遺された真実

 ある女性が庭で遊ぶ女の子に声をかけた。

 ――――ねえ、あそぼうよ。



 
 2020年 12月



 マザー・グレイシー。

 本名、グレイシー・ブランケの住まうバージニア州にはマウント・バーノンは米国初代大統領の所有する建築物がある。煉瓦色の建物と見晴らしのいい空を有し、綺麗に整備された街並みはのどかな田舎らしさ半分、知的な趣きが潜んでいる。施設できいた彼女の住所は街の中心地よりはわずか外れた閑静な住宅街のなかにあった。

 午前一〇時。

 昨晩、翌日のお伺いを立てるための連絡を入れたとき、ジョージ・マルコーはまだ連絡を入れていないようだった。彼の名刺は持っているが、エリカはうっかり名刺を渡すのを忘れていたし、携帯もレンタルのものだ。よってジョージ・マルコーから連絡を入れることは不可能だった。たとえ、ジョージ・マルコーがマザー・グレイシーと通じてアポイントメントを取ったところでエリカにはわからない。よって、直々に連絡する羽目になったのだ。

 電話口に立ったのはマザー・グレイシーの雇っている家政婦で、ちょうどその日の仕事を終えた帰りがけだったようだ。『翌日の一〇時にお越しください』といわれて、きっかり定刻通り住宅のベルを鳴らした。数十秒後、パタパタと軽快な足音と共に扉が開かれた。

 「どうぞ、お入りになってください」
 「こんにちは。……えっと」
 「ようこそおいでくださいました。家政婦のリラ・マッケンジーです。リビングにご案内しますわ。先生がお待ちです」

 家政婦は五〇代半ばのグレーヘアの人の良さそうな女性だった。
 白く皺一つないエプロンを身につけ、印象的なブルーの瞳を細め東洋人二人を家へ招き入れた。

 リビングへ続く廊下の左右には写真がたくさん飾られている。主にそれは良き日の記録。マザー・グレイシーが施設にいた頃の写真が過半数を占めていて、ジョージ・マルコーの家で見たアルバムにあった集合写真から日常風景を切り取ったもの、どこかの病院での景色。世話した子供や老人が写ったものだった。

 「先生。お客様がみえましたよ」

 家政婦リラ・マッケンジーの掛け声によって車椅子の上で本を読んでいた老婦人が顔を上げた。
 アッシュブロンドとグレーのグラーデーションカラーをした髪を後ろに流した品のある女性で、記憶に新しい写真越しのマザー・グレイシーよりも垢抜けたと思わせるのは、彼女が清貧を印象付ける無彩色ではなく、黒と赤を纏い、その耳と手に宝飾品を身につけているからだとすぐにわかった。

 「はじめまして。エリカ・ラナマンです。こちらは、ゴロー・マジマです。突然に伺いまして、大変申し訳ございません。お会いできて光栄です」
 「……はじめまして。どうぞ、お掛けになって。……リラ、お茶を淹れてくださる?」
 「あ、あの……花がお好きだと聞いて」
 「まあ。ありがとう。シンビジウムね。いい色だわ、リラ、こちらを飾って」

 リラは「頂戴いたします」といってエリカから花を預かった。
 エレガントな猫脚のソファにそっと腰掛けると、マザー・グレイシーは「寒かったら言ってくださいね」と暖炉を見遣り言った。暖炉の上には一枚の大きな花や果物の描かれた静物画とその麓に磔にされたキリスト像が飾られている。

 「お元気そうで……よかったです」

 ジョージ・マルコーの話によればマザー・グレイシーは床に臥せっている。もっと病人の姿を想像していただけに良い意味で想像を裏切られた故の言葉だった。八〇歳を控えた老婦人はやや気恥ずかしそうに笑い「久々のお客様ですから、張り切ったのよ」と教えてくれた。

 「会いに来てくださって嬉しいわ。………似ているわね」
 「………メイ・ピオニーに……?」
 「……ええ、そうね……似ているわ。……今日は、その話がお目当てよね?」
 「はい」

