボルが、金髪碧眼の肉感的な美女であると決まっているように。

 「あなたは、どこにもいない」

 今に始まったことではない。三〇年前から彼女はいない。たった八ヶ月の中の面影を繰り返し続けている。壊れたビデオテープのように。
 
 メイ・ピオニーがはじめて施設にやってきたのは十二月のこと。最も寒い一日の終わりだった。
 マザー・グレイシーが一人の女を車椅子にのせて、『家』に帰ってきた。それだけで施設にいた老若男女は口々に彼女に質問攻めをしながら迎え入れた。メイが口数の少ない、訳ありと知ると次第に腫れ物に触るかのような扱いをした。

 メイは黄みがかった明るい肌の持ち主の、黒髪の女だった。車椅子の上で脚を毛布に包んで、代わる代わる新入りのスターの質問を受け流していた。
 ジョージは最初、愛想のない奴だと思った。挨拶は敵意がないことを示すシグナルで、メイは掟破りだったからだ。マザー・グレイシーは彼女を紹介し、『歓迎の意を込めて拍手をしましょう』と呼びかけたがそれは疎らだった。

 夕食は人参と鶏肉とジャガイモの入ったシチューで、机と座高が合っていない彼女はナプキンの上にポタポタと汁をこぼした。悪ガキの三人がそれを見て笑っていた。ひそひそと『自分のテーブルに皿を置けばいいのに』と悪口を言っていた。少しだけ膨らんだ妊婦の腹のことを指していた。ジョージはひどい気分になり、三人を睨みつけたがメイは気にする素振りを見せず黙々とシチューを飲んでいた。

 夕食後、簡単なレクリエーションがあった。毎日談話室でゲームをする。その日のお題目はワードゲームだった。物知りか年の功で大人のほうが有利なゲームだったため、子供たちのほとんどは別の遊びをするために談話室から飛び出していった。

 『あなたは、……行かないの』
 『どうして?』

 口の利けない女だと思いこんでいたジョージはびっくりした。
 メイはたまたま近くにいたジョージに声をかけた。

 『……みんな私が話したがらないと知って、興味をなくしたのに、まだ期待しているでしょう』
 『え。……うーん、そうかも。……でも、さ。こうして喋ってるでしょ。じゃあ、僕の勝ちだ』
 『……そう』

 その時はじめて、しっかりとメイの顔をみた。
 彫りは浅めだが、一つ一つのパーツは整っているし白人には持ち合わせない暗青色がかった黒い瞳が魅力的だった。涼し気で不思議な雰囲気を持つ彼女は美人といっても差し支えない。

 ジョージは気を紛らわせようと質問をした。

 『お腹に、赤ちゃんいるの?』
 『ええ』
 『もっと、大きくなる?』
 『なると思うわ』
 『君はいくつ?』
 『一八歳よ』
 『……お父さんやお母さんは?』
 『死んだわ』

 ジョージの問いに躊躇することなくメイは答えていった。

 『……この子のお父さんは』
 『さあ。……名前の知らないあなたには関係ないことよ』

 興味がなさそうにメイは吐き捨てた。
 ジョージは慌てて自己紹介に移った。

 『あ、……ごめんなさい。……僕は、ジョージ。ジョージ・マルコー。……僕も、親がいない。いや、父さんはいたけど、のんだくれで借金まみれで、この間ついに悪さをして、ムショ行きさ。……君が来るまで僕がここの新入りだったんだ』
 『そうなの。……じゃあ、今日は新入卒業記念日ね』

 メイが軽く微笑んだ。ジョージの心臓はドキッとした。感情表現が希薄な彼女にも笑顔がある。少年は驚きと、言いしれぬ喜びを知った。
 彼女はワードゲームに参加した。ジョージの知らない言葉をたくさん知っていた。『学校にはいっていたの』ときくと、『ミドルスクールの途中で辞めたわ』といっていたので声をあげて驚いた。

 参加していた大人たちはメイへの興味を再燃させて、あの話この話と話題を振った。最初は本の話、歴史の話、政治の話、宗教の話――知的深度が深まっていきジョージにはちんぷんかんぷんだった。年齢は一八というから自分とは五つしか違わないのに、彼女は大人の会話を楽しんでいた。

 施設の中であっという間に溶け込んでいったメイは人気者になった。
 大人だけでなく、子供の支持を集めたのは彼女に偏見や差別がなかったからだった。公平に接する姿勢は、施設の職員と利用者の間柄では成し得ないものであり、皆の意見に耳を傾けていた。

 初日にメイをからかった悪ガキですら、彼女のハンデに配慮して車椅子に合わせた低いテーブルを用意するようになった。
 みんな、メイに魅了されていた。怒りの感情だけを取り除いた、聖人のような人柄。――もし、彼女になにかあれば命をなげうってしまう人がいても不思議でないほどに。

