Devil's Whispering Night.



 翌日の二〇日の夕方、船はシンガポール・クルーズセンターに寄港した。
 そびえ立つ高いビル。道路を縦横無尽に走る車にバイクに二階建てバス。経済発展めまぐるしい都市と常夏の気候はすぐさま汗を滴らせた。観光客のカジュアルな装いのなかでは、スーツ姿はよく目立った。ホテルに入ればクイーンズ号の内部と同じように冷蔵庫並みに冷え込んでいることだろうと思い直してタイを締めた。




 「……なぁ、仕事終わったら遊びに行かへんか」

 朝食の席で猪腸粉、ジューチョンファンといった名前のつく米粉の生地の中身のない餃子をタレにつけて、低血圧のままもそもそと食べている女に呼び掛けた。一日に四本映画を消費する彼女の顔色は悪く、見かけのまま睡眠不足の様子を映している。ロールパンをかじる真島を面倒くさそうに一瞥すると、「シンガポールで?」と断りの前兆であるニュアンスを付け加えた。

 「そら、まぁ、お前は船乗っとるし仕事で用があって行ってんのかもしれんが……」
 「ていの良い通訳ガイドが欲しいだけじゃなくって?」
 「ひひ。一理あるが普通に観光したいだけや」

 二割くらいは吟の言う通り。本音は彼女と一緒に過ごしたいだけだ。吟はふん、と小さく頷くと一見納得したように振る舞った。

 「………その時間に運良く起きていたらね」
 「センターまで迎えに行くからな。待っといてや」

 そっけない態度に思えるが、吟が律儀に来ることはわかっている。
 律儀であるのは、こうして嫌そうにしていながら朝食に付き合ってくれるところだ。朝の五時まで欧米のみで上映された低クオリティの粗悪製を鑑賞し、「意外とおもしろかった」と評価をつけ、軽いシャワーを浴びたのち化粧と夏の装いを身につけ、六時半の真島の迎えを待つのである。
 
 「今日は眠れたの?」
 「今にも眠りこけそうなヤツが言う事ちゃうで。耳栓して寝たわ。あれはどないにもならへん……危な。水淹れたるさかいグラスこっち回せ」
 「……そのスクランブルエッグ美味しそうね」
 「ほしいなら自分で取ってこいや」

 真島の方にある皿に盛られたスクランブルエッグを物欲しそうにみて、”取ってこなければ約束を守らない”といっている。イニシアチブをさりげなく取って困らせるのは彼女の癖だった。

 「わかった。わーったて。絶対今日来いや。絶対やで?」

 吟は、人を思い通りに動かす才能に溢れた女である。

 肝心の取引は、拍子抜けと思えるほど一〇分と少しと短く終わった。仕込んでいた録音機と受け取った書類を、指定場所のロッカールームに置いておく条件をクリアすれば仕事はあっさり完了だ。


 シンガポール・クルーズセンターのカウンター前の待合室へ向かうと、黒のノースリーブのトップスに、スリットの入ったデニムのロングタイトスカートとトップスと同じ色のパンプス。至ってシンプルな服装でフリーペーパーを眺めて座っている吟がいた。
 
 「よお、早いやん」
 「それはこっちの台詞」

 朝に見た時より顔色は良い。ひとまず安心して、ジャケットを脱いだ。

 「あっついのぅ。上着預けてくるわ」

 荷物預かり場所のカウンターまで行こうとすれば、吟が立ち上がって雛鳥のようについて来る。

 「なんやねん」
 「……ここにいたってどうしようもないでしょ」

 頭ひとつと半分。見上げる彼女の瞼と頬にはさりげなくシャドウとチークがのっている。儀礼的とはいえ気づいたからには褒めてやらねばと「可愛ええカッコしとるやん」と発した瞬間、吟の顔はわかりやすくムスッと曇った。

 「なんやねん! 褒めたったのに睨むなや!」
 「あなたって軽薄なのね」
 「ど、どういうことやねん」
 「心にもないことを軽々しく褒める人なのだと思っただけ」
 「あぁ!? 嘘ちゃうし。嘘つかへんし。……どこ行くねん!」

 挑発的にいやらしく笑うと、真島からすっと離れて何処かへ行こうとする。
 純情を弄ばれたかのような衝撃と羞恥に襲われて声を張り上げると、カウンターの周辺の視線を浴びた。