 マザー・グレイシーは物思いに耽るように手元の指輪に視線を落とした。

 「……とうとうこの日が来たのだわ。私は長生きした。十分すぎるほどにね。……一〇年は、あっという間で……流れ星よりも早かった」
 「………一〇年……?」

 エリカは清い瞳を食い入るように見詰めた。違和感を覚えたのは真島も同じだった。
 メイ・ピオニーは。

 「三〇年前の間違いでは? ……あなたは、福音の家に彼女を連れてきて……亡くなった彼女の遺児である私をセント・マーガレットに移しました。……その後、一組の夫婦が引き取りましたね?」
 「ええ。そうね。……ふふ。……エリカだったかしら、今は。……こう思っているでしょう。……痴呆に成り下がった老婆だと」
 「とんでもない。……確認のつもりです、その……お気を悪くしたのなら謝ります」

 「ちっとも」と老婦人は添えた。
 マザー・グレイシーはゆっくりと言葉を選んだ。

 「……秘密の約束だったの。これは、彼女が計画し――、私の夢を叶える条件と引き換えにしたこと」
 「秘密の約束……」
 「彼女はとても聡明で、すべてを見通していて、……人々のために死に、舞台から下りたの。……彼女は、ときにメイ・ピオニーと名乗り、その他にもたくさん名前を持っていた。……この世界で最も有名な名前は、王吟でしょうね」

 エリカはその名前を反芻するとき、傍らで男が勢いよく立ち上がった。
 「王、吟」――エリカが口にし音を認識したとき、それが数日前にもきいた人物の名前であること――真島にもっとも縁のあった女の名前であることをゆっくりと理解する。ぞくりと全身が波打つように粟立った。

 「真、島さん――」
 
 額には汗が滲み、視線は一点を集中し、握りしめた拳だけがぶるぶると震えている。
 マザー・グレイシーは慈愛の籠った眼差しで、真島を眺めていた。

 「一〇年前、最後に会ったとき彼女は言ったわ。……『私の亡き後、求める人がいるなら、それはマザー・グレイシー貴女を訪ねるでしょう』とね。……彼女は、私に願いを託した。罪の告白を代わりに授けて欲しい。――私は承諾した。友人である彼女の遺言を預かった。その時が来るのを待っていた」

 マザー・グレイシーが言葉を区切ると、ちょうどティーセットをトレーに載せたリラが帰ってきた。
 テーブルの上にはジャムクッキーと、アールグレイの紅茶。部屋にはベルガモットの濃厚な香りが広がった。

 「さ、どうぞ召し上がって。……彼女も好きだったわ、ジャムクッキーとお茶が。お気に入りのストロベリージャムなのよ」

 真島はクッキーを見下ろして、何も言わず座り直した。しばらく組んだ手に顎をのせて俯いていたが、思い切ったようにマザー・グレイシーに言い放った。それは日本語だったので、エリカは気を利かして通訳しようとした。するとマザー・グレイシーが手を押し出して「いいわ」と断った。

 「……少しなら、わかりますよ。日本語をね。……たしかに、本物の王吟のはずよ。……リラ、写真を持ってきて頂戴」
 「はい、先生」
 「………彼女の言葉を理解するにあたって……必要だったの。彼女は英語と広東語、香港語を含めた中国語。ドイツ語も堪能だったけれど……母国語は日本語だった。曖昧な言語の名残を読み解くために勉強したわ」

マザー・グレイシーは右手で皺の寄った厚みのある左手を撫でた。エリカは核心に食らいついた。自分でも驚くほど熱の籠った声色をしていた。
 
 「……日本人。日本人なのね……?」
 「ええ。混じり気のない、生粋の日本人よ」
 「……ほ、ホントに……」
 
 耳から仕入れた情報がぐるぐると洗濯槽の中のように頭を回り、心臓は早鐘のように打ち、ひどく動揺している。

 「ご覧になって」
 「………あ」

 リラがアルバムを持ってきてテーブルに広げると、いくつもの写真に同じ女性が写り込んでいて、隣でしばし黙り込んだままだった真島も頷いた。
 彼女は、王吟。……エリカの母親だった。