 
 メイが入所してひと月が経過したある日の午後。
 ジョージは談話室の片隅にあるテーブルに写真をひろげ、カメラのメンテナンスをしていた。
 カラカラと車輪の軽快な音にジョージは『やあ』と声を発した。メイだった。白い毛糸のセーターを着て、赤いブランケットを膝に掛けている。
 
 『写真が好きなの』
 『ああ、うん。……みる? いっぱい撮ったやつなんだ。……もっといいカメラが欲しいけど高いから……日本のカメラとか憧れてるけど、働きだしてからかな。いつか絶対手に入れるんだ!』
 『うまく撮れてるわ』
 『ほんと?』
 『ええ。腕がいいわ』

 メイは人を褒めるのが上手だった。
 ジョージは照れ隠しにちょうど手入れが終わったばかりのカメラを構えた。

 『ねえ、その……メイを撮ってもいい?』
 『私を? お断りするわ。カメラに写るのは嫌いなの』
 『そ、……そうなんだ』
 『写真……そういえば、玄関に飾ってある写真もあなたが撮ったの?』
 『あ、ああ。そうだよ!』
 『あれも、上手く撮れてるわ。将来はきっといいカメラマンになるでしょうね』

 くすり、とメイが上品に微笑むとバクバクと胸が鳴った。少年ジョージ・マルコーは全身が燃え盛る炎のように熱くなった。
 情熱と歓喜。彼女に褒められて嬉しかったからだ。メイがジョージを称えるとき、その黒くて不思議な瞳の色が微笑みかけるとき、いっとう心が高鳴った。

 彼女との特別な会話を終えて、一人きりの部屋に戻ってもその喜びは消えなかった。全身が感冒に犯された時のように熱く疼いた。
 熱源は秘めたる下腹部に集中していた。第二次性徴期にあったジョージは、スクールの友人や施設の年齢が上の同性から伝え聞く、慰めのやり方を震える手で施した。

 メイのことを想ってすると、ひどく気持ちが良かった。
 そして虚しくなった。彼女のなかには命がある。それはつまり、一人の男が彼女を征服した事実を決定づける。こんな施設に一人でいる原因を作ったからだ。憤りと、悲しみが溢れた。なぜなら、その男がメイをひとりぼっちにしなければ、ジョージは彼女と出会えなかったからだ。

 『さいあくだ』

 自分も、そいつも、運命も。くそ食らえだ。
 抱いた罪悪感はいつまでも消えなかった。

 ジョージは幸せなことを考えた。

 メイは出産後もきっと施設にいるだろう。
 足が不自由でどこにも行けやしない。仕事だって外に出かけられないのでは、できない。そうなったら、ジョージが助けてあげよう。
 いつか施設を出て働きだして、一人で暮らせるようになったら、彼女に一緒に住まないかと尋ねる。メイが『いいよ』と言ったらば、幸せな生活になるだろう。メイとその子供の三人の生活だってあり得るかもしれない。

 少年の拙悪な願いは彼を前向きにさせた。
 前よりも写真にのめり込むようになった。それから、写真を撮るために外に出るようになり、メイにそれを語って聞かせた。メイは鳥が好きだった。ジョージは車椅子を押して可能な限り外に連れ出した。

 メイをC棟の屋上に連れて行った。
 エレベーターで二階まで上がり、そこから支えてやるのがジョージの仕事だ。彼女は教会の鐘楼を眺め、少年は羽を休めにくる鳥を近くで撮影した。二人の特別な時間だった。

 五月になると臨月に入り、彼女はほとんど動けなかった。丸い大きな腹は服の上からでもよくわかり、しばしば子供たちは彼女の子供に触れたがった。
 自室と談話室、食堂を移動するだけの生活を送るようになるとメイは本をよく読んでいた。

 出産予定日が近くなると、メイは施設から出た。
 マザー・グレイシーの配慮で病院で出産することになった。入院費だけでも高額だしすごいね、と子供たちの間で囁きあった。マザー・グレイシーはお金持ちだからなんとかできるのだ、と老人の一人が教えてくれた。

 施設に戻ってきたメイは前よりも疲れた顔をしていた。
 イリスという名前を授かった女の子はよく泣いた。朝も、昼も、夜も。夜寝静まった頃、イリスの夜泣きが始まると眠れない日があった。起きて食堂にいくと、そこにマザー・グレイシーがいてあたたかいミルクを用意してくれた。

 『うるさくって眠れないんだ』
 『彼女はおしゃべりしてるのよ。まだこの世界に出てきて怖くて不安なのかもしれないわ。それは、あなたも私も赤ちゃんの頃に経験しているの』
 『僕も?』
 『忘れているだけで、お父さんやお母さんにたくさん話しかけていたのよ』
 『マザー……』

 マザー・グレイシーはジョージをそっと抱きしめた。
 ジョージは刑務所の中にいる父に思いを馳せた。アルコール中毒になる前の彼はとてもいい父親だった。その頃には母もいて、順風満帆の円満な家庭だった。母がある日、交通事故で帰らぬ人になるまでは。