 「………なに言ってるの、遊びに行くんでしょう」

 軽く舌打ちして、手早く上着を預け、センターの出入り口で待つ吟を追いかけた。
 シンガポールの街なかは、日本の街なかと同じような気配があった。同じアジア人が多く街を闊歩していることや治安の良さからくる安心感というものだろう。日本と決定的に違うのは、流れてくる言葉が中国語であること、開発が進み新旧の対比を際立たせる多国籍の風合いが色濃くあること、街なかにヤシの木が生えてることだろうか。

 
 「マーライオン見に行こうや」
 「定番ね」

 気を取り直して、かねてから行ってみたいと思っていた観光名所を挙げる。
 上半身は獅子の下は魚の白亜の像、マーライオンは複数あり、そのうちの一体がアンダーソン橋のかかるシンガポール川の川沿いにある。
 近くの個人売店に立ち寄り、使い切り式のインスタントカメラを買った。吟は不審がって「パパラッチに売りつけないでね」と釘を刺した。

 「信用ないのう」
 「同じ業界なんだから警戒して当然でしょう」
 「ヒッヒッヒッ……! たしかにな」

 街なかをぐるりと見渡した。彼女を遠くから尾けている影は見当たらない。とはいえ、王吟は社会的影響力を持つ首領の一人。私服警護人の一人や二人が紛れていても不思議ではない。吟に限ってもリスクを冒す性質ではない。たった今、真島が不埒にも手をあげればこの場で抹殺されるだろう。

 目的地である白い獅子と魚の像を前にして真島は気の抜けた声を出した。
 隣で吟は想像通りの反応だとくすぐったそうに笑っている。

 「ほー……、なんちゅーか、こないなもんか……」
 「褒めるべきは土台の高さね。がっかり観光名所だって言われてるわ」
 「もっとバーンってカンジを想像しとったわ。エジプトにあるやんか、ああいうやつ」
 「大スフィンクス像」
 「おお、それそれ」

 せっかく買ったインスタントカメラを手に持っているだけでは勿体ない。

 「まあエエわ。撮っとこ」

 ライトアップされたマーライオンにパシャリと一枚、二枚とシャッターを切る。
 魔が差して、カメラを吟のほうへ向けると「ちょっと」とやや怒気を孕んだ声で手をかざした。

 「食事はどうするの」
 「おすすめのモンは?」
 「……通訳は引き受けたつもりだったけど、観光ガイドになった覚えはないわ」
 「ひひひ!」
 「笑い事じゃないわ。……屋台が良いんじゃない。……船だと、肩のこる料理ばっかりでしょうから」
 「よっしゃ。行こ」

 吟の肩に手を回し連れ立って歩くと、なにか言いたげに真島の方を見上げたがそれだけだった。
 シャツのボタンを二つ外し、首を晒すと籠もった熱が風に馴染む。喜平のチェーンが軽快な音をたてて揺れ、ホーカー・センターへと足を伸ばす。

 ローカルフードが食べられる屋台ストリートはまさに夕食時で人がごった返していた。日本でも多国籍料理が食べられるとはいえ主流ではない。馴染みのない香料と果実の蒸れた匂い、バラエティに富んだ色鮮やかなメニュー。人々の熱気に紛れて自然と気分は昂ぶった。

 原色に近い濃いピンクのドラゴンフルーツジュース。
 ライスのうえに鶏肉が盛られたチキンライス。焼き鳥の見た目をしたサテー。香辛料がよくきいた麺料理のラクサ。中に牛肉の詰まったお好み焼き、ムルタバ。紹興酒。肉料理ばかりを頼むので、吟は呆れ果てて刺し身の載ったサラダをテイクアウトした。

 「いっぱい注文して、食べ切れるの?」
 「あ? 食うやろ?」
 「私が? ……失礼ね」
 「冗談やって。残飯は任せろやい」

 ストリートの片隅にあるテーブル席は人は少ないが、喧しい演奏家たちの領土だった。
 がちゃがちゃと語りかけるように賑やかな演奏が始まり吟は落ち着かないと眉を顰めたが、真島にはこの雑多な雰囲気は好ましかった。
 
 


 腹一杯になったあと。そのまま船に帰るには物足りず、真島は散歩をしようと提案した。
 気付けに一杯酒を飲んだからか、明らか吟の口数は減った。ハンドバッグを代わりに持ち、川沿い、橋、歓楽街への道をぷらぷらと当て所もなく歩いたあと、疲れてきたであろう吟を気遣い、スタンディングバーに立ち寄ることにした。
 そのバーがあまりにも活気に満ちていたのでそっと手を引いて出ようと試みたが、吟は「お手洗いいってくる」といって真島からバッグを取り返すと暗い照明のなか人混みに溶けていった。
 