 「一九八九年ね。休暇だとうかがったから家に招いたの。二人でルイボスティーを飲んだわ。一〇月くらいかしらね。……大丈夫?」

 ジョージ・マルコーのアルバムでみた彼女は断片的で、女幽霊のような気味悪さを醸していた。一方で、マザー・グレイシーのアルバムにいる彼女は、若く理知的で社交辞令を弁え、優美に微笑む姿を残している。そして、エリカの記憶の深いところにあるパズルの一欠片が、かちりと音をたてて嵌った。

 「………しってる」

 ぼそりと呟いた声は力がなかった。
 エリカは、知っている。その女を。その母親といわれる女を。王吟を。


 ――――エリカちゃん、あそぼうよ。

 五月の気持ちの良い、花に囲まれた春の庭先で。
 白いシャツに黒いスラックス。短く濡烏の髪色は中性的に魅せ、その日だけ姿を見せた春の妖精だと思った。

 ――――ママのお友達? お名前なんていうの?
 ――――名前はね……ひみつ。
 ――――お名前呼べなかったら、困っちゃう。……エリカの名前はしってるでしょ? そんなのズルいわ。


 彼女は子供用のミニカーに乗っているエリカの目線に合わせてしゃがみ込んだ。
 目と鼻の先にいる彼女は口の端を持ち上げて言った。

 ――――名前、つけてくれるかな。

 ふわりと風にのって薫る、彼女のにおいがあたたかく、悪い人ではないと思った。

 「わたし……しってる」

 あのとき、エリカは彼女になんて名前をつけただろう。
 彼女はあのときしか現れず、帰り際に残していった手紙を読んでしばらく文通のやり取りをした。

 「………子供の頃に、あってる。………ずっと忘れてた……クリスマスカードになぞなぞが書いてあって……いつの間にか、消えてた……。庭にブランコが置いてあって………この人が背中を押してくれたんです。……ママ、……ママの友だちだって……」

 彼女はなぞなぞが好きで、クリスマスプレゼントと一緒に贈られてくるカードにはいつも問題と前の問題の答えが書かれていて。顔をみないうちに、自然といつの間にか、年月を経るごとに――エリカの大切な記憶からも消えていった人。

 
 誰もが押し黙り、アルバムの王吟を見ていた。
 真島の横顔を一瞥し、それから彼の話を思い出した。王吟は亡くなっている。チャン・ホンファは諜報員をしていた。真島吾朗は裏社会の人間だった。その情報をつなぎ合わせると、王吟がどのような人物であるかは自ずと知れる。危険な立場で相当な肩書を持つだろう。

 エリカの震える声が沈黙を破った。
 
 「……マザー・グレイシー。……チャン・ホンファという女性をご存知ですよね」
 「もちろん。……彼女の優秀な秘書だったわ」

 エリカは目を眇めた。
 その気持ちは形容し難く、まるで望んでいたものはすべて幻だったかのように思えた。

 「つまり……私の生母は、計画的に……秘書である母に私を託した……?」
 「ええ、そうよ」
 「……計画ってこの事ですか?」
 「計画はもっと大きなものよ。イリス、いえ……エリカ。そのために必要なことだった。……すべての危険を取り除けはしない。けれど、一番安全な方法だった」

 マザー・グレイシーはきっと正しい。彼女の立場から告げるものとしてはこの上ない真実だった。
 容赦なくエリカの辛うじて保ち縋っている、ボロボロのアイデンティティを打ち壊した。

 「……っもう、……ぐちゃぐちゃ……、信じてたもの、ぜんぶが……!!」

 気づけば涙が頬を伝っていた。
 悲しい。やりきれない。そして、憤り。幸せに暮らしていたじゃないか。何も知らなければ。

 計画のため? 

