また、愛してしまう





 夜には台湾につく船内放送のこだまする昼下がり。
 もっともグレードの高いフロアの角の部屋の前で、縋るように拝む男の情けない姿があった。

 「なあ、なあて。なあ、ええやろ?」
 「……食事はもうけっこうなのよ……」
 「んなもん知っとる。ちゃうねん、付いてきてくれるだけでエエさかい、頼むわホンマ」

 扉をわずかに開け、崩れた寝巻き姿で応対する吟は何度目かのため息をふうとついた。三度の呼び鈴の末、開口一番辛辣な罵りとともに機嫌を損ねた女王陛下はちらちらと廊下をちらちらと見遣った。人出は皆無だが、目立ちたくないと小声で文句を言った。

 「私はあなたの母親じゃないのよ」
 「別にトイレ行けへん言うてるワケとちゃうやろが」

 これは長引きそうだと判断した吟によって腕を掴まれ部屋へ引き入れられ、二の腕を小突かれ呻いた。
 広い一等室の室内はカーテンで閉め切られ、ほんのり甘い匂いに満たされている。大きなベッドが二台。鏡台とクローゼット、バルコニーにつながる窓、大きなテレビ、花瓶に活けられた花。淑やかな部屋が十年前の殺風景な部屋を想起させ、年月の積み重ねを感じられずにはいられなかった。

 「どうして私が、あなたの食事のために付き添って、飲まず食わず見ていなくちゃいけないの」
 「あー? 食いたいんか? 食いたきゃ食ったらエエやろ」

 現実に引き戻り、不満げに眉間にシワを作る吟を見下ろしてどうにか説得に成功しなければ、レストランでの食事は叶わないと奮い立たせた。
 同伴者がドレスコードと同じくらい必要なマナーであるなら、同じくらい苦労がつき纏っていても不思議ではないが、そこはやはり船のオーナーであるから例の裏技で難を逃れているのだろう。

  鏡台の前に座って髪を梳かしはじめた吟に真島は期待を膨らませた。身支度に取り掛かったからである。

 「嫌よ。……気が滅入るの。……目敏いゲストにはわかるもの。休暇中に社交辞令を相手するの面倒でしょ。……なにより、あなたと一緒にいると変な噂が広まるのも避けたいのが本音よ」
 「俺には、社交辞令使わへんの?」
 「……使って欲しいの? 永久的に無視することになってもかまわないなら、するわ」
 「イヤじゃ」

 不貞腐れた子供のようなぶっきらぼうな物言いをかわし、そっと彼女の背後に寄って鏡越しに睨んだ。

 「それなら他に一人になってる女性を誘ったら? 意外といるわ。休憩中のクルーも紛れてるんだし………じっと見つめないで」
 「俺は一緒に飯食いたいんやって」 
 「口説いてるつもり?」
 
 ニヒル混じりに笑ってやると、彼女の眉間のシワが一つ減った。

 一番人気の少ないレストランの端の席にありついた真島は満足のいく朝食を兼ねた昼食を摂った。食感のいいバゲットにシュリンプと白身魚のソテー、えんどう豆のソースつき。プルーンのヨーグルトには蜂蜜がたっぷりかかっている。
 向かいの席でオレンジジュースを手前に、退屈そうに海を眺めている吟は、映画の一幕に登場するメランコリーな女優のような貫禄がある。ボーイが気を利かせて、軽く摘めるものをお持ちしましょうかと尋ねられれば、人が変わったように愛想のよい慎ましさを取り戻すのだから、実際女優なのだ。

 
 食事を終え、のどかな太平洋を泳ぐ船と輝く海の上を、ゆっくり行くあてのないままに歩く。規則正しい風をうけて、膝下の丈のワンピースがパタパタと音をたてて凪いだ。騒がしい子供のはしゃぎ声さえも介さず、上機嫌な他の乗客の挨拶も曖昧に合わせて、真っ白な肌のうえをカモメの黄色い影が踊る。なにを考えているのかわからないところは、まるっきり変わっていないようだった。