 その入れ違いでパッと照明が明るくなり、軽快なポップスのダンスミュージックのイントロがかかる。
 店の中はたちまち歓声のような奇声が渦巻き、もみくちゃに押し合っては客が両手をあげて踊りだす。人混みのなか押し出されるように、ステージの中央に流れ着くと金色のライトが頭上に煌めいた。気づけば、真島は周囲の視線を集めていた。

 誰かがピュウと指笛を吹き、英語で叫んだ。
 ワイン樽をドラムに見立ててリズムをとり、聴衆はクラップで拍子を刻む。自然と中央に群がるようにいた他の客が捌け、真島がダンサーとなっていた。一曲、二曲とこなし、バーの中の熱気は最高潮に到達する。

 ―――HOOO!!

 三曲目に差し掛かった頃、次のスターになりたそうな男が引き継いだ。真島はそっと引き下がり壁際に寄った。
 ちょうど喉が渇いたと思った頃だった。見知らぬ髪の長い女が声をかけてきた。彼女は「ナイスガイ」と真島を褒め称えた。軽く礼を言って、カウンターに足を向けようとしたとき、彼の腕にその女の手が絡んだ。

 女は白い歯を見せて笑った。タンクトップにホットパンツ。すらりと伸びた脚。そして、大音量のなか何かを口にしている。唇の動きを読もうとも英語ではさっぱり理解に追いつかない。すると、真島の手に指がするりと組み込まれ、女の薄い腹から胸へと触れさせた。思わず驚いて身を引いた。真島は瞬時に女の目的を察して「No」と言い放った。

 「悪いが間に合ってんねん」

 手を解いて距離をとると、女はまだ意味ありげな熱っぽい視線をくべた。
 逃げるようにカウンターまで来ると、ちょうど手洗いに行っていた吟と合流した。
  
 「ドリンク頼んだの」
 「まだや」
 「ダンスはもう踊ったの?」
 「ちょうど入れ違いやった」

 吟は流れるような早さでタイガービールを頼んだ。
 二人の前に提供されたジョッキは小麦色に輝いている。小気味よい音をたて。「乾杯」の音頭を切って一気に流し込んだ。

 「……あなた、お酒強いわね。あれだけ踊ったあとで、それは……どうかと思うわ」
 「なんや見とったんかい」
 「まあね」
 「踊るか?」
 「まさか。……柄じゃない。楽しみたければどうぞ。私はここで見てる。……なに、心配そうな顔して。勝手に帰ったりなんかしないわ」

 船の上で強制的にダンスに誘われたことを思い出してか、彼女は苦虫を噛み潰したような表情をした。
 バー内の空気がまた変わった。ムーディなスローテンポのBGM。パープルの照明が回りだし、客の何人かが真島の方を期待して笑いかけた。

 「スターね。……一番、輝いてたわ。みんながあなたに注目してた」
 「ひひひ」
 「……ふ、みんながスターの帰りを、おかわりを待ってるわよ」

 吟はスツールの上から茶化しながらそっと真島の肩を押しだした。彼女にそう言われて調子づくのは無理もない。真島は人の波をかき分けてステージの中央へと導かれていった。雑多に踊るのが趣向らしく、テイストはさまざまで思い思いの踊りを繰り出したかと思うと、入れ代わり立ち代わり、男女が手を取り合うフォークダンスが始まったりと自由である。

 二曲を終えて、ふと視線を上げるとカウンターにいるはずの吟の姿はなかった。
 勝手に帰ったりしないと言いながら、彼女はどこか気の向くままな信用ならぬ性質がある。きょろきょろと単眼を巡らせると、吟をみつけた。壁際に寄って入り口の扉のガラス向こうを眺めていた。それは退屈そうにも思索に耽っているようにも見えた。近寄ろうと一歩を踏み出した時、ふっと彼女は外へ出ていった。
 
 「吟!」

 吟は店先の街路樹の根本に屈んでいた。

 「驚かすなや」
 「外の風にあたりたくなったの」

 しばらく沈黙が続いた。
 居たたまれなくなったのは真島の方だった。

 「……別んとこ行くか?」
 「どうして。楽しいでしょう?」
 「俺はエエねん。お前が楽しめとらんやろ」
 「私なりに楽しんでるわよ」

 吟は悠然に微笑むと立ち上がって、綺麗に整備された道をパンプスの足音を響かせてあるき出した。
 二人はしばらくまばらに光る街灯を数えながら、明るい宵の麓にいた。真島は前を歩く女の細いうなじに魅入っていた。