 エリカにはお為ごかしなんて要らなかった。産みの母親が、自分を捨てたのだ。会いに来たのだって一度きりだ。理由があっただろう。そんなこと子供のエリカには関係ない。『ともだちになろう』などと心にもない言葉をもちかけて。さいしょから、母親になる気などなかっただろう。

 チャン・ホンファは仕事だから引き受けた。――ボスの子供を大切に扱うのは当然だ。本当の母親だと思って、信じてきたのに。アメリカにないルーツも、人種の隔たりも、どこか常に居場所を探してきた。イギリスにも香港にもエリカのものと呼べる安息地はなかった。―――だから、チャン・ホンファは未来にあてて手紙を書いた。日本に行くように。本当の居場所はそこにあるからと。

 ――あなたは、私の子供じゃない。
 そう言われているみたいだった。

 エリカは立ち上がり、顔を真っ赤にし、泣きながら部屋の中をぐるぐると歩き回った。

 「……知っているんでしょう?! いつまで、黙ってるの? どうして、なにも……誰も教えてくれないの? 教えてくれなかったの……!」

 誰も答えられなかった。もちろん理由があったところで、聞きたくなかった。気休めの慰めなど意味はなく、怒りが増幅するだけだ。
 人差し指を突き出してエリカは叫んだ。 

 「あなたも!! あなたも!! あなただって! 知っていたくせに、馬鹿みたいに、死人の女のために、私が傷つかないように……ッ!」

 限界を超えた憤怒は際限なく暴言を奮わせる。

 「みんな、嘘つき女を大切にして……っ 私の人生を騙してた……!!」
 「エリカ!」

 とうとう堪忍袋の緒が切れた真島は腰を上げると、エリカを捕まえた。腕を引き捉え、腕の中に強く押し込んだ。

 「くそ、……クソ……ッ! 悪魔! 悪魔め! 地獄でくたばれ! うっ、ううう……!!」

 真島は、泣きじゃくるエリカを抱きしめて背中を擦った。愛した女への強い非難は度し難いだろう。それでもなおその優しい手つきは止まず、次から次へと熱い涙が誘い出される。洪水のように溢れ出るそれが男のスーツやシャツを濡らしても、彼は何も言わなかった。





  ◆ ◆ ◆



 真島がエリカの暴発をなだめすかし、泣きつかれて眠った彼女の上にリラが毛布をかけた。
 テーブルの上には手つかずの紅茶とクッキーがまだたくさん残っている。冷え切った紅茶を見かねて、リラが「淹れ直しましょうか」と申し出たのを真島が断った。いただきますと口にし、アールグレイティーを一つ含むと、マザー・グレイシーがそっと言葉をかけた。

 「……彼女はこうなることも知っていたのでしょうね。最小の被害で済むように、娘の人生を狂わせる。……たしかに唯一の悪魔だわね。多くの人々は浄い人だと崇めたとしても」
 「………」
 「Mr.真島。……改めて、お会いできて嬉しいわ。……彼女は、しばしば貴方を葦の人に喩えた。あなた方の国の神話において日本の名前であり、国産みにおいて、はじめの神の子を流した船でもある。……私たちの住まう方ではもっとも弱い一本の、大衆の一人ともいわれています。……そして、貴方を愛していた」

 ゆっくりとわかりやすい口調でマザー・グレイシーは伝え聞いていた真島吾朗との対面を喜んだ。
 真島はカップをソーサーに置いて、訛りを外した日本語で最も知りたいことを尋ねた。

 「……手紙。手紙を……吟から預かってませんか」

 マザー・グレイシーはにっこりと微笑んで、リラに合図した。彼女は壁にかかった絵画。その額縁の裏に隠されていた一通の手紙を真島に渡した。手紙は両面ともに真っ白で、差出人の名前はなく、赤い封蝋だけがついている。リラからペーパーナイフを借りて、封を開けると折りたたまれた一枚の便箋。一〇年の時を超えてようやく真島の手元に渡った紙を開いた。

 「……秘書から届きました。一〇年前に。時間がない、と添えられた手紙と一緒に届いたの」
 「ありがとうございます」
 「………何がありましたか」
 「……『あの夜を思い出して。迎えにきて』……」
 「お心あたりは?」

