ソロモンの審判U





 立ち上る香り高い望遠のルイボスティーに意識の揺りかごを漕ぎ、女は壁の方を眺めた。
 
 名高いある聖職者は緑と紅のカーテンに包まれた小さな城の主だった。
 駒鳥の囀り、甘やかな花の香、背丈の揃った芝生。陽だまりと木陰の午睡。
 たった一人、異なる世界から切り取られたかのように異質な存在感を保つ、東洋人の女。白いシャツに黒のスラックス。モスグリーンのカーディガンを羽織り、救世主の歓迎の言葉に微笑んだ。

 「よくお越しくださいました。私、あなたのファンでしてね。さあ、どうぞ」
 「リラ。お客様よ。ちょうど焼きたてのパイがあるの召し上がって。……お飲み物はどうしましょ。お好みはあるかしら。あら」

 雑音だけを取り除いた、箱庭のような時間がゆったりと流れていた。二人の女はあらかじめ女が来ることを知っていて、準備は万端だった。清潔な白いテーブルクロス、焼きたてのアップルパイ、飾られた絵の保護液や調度品のウッド、この家で使われている洗濯粉、あげればきりのないものたち。
 女はある絵の前にたち、とろみのある優しい声音で絵画に呼びかけた。

 「……とてもいい絵ですね」
 「ずっと勤めていたところからお祝いに譲っていただいたの。レプリカですけどね」

 マザー・グレイシーの説明で女はやっと微笑んだ。

 「……マザー・グレイシー。私は賛成ですよ。あなたの計画は多くの人の屋根となり柱となる。最大幸福の実現……手垢にまみれた資本主義を濯ぎましょう。………疑っている、そんな目です」
 「まさか、とんでもない」
 「ふふ。……ルイボスティーはありますか」
 「ええ。さ、そこのソファにどうぞ」

 女はぎこちなく動き、そろりとソファに腰掛けた。
 マザー・グレイシーは人と話すことに長けている。とくに望んでいる者を前にして本来の傾聴の役割を忘れていた。彼女の活動、触れ合ってきた人々との温かなやりとり、修道女のプレゼンテーションの間、女は仮面をつけたように微動だにせず静かに受け入れていた。
 沈黙のあと、その細い手を組み合わせて両腿のうえで祈るように頭を垂れた。

 「告解を聞いていただけますか」

 マザー・グレイシーは顔を赤らめた。
 あろうことか彼女はずっと自分自身の話に夢中になっていたことを恥じた。女はすでに、マザー・グレイシーの欲望を知っていたしそのためにはるばる大陸から長い船旅を経て訪れた。改めての説明など要らなかった。
 マザー・グレイシーの沈黙に重ねて、女は希った。

 「私の罪の話です。生きるという最大の罪です。その罪を、……与えてもいいか一緒に考えてくれませんか」

 修道女は曖昧に笑い頷いた。
 滔々と女は計画を口ずさんだ。腹に宿った命をその世界に招く最初の手引きだった。


 ーー赤子を引き裂いてしまおう。二人に分かつなら平等である
 ーー賛成です。
 ーーどうか、おやめください。赤子を裂けばたちまち死んでしまいます。
 ーーよかろう。それでは、この子を分けることに反対した女に赤ん坊を与えよ! その女こそ、この子の母親だ。


 絵が審判を下している。
 吟はそれまでここに来るまで摘み取ってしまおうと考えていた計画を破棄した。
 長い葛藤があった。静寂の家で不調に悶え苦しみ生命の産声をきいた。何度か堕胎薬の入手のために街へ下り、手ぶらで帰った。絶命の方法を考えたが、獣の目覚めを喚起させてはならぬと踏みとどまった。

 書斎の机の上には各国から彼女の肩書きを欲する者たちのラブレターがあった。一枚一枚ペーパーナイフで封を切り順番に紙を並べて俯瞰した。それは何度も経験した運命を選び取る行為だった。質の高い紙とインクの匂いが吐き気を和らげた。

 ふとそれが目にとまった。なんてことないもの。神の家。遥か彼方に置いていかれた少女の真珠の大きさほどの涙が訴えかけ、選びとった。
 宿命的な縁によって導かれたといっていい。かつて私だったものは、いつか神の家に生涯を捧げたであろう。ーー罪を告白し、許しを乞い願い悔い改めるだろう。

 吟は神の家に仕える女と会うまで賭けた。
 最も近いはずの秘書にすら、身ごもったことを伏せ、別件を装い海を渡った。
 シスターは懺悔をよくきいて、聖書にあるように生命を尊んだ。吟の葛藤を解きほぐし、秘密裏に出産するように助言を与えた。




  ―――死ぬときは、蝿の羽音が聴こえるわ。羽音を数えているうちに、飛んでいる蝿を数えているようになる。





 白い意識が隆起し、灰みの視界がぼんやりと色づいていく。
 全体、全身。あらゆるすべてのものが水を吸ったように重たく、カチカチに固まった石のように不動である。
 霞むなかで見えたのは、人間の両手だった。それは縫いつけられたようにピクリとも動かず、窮屈な肉の釜の内側で悶えるだけで無機物に憑依した魂のような感覚が支配した。