 彼女に透明なベールが被さっていても、取り除くすべを持ち合わせていない。彼は洞察力はあるが、それも織り込み済みで吟のほうが賢いのを知っている。釈然としないなにかに触れたかった。

 「……なあ」
 「一周しちゃったわね」
 「あ? おう……」

 いつの間にか、もとの場所に戻ってきていた。賑やかなミュージックが相変わらず店の外まで漏れている。
 吟は真島の腕をひくと、扉をあけた。熱気の充満した世界と人に押し流されてつい彼女とはぐれてしまった。バーカウンターまで逃げてくれば、いずれまた合流できるだろうと肘をかけて待つこと五分、真島の袖を引いたのは見知らぬ女二人だった。

 「ノースピークイングリッシュ」

 先程のこともある、誤解を避けるために英語を話せない言い訳を突きつけた。
 女たちはすでに出来上がっているのか、きゃらきゃらと上機嫌に笑い、熱心に崩れた英語で真島を誘っている。よく見れば、店の中はどこもそんな雰囲気だった。男側が女をナンパしているのはもちろん、女側も熱心に今晩の予定を掘って誘っている。そんな中、一人だけテーブル席で新しいアルコールを嗜んでいる女がニヤついた顔をこちらに向けていた。

 「……あいつ。なに見とんねん助けろや」

 軽く毒づいて、真島は女二人を適当にあしらいテーブル席の椅子にドッカリと座った。

 「おうネエちゃん、楽しそうやないかぁ」
 「こんばんは、ナンパ師さん。もうショーはお開きだそうよ。残念ね。じき静かになるわ」
 「ショーはもうどうでもエエねん。何飲んでるん」
 「トロピカルカクテル」

 グラスの縁にはパインの切身と熟れたチェリー。中のアルコールは、瑞々しい濃いグレープフルーツのような色合いをしている。赤いストローでちゅっと音をたてて吸う吟をジロジロと眺めれば、彼女は「飲む?」と訊ねた。その顔は薄暗い店内でも照明でも浮き上がって見えるほど赤く染まっている。

 「ん、なァ……ちと飲み過ぎちゃうか」
 「…………たの?」
 「あぁ?」

 フィナーレを飾るらしい音楽のイントロに店中の客が湧いた。
 吟の言葉を覆い隠し、酔狂な大衆の熱気とともに店の照明がチカチカと黄、赤、青と明滅する。

 「……さっきの聞こえへんかったわ。なんやってん」
 「あなたを見てるわ」
 「は?」

 何を言っているのだと、吟をみれば彼女の目線は先程真島に粉をかけた女二人に向いていた。まだ粘っているらしく、真島が顔を向ければ手を振った。

 「行ってあげたら」
 「……いや、知らんし。つか、意味わかって言ってんのかい」
 「そのつもりよ」

 そっけなく言って、レンガ調の壁に頭をもたれ掛けている吟は意地悪く目配せした。
 真島はまるで裏切られたかのような心地だった。お互いが連れ合い同士のはずだが、からかいにしたって質が悪い。この女の悪意が神経を逆撫でする感覚に徐々に苛立ってくるのがわかった。

 「……お前、あいつらとグルなんか?」
 「どうしてそう思うの」
 「なんちゅうか……上手いこと言えんが。カンが言うてんのや」
 「じゃあ確証、ないじゃない」

 哀れというように彼女は柔らかく笑んだ。

 「たとえば、あの娘たちと、私がグルだとして、どうするの」
 「どう……?」
 「ね。なんにもないでしょう。メリットが見当たらないもの」
 「……わからんわ。お前の考えとることが」

 真島はため息と一緒に吐き捨てた。くすくすと笑ったかと思えば神妙な顔つきになり、諭すように情感たっぷりに言った。

 「せっかくのシンガポールの夜よ。……彼女たちは……タダで帰れないんだから。恵んであげるべきよ」
 「なんで俺やねん」

 頬付をついて一睨みしても、吟は慄くどころか瞳の輝きを増した。
 左手首のくるぶしをつつき、すっと腕の筋をなぞっては戯れ、毒を含んだ目つきで冷たい微笑を零した。

 「あなたが今日一番のスターで、お金持ちだからよ。日本人は評判いいの。アダルトビデオの見すぎでジャンクセックスなのは玉に瑕。でもお金はしっかり払うから、上客なの。………ねえほら、あの娘たちが期待してずっと待ってるわ」
 「お前……酔ってるやろ。……もう飲まさへんで」

