日没



 「……おはよーさん」

 夢現に混ざりあった瞼を瞬かせると乾いて固まった目の筋肉が痛んだ。
 気怠い顔で真島の最初の挨拶に、吟の反応は鈍く心ここにあらずといった様子で、おもむろに掛け布団から抜け出すと、皮膚に張り付いた服を軽く引っ張った。

 「汗臭い……シャワー浴びるわ」

 吟はいつもの吟に戻っていた。何事もなかったように。
 生活の延長線上に立ち返りおもむろに服を脱ぎだすのを慌てて止めると、気怠げに命令した。

 「……ねえ。着替えと、朝ごはん買ってきて。チェックアウトはまだでしょう」
 「起きて初っ端からパシリかい。……あーはいはい。ええ、ええ。行ったるわ。……服はなんや、その辺に売っとるやつでエエんか?」

 真島の問いかけを無視し、洗面所に入るとデリカシーの欠片もなく、服を脱ぎ去って空のゴミ袋に詰め込んだ。
 安宿の洗面所に唯一あるアメニティのパックを無造作に開け歯ブラシを咥えた。下着姿の女にみっともなく目を泳がせる真島の心境など我関せず、おつかいの品を目の前に差し出した。

 「洗いに出してきて」
 「あ、おい……」

 その辺に散らばっていたバッグから財布を取り、抜き出したシンガポールドル紙幣を何枚か握らせてた。

 何事もないように振る舞っているだけで、実際目の前の女の白い肌には未遂の痕跡が残る。自殺幇助未遂の赤黒い痣が首周りをネックレスのように彩っている。しばらく首の空いた服は着れないだろう。他に外傷はないかと尋ねるのが筋だろうが、今の吟はなんだかはぐらかしそうだった。

 「どうしたの」
 「いいや。なんでもあれへん。……買うてくる」

 外はすでに気温が三〇度を超え、鋭い日差しが真島の白い肌をシャツ越しに焼いた。
 外食が主流のシンガポールの朝。すでに近くの屋台は人だかりができている。ピークが落ち着く頃に再訪することにして、ひとまず吟の服のクリーニングと着替えを買いに走った。

 ホテルに帰ると部屋には空調が入っていた。空調から吹き出す乾いた風の下で、ハンガーにかけられた下着が揺れている。
 吟はバスローブを巻きつけ、ベッドの上で一言「おかえり」と出迎えた。昨日の今日で、密かな心配が残っていたが落ち着いた様子である。こっそり銃を持ち出しておいたのも吟は気づいているだろうが、真島はその話題を避けたかった。

 「おう。………買うてきたったで。ほれ。……俺もシャワー浴びるさかい。着替えるか飯食っとけや」

 着替えは個人店の土産物売り場に並んでいた、首元まで詰まったワンピースを買った。群青色の生地に細かい幾何学模様の刺繍に彩られたバティック柄の、一言でいえば民族衣装である。吟は買ったばかりのワンピースを両手で広げると、お気に召したのか満足気に目を細めた。

 

 手っ取り早く汗を流すべく真島は浴室に入った。今朝と昨晩の熱気を流しさっぱりしたいと湯を脳天から被る。滝行のごとく水圧のきついそれが適度に心地よく、一息をついた頃だった。感じた気配に振り返ると、吟がちょうどバスローブを床に落とし、ガラス張りのシャワールームの扉を開け押し入ってくるところだった。

 「あぁん? なんやねん。まだ用あるんかい……ちょ、ちょ……お前先入ったんやろが!」

 思わず身構える。突き飛ばすことも出来たがそうする気概はなく、ただ自然に伸びてくるほっそりとした両手が真島の面長の骨感のある両頬をとらえ、水気たっぷりの唇を喰んだ。清涼感のある味が伝う。まだ朝食に手を付けていないことがわかった。

 意図を探るように覗うと隙を与えてはならぬと縫いつけるようなキスで真島を求めた。

 「……ン」

 花柄のタイルが敷き詰められた壁に追いやられる。
 せめてシャワーのコルクに触れようとした手は奪い取られ、そのまま柔らくきめ細やかな肌へと滑った。理性が本能に萌芽する欲望に物申した。

 ―――また彼女の自暴自棄につきあわされようとしていまいか?