 軽快な音楽に意識を遮られ、興味をそそられた真島は吟の手首を掴んだ。
 驚きを隠せず身を縺れさせながら、にぎやかな演奏と踊り合う男女の狂騒の中に雪崩れ込むと「ちょっと」と叫んだ。

 船の揺れとぐるぐると旋回する動きに、ぎこちなく芯の通わないヘンテコな人形のようにぐちゃぐちゃと一息遅れて動く彼女はどこか滑稽だった。
 それには自覚を有しているのか、すっかり熟れた果実のように顔を赤く染め上げ、屈辱と言わんばかりに真島を睨んでいる。
 
 「ダンス踊ったことないんか?」
 「あるように思えるの? 人前で踊りたくな……きゃ!」

 低いヒールをカタカタと鳴らしたかとおもえば、激痛が足の甲に走る。それには反射的に声を荒げずにはいられない。
 
 「なんで踏んだヤツが悲鳴あげんねん。きゃあ、ちゃうわ。イッタ! アホ! こんの、わざとやろ!」
 「だから言ったじゃない……!」

 一度となく二度までも繰り返す様態に、外野はおもしろおかしく二人を囃し立てた。
 昨日とおなじプールサイドのサマーベッドで、体を休める吟に冷たいジャスミン茶を手渡すと、好奇心の応酬である愚痴を浴びせかけられた。

 「……ええ運動になったやろ」

 苦し紛れの前向きな励ましは火種となり、また二、三続いた。

 「シャワー浴びないといけなくなったでしょ……」
 「そら悪かったのぅ。ついでに着替えたらどうや」
 「……部屋に戻るのも、化粧を落とすのも、シャワーを浴びるのも面倒だわ」
 「ふうん」
 「……夕食がレストランじゃないのならそうしたわ」
 「結局俺のせいやんけ」

 そりゃそうだ、と目がものを言っている。
 「ヒヒ……」と笑うと、隣のベッドに寝そべった。吟は終始無言を貫き、機嫌を直すには時間がたっぷりかかった。本当はくだらない会話を望んでいたが、真島はやはり彼女がすぐ隣にいることに感動して沈黙を苦にしなかった。

 昼寝をしに諦めて部屋に戻った吟を送り、一人きりの余白に晒されるとどこか退屈だった。
 非日常と狂乱を愛する真島には頭を掻き毟りたくなるような無為無聊で、たとえそれがシアターやフィットネスやカジノに再訪してみても変わらず、果てに吟を迎えに行く時間を気にかけている。まったく笑ってしまうほどの体たらくだ。



 「吟、おい起きてんのかい」

 一九時。吟と夕食に出かけるために約束した時刻。
 昼に来た時と変わらず呼び鈴を三度鳴らし呼び掛けると、胡乱な目つきの彼女に出迎えられた。

 「もう、いいかげん……静かにして……私がこの部屋だってわかるじゃない」
 「すまんすまん」

 ほとんど悪びれなく謝る真島を部屋に入れ、化粧に戻った。花模様が刺繍され落ち着いたグリーンのAラインのイブニングドレスは滑らかな光沢を放ち、吟のもつ静謐な雰囲気によく似合っている。カウチに腰掛けて待ちぼうけている真島に声がかかった。

 「ねえ、手伝って」
 「あん?」
 「イヤリング、落としたの」
 「お前な、片目しかないヤツに頼むもんちゃうやろ。……しゃーないの、……お、ほれ。あったで」

 落としたイヤリングを拾えと仰せだ。
 今しがた耳につけようとしていた小粒のモザイクスタイルのような組み合わせの、青と緑と紫、そして白銀のダイヤモンドをあしらったものだ。
 床に這い、鏡台の下の隅で絨毯から生える毛に隠れるようにして光る宝飾を摘み上げると、ちょうどもう片方を取付けるために首を傾ける吟と視線が交わった。柔和に目尻を下げ、にゅっと口角を優しげに持ち上げる微笑はモナリザを連想させる。

