1999年7月、クイーンズ号




 梅雨明けの、煩わしい熱気に包まれた昼下がりだった。
 この数年、王吟は表社会にも顔を出すようになっていた。海運会社の社外CEO、資産家という立場から経済新聞の写真に掲載されていることもしばしばあった。出生は日本。出身は香港。最終学歴は英国のオックスフォード・クイーンズ・コレッジ。専攻は社会学。

 偽りの名前、出自、経歴の羅列にくらくらと目眩がする。見掛け倒しの鎧に人々は酔いしれ、誰もが信用していた。

 「こってこてやのう……」

 皮肉めいたジョークだと思った。王汀州の考えつきそうな詐称だろう。彼女は『女王』で、大学はクイーンの名前がついているコレッジ。経済雑誌の特集ページのカラー写真には穏やかに微笑む姿がある。経済学者との対談。彼女の行う南アフリカ、中東支援政策についてのインタビュー内容だった。現地では土木作業に参加したこと、食料、医療、物資を含めた生活支援を行うための独立法人を設立し活動を行っている。

 吟が公事として示せば、投資家たちが金を注ぎ込む。
 マスコットキャラクターとしては十分すぎるほどの影響があるだろう。
 ページをめくると現地で撮影された写真が掲載されていた。白いトーブを纏った浅黒い褐色肌をもつ男たちに混じって、黒いニカーブとヒジャブ姿の女が写っている。微小な合間から覗く二つの瞳は慈愛に満ち、誰かの赤子を抱いている。さながら、それはマリアと神の子イエスを想起させた。

 
 真島は胸の内で語りかける。『幸せか?』と写真にいる彼女に尋ねる。そうすることが儀式的で、いつの間にか癖になっていた。
 十年の空白が二人を完全に切り離し、極東のガラパゴスで数ヶ月前に撮影された写真に語りかけている執念深い男。彼女と交わした約束を果たせなかった男。かたや、彼女の方は人類を救う活動に心血を注いでいる。

 「……しょーもない男やな、俺は」

 喧嘩をするしか能がない。
 どのような悪人であれ、還元していけば皆おなじ人間である。人間を相手とした時、真島は傷つけることばかりをしている。そう思う。
 けれどそこで停止する。傷つけることを甘んじて、その他の方法を考えつくことも身につけることも――自分には似合わないものだと決めつける。考えるよりも先に手足が出るのだから、一生直らないだろう。

 吟は、すくなくとも表面的であろうとも、誰かの命を救っている。愛を分け与え、明日へと続く架け橋を作っている。たしかに、彼女に眠る凶暴な獣はいるが――善を捧げ、身を捧げ、大衆の幸福に従事する姿には感服するばかりだ。

 そうして、十年前。彼女へ好意を告げた己を浅ましく非難するのだ。
 吟の亡霊がつきまとい、背中越しに呼びかける。―――あなたは、何をしているの。と。
 
 「これで良かった。良かったんや」

 呪いのように言い聞かせ、外から吹く温い風を受け、ページがパラパラと一気に弾けるように捲り上がった。ちょうどそこへ電話が鳴った。
 相手は馴染みとなった知人、チャン・ホンファだった。


 いつものお決まりの喫茶店に顔を出し、ホンファと話をする。ただの雑談で終わる日もあるが、その日は改まって真島に相談がある様子だった。

 「シンガポールなんてどうでしょう。……観光はもちろん、いい話があるんです」
 「なんや怖いのぉ。勿体ぶらんでもエエ。洗いざらい話してくれや」

 内容は、ホンファが抱えている取引先と会って代理授受という至って単純な仕事だった。
 
 「……近々、ドイツのある企業がシンガポールに進出するんです。すでに先方とは契約済みなんですが、念には念を。内偵はことごとくノックアウト。第三者組織といっても、この業界ほとんど顔ぶれは一緒ですからガードを破れません。……そこでお願いがあるんです」
 「ああ、言いたいことっちゅーのは、ようわかるわ」
 「理解が早くて助かります」

 取引企業と仮の表別会社を通じて取引をして内情を探る。しかし、およそ『同業者』と知っているわけで、内偵が知られれば信用問題に発展する。真島とて海外での取引がないわけではないが、藍華蓮に比べれば微々たるもの。無名の顔を借りたいのがホンファの望みだった。真島へのリスクは、内偵が相手方に見破られた時だけだ。