 そんな難しいことよりも、目の前の女の誘惑に素直に従うことのほうが楽だ。散々自分を嘲笑う女を組み敷いて、蠱惑的に微笑む小さな唇をこじ開け、ペニスをお望み通りくれてやればいい。泣き叫び罵り、失望させれば、この女が真島に理想を押し付けることを辞めるだろう。そうして、二人の関係は永久に蜘蛛の糸のように淡く切れる。


 アウトローな生き方を望み、そうしてきた真島に造作もないことがこの女一人に例外であるのか。
 この女は、真島を利用して、傷つこうとする。この女は、真島を悪人に仕立て上げ、死を偽装しようとしている。傷ついているのならはっきり言えばいいものをそうしない。”お前のせいで、私は救われなかった”と罵り糾弾を受けるほうが遥かにマシだった。

 この女が、わからない。
 真島は冷たい瞳を眇めた。

 「……あの夜も、こうすることを……考えた」

 突き刺す熱い雨の音に紛れて彼女の消え入りそうな声が聴覚器官をかすめた。
 「できなかった」と続けて、薄桃色に透ける肌がぬくもりを求めて触れ合った。吟は真島の心音に尋ねるように胸の中央で片耳を澄ませて、告解を口にした。

 「……臆病だった。……責任を持ちたくなかった。……足がすくんだ。……脅して、恐怖を思い出させて、嫌いにさせたかった。……すべてから、手を引かせるために。………幸せ、だったでしょう? そうだと言って。……ホンファがこんなこと……企てなければ……ずっと幸せのままでいられたでしょう?」

 おそるおそる慎重に氷上を歩くように、歯切れの悪い彼女はおよそ十年前と変わっていなかった。
 彼女の本質が不変だと教えてくれているみたいだった。

 十年で吟は十歩も百歩もその先に歩を進めているのかと思っていた。ホンファとの話し合いや、世間で見かける彼女の姿がそう印象づけるだけで、根の部分で取り残された少女のまま、膨大な時間を費やして堅牢な鎧を纏うことだけ上手くなってしまった。

 真島はそれに対する答えをすでに出している。
 十年前に。彼女の前にある選択権と、その一考にふさわしい本音を打ち明けたはずだ。
 乾いた声が水音に被さった。

 「……決めつけんなや。…………俺を選ばんかったお前が、俺の幸せを信じられんかったお前が、なにまだ決めつけとんねん」

 吟は真島を見上げた。そこにはやはり、苦言を呈するわけでも、違うと否定するわけでも、困ったような悲しいような被害者のような、弱い女を演じる表情がある。真島が”傷つくかもしれない”と慮って何も言わないなら、むしろそれこそが真島が傷つくことだ。

 「……”殺したくなかった”んやろ……?」
 「………え?」

 盲点を突かれたかのように吟は目を大きく見開いた。

 ―――なんで、……穴倉で、……あない、優しゅうしたん。

 蘇るのは、一九八九年七月七日。彼女の綻びが垣間見えた夜。吟の秘密に通じる本音を彼女が口にした夜。

 ―――殺したくなかったから。

 今も奥底で本音の反響が続いている。

 そのときの彼女は誠実に真島と向き合った。
 嘘偽りない眼差しをしていたし、それが嬉しかった。勝手に悲観して手を引いたのは彼女の方で、いつだって、たった一言が足りなくて茨の道に落ちていってしまう。”助けて欲しい”とさえいえるなら、どれだけの犠牲を払ってでも助けるつもりでいたのだから。
 
 たった一言、背中を押す残酷な宣言が聞きたかった。

 「俺だけがそれ知ってんねん。……バカ正直に俺だけに言っとけばよかってん。自己責任やってな。……甘えとけや」
 

 水気を含んで重く垂れた細い髪をすくう。
 狭いこめかみに唇をおとし、その華奢な体の震えを受け止め、それまであったさざめきが失せていることに気がついた。もどかしく彷徨う手が、真島の両肩を掴む。彼女は泣いているようにみえた。不思議な暗闇を宿す瞳は嵐の夜のうねりを描き、縁取られた睫毛の屋根からポタポタと雨がしたたる。彼女はもう一度思いとどまり、真島の心音を聴いた。そして、淡く儚い願いをささやいた。
 
 「……はなさないで……」
 「………はじめっからそう言うとけ、アホ」
 
 真島は哀しみや不甲斐なさや、ここに至るまでの己の皮の厚さ。今も少しプライドゆえ慰めに相応しくない、乱暴に悪態をつくところさえも、どうにかこうにかこらえて彼女を甘やかす。
 昨晩の彼女も。この女のどこか忘れ形見のような女も同じようなことを言っていた。
 ふたりとも寂しがり屋で、いい意味でも悪い意味でも真島に要求が多い。満たされなかったものを取り返すように。

 真島は一段と低い体温を抱き締めた。吟がもういいといって飽きるまで。遅い抱擁だった。






 昼下がり。浜辺に生え並ぶヤシの木と芝生の上。

 二人はごくごく普通の男女のように見えた。観光地に売っている馴染みのないエキゾティックな幾何学模様と花柄の混ざった青いワンピースと赤い前開きの半袖シャツを着た観光客。屋台で売っていたカップに入った氷菓を分け合い、何重にも連なる波を数えている。どこからどう見ても、二人はただの二人だった。