 真島は瞼を閉じた。
 彼女と過ごした夜は数えるほどだ。その中でもはっきりとわかるのは、最後に会った時のものだろう。

 「―――あの夜。一九九九年。……船の上で再会したんですわ。今からしたら……それも仕組まれとったんでしょう」
 「お聞かせ願えないかしら」

  真島は苦く笑った。

 「吟とは……長い付き合いです。どこまでご存知か知りませんけど、秘密結社の違法ビジネスの商品やった頃からあの娘を知っとる」
 「そうですか」
 「白状しますわ。吟は日本で生まれて、拉致されて連れてこさせられた。……俺はどないすることもできんまま……死なんように見とくのが精一杯やった。……後悔しとります。……女の言う、大丈夫は信用したらアカン。……手ェ握って歯向かうくらい……」

 天井を仰ぎ見ながら、遠い彼女に思い馳せる。
 吟を悪魔だ。彼女の娘はそう口にして罵ったが、真島にもその悪魔を作り上げた一端を担っている罪がある。マザー・グレイシーは慈愛に満ちた笑みを絶やさなかった。

 「吟は、納得していましたよ。……そのお腹にエリカを宿し産み、手放したあと決めたんです。……世界中から子供の悲劇をなくしたい、減らしたいと。戦争、貧困、飢餓、病。人類の悲しみを救いたい。彼女の願いであり、償いでした。そのためには、自分が死んでも構わない。――そういう方です」
 「………この娘一人を苦しめても、か?」
 「………ええ。……きっと、彼女はこう考えたでしょう。……『自分の助けた多くの人が、この子を将来的に助けるだろう』とね。……わかりますわ。一番大切にしたいものを傷つけてしまっている。……吟はその役目が自分では果たせないと知っていたのでしょう。……Mr.真島。貴方なら知っていますね」
 「………ああ」

 再会したとき、あの夜、彼女が死にたがったとき、すべての憎しみがこの世界に放たれたとき――その苦悩は贖罪だったのだと知った。

 吟は特別な立場だった。なにより――唯一無二の、戦争兵器だった。彼女自身が『獣』であり、世界の脅威そのもので――私生児を自らの手で匿うには危険過ぎた。たった一人の娘の幸せを保障するには、そうする他なく――かといって完全に手放せるほど無慈悲ではなかったのだ。


 「……貴方が、この娘のお父さまね?」

 マザー・グレイシーは咎めることもせず、ただ真実を確認した。
 もはや驚きはなかった。一九八九年。あの夏の、最後の夜ですら――彼女は真島を睡眠薬で昏倒させた。意のままに操ることなど造作もない。知らず知らずのうちに、肉体関係を持った。記憶がもっともあやふやだったその前夜が怪しいだろう。

 そのときの吟は薬物で錯乱していて、手のつけようのないほど暴れた。
 真島に記憶はなく、しかし性的な接触が考えられるのはその最も愛のない夜だけだ。
 運命の悪魔が笑いかけ、望まぬ生命を二人の間に授けた。―――エリカは、誰にも望まれていなかった。

 「それも、……吟が言うたんですか」
 「ええ。……メイ・ピオニーも、イリスという名前も……ぜんぶ貴方だって聞いたわ。……ふふ、それだけ――貴方を愛していたのだわ」

 それは、あまりにも哀しいことだ。
 吟はたとえ、自分が死にかけていようが溺れていようが、受け容れ、苦痛すら呑み込んで冷たい海に沈み込んでいく。――手紙で彼女はようやく、本当の望みを打ち明けた。

 「……吟は、生きとる。……計画について教えてくれませんか」
 「彼女は私の願いを叶えると言ったの。……私の願いは、貧しい者、病める者の家を作ること。そのためにはお金が必要だった。吟は良い資産家だったから、欲にまみれた人々が諸手を挙げて群がった。卑しいことに、私もその一人でしかないけれど……神は味方してくださったの」
 「………」
 「ある日突然、私の家にやってきたの。『マザー、貴方の手紙を拝読しました。よければ話をお聞かせください』と。私は望みを打ち明け賛同を得た。……吟は、『その代わり、私を助けて欲しい』と願い出た。もちろん、と訳を聞かずに承諾した。……どのようなことか、わかりますね?」