 ペラペラとおかしいことを口走るのはアルコールが原因としか考えられまい。
 真島はしっかりと握られたグラスを力ずくで取り上げた。 

 「やだ。手を放して」
 「アカン。飲み過ぎじゃ」

 細い手がグラスを追い求めて伸びる。身を乗り出し立ち上がりかけた吟の顎を掴み、唇を重ね合わせると遠くで口笛がとんだ。

 「ん……」
 「行ったか……」

 無抵抗にされるがままの吟は確実に酔いが回っていた。
 女たちもこれを目にして出待ちでいるほど暇ではない。「Bay」と言い残し、店を出ていく後ろ姿を見送ると、吟が不機嫌にごねた。
 
 「何するのよ。……行っちゃったじゃない……、どうして……かわいそうよ」
 「エエ加減にしろや。じき、その辺の奴捕まえるやろ」
 「彼女たちは………遊びにきてるんじゃないの。出稼ぎにきてるのよ。マレーシアやフィリピンから……家族の生活がかかってる」

 力なく椅子に座り唇を尖らせた。

 「そら可哀想やけどな、俺にその気ないねん。こっちにも選ぶ権利あるんや。お前が可哀想思っとるのは自由やし否定はせぇへんけど……な」
 「…………」
 「なんやねん」
 「私が娼婦だとしても、拒むの?」

 それはそれは奇妙な台詞だった。

 「……あ?」

 なにかの聞き間違いではないか。素直に耳を疑った。吟の顔はいたって真剣で、酔っ払っていたのは演技だったとでもいうように言の葉には怜悧な響きを伴った。責められている。何かのトリガーを引いた。だが、依然としてこの女の心がなにもわからない。まさしくそれは、恐怖。おぞましい何かだった。

 「ど、どういうことや」
 「……そのままの意味よ。もし、私が娼婦なら、あなたは私を選ばないってことになるわ」
 「それとこれは、ちゃうやろが」
 「どう違うの」
 「どう、……どうって……言わなアカンか? 今したやろが。そういう意味やないか」
 「今のが? お笑い種ね。あんなの、挨拶にすぎないわ」
 「あ? ほんなら言うたろうやないか。……俺は、お前が好きじゃ。……これでエエやろ」
 「言葉だけなんて、なんとでも言えるわ」

 売り言葉に買い言葉。ああ言えばこう言う。吟はニヒルにいやらしく笑った末、不貞腐れテーブルに突伏した。

 「……おい、吟。おい……言わんこっちゃないで。水貰うてくるわ。……あぁ? もうなんやねん、ったく。しゃーない奴やの」

 水を取りに立ち上がると、シャツを引き千切る勢いで引っ張るので真島はよろめきかけた。
 いつの間にこの女は面倒くさい性格になってしまったのだろう。十年前のほうがもう少し可愛げがあった。あの時は、口を利かない時間のほうが長かったが、素直でないにしても純粋な少女だった。


 バーの外まで連れ出すも、また街路樹の下にうずくまった。まるで駄々をこねる子供のようだ。
 
 「船、戻るんかぁ?」
 「………」
 「地べた汚いで。……なあ」

 背中に触れると小刻みに震えている。吟は堪えるように泣いていた。
 泣き上戸なのかさておき、女の涙は面倒だ。そんな本音を悪態づくにもこのまま路上にずっとというわけにはいかない。治安の良いシンガポールとはいえ、地元の人間でないし、まともに英語のできる女がこの有様なのだからなんとか船に連れ帰るしかないだろう。

 「……なに泣いてんねん。ワケわからんわホンマに……」

 ―――意地悪をしたのは吟のくせに。

 子供じみた他責の言葉を胸の内で吐く。そうして、自分が思い描いていた幻想と実態との乖離に嫌気が差した。こんな女を好きだったのかとすら思う。――やはり十年前の堅物ながら、強く保とうと決別を告げた彼女がたくましかった。異国の地の夜の、歓楽街の道端で酔いつぶれてさめざめと泣いているような惨めな姿など見たくなかった。

 吟を抱きかかえ、港まで歩かせた。
 船に戻ると呼び掛けると、彼女は「もう眠りたいの」と力なく訴えかけた。
 何度目かになるため息を我慢し、真島は港寄りにある安いホテルに当泊を決めた。