 カップに入ったシャーベット状のアイスクリームはほどよく溶け、手持ち無沙汰な時間をわずかに満たした。

 「ぜんぜん一口じゃない」
 「お前の口が小さいねん。のうなったらまた買えばええやろ」

 吟は不満そうに文句をぶつぶつと言って諦めた。爽やかなコバルトブルーの空と海が広がる夏の浜辺は賑やかで時間もゆったりと流れている。

 「……眠いわ」
 「さっきまでぐーすか寝とったやろがい。俺のほうが眠いっちゅーねん……ふぁ……」

 あくびを一つ二つと繰り返し真島は芝生の上でごろんと横になった。

 「……船にはいつ戻るの?」
 「夕方には出るやろ。それまでや。しっかし……暑いのぅ。……せや、海入ろうや。泳いどるやつおるし」

 空を泳ぐ海鳥に閃いた真島は顎で水遊びをする男女を指した。

 「あなた入れ墨見せびらかして平気なの」
 「あん? 今見せへんでどないすんねん。タトゥー入れとる奴おるやろがい。なに驚いてんねん」
 「……見せたがらないのかと」
 「これでも空気読んでんねん」

 お前が困るやろ、というと吟はまた複雑そうな表情で海を眺めた。
 軽い体操で身をほぐし芝生から浜辺に出た時、一寸たりともその場を動かない吟に呼びかけると肩をすくめた。
 
 「私は……入らない」
 「なんで。ほんなら何するん。砂の城でも作るんか? ……ビーサン買って波打ち際歩くのもエエな。……なんやそれもアカンのかい」
 「カナヅチなの」
 「カナヅチぃ?」

 神妙な顔つきで吟は泳げないと告げた。

 「ひひ……嘘やろお前、仕事で船乗ってるやつが泳げへんでどないすんねん」
 「お、泳げないものは泳げないの」
 「……ちぃっと足つけるだけや。それもアカンか?」
 「……海から、手が生えてきたりしない?」
 「怖すぎやろ。ないない、絶対ありえんわ」

 幼い頃よくお盆の時期に海に入るなと言われた。海難事故に遭いやすいのと、盆にはあの世とこの世の境目が曖昧になるからよくないものが海に出やすいなんて言い伝えを聞いたことがある。聞いたことがあるだけで、真島自身になにかが起こったことはない。
 ただ、吟が真剣に心配している様子なのでそんな想像が捗った。

 眉根を寄せ真島はしばし考えた末、あれやこれやと代案を出したが彼女が首を縦にふることはなかった。
 いよいよ痺れを切らしたところ、遠くの浅瀬に人を載せた小舟が浮かんでいるのを目の端に捉え、手をパンと打った。

 「……おぉ、アレや! アレ!」
 「……転覆したりしない?」
 「万が一はあるが。……なんやねん。どんだけ怖がりやねん。どうせーっちゅーねん。なんも遊ばれへんやないか!」
 「そんなに言うなら、あなた一人で遊びに行ったらいいでしょう」
 「フン。……つまらん奴っちゃの」

 不貞腐れた振りをしてみせ、吟がわずかにたじろいだのを見逃さなかった。
 その隙をついてショベルカーで土を持ち上げるように、彼女の軽い体を地上から掬い走り出す。

 「あ、歩ける、歩けるから!」
 「ひっひっひっひ……! 逃げたらあかんで〜!」

 砂埃が舞う向こう。砂粒と水面の輝きが青から橙に変わる頃、しっとりした空気を纏って彼女は目を細めた。
 
 「夕陽、綺麗ね」

 絶え間なく脈打つ白波の連なりは油彩のように盛り上がり、引き伸ばされ、また還っていく。
 二度と同じものは戻ってこない。世界が暖色に染まるのに彼女は依然とそこに一つ黒点のように立っている。ほとんど無意識に真島は掠めた手の峰から、細い指たちを絡め取った。小舟の上から水に触れていた手は地上に晒されて熱を持っている。

 「楽しかったわ」
 「そう、か……」

 黄金色が照りつける肌は濃い陰を生み、じりじりと動く夕陽にあわせて平穏な彼女の上を撫でた。金砂に染め付けられた睫毛は春先の淡い色の野原を彷彿とさせ、吟が特別な女であることを示しているようだった。綺麗だとか、美しいだとか、詩的な賛辞を気恥ずかしく思った。それを口にするには不似合いだと自虐に走るほど真島は戸惑った。自分の言葉を見つけられないでいると、ふっと指が軽くなった。

 帰りましょう。

 吟は手をこまねいて、船への帰路に足を向けていた。
 


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