 真島は言葉にするよりも、ソファの肘置きを枕代わりに眠る女を見遣った。

 「ええ……。『私の内側に根を張り、日に日に大きくなっていく魂がある。災厄にも不幸にも無縁な、幸福を授けたい。私の意志ではなく、人類が願う繁栄のなかでこの世界への誕生を祝福したい』……私は、雷に打たれたような気持ちになった。そのときに、この方のお力になりたいと思ったの。……けれど、私は彼女の本当の願いを見誤っていたわ。……ご存知よね?」
 「ああ」
 「……吟の願いは、死ぬことだった。……私の願いを叶えることで、彼女は自分のお葬式の舞台を作り上げていたの。……それはとても罪深いこと。私は、死ぬことを助けていたのだから。……ケープタウンに新しい養育院を建てた。難民の受け入れ施設と一緒に。……セレモニーの前日には吟が電話をかけてきた。きわめて冷静だった」
 
 
 ――――マザー・グレイシーおめでとう。もうすぐ貴女の望みが成就しますよ。施設の建設には五〇を超えるスポンサーがついていて、貴女の功績を称えるトロフィーを準備しているそうです。すぐには上手くいきませんが、来年の今頃には綺麗なレターが団体のポストに投函されていることでしょう。
 ――――ありがとう、吟。すべて貴女のおかげ。けれど、知っているでしょう? 私は勲章に興味はないの。
 ――――知っていますよ。そんな貴女だから、手を差し出したんです。
 ――――感謝しているわ。……そうだ、今度お茶を一緒にのみましょう。キャッスルトンのダージリン。ファーストフラッシュが手に入ったの。
 ――――ええ、ぜひ。お誘いいただけて光栄です。……けれど、……貴女がその紅茶をのめるようになるのは少しあとかもしれません。
 ――――なぜ?
 ――――たくさんの報道各社の相手をすることになるでしょう。養育院の職員にノウハウを教え、入所者のケアも。そして、多くの人に囲まれて毎日が矢のように過ぎていく。忙しさのあまり涙も忘れて、ほっと一息をつけるようになった時、ようやく口にすることができる。
 ――――ふふ。それは私だけではないわ。貴女だってやることたくさんあるのよ。
 ――――そうですね。

 「吟は、最後に私に会えたことを感謝してくれた。……明日が待ち遠しかった。……彼女は亡くなったわ。大衆の目の前で。惨い終わり方だった。……逃げ遅れた入所者や職員の避難をさせている最中だった。警護員はつけていなかったの。事前に彼女が断ったから。……『この施設にいるあいだ、私は賓客ではありません。神のもとで、公平であるべきだと思いませんか』と……言ってね」

 マザー・グレイシーはハンカチで目元を押さえた。
 その後のことは、真島も知っている。耳にいれたばかりである、概ね吟の予定調和そのものの世界になった。各国の報道機関が連日取り上げ、一連の事件、施設への注目が加熱し世界中に慈善団体の名が轟いた。各国企業が貧困対策に乗り出した。雇用を創出し経済成長に繋げ、発展途上国はバブルに湧いた。『アフリカの春』とは、テロが引き起こした一人の女の死によって大勢の人間を救う舞台装置だった。

 脳裏にホンファの言葉が蘇った。

 ――――いつか、理想の支配者になると。

 人々の心に植え付け、幸せを授け、新たな対立を生む。歴史に名を刻み、これら以降、人類の意識の中に受け継がれていく透明な影響力をもたらした。
 
 「………エリカちゃん」
 「……理解できない。……自己犠牲精神に酔ってるだけ。……そんなの、けっきょく自己中じゃない……死にたきゃ……ひとりで死ねばいいのに。……大勢の人のために、周りが苦労するのよ。……ほんと、馬鹿みたい、くだらない……くだらない……私が、一番くだらない」

 いつの間にか目覚めていて話に耳を傾けていたエリカは、体をいっそう丸めて毛布を深くかぶった。
 吟のつくった世界の上で生きている。自分の悩みなど、あまりにもちっぽけで無力さを突きつけられる。そうして、いつのまにか誰も彼も責め立てることができなくなっていく。