 「真島さん、英語はわかりますね?」
 「カンタンなもんはな。……けどアレやろ? 準備は粗方やって書類交換で終わる。向こうの態度を見とけばエエんやろ? ボイレコで音採ったらええし」
 「そうですね。……あくまででっち上げの取引ですから」
 「で、どないするんや」
 「……七月二〇日、マンダリンオリエンタル・シンガポール、一九階ラウンジ。そこへ行ってください」
 「マンダリン……てあのでっかいホテルか?」
 「そうです。……本件の報酬は四割の権利と正規品でしょうか。モノはいいですよ。ハワイで掴まされるような粗悪品に比べればずっと」
 「はぁー、ほんま敵わんのう」

 笑みが吹きこぼれる。ホンファには恩があるし、仕事自体の報酬も見込めるのであれば悪い話ではない。
 テーブルにあったアンケート用紙に付いていたボールペンを取ると、紙ナプキンの裏にメモを書き込む。
 
 「明日の朝、ポストにはチケットが入っていることでしょう。それを持って、一七日に横浜港へお越しください」
 「一七日? ……二〇日まで二日あるで?」
 「ふふ。真島さん、夏休みはいかがですか? ささやかながらプレゼントです。ぜひお楽しみください」

 ホンファは悪戯をたくらむ子供のようにくすくすと笑った。

 夏休み、の言葉を耳にするのはいつぶりだろう。翌日、ポストにはチケットが入っていた。横浜港に寄港する『クイーンズ号』のアジア周遊ルートの一週間チケット。封入する便箋にはホンファの癖のある字で、『ドレスコードがあるのでお気をつけて』とだけあった。

 
 


 「うお……もしかして、これか?」

 当日。現地に到着してまず目に入ったのは巨大な豪華客船だった。芝浦にも埠頭があるが、そこには丸っきり収まりきらない立派な巨船で、たとえ七日間であっても退屈せず十分に楽しめそうだ。乗船すると外観よりも驚いたのはその内装だった。

 テイストはクラシックで華やかさもありながら落ち着きのある上質な空間に仕上がっている。階層ごとにアレンジが加えられ、モダン、ロココ、アール・ヌーヴォーと異なる。アジアの富裕層相手のヨーロッパ趣味といったところだろう。あいにく芸術分野に造詣が深くないため、何を見てもとりあえずアート意識の高い船であるということだけは確かで、内装こそ古風だが設備自体はしっかりと現代の機能的なものだ。

 バー、映画館、カジノ、プール、ステージ付きのナイトクラブ、フィットネスにレストラン、免税品店。船内は外国だ。それこそ映画の世界に迷い込んでしまったかのよう。天井は吹き抜けのずっと遠くにシャンデリアが吊り下がり、金色の手摺は円形の階段に沿うように流れ、ピカピカに磨かれた床は贅沢にも大理石があしらわれている。

 「落ち着かんのぉ……」

 そわそわと周囲を見渡しながら、予約済みである自室へと向かうとまたそこは立派な内装だった。
 海側に面したバルコニーを擁した青を基調とする二人部屋だった。バルコニーには丸テーブルと椅子、内側にも椅子があり、洗面所とトイレ、ガラス張りのシャワールームがついて、一人部屋には十分すぎる広さである。

 テーブルにはウェルカムドリンクがある。ちょうど喉が乾いていたのでくいっと一飲みすると、ミントの香りとすっきりとした味わいに緊張と興奮が和らいでいく。荷物を片方のベッドに置いて軽く横になったあと、バルコニーに出てみると青く輝く太平洋が見える。
 
 煙草を吸おうと箱を手にしたとき、室内禁煙の注意書きが目に入った。
 喫煙所でスモークをふかしている内に、船がいよいよ出港の汽笛を鳴らし、洋上のホテルがゆっくりと日本から離れていく。一週間後にはまたここへ戻ってくるというのに侘しさを感じられずにはいられなかった。

 
 展望デッキからは様々なものが眺められる。
 すでに何日も前から船旅を楽しむ他の客、パラソルの下のベッドで日光浴を楽しむシニアの夫婦。プールサイドにたむろする子連れのファミリー。通りかかったクルーに気さくに話しかけると、サマーシーズンということもあり八〇〇人ほどの乗客数らしい。

 真島は船の住人たちを観察していたが、やがて飽きてしまった。
 潮風が吹きつけ、容赦ない日光の照りつけから逃げるように室内へと戻ると、今度は冷蔵庫の中のような寒さに出迎えられる。
 冷房を兼ねて除湿しているせいなのか非常に肌寒く、スーツの上着を着ているとちょうどよかった。