 「……っ、………っ! ……っう……! う! ……っ」

 どこからか打ち鳴らす鈍い衝突音がする。発生源は視界を持つ肉から突破らんと幾度も繰り返した。どれだけ力を込めても、頑強な牢獄は不動を貫き、不自由から解き放たれることはなかった。辛うじて動かすことのできる『眼』が暗所の世界をギョロギョロと探る。

 最初に感じたのは強烈な痛覚。そして、ここにあるのは一つの『意識』、周囲には塗りつぶされたすべてを吸収する黒。うっすらと辿ることのできる、両手。これは『意識』と呼べる器の主が持つパーツの一つ。

 「……ぐ……」

 肉が『意識』の命令により音を出す。

 それは意識を感じている場所に近いところから噴出していて、外を吸い込むと肉の中央が皮膚とともに隆起と膨張した。
肉全体が緩み楽になることを覚えれば。

 それから停滞した闇の中をずっと認識していたが、『眼』を蓋する膜で覆ったあと、再び『眼』の外を認識すると、四角の真ん中にいることに気づいた。この世界の基礎は、点と点が結びあった四角で構成されていて、四角の向こうから届く黄色や白や赤の透明なものが『意識』のいるところを教えてくれる。それらの透明なものがないとき、暗い世界になる。

 人間の両手と覚えている『意識』を主とする付属品は命令により可動域を動かせることを利用して、闇の数をかぞえることにした。

 青、白、黄、赤、青、黒。
 黒は一度しか訪れず、白と黄、赤と青のうちに聴覚を刺激する振動と、黒のときとは異なることを知った。すべての色のときずっと聴覚にある振動は、白と黄、赤のないときに大きくなる。

 黒と呼ぶ闇の回数が両手で足りなくなったとき。黄の光のとき、『人間の両手』を持つ、まさに人間が四角の間にやってきた。

 人間は肉体の意識を穴の二つを通して覗き込むと、淡々と事実を告げた。


 「覚醒済み。意識があります。……教授。成果を期待できそうですね。……被検体Fの蘇生、遺伝子配列、血清は評価A水準です」
 「落ち着け。初期検査が重要だ。……それによって、今後の実験継続の是非が問われる。……貴重な被験体だ、丁重に扱え」
 「はい、教授」

二つの穴を通して知覚する世界に、人間がふたりいる。白い上着を共通して纏っていて、白髪と深い眉間のしわ気難しそうに歪んだ唇の男と、白髪混じりだが偏屈の影はもう片方よりも薄い生真面目そうな男。

生真面目そうな男がまず感覚のない右腕を持ち上げて手首に指を添える。「問題ありません」というと偏屈男のほうがニヤリと口角をさらに歪にし、興奮気味に手を叩いて叫んだ。

 「すばらしい素体だ。脳を覗いたが、一部の大脳の損傷を除けば問題ない。俗世に疎い私でも知る著名人の脳が拝めるのは、わが生きっての僥倖だ。……まさか直々に申し出られるとは思わなかったが。……パンドラボックスの神の頭脳。はやく実験したいところだな……!」
 「ははは、教授こそ落ち着きがないご様子。私も同じ気持ちですよ」

 生真面目な白衣の男は滲んだ黒い隈を細める。片割れの演説ショーは止まない。磔にされる神の子の像に祈るような、崇敬を帯びた恍惚の眼差しをもって、教会の説教のように肉塊に語りかけた。
 
 「比較被検体を早く捕獲しなければな。……摘出した子宮から人工妊娠させたB-F1は八ヶ月でお陀仏になったが、B-M1は健在だ。Bたちの性差、提供精子による比較。遺伝情報から統計的有意差検定を実施する。新人類が誕生するのも時間の問題だな」

 
 『意識』は人間の言葉を理解している。
 そして、それらの意味はわかったが参照すべき記憶が朧気な輪郭に留まっていることに気づいた。

 二人は今後の軽い予定を取り決め、偏屈男はその間から出ていった。残った男は機材を操作し、繫がった管先の袋を取り替え、どこからともなくカラカラと硬質な台を引っ張った。
 彼は前後の気配を確認するように首を振ると、そっと『意識』に向かって耳打ちした。

 「大姐、すみません。……いますぐ処理します」

 『意識』は音から言葉、言葉から意味、意味から記憶へと道を巡らせていき、己の正体を探った。それは、水底に沈殿していた砂を掻きまわすようにも似ていた。意識は、己の有り様を少しずつ解きほぐし、どうしてこの場所にいるのか。こうなってしまったのか。ここはどこなのか。この目の前に映る男は誰なのか。自分が何者なのかを思い出した。

