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エリカはおとぎ話に胸を弾ませるお年頃は卒業していた。めくるめく二人の軌跡は星が流れる一筋の残像を描くように煌めいていた。またそれを美しいと思った。真島はかいつまんで、時折内容に気を配りながら彼女との出会いから手紙の話をもう一度した。まるで実感のない二人の肉親の半生は皆既日食のように重なり合う運命を辿ってきた。
「……というわけや」
かわいた喉を潤すためにカップから冷めきった紅茶を舐めると、ちょうど教会の鐘が赤紫の日暮れに染み渡った。
意味もなく膝の上で組みかえた両手。暖炉の脇。壁にかかった絵複製画が人々の審判の刻を数えている。エリカはその絵画の赤ん坊と目があった。あの赤ん坊の気持ちがわかるような以心伝心の糸がつうっと一本に繋がっているようだった。
長い沈黙だった。居心地の悪いものではなく、そこに必要とされる揺り籠のブラブラと揺れる回数を数えるようなまどろみが、エリカの辛い現実をまろやかに中和した。彼女は母親かもしれないが、やはり認めたくなかった。隣に座る真島が、父親らしき人が長所や出生や世知辛さや孤独を教えても、たとえ可哀想だと思っても、親ではなかった。
「あなたもその人も、他人です。そういうものです。それが答えです……私の答え。……わかってくれますか」
誰も静かに肯定していた。否定などしようがなかった。
エリカは三人の顔を順番に見渡して神前にて祈りを捧げる時のような霊性のある囁きを灯した。
「マザーも。あなたも。大切になさってください。……それは、尊重できる。彼女に捧げるものまで私が触れることはない。私は、否定しないから。否定しませんから……どうか、チャン・ホンファを信じさせて」
あなた方の罪を不問にします。
エリカは心の中で唱えた。子供の時間はおしまいだ。
夕食の時刻まで長居した二人はそろそろお暇すると玄関を出た。
リラは冷蔵庫を覗き込んで夕食も一緒にどうかと声を掛けたが丁重に断った。
「またいらして。年寄りには退屈な時間が多すぎるもの」
「私がいるじゃないですか。……エリカさん。今度はとっておきのジャムでロシアンティーにしましょうね」
「はい」
緊張を解しエリカは柔らかな微笑で返事した。
真島が頭を下げ扉を押し開く。すっかり日が暮れ、鼻先に宵の切ない匂いが触れた。
次はどうしようか。チャン・ホンファの居所もわからず、彼の女の遺言めいた場所も知れず。せめて警察の別件の進捗の確認でも。
上着のポケットに入ったレンタルスマホに探りを入れたとき、爆竹が破裂したかのような音が扉をえぐった。
「エリカ!」
「ヒッ」
軽い悲鳴とともに、次弾が入り口頭上の照明を割った。粉々に砕けた破片が雨のように降りしきり、真島が叫んだ。逃げろ。エリカはぐらぐらと揺れる視界の最中、リラとマザーを突き飛ばすように中に追い込んだ。
「か、隠れるところはありますかッ」
「シェルター。シェルターが地下にあるわ!」
「急いで! ……Mr.真島は?!」
逸る気持ちを押さえつけエリカは盾となって襲撃に応じる真島を振り返った。
「真島さんッ!!」
すでに玄関の方に真島はいなかった。外で発砲音と耳をふさぎたくなるような重い打撃音が反響している。
エリカは後ろ髪を引かれる思いでリラの誘導に従ってシェルターに潜り込んだ。
椅子を地上に置いて、リラに担がれてマザーは小声の指示をもとに棚にあるランタンの灯りをつけ、入り口からもっとも死角になる場所へ詰め息を殺して騒ぎが収まるのを待った。
地下のシェルターは闇が濃く埃ぽく、古ぼけた油や紙のにおいがした。
やがて一気に静まり返った。何事もなくそれまでの世界を取り戻し、エリカはただ地上にいる真島が無事かどうかが気になって心臓が早鐘を打った。
「大丈夫よ……」
マザーがろうそくに吹きかけるように囁いた。皺くちゃの柔らかく温かな手がすっぽりと包み込み、弱々しい脈動が生命の年月の差を感じさせ、エリカを慰めた。大丈夫。秒数をじっくり数え、繰り返されたまじないが遠くの気配を呼び覚ました。
「……彼かしら」
どれくらい経っただろう。
喧騒は嘘のように失せ、その場にいる三人の息遣いがやけに大きく感じられた。緊張を解し息をつかんとしたとき、ミシミシと床の軋みが地上の存在を明らかにした。
「待って。……私が出ます」
「エリカ。だめ。危険よ……まって」
エリカは身を乗り出して、元きた階段のところまで寄った。
壁にかかった斧を両手に掲げたリラがそっと引き留めて地上へ続く扉の下で身構えた。
天井はミシミシと部屋の中を探っている。足音は一人分で行ったり来たりして、エリカは真島であるに違いないと思った。
「きっと真島さんだわ……リラ。斧を貸して」
逆光に目を眇めた。眩い光の中にいたのは。