 部屋に入りようやく重い介抱から解き放たれる。安息をつきかけた時、腹部に硬い鉄の感触がした。

 「部屋、ついたで。……おい。なんや。なぁ………、なんやねんコレ。吟、説明しろ」

 吟のバッグが床に散らばった。照明すらつけられない闇の中で、それがなにかは容易に知れた。
 彼女はそれを真島に握らせようとした。冷たく無機質な黒い鉄銃である。バッグに隠し持っていたらしい。それを真島の手に握り込ませると、銃口を胸に押しつけた。

 波の音すらも聞こえぬ、漆黒の世界のなか。ぼそぼそと女は幽霊のように呟いた。

 「もし」
 「なんやねん」
 「もし。今夜。……私が船に帰っていたら、どんなつもりで彼女たちを抱くつもりだったの」
 「………いい加減にしろ」

 思いの外低い声音だった。仕事の時に用いるようなドスの利いた声で、本来の地の言葉が出た。
 吟は意に介さず淡々と続けた。

 「彼女たちでなくてもいいわ。……そう、たとえば……昔の恋人、妻、風俗嬢でもかまわない。……彼女たちは、あなたのペニスをしゃぶって自信を与えたでしょうね。あなたの、男としての矜持を満たしたでしょう」

 不快だった。感触は不味く、遠慮なく踏み荒らされているような居心地の悪さ。良識のない野蛮な物言いで真島を否定した。

 「そして、気持ちがいいフリをして愛していると叫び、この関係を永遠のものと錯覚したでしょう」
 「うっさいわ」
 「愛なんてどこにもないわ」

 抑揚のない声で、吟の応酬はさらに続く。
 感情という色を失った、機械仕掛けのような味気なさ。荒涼とした世界に投げ出されるような諦観の御託。

 「愛は、どこにもない。……アフリカにも、欧米にも、砂漠地帯にも、どこにも……このシンガポールだって、この部屋の私たちにもない」

 ぐっと迫り吟は真島の目と鼻の先に顔を近づけた。一つしかない瞳に彼女のぽっかりと空いた深淵のような黒い瞳が映り込んだ。

 「……戦場の兵士は僻地のお誂え向きの女とセックスをする。……そうしなければ獣のように民間人をレイプするからよ。そして、国へ帰ると彼には妻子が待っている。暖炉の前で温かい豆スープを飲む。肌触りのいい毛布に包まり、妻とセックスをする。一方、僻地にいたお誂え向きの女は兵士や国家の残した禍根によって飛んできた砲弾が住処を爆散させ、二本の手と足を失う。けれど、彼女はまだ生きていて……包帯と性病と生理的苦痛をごまかす麻薬を買うためにセックスをするの……」

 ジリジリとなにかが焼け付くような痛みがした。セーフティの外された銃のトリガーに指をかけているのは真島の方で、たった一度決心をつければこの女の望み通りに屠ることができる。そうにもかかわらず、石に変えられてしまったように動かなかった。

 「あなたはきっとたくさんの、名誉あるセックスをしてきたわ。それで? 一度たりとも、誰かを救えたの?」

 ジワジワと領域の内側に滲む悪意。嫌悪。憎悪。
 耳に入れたくない。不快なモスキート音。そう、まるで蠅の羽音のように。

 「あなたは、私がいない時でさえ……、……誰かを救えたことがあった?」

 そしてその蝿の悪魔が笑いかける。

 ―――ねえ。真島。

 はじめてだ。はじめて、再会してはじめて、彼女が真島を呼んだ。
 かつての遠い怨嗟を呼び醒ますには十分だった。

 ――この女さえ、あの穴倉にいなければ。
 ――身勝手に優しさを振りまかなければ。
 ――この自分に、情を植え付けなければ。

 真島は無意識のほうに飛んでいた。
 バツンと肉の弾む音は右腕が女を吹き飛ばしたからだ。黒い銃身で薙ぎ払うようにすれば女の皮膚を抉った感触が残った。

 気がつけば彼女を床に組み敷いていた。

 彼女は相変わらず、違う世界を見詰めている。吟にしか見えない深遠なる世界の稜線を目に焼き付けるかのように。
 真島の呼吸は弾んでいた。言葉を真に受けてはならない。しかし、感情は、彼自身の全否定されたことに対して激情を迸らせていた。否定だ。完膚なきまでの否定。

 ――一度たりとも、誰かを救えたの?