 ジョージは熱い涙をこらえきれず、自然にまかせて流した。
 メイはとても優しい人だ。そんな人のもとに生まれてきたイリスがすこし羨ましい。どんなことがあっても、独りにはしないだろうから。




 八月の末だった。
 イリスが産まれて数ヶ月。メイは不慣れながらも母親をこなしていた。
 よく晴れた午後。スクールから帰ってくると、ちょうどメイがイリスを部屋に残して出ていこうとしていた。覗いた部屋の中ではぐずっているイリスはもうすぐ大噴火の如く叫びだす気配があった。

 車椅子に座って廊下をミシミシと音をたて背中をむけるメイを呼ぶと、彼女はひどく獣のように呼吸を荒げていてびっしょりと汗をかいていた。

 『……ジョージ』
 『どうしたの……あ、イリスが泣いてるよ?』
 『………』
 『外に出るの? イリスは……いいの?』

 メイに駆け寄ると頬は赤く泣いている様子だった。居心地の悪さを覚えながらもジョージは目を逸らすことができなかった。

 『私が戻ってくるまで……あの子をあやしてくれないかしら』
 『うん……それは、いいけど……大丈夫? 水持ってこようか? メイ……?』

 メイの様子がおかしかった。
 ジョージはマザー・グレイシーに彼女の不調を伝えておかなければと巡らせていた。

 『……本当にいくの? ……あ、面倒くさいとかじゃなくて、イリスはメイのほうが嬉しいとおもって』
 『………ごめんなさい、……すぐに、戻るから……』

 メイはハンドリムを握ると押し出した。逃げ去るように棟から出ていく背中を見送ったのが最後になった。
 部屋に残されたイリスをあやしていると、外がにわかに騒がしくなっていた。唐突に扉が開かれて、マザー・グレイシーが息を切らし青い顔で叫んだ。

 『……メイが……!』
 『マザーどうしたの。……あ、イリス……泣かないでよ……せっかく泣き止んだと思ったのに』
 『ジョージ。ぜったいに、ぜったいに……C棟に行ってはだめよ!』
 『え?』

 ジョージはなんのことかわからなかった。
 ただ、メイがいつまで経っても部屋に戻ってこないのに苛立っていた。

 『……メイが遅いんだ。帰ってくるって言ったのに……もう三〇分経ってる。僕今日当番でしょ、水をやらないといけないんだ。……どうしたの、マザー。……マザーまで泣かないでよ、困るよ』
 『………』
 『メイ、遅いなあ』

 メイは屋上から飛び降りて死んだ。
 第一発見者は施設のエレベーター業者で、定期点検で棟に入ってくるときに、地上で頭を割った女の死体を見つけたそうだ。現場はすぐにブルーシートに囲われて、警察が到着する頃にはジョージも遠巻きに悲しむ集団のひとりになっていた。ジョージにはどうして彼女が死んでしまったのかわからなかった。

 幸せなはずだ。
 だって、赤ちゃんが産まれて、ひとりぼっちではなくなったのだから。

 遺されたイリスはそのあと、マーガレットハウスに移された。そこには小児科医が交代で常勤職員としていたからだ。なにより、イリスがいることでみんながメイの悲しみを忘れられないからだ。目隠しされるように遠ざけられた、彼女の大切な娘。一年経つと、ぽつりぽつりとみんなメイを忘れていった。

 『ねえ、マザー。……イリスは元気かな』
 『……ええ。イリスは元気よ。……新しい家族のもとで幸せに暮らしてるわ』

 ジョージは、それならいいやと思えた。
 少年も望めば養父母家族のもとへ行けたがそうしなかった。すくなからず、刑務所にいる父親のことを憎みきれなかったから。


 ビービー。
 家のインターフォンが鳴っている。
 ジョージはつかの間の回顧に浸っていた。甘く辛い少年時代に残された痕は未だに癒えることはない。彼女は、特別な女性だった。そして、いまもその人以上の存在には出会えていない。
 
 「なんだい、忘れ物かい……」

 暗くなったリビング。ソファから起き上がり、ずっと鳴りっぱなしのベルを止めに玄関へと寄る。
 二人の来客が戻ってきたのだと思った。

 男はすぐに違和感に気づいた。開けた扉の先に彼らはいなかった。
 ジョージ・マルコーを出迎えたのは一丁の黒光りする鉄の銃口だった。先にはサイレンサーがついていて、二つの両目が中心に捉え、現実を咀嚼しはじめたとき、理解をしはじめたとき。黒い影のシルエットが、次第に明るみにでるとき。

 「――――」

 声も出ない間。
 一瞬に過ぎない、この狭間の中でジョージ・マルコーはまた彼女を思い出した。
 『福音の家』に舞い降りた彼女、メイ・ピオニー。
 ジョージの人生を決定づけた、ファム・ファタール。少年が人を撮ることを諦めたきっかけとなった女。

 サンルームで、色とりどりの花々に囲まれて微笑んでいる。
 世界がブラックアウトし――彼女はいなくなった。

 

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