 牙を奪われ乾いた砂地のうえで水を与えられ、生かされる。
 長期的な戦略のもとに吟は生きていた。宗教を利用し、善意を利用し、己を利用し欺き。――悪意に満ちた道なき道を照らす。
 
 「……Mr.真島。……これからどうなさるおつもり?」
 「……吟を探したい。……が、きな臭い。……エリカちゃんを狙っとるやつがおる。……ホンファは吟に繋がる重要な立ち位置の女やった。……もしかしたら……それを知っとって……」
 「……王吟が生きてるなら、ママも生きてるわ。……マザー・グレイシー。セレモニーの死者のなかにママはいなかった、ですよね。手紙を受け取ったのは、いつのことです?」

 エリカは起き上がり、親指で目尻を摩りあげた。
 マザー・グレイシーは両手を握って考え込んだ。

 「……あの頃、忙しくて……、この家に帰ってきたのは……五月だったかしら。カレンダーを捲ったあと、溜まりに溜まった手紙をチェックしていたの。その中に紛れていた。……だから正確な日付はわからないのよ、ごめんなさい」
 「………真島さんは連絡を頂いてましたよね。たしか、報道の前日だって」
 「四月の頭くらいや。……吟が死んで一週間以内。……報道にのるまでホンファは自分の手で手紙を渡すつもりやったが、そうはならんかった。とするとや……正式報道されて以後、四月以内に状況が変わった」

 エリカは「情報が足りない」と呟いた。
 四月以内、日はたっぷりある。その間に死んだ可能性は否めないし、足取りもなにも掴めない。
 真島はずっと躊躇ってきたキーパーソンを口にすることに決めた。

 「ホンファは。……いや、吟も含めて、秘密結社……中華系マフィアの人間やった。組織は香港を牛耳っとったが……『アフリカの春』のあと撤退しとる。吟の後ろで糸引いてる奴は雲隠れ、根城の台湾に籠ってる可能性はあるが―――」
 「………続けてください」
 「はっきり決まっとらん。……エリカちゃん、ホンファと会うたんはいつが最後や?」
 「忙しい人でしたから……二月くらいでしょうか。………父が新しい人を紹介したのが三月だったので……、何かあったと考えるなら二月から三月の間かも。……疑わしいのはイヴ・スミスです。警察の方でなにかわかったら連絡を入れると仰っていましたけど……私たちも探ったほうがいいのかもしれない」

 エリカが提案するも、真島は首を縦に振らなかった。
 警察に並行して調べるのには無茶が過ぎる。

 「いや。……ここは待つべきや」
 「……真島さん、私たちは……狙われています。時間がありません」
 「せやから、場当たりで探るんは危険過ぎる。焦る気持ちはようわかるが……情報が少ないうえ連中の正体がわからんのや、リスクがデカすぎる」
 「……それじゃあ、どうしろっていうの……?」

 透明人間の敵に立ち向かうには丸腰なのだ。真島はやむを得ない状況となれば車も運転するし、銃を与えられれば対抗するが、それがエリカを縛るハンデになるなら控える。万が一の事態が起きて、過剰防衛に出た場合この国の司法、州法によって裁かれなければならない。それも覚悟のうちだが、それによって真島はともかく、エリカを一人にしてしまうことを避けたかった。

 相手が手を出すまで反撃の機会は与えられない。
 完全に手詰まり状態である。 

 その時、鐘が鳴った。近くの教会の鐘だった。
 最高潮に達した熱気に水が差すことで、エリカは会話を切った。二人を見守っていたマザー・グレイシーが手を叩いた。

 「いけない、もうお昼だわ。……お二人ともそろそろお腹が空いたんじゃありません? これからのことを考えるのは大切だけど、すこしだけクールダウンしましょ。リラ、サンドイッチを振る舞うってあなた張り切ってたでしょう」
 「かしこまりました。ランチの時間にしましょうか」

 ふと窓の外をみれば、教会の塔から鳩が幾羽か飛び去っていくところだった。

 

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