 「なぁんや、ご機嫌さんやの」
 「笑顔の練習よ」
 「愛想笑いの練習しとんのかいな。……ほれ」
 「どうもありがとう」

 それが愛想だときいて少しばかり残念な気持ちになった。それだけ、綺麗だったからである。 
 レストランまで向かう道は、昨日から今日の昼間まで一緒だというのに丸っきり違った。好奇に満ちた視線をはっきりと感じた。それはやはり、真島自身が目立つというよりも、彼女が特別であること、またそれを知る人間の多さを実感したのだ。

 華麗なシャンデリアの陽光の下で、彼女の声色は別人のように穏やかだった。そこには、成すことすべてに苦言を呈する女でも、物憂げに浸る女でもなく、機嫌のいい優婉な女がいる。

 「誘ったからにはエスコートしてね」
 「おう、任しとけ」

 満足げに微笑む吟の手をとり、金色の回廊のような螺旋の階段を下る。
 その夜の主役は間違いなく彼女で、さながら真島は傅く従僕か、守護を命じられた騎士だった。

 
 夜会と称しても憚れることのない夕食。吟は、王吟の仮面を纏い完璧な女を演じた。
 にこやかなムード。誰もが機会を狙って彼女に話しかけた。

 ―――どうもMs.王。プライベート中に失礼します。簡単なご挨拶をと思いまして。
 ―――どうも、Mr.カスバート。よい休暇を。楽しんでくださいね。

 適切な挨拶。品行方正なテーブルマナー。味のしない晩餐に真島はふと後悔が過った。すこしばかりの想像力があれば、カフェで好き勝手に飲み食いする理由など簡単に思いついただろうに。彼女の意を押し切る形で社交場に引きずり出した反省と、この後外の空気を吸いに出る提案しようと決めて、彼女のテーブルマナーを盗み見しながら一口大のヒレ肉のステーキを頬張った。



 クイーンズ号が台北の頭頂、基隆港に接岸するとにわかに船内がにぎやかになった。
 展望デッキに吟を連れ出し、船から陸を見下ろすと煌々と港を照らす灯りと他の船舶と建物が目に入った。低い山が黒く控え、すっきりとした紺色の空には半月がよく見える。
 
 「基隆やで。暗うて、山があるのがせいぜいやの」
 「明日の夜に出港よ。遊びたいならお好きにどうぞ」

 吟は手摺に両手をのせて、ぼんやりと街並みを見詰めている。停泊中なら外泊も可能だ。遊ぶもよし船に残るもよし、勧めどおりに夜の台北に行くのも考えたが、そこへ行って特別なひらめきは何も起きなかった。食事も今しがた済んだところで、観光といえど夜だ。夜景はこの今ある景色でも十分だと思えた。

 「……ええわ。一人で行ったかてつまらん。……あとでシアター行かへんか?」
 「今日の上映作品は退屈。というより、あなた英語だけで映画観られるの? きっと飽きるわ」
 「おぉ、そうか。……つまらんの。……せや、ゲームラウンジあるやろ?」

 とにかく吟と一緒にいる口実を見つけたかった。
 もっとも彼女は一人でいるほうが気楽なのは当然で、なにかと理由をつけて付き合わせている自覚はある。もう何度目か数えるのも放棄するほど、呆れた声で真島をたしなめた。

 「………はぁ。あなたって、なんというか……じっとしていられないのね」

 それは子ども扱いする母親の言い草だったが、悪い気はしない。
 不貞腐れたようにぶつくさ小言を漏らしてやると、彼女は振り切るようにデッキの隅にあったテーブル付きの椅子に腰掛けた。

 「逆にじっとしてる方がおかしいやろ。息苦しゅうなるわ。……そういや、部屋におる時はなにしてんねん」
 「なにって、映画観てるのよ」
 「シアターじゃなしに?」
 「部屋にビデオデッキが入ってるから、それを流してる。気兼ねなく観られるし、好きなときに寝られるし楽しいの」
 「ぐうたら生活やないか。……そないな生活しとって飯ドカ食いはないなってんねん」
 「食事はまとめて摂ってるの」
 「はぁ? ……おま、アレか。寝て起きて映画見て、外出るのも億劫なって、ほんでたまに飯食いに出るんやろ」
 「ご明察」
 「めちゃくちゃぐうたら生活しとる……、クジラかっちゅーねん」