 食事について憂慮すべき点であったことに気づいたのは、その日の夕食を終えてからだった。

 昼間はカフェラウンジで簡単な軽食とコーヒーで済ませたが、夜になってみるとどうも面倒なシステムだと思い知った。四つのレストランのうち、三つは正装と同伴者を要求される。というよりも、一人で入ると浮く。普段ならまったく気にしないが、東アジアを取り巻く海洋上は異国であることを思い知らされる。とくに内装が欧風かぶれである時点で気づくべきだった。

 ホンファのことだ、真島ならば適当に夕食を食べるために必要な女くらい簡単に見つけられるだろうと見込んでいたに違いない。唯一一人客であり、ノータイでも許されるレストランはカジュアルなダイナーで、カフェテリアをイメージした内装とパンと簡単な煮込み料理が精一杯食べられるくらいのもので、豪華客船の肝である食事がこれから三食同じ店で食べるのは、楽しみを奪われたようなものだ。

 「くっ……まぁ、しかしいうて一週間やしの」

 悪食には慣れている。
 水が飲めて、腹に溜まるものが食えるなら十分だ。とはいっても、三つのレストランの評判は、他の客の様子を見ているだけでもしっかりと伝わってくる。夜はコース料理、朝と昼はビュッフスタイルだ。正直羨ましいと思うのは自然だろう。

 ビーフシチューのリゾットのようなものをスプーンでつついていると、ふとジャンキーなビーフの香りが鼻をかすめた。
 気になってくっと首を捻ると斜め前のボックス席に、鉄板の上に乗ったハンバーグを切り分け、バターとマスタードのぺたぺたと塗り込んだバンズに挟み込みバクバクと豪快に食らう若い女の背姿がある。

 「……まじか。……とやかく言うやつもおらへんしな」

 女はこの冷え切った船内にもかかわらず、ノースリーブで肩出しのうえ薄手の長いワンピース姿でとにかく人目を憚らないで、気持ちがいいくらいの食べっぷりを披露している。すると、ウェイターがカートを持ってきてワインか水を注ぐのかと思いきや、ステーキの入ったトレーをテーブルに並べた。
 これには真島も目を瞠った。ステーキはこの店のメニューにはない。まさか裏メニューが存在するのかと感心していると、さらにテーブルには山盛りのポテトにサラダ、魚のソテーにスープが覆い尽くし仕舞いにはビールジョッキまで登場する有様。

 「ここはファミレスとちゃうんやで。……とんでもない大食いやのぅ」

 真島はその女が食べきれるかどうか気になって、食後にコーヒーを頼んで見守ることにした。
 心配をよそに、女は一定の速さでしっかりと平らげていき、テーブルには空の食器類のタワーが建設された。食べ物がなくなると、まるでそれらが初めから存在しなかったかのようだ。いったい、あの細身の体のどこに収納されたのか不思議でならない。
 ここを出たら煙草を吸いに行こうと腹を決め、ハイライトの箱を机上に置くとカラカラとカートの音がやって来た。

 「あ? ウソやろお前……」

 てっきり食べ終わったものだと思い込んでいたが、違う。女は皿を下げさせ、次の獲物をテーブルに載せた。
 ワッフルが二枚ずつ乗った皿が三枚。付け合せのクリームとジャム、チョコレートにメープルシロップのソースの入った瓶と、ボウル皿にアイスクリームがもこもこと盛り付けられているではないか。食後のデザートというにはあまりにも重い。

 俄然、真島は興味が湧いた。
 他のレストランで食事せず、一人でいるのはお互い一緒だが彼女は自分とは違う理由でここで食事している。これから三食このカフェテリアで食事するなら、いっそ顔なじみになってみるのも悪くないのではないか。妙案だった。
 

 「……おまえ……」
 

 呼び掛けたその一瞬、目を見開いたのは、ほぼどちらも同じだった。
 女はチョコレートソースのついた口周りを拭うことを忘れ去り、勢いよく立ち上がった。口走るのを待っていたがやがて、脇を抜けさっていく。真島が呼び掛けるも脇目も振らず駆けていくのは、獲物を取り逃がしたような気分の悪さをもたらした。

 「吟! おい、待てや!」

 あれだけの大食を果たしたあとで走るのはさぞ苦しいだろうに、そんな素振りは一切なく、迷路のような通路を一糸乱れずどこかへ向かっている。
 
 「どこ行ったんや、あいつ。……っちゅーか、なんやねんあの大食い。体どないなってんねん……っひひ」
 
 おもしろくなってきた。
 ふと脳裏にホンファの顔が浮かんで、なるほどと合点がいく。偶然同じ船に乗り合わせることがありえるだろうか。

 吟に追いついたのはフロア内五層、三階にあたるオープンテラスに併設されたプールエリアだった。
 さすがに逃げ疲れた彼女はプールサイドにある開いたパラソルの下、サマーベッドに腰を下ろした。隣のベッドに倣って座ると息を整える吟をしげしげと眺めた。