 それは一度きりの婚姻と授かるはずだった命に対しての冒涜を思い起こさせた。

 すくなくとも、アレは彼女の独断だった。
 仕方がなかった。そうするほかなかった。その裁量権すらも、委ねられる前に終わっていた。
 念を押すようにもう一度、悪魔の囁きが木霊した。

 「愛なんてどこにもないわ」
 「……やめろ、や」
 「必要なかったのよ。誰も、あなたを必要でなかった。彼女も、彼女らも……わたしも。だから今もあなたは一人ぼっちなの……」

 人には各々禁句というものがある。
 人にはそれぞれ、触れられたくないスイッチがどこかに隠れていて、いつもは触れられないように隠しておく。見えない体のどこか、心のどこかに秘密裏に仕舞い込んでおく。ふつうそれに触れるのは自分か特別な人の優しさだけであるべきで。

 だが、彼女は的確にそのスイッチを探り当て、押してはならない着弾の合言葉を押してしまった。
 心の隙間にするりと入り込み、核心をつく。

 真島は思考を超えた本能によって、両手がその細い首を掴んでいた。この舌が悪い。この女の肺を満たす空気が、喉が、思考が、二つの瞳が。女はせせら笑う。頸椎を折ってしまえばやがて死ぬ。手折るには造作もない事だ。

 本能を食い止めたのは、理性でもなんでもなく、部屋に喧しく鳴り響いた電話のベルだった。
 隣室の誰かが通報したようだった。フロントからのコールに間違いなかった。
 
 「―――あ」

 皺くちゃな寝台の上で、だらりと四肢を散らばっている。穴があいた風船のようにヒュウヒュウと風の切る音。顔面は蒼白で半眼の視線は定まらず、鼻血が吹き出し、糸の引く涎がべっとりと顎下から鎖骨へと伝い胸元を汚している。


 怒りさえも沸かない。
 吟は用意周到に、真島に『殺させよう』とした。
 次第に、どうしようもない深い罪悪感と絶望が入り交じり、虚ろな眼つきの彼女の傍らで叫んだ。

 「吟……おい……、イン……なぁ……、い………生きとるな。……すまん……。……ほんまに、すまん………すまん……かんに、……堪忍や………」
 「…………も、……すこ……し、……の、に」

 ずるずると身を崩し座り込むと頭を抱えた。
 吟はただ窓の方に顔を向けて、射しこんだ青白い光を浴びている。

 「……正直に言ってくれ。……俺は、間違っとったんか?」
 「………」
 「…………日本から出て、お前の傍におったほうが良かったんか?」

 吟は正解を口にしなかった。
 真島が彼女を引き寄せる、と強く強く抱き締めた。
 ほんのりと汗と涙の塩気と、血の匂いが薫った。女は色のない声で「たくさん、殺した」と呟いた。

 「私が、指示したこと、で、……たくさん、の人間、が死んだ。……最善の方法、を尽くしても、今日も誰かが、悲しむの。今日で、なくっても、明日でも、明々後日で、も、一年後、十年後でも、私のしたことが、誰か、の不幸に、繋がって……る」

 真島は静かに頑なにその身を抱いた。

 「井戸を掘って、井戸水がわいても、誰かがこっそり……毒を混ぜると、村一帯の人間が死んで……最初に……井戸を掘ろうと言った、人間……を糾弾するの。でも、最初に言い出した人間は、何食わぬ顔で、一番、……安全なところにいて、守られてるの……」

 嗚咽をあげ、ひきつけを起こしガクガクと震えた。
 
 「殺し、て」

 耳元で囁いた。曖昧模糊とした彼女の、心からの鮮明な願い事だった。

 「殺して、よ」
 
 もう一度、吟は願った。 
 乾ききり、ところどころひび割れた心を満たすものはあるのか。考えつくよりも先に真島は唇を塞いだ。カサついた唇を舐め、舌を絡ませ呼吸を奪った。彼女は血の味がした。それから隙間風が入らぬように、埋め立てるように、愛を口にした。

 「愛してる」

 清潔な愛を混ぜたガーゼで血を拭おう。
 愛を練り込んだ軟膏を破れた皮膚に塗り込もう。

 「愛しとる」

 愛で編んだ包帯を優しく傷の周りをくるくると巻いて、空っぽになった器にふさわしい愛を腹いっぱいになるまで注ぎ込もう。


 その夜は長い夜だった。
 眠りにつけるまで慰めてやろうと決めた。だが一向にその時は訪れず、吟は瞼を閉じるとすぐに怖がって真島に甘え縋った。

 「……さむい。……水の底にいるみたい」

 七月のシンガポールの熱帯夜。安いホテルとはいえ冷房がしっかり効いている。冗談かと思いきや、吟の体は深海に潜った後のように氷のように冷え切っていた。ベッドで掛け布団に包まり、冷房のスイッチを切るにあたり少し離れるだけで、声を震わせて幼子が親に縋るようだった。