 無精で退廃的な生活にありながらスマートなドレスを着こなしているのだから感心する。
 あれは数日分の食事だった。そうとしても、人間は食べ物を体内に保存しておくことは不可能だ。もし真島がその生活をしろと言われても二日目でギブアップする。映画しか観ない生活など、あり得ない。そのうち何かやることを探して、やっぱり外に出ていくだろう。

 「たまには外出ようや」
 「そのたまにがたまたま昨日だったの」
 「そ、そうか。……いや待てや。それやと明日から俺はまたあのカフェで一人寂しく飯食わなアカンのか?」
 「……寂しいなら、誰か別の人に声かければいいじゃないの」

 「今のあなたなら、話題性十分で相手もすぐ見つかるわ」と吟がぶっきらぼうに言い放った。対して、人を口説くのは容易なのは間違いないが、やる気が全くといっていいほど起こらないのである。否定すると、彼女は面白いものを見たと目を丸めた。

 「それが出来たら苦労せんわ」
 「どうして」
 「どうして、ってなぁ。だいたい、ここの船に乗っとるヤツ連れ同士か家族連れやないか。英語でナンパとかしたことあらへん」
 「ふふ……なに、そんなこと。意外だわ」
 「その顔やめえ。腹立つねん」

 ニタニタと心地の悪い笑みを浮かべるのを一蹴し、気に留めることなく吟は上空に首を傾けた。

 「月が出てるわ」
 「綺麗やのぉ」
 「泳いだら?」
 「嫌じゃボケ」

 軽口を叩き笑いあい、いつの間にかまた止まり木に羽を休める鳥のように落ち着く。

 天然のスポットライトを浴びた吟は綺麗だった。
 サラサラと揺れる髪は細く光り、それ自体が宝石のような輝きに見惚れごまかすように咳払いをした。

 「……元気そうでよかったわ」
 「そう」

 騒々しい波が一気に静けさを取り戻した。その時ようやく再会の折にふさわしい言葉が口をついて出た。

 「雑誌で見たわ。……ほれ、あの……なんや、大学行ったんか? イギリスの。あれ流石に嘘やろと思ったんやけどな」
 「本当よ。……大学に通うくらいは簡単でしょ。特別なタイトルは持ってないわ」
 「簡単て、簡単に言うもんちゃうやろ」

 裏口入学が思い浮かんだが、吟は聡明な女であるし実力で入学したのだろう。

 「……あなたは、結婚したって聞いたわ」
 「あぁ、せやな。いうて、だいぶ前の話や」
 「別れたの?」
 「聞いとらへんの、ホンファから」
 「……そうね」
 「まぁ、せやな。短いで、ホンマ。一年持ったか、持たんかったかっちゅうとこやな」

 彼女の反応は煙のように緩慢で曖昧に漂った。
 良くも悪くもなくなだらかで、茶化すことも責めることもない。

 「そう」

 悲しげに笑い、手摺越しに海面に視線を投げやった。
 不思議な魅力を湛えた眼差しが海の向こうを見据えている。実際には海なんかみていなくて、遠い未来を想像しているのかもしれない――漠然とそう感じた。今になって、十年前の彼女の散歩の意味が少しわかった。川面を見つめて、憂う表情をしていたのは、今この瞬間を生きていない時間だった。

 そして真島は心の縁から滲み出す欲求に気づいた。
 独り占めしたい。
 自分に眼差しが欲しい、と。遠くを眺め、哀しい思いをするくらいなら自分がこの瞬間を盛り上げてやれば良い。―――それが、十年前の地続きに行った先にある答えだった。

 愚かにも残ったのは、本物の好意で、どれほど遠回りに生きてきたかを知るだけだった。
 けっきょく、また愛してしまう。

 「……明日も迎えにいくわ」
 「諦めないのね」
 「飯食って、すぐ部屋戻ったらええやろ」
 「……部屋の前で叫ばないでね」
 「おう」
 
 かんたんな約束を結びあい、浮世離れた女の手の甲にそっと触れた。

 小さな情動。波形にはまだのらない前の、羽のふっと舞う息遣いのほんのはじめの柔い熱。
 ようやく形あるものに触れられそうだというとき、気づく。吟の繊細な蜘蛛の巣の糸よりもか細く張り巡らされた繭の塊を剥ぐには、真島は盲目すぎたのだと。

  



 

  ◆ ◆ ◆






 何度か目が覚めた。
 花柄模様のよくわからない天井を見たのは二度ばかりではない。環境が変わろうが、枕が変わろうがどこだって寝られるのが長所だと信じてきた。
 しかし、睡眠を妨害するものが一つ。船の揺れでも、エンジンの音でもいびきの煩さでもない。

 「ちっ……まだ、終わってへんのかい!」

 昨夜部屋に戻り、入浴を済ませたあとすぐに床についたはいいが、右隣の部屋から女の悲鳴に似た嬌声が聞こえるようになった。先に吟からVHS再生が可能のビデオデッキの話をされたのを思い出して、ホラー映画の類でも見ているものだと納得したが違っていたのだ。

 一旦、冷静になって眠りにつこうと努力したが、次第にそれがヒートアップする声に寝付けなくなった。

 「……お、止んだか。………はぁ、エエ加減にしろや。どないなってんねん! 長すぎやろ?」

 どうやらそれが熱い夜の一幕であるらしいと察したのは、時計の短い針が十一から一を指す頃になっても続いていたからである。
 途中から女が神に祈りはじめ、一々呼び出されては神も呆れてるに違いないと無粋なことを考えた。
 よって、一睡もできず朝日が昇り色の悪い顔のまま約束を果たすべく、吟のもとへ訪れた。例によってまじめな彼女は定型文のような心配を差し向けた。
 
 「……おはよう、どうしたの、クマがひどいわ」
 「おはよーさん。……ふぁぁ……ねむ。飯行こうや」

 本日の吟のお召し物は白い襟付きの楚々としたシャツワンピースで、裾から覗くひじやスネの白さが輝いている。一方の真島は刺青を見せびらかすわけにもいかず、肌着の上に無難にも長袖のシャツに黒のスラックス姿である。吟のためにひと目のつかない早めの時間帯に行こうという算段だった。

 朝食会場の一つである魚介料理を売りにするレストランに入ると、一組の男女が機嫌よく挨拶を投げかけてきた。

 「グッモーニン!」

 男の方はスキンヘッド。女の方は金髪で後頭部に一纏めにしたアクティブな雰囲気で、どちらもTシャツにハーフパンツと短パンといったラフな格好をしていて真島と吟の二人とは対照的だった。明朗な雰囲気にひくりと顔が引き攣り渋い反応を示したのを吟は見逃さず指摘した。 

 「Good morning…………なに、あの人たちがなにかした?」
 「あの夫婦おるやろ、……隣の部屋で夜通しパーティしとってな。……ふぁぁ……それでよう眠れんかった」
 「……朝食はやめにして、寝たら? お昼に食べればいいじゃない。明日はシンガポールでしょう」

 部屋を出る時、実は先に部屋を出ていくのを扉の隙間から見ていた。何をするのにも騒がしいアベックで、どんな奴だろうかと知りたくなった。朝食のために開放するレストランは他にもあるのに、わざわざ被るのは想定外だ。今更引き返すのも億劫になり、真島は隅にあるテーブルに目を遣った。

 「部屋戻るのもメンドイわ」
 「……余ってるベッド貸すから休んで」
 「ひひ、そう言うといて自分も寝たいんやろ?」
 「半分正解だけど、そんな顔を見ながら食事したって美味しくないもの」
 「悪かったの、飯不味ぅさせて」


 焼きたてのロールパンにカリカリのベーコン、半熟のトロッとしたスクランブルエッグに新鮮な野菜を使ったサラダ。しっかりした朝食は機嫌を慰めた。吟はボウル型のガラス皿に盛られた、色彩豊かなフルーツポンチをスプーンでつついている。その量で足りるのか気になったが、黙々と食べ進める姿がなにか重要な儀式のように思えて水を差すのを控えた。

 物静かなレストランには時折、あの夫婦の笑い声と食器の音、行ったり来たりするクルーの気配がある。

 「……部屋戻るんか」
 「そうしていいと言ったのはあなたの方でしょ」
 「ん、まぁ。せやけど、着替えとるやないか」
 「……寝巻きで船をうろつけって言うの?」
 「ひひひ……」

 「なにも可笑しくなんてないわ」といい、甘いシロップを舐めて鋭い目配せをした。

 「あとで、花を買うわ」
 「花? 売っとるんか?」
 「花売りがいるのよ。港に」

 その言葉で一度陸地に降りる示唆がなされ、真島はほっとした。港にいけばもう少し楽しめるものがあるに違いない。その提案にのった。
 レストランをあとにして、吟の言ったように一度下船した。基隆港には賑やかな朝市があり、観光客相手の店もたくさんあった。港湾都市とだけあって、売り手側も船から下りてくるところをしっかり見ているので押し売りに走ってくる子供もいる。

 吟は屋台に用はなく、その端にある隅にたむろする花が盛られた籠を手にする子供に声をかけた。やり取りは自然で、まるでこの場所に来るとそうする馴染みの関係のように思えたが「知らない子よ」と言った。鮮やかな基隆の港において子供はくすんだ影のようにどこかぼんやりとした陰影を与える。彼女は一籠すら簡単に買えるはずなのに、少しの量を買った。

 そうする意味を尋ねるまえに、吟の周りにはちらほらと吸い寄せられるように子供があちらこちらから集ってくる。それはまるで、雑誌の中でみた写真の景色だった。

 「難儀やの。いつもそないな事してるんかいな」
 「……無駄なことだと思う?」
 「いや、そうは思わんが」

 吟の傍にいるから買ってくれるだろうと、切実な眼差しで見上げる少女に目線を合わせて真島は謝った。

 「すまんのう、台湾ドルの持ち合わせないんや。換金できるんやったら買うたるが」
 
 少女は黒目がちな目でじっと見据えていじらしく、花籠を一つ差し出した。頭を掻きながらどうしたものかと惑い、財布から万札を取り出し握らせてやる。すると少女の表情が一気に花が咲いたように輝き、懐に隠し込み飛び跳ねるように頭を下げると軽やかな足取りで路地裏に消えていった。

 一方で公平に一束ずつ花を買った吟は「はやく戻りましょう」と合図した。
 子供に金払いの良いのを知った大人が、子供に指図して差し向けるようになるからである。


 「全部買ったの?」
 「ああ。……その顔はアレや。ええカモになったとか言いたいんやろ」
 「かわいそうだと思っただけよ。あの子が」
 「なんでやねん! 買うたったんやしエエやろ……」

 吟はうっすらと微笑を浮かべ、船へ戻った。
 再び港を見下ろすと、花を売っていた子供たちが手を振っているのをみて、振り返した。

 「……あの子達にとって、今日はラッキーデイになるの。……親に稼いだ分をあげる子もいるでしょうし、自分に使う子も、兄弟がいればその世話に使う。……でも、暴力を受けている子はそのお金を巻き上げられる。理不尽に奪われて、かなしくなる。そして私の顔を思い出して恨むでしょうね。……”あの女はどうしてたくさんある花を一束しか買ってくれなかったんだろう”ってね」

 真島はまさか、と肩をすくめた。どの子供も顔色が明るい。

 「そして、運悪く私に買ってもらえなかった子は、買ってもらった子を羨むでしょうね。花を買ってもらえた子が、そのお金で新しい文房具や靴を買ったら、”どうして自分は買ってもらえなかったんだろう”……って恨むわ」

 毒気のある推測に背筋が寒くなるが、それは主観による悲観的な考えでしかない。

 「考え過ぎや。……それ、部屋に飾るんか?」
 「見たでしょう、あの青い花瓶。あそこに生けるの。そうすれば、しばらくはあの子達を忘れないでいられるでしょ」
 「……全部買うたったら良かったやんけ」
 「たくさん売れると、次の日、明後日の花が売れなかったとき悲しい思いをするでしょ」
 「そないなもん関係あらへん。売りモン全部金になったほうが嬉しいやろ。花が売れ残ったほうが辛いっちゅうねん」

 ―――花あっても腹は膨れんしのう。

 自然とまろび出た言葉にしまったと気づいた頃には遅かった。吟は困った顔つきになるだけで、矛盾を指摘することはしなかった。
 買ってやれば、売り手の娘が笑い、次に吟が笑ってくれるような気がした。

 祝い事や義理ごとが絡むと贈呈用の花を買うことがあるが、社会の慣習の一つであり特に深い意味を感じたことはなかった。花を買い、渡す相手に贈れば喜んでもらえるような単純な図式に、吟は花を売る側の事情を考える。売り手は花の利益に人一倍敏感なのだから、売れたほうが幸せに決まっている。だからそんな考え方は、はじめてだった。

 「その花は部屋に飾っておくだけにしたほうがいいわ。明日シンガポールで降りるでしょう。その土地の土壌を汚染しないように。だから、いま着てる服もクリーニングしたほうがいいわ」
 「んなことしとったらいちいちシャワー浴びなアカンやないか」
 「そういうことよ。私今から浴びるから」

 吟の部屋に戻ってくると、彼女はクローゼットから大きな瑠璃色の花瓶を持ってきた。買ったばかりの花を色ごとにわけて、花瓶を洗面所で洗い水を溜め込むと器の中の小さな花の王国をつくりあげていく。真島は椅子に座り黙って眺めていた。やがて一段落ついた頃、「あなたはどうするの?」と尋ねられる。花を買ったはいいが、飾る器が部屋にはない。あってもせいぜい底の浅い灰皿だけだ。

 「花瓶ないねん」
 「向こう見ずね」
 「ああ悪いの。せやから、余っとったら貸してくれへんか」

 一瞬手を止めて、吟は考え、またクローゼットから花瓶を出した。古い年代の骨董品と呼べるような花瓶で、つるりとした青磁の深い壺のような代物だ。それを丁寧に洗い水を張ると真島の前へ置いた。

 「きれいね」
 「………」
 「褒めてあげると、花はきれいに咲くの。水を一日に一回あげて、やさしく面倒を見る。そうすると長持ちするのよ。……人も同じ」
 「そういうもんかいの」
 「そうよ。……花も、人も、同じなの」

 ふと視線が交わると、懐かしい眼差しだった。はるか遠い最初の記憶を呼び醒ます感覚に、すこしの恐怖に慄いた。かつて、真島も彼女の花の一人だったのだ。一本の通じる線が彼女との鎖のような絆で、そのようなしがらみを嫌っているくせに、毒薬まがいの愛によって惹きつけられる。

 「きれいね」

 もう一度、きれいな唇が言葉を象る。流暢な母国語はちっとも年月の衰えを感じさせない。催眠術のような響きが波紋を打った。
 その日の残りはただひたすら眠った。約束通りに彼女はもう一台あるベッドを真島に貸して、休息を保障した。眠る間、彼女はひたすらブラウン管テレビの前でレンタルした映画を貪るように観賞していた。不思議な時間だった。

 真島の経験の中、もっとも思い出せる内において、ベッドに横たわりもう片方の女がテレビに向き合っているのはラブホテルでの景色だ。かつての恋人関係で、そういったことはあったかもしれない。吟とは、性愛を第一前提に置くような甘やかなムードとは程遠い。警戒心は薄いが、男女というよりも人間同士といったほうがいい。お世辞にも身ぎれいとは言い難く、女にそのつもりがあれば手を出すことは容易だ。しかし、彼女を前にするとその欲求を塞がれたようになだらかになる。

 もし、それをしてしまったら永久に離れていってしまう恐怖がつき纏っていたからだ。


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