 「なんで、あなたがここにいるの」
 「そらこっちのセリフや。チョコついとるで」
 「………最悪だわ」

 口周りを指さして教えてやったのに悪態をつかれ、真島は呆れて肩を落とした。
 花の刺繍入りのハンカチで気恥ずかしそうにチョコレートソースを拭い、二人はぎこちない間をやり過ごした。
 しばらくして一言「………ホンファの、差し金ね?」といった吟はぶつぶつと文句を呟いた。真島は背を丸めて腿の上に頬杖をつき鼻先で笑った。

 「まぁな。……俺は仕事や。ホンファに頼まれたんやが……この感じやとそれもなんか嘘くさいの」
 「何を頼まれたの」
 「シンガポールで、打ち合わせ現場のダミーっちゅうところか……まぁ、あいつには借りがあるさかい手伝ったってもエエ思たんや」
 「ゲッヘントマン・ケルヒャーとの契約ね?」
 「ああ。それ向こうの表の名前やろ?」

 吟が神妙な顔つきでうなずき、風に巻き上げられる髪を押さえながら「契約自体は本当よ。……だから予定通り出席して。勘づかれると面倒なの」と言った。構えた姿勢のまま真島はもっとも触れたかった質問を口にする。彼女は意外そうな反応を示した。
 
 「わかった。……ほんで、なんで船におんの」
 「……私? あなた……。なんでもないわ。ちょっとした休暇よ」
 「……休暇、のう。それがカフェで大食いしとったのに繋がるわけかい」
 「…………蒸し返すならあなたとは喋らない」

 ふいっと顔を逸らし、吟は無視を決め込んだ。よほど見られたくなかった様だ。どちらにしても、真島はひとり喜んでいた。今この時、手を伸ばせば触れられる距離に吟がいる。それが何より嬉しかった。

 「わかった。わかったて。……せや、……カジノ行かへん?」

 適当な思いつきを持ち出すと、吟はあからさまな怪訝そうな顔つきをした。

 「嫌そうな顔せんでもエエやろ」
 「あなたが遊ぶなら付き添ってあげてもかまわない」
 「ひひ。……よっしゃ、そうと決まれば。行こうやないの」

 膝を打ち立ち上がると、吟の手を引いた。彼女はいつだって腕の中にすっぽりと収まるほど華奢で、その時もそうで一〇年の月日の垣根を一瞬で飛び越えても何も変わっていなかった。カジノエリアに入る途中ぶつくさと、悔みごとを口にした。カフェでまだ食べかけの残りを気にかけてのことだった。真島が話題にしては二度と口を聞かないと宣言しておいて、自ら持ち出すので思わず指摘した。

 「……もったいないことしたわ」
 「もったいない? ああ……あのデザートかい。……自分で蒸し返しとるで」
 「自分からのは勘定の内に入らないもの」
 「都合よすぎやろ………、なんも言うてへんで?」

 鋭い視線がチクチクと頬を突き刺す感触を覚えながら、真島はこみ上げる笑いを噛み殺した。
 カジノで遊ぶなんてのは、ほとんど口実そのものだった。吟と一緒にいるための動機づけでしかなく、ギャンブルの結果としては散々で見事惨敗。呆れてため息をつきたくなるくらいひどい有様に、吟はおもしろそうに煽った。

 「……負けたわ。はー……負けたわ。なんやねん、そない睨むなや!」
 「意外と弱いのね。あれだけ息巻いていたんだから強いのかと、てっきり」
 「あーうっさいわボケ……んなら、ジブンやってみい」

 自信たっぷりの余裕加減に惨めさと腹立たしさの両方に駆られて、吟に同じ轍を踏ませようと吹っかけたが、「……いいけど、勝つわよ」と言いさらなる余裕綽々といった態度をみせた。

 「あ? エラい自信あるやないか」

 真島は喧嘩が好きなように、当然勝負事の勝敗にこだわる。
 負けるなんてものは、気の収まりがよくない。吟の生意気な態度も気に食わなかった。
 真島がボロ負けしたブラックジャック、ルーレット、どれも彼女は勝利にありついた。すべての展開を読んでいるのか、結果が彼女のために揃うのか。そのおかげか損を取り返し、手持ちを肥やすこととなり勝っているのに気分は悔しさ満点の同伴者に向かって、彼女はまた得意げな顔を見せつけた。