 そしてほとんど衝動的に両手が突き出て、寝台の上から跳ね起きようと叩いた。全身がビリビリと引き裂かれ肉の一筋一筋に痛みを感じた。

 「まだ痛むでしょう。ずっと動いていなかったんです。筋力が著しく低下していて引き攣ってるんです。私がわかりますか、エン・ジーハオですよ」

 みっともなく息が弾み、ジンジンと身体を覆う膜が別の生物の如く躍動する。胸の詰まる不快感、視界は沁みてふるふると痙攣し、苦痛をやり過ごすためにじっと堪えた。

 「辛いでしょう。瞼を閉じてくださっていいですよ。……安心してください、彼の後任は私ですから。これよりプランBに移行します」


 
 四角の清潔な部屋で女はひたすら肉体の苦痛と、精神の行き止まりだらけの迷路の中にいた。
 朝も昼も夜も女にとっては無意味であり、全身のあらゆる痛覚が生命の質感を取り戻す時赤子のように叫んだ。薬が入れば小康状態となりしばしの休眠にありつけたが、やがて覚醒すると再び地獄の底の熱を思い出す。

 運悪くエン・ジーハオが出払っている夜間に意識があれば、その苦痛で失神と覚醒を反復した。

 「ダージェ」

 部屋が茜色に染め付けられ、苛む苦痛に開けた視界はぐにゃぐにゃと歪んでいる。

 「……どうして、貴女はそうまでして生きようとなさるんです」
 「………」

 ジーハオは夕日を背に、四角い鏡を掲げ女の醜い姿を映し出して問うた。
 女は言葉を封じられていた。返答など不可能に決まっていた。

 「私は嫌だった。……すでに完成された自分のキャリアを捨てて、金で買われた男になった。妻にさえ会えていません。あなたが、私の弱みをひけらかしたからです。……過去に違法な医療事例を保持している私にはスキャンダルだ。……私は貴女を信じました。貴女が利用価値ある人だからです」

 女、被検体のFは言葉を感情を思考を忘れていた。
 男は「今もそう」といってさらにに続ける。

 「貴女は苦しそうだ。今にも命を諦めようとおもえばできるのに、そうしない。……死ねば、貴女の重要なコマンドが直ちに実行されるでしょう。対応策は十分揃えてあります。そのための長い年月でした。……眠っている間に殺してしまえばよかった? 残念なことに私はそこまで不道徳でない。約束は守ります。貴女と違ってね」

 鏡に映った女は、女と呼ぶには性別といえる特徴がなかった。全身は年輪のごとく包帯でぐるぐるに固められ、ミイラのように目出しの箇所だけがくり抜かれており、その眼も不安定に彷徨っている。口はきけず、思考も鈍く満足に四肢を操ることもできぬだるま状態で、そばに立つ点滴から栄養を流し込まれて生命を維持している。

 醜い姿だ。
 ただし、生きている。
 醜悪な姿だ。
 想像より遥かに酷く、どうしてこんな姿になりたかったのか思い出せない。
 破滅の音が聴こえる。
 蝿の、羽音が。死の舞踏曲が。

 「大姐!!」

 熱病にうなされ覚醒したのは、薄明るい明朝の気配のする暗闇のなかのことだった。
 エン・ジーハオの声は枯れていてずっと女が目覚めるように声を張り上げていたのだろう。女は狭い棺桶のようなベッドの上でミイラだった。血のような夕日も、真実を突きつける鏡もそこにはなく、ジーハオが心配そうに見下ろしているだけだった。

 「ずっとうなされていたんです」

 せん妄だったのか、現実だったのかわからない。
 雲の中ののようにあやふやな質感が世界を覆っている。
 今この眼に広がるところも本物である確証はなく、倦怠感と神経痛をやり過ごすために穏やかに明けていく空と海の色を聴いていた。



 女は漫然と日々を過ごした。
 棺から起き上がるには二年かかった。二年というのはジーハオがそういうのだから信じているが、実際の年月の経過はわからない。
 腰から下はすっかり用立たなくなり、一日の大半を陽光の射し込むサンルームで過ごした。あらゆる物事が喉に小骨が引っかかっているような違和感として残った。なにかとても大切なことを忘れている気がしたが、ジーハオは肝心なことばかり伏せて悟らせないように気を配っている様子だった。

 サンルームは透明な天井と窓、空を覆い尽くすように伸びた南の植生が賑わっている。見識にない香りのする白い花が年に二度咲くのを楽しみにしていた。なかでも赤い薔薇をみると不思議な違和感に首を傾げた。

 薔薇に手を伸ばしかけた時、鼓膜を突き破りそうな衝撃音に身を伏せた。
 ちょうど近くにいたジーハオがサンルームに入ってくると同時に犯人がそろりと顔を出した。

 「お怪我はありませんか?! ペトルーシュカ! 近づかないようにと言ったでしょう」
 「ご、ごめんなさい……先生」

 パキリとサンダルの足裏でガラスを砕いた少年を、追い