 「は、はなさないで……」

 押し殺した嗚咽を引きずり、彼女の目から大粒の涙がポロポロと溢れ、それが絨毯にシミをつくる。
 数メートルの僅かな距離にしかない部屋のなかで、置き去りにすると脅された子供のように怯えている。いつもなら冗談だと笑い飛ばす場面だったが、今日に限ってはそんな気分にさえならない。

 真島には罪への呵責しか残されていなかった。
 そうこうしているうちに、彼女が頭を抱えて「はやくしななきゃ……」と口走るのだから気が休まらない。密室を避けるため窓を開け、真島が隣に座ると吟はぱっとその体に飛びついた。掛け布団を手繰り寄せてしっかり包んでやろうとするが、べったりとくっついていて離れようとしない。

 「どこにも行かへんて」
 「うそ」
 「嘘やあらへん」
 「うそつき……」

 一つわかるのは、彼女が吟ではないことだった。口にする言葉に知的なニュアンスは抜け落ちて簡単なものだらけで。真島が幾夜も目にしてきたどんな彼女にも存在しない「誰か」がそこにいた。
 
 「あまのがわも、ひこぼしも、おりひめもどこにもいないの」
 「……七夕の話しとんのか? 今もう二〇日や。とっくに……」
 「いかないでえ!」
 「な、わ、わかったて。よしよし、あー……泣け。うんと泣けや……」

 とっくに成人済みの女がわんわんと大声をあげて泣くなんて、誰が想像しただろう。そしてやっぱり、吟の言葉は抽象的でわからない。今できるのは、一寸も片時も離れず、彼女が「さびしい」といえば頭を撫で、「さむい」といえば抱きしめてやり、「だっこ」といえば頬にキスを与え愛の言葉をもって寄り添うことだけだ。

 暑苦しい夜。血のついた服を脱がせ、腕枕を貸して他愛も無いやり取りをする。
 男と女が同じベッドにいて、何もないことは真島にとっては不思議なことだ。吟は胸元に頬を擦り寄せ、シャツの襟の間から覗く刺青を捉えるとふんわりと笑った。

 「おはな、きれいね」
 「なんの花かわかるんか?」
 「……わかんない」
 「ヒント出そか」

 弱々しく頭を振り、吟は「あんまり思い出したくない……」と小さな声でいった。

 「なんで」
 「……あたまがズキズキいたくなるの」
 「そう、か。なら、ええわ。思い出さんでええ」

 またしゅんと沈んで、泣き出しそうに鼻を啜って真島の胸に顔を押しつけた。やはりこの子は、吟ではないのだろう。そんなことは火を見るよりも明らかだ。だが、どういうわけか真島に対して警戒心なく、むしろ好いてくれていることは妙ではあるものの心地が良かった。

 ―――きっと、この娘は今しか現れない。明日になれば、吟に戻っている。

 そんな直観があった。
 どこの誰で、何者なのか。不毛な詮索だった。
 幸せそうに眠りに就こうとしているなら、それ以上妨げてやるのは酷だと思った。

 ―――”だいすき、ごろうくん”

 目尻にたまった涙がぽろぽろと頬のうえを滑る。
 あわれで、幼気で、いじらしい。それを音もなく吸うと、甘じょっぱい味がした。

 「あいしてる?」
 「愛してるで」
 「どれくらい」
 「いっぱいやの」
 「いっぱいってどれくらい」
 「いっぱいは数え切れへんで」
 「目に見えないものはわからないよ」

 眉を八の字に曲げて、愛の証明を欲しがった。

 「空の上には星があるやろ?」
 「あまのがわよりも?」
 「もっとや。それよりも多いかもしれへん」

 少女はぱあっと表情を明るく変え、頬を赤らめると照れ隠しに「なにか歌をうたって」とせがんだ。

 「歌?」
 「ぽかぽかして気持ちいいから」

 遠回しに声を褒めているのか。目を瞑りながらもう一度甘えるようにねだった。背中を擦ってやり、なんとなしに思いついた曲のメロディラインを拾って子守唄を聴かせてやる。――そうして、ゆるりゆるりと笹の葉がひらひらくるくると回るのを見守るように、ゆるやかな眠りに就いた。


 夜風に凪ぐカーテンが月光に透けている。
 泣き疲れた彼女は真島の腿を枕にして眠っていた。
 ベッドサイドの丸テーブルの上、黒い銃が鈍い光を反射させてそこにある。長い夜は次第に白み始めていた。





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