 「ね?」
 「……腹立つわその顔。やめろや。……なんか必勝法あるんか?」

 薄らと、やはりカフェの暴飲暴食を覗き見られたことを根に持っている。そんな気がするのもそこそこに、必勝法とやらがあるならご教授願おう。下心と好奇心の返答はとても単純なものだった。

 「……数列の法則よ。傾向を読むの」
 「傾向?」
 「黒と赤、どっちのほうが出てる」
 「んなもん細かいの覚えとるわけないやろ」
 「それじゃあ、どっちが多いと思う? あなたは負け続けてる。反対の色がわかるでしょう」

 賭場の現場で指南などご法度のような気がしたが、彼女のかすかな吐息に耳を傾ける。
 ルーレットの賭けなどほぼ運も同然、と決めつけていたところに現実的な方法を告げられてどうしたものかと内心たじろいでいる。黒と赤、数字と賭けるものは比較的少ないが一筋縄ではいかない。それまで真島はずっと黒で黒星が続きだった。ごくたまに掠めることはあっても、上手く結果が符号しない。
 
 「………赤や」
 「赤ね。そしてそれはかなりの確率で続いている。けど、すでにあなたは一八回負けて、その間に勝った黒は六回。まず単数を狙わず色で狙ったほうが安牌よ。黒に賭け続けて。きっといずれ当たる。それから次に、数字の偏りを読み解く」
 「なーんか、地味やのぅ。ドカンと一発あてて、一攫千金すんのが夢やろが」
 「勝ち続けるということは、常に勝負し続けるということ。総数に対し勝ち、少しずつ利益をあげていく」
 
 ひくりと口端が持ち上がった。吟のいうことは至極真っ当といえたが理想的な理論だ。当たり前のことで講釈を垂れ、どこか小馬鹿にされている気がするのだから鼻持ちならない。
 
 「ほう。そない言うんやったら、手本見せろや」
 「いいけど、勝つわよ」
 「せやからやめろや、その顔腹立つねん」
 「”やれ”とか”やめろ”とか、どっちなのよ……あなたと同じ、黒に賭けるわ」

 真島はどうか、一度でも赤が出て吟が負けるようにこっそり祈った。
 結果は虚しく。

 「……勝った」
 「………」
 「まだするの?」
 「あぁ、いや……って、なんでゼロに賭けるねん」

 吟はそこで不思議な挙動をみせた。誰も賭けないゼロに一人賭けた。それは妙な違和感を与え、やはり必然的に彼女は勝った。

 「……ね、勝ったでしょう」

 不敵に笑って、吟は勝負を締めくくった。
 夜の風にあたり海の真ん中に浮かぶ船の上で遠くの闇を眺める吟に、やはり腑に落ちないと問うた。

 「なんで勝ったん」
 「あなたがつまらなさそうにしているから」
 「いや、そういうことじゃのうなしに……あ、なぁもしかして……イカサマしてへん?」
 「イカサマじゃないわよ」
 「ホンマかぁ?」

 二人は柵にもたれ、それぞれ違う場所を見詰めていたが、ふと視線が交わった。
 茶化すように疑いを投げかけると、吟は肩をすくめて種明かしした。

 「ゼロと二つのゼロはディーラーの領域なの。誰もゼロに賭けていないと、全員の賭けを回収できる。つまり、客側が全員損をする。必然的にディーラーは”誰も、ゼロに置いていない時”のみ勝つのだから合法よ」
 「ジブン、ゼロに賭けて勝っとるやないか」

 吟はくすくすと肩を震わせるほど笑う。

 「当然よ。……だって、私はこの船のオーナーだもの」
 「……やられたわ」

 真島は虚空に向かい言い放った。降参だった。

 ディーラーにとって一番勝ちやすい”ゼロ”に賭け勝った。勝たなくてはならなかった。また、ディーラーもオーナーがカジノで遊び、客の損失機会を阻むわけにはいかない。勝たせなくてはならなかった。両者の利害の一致が必然的な勝利を生み出した。

 つまり、彼女は彼女自身がオーナーであるために、プレーヤーに回ったのを早々に切り上げたかった。というのが吟の真の目的だろう。
 同時に、当初からみせていた絶対的勝利の予感も裏付けられて、思わずため息をついた。

 「……っちゅーことは、あれか。カフェの飯もそうなんか? あれメニュー表にないやつばっかやん」
 「………………」
 「しもた。蒸し返したら口利かへん言うとったな」

 
 吟との十年ぶりの再会はそのようにして幕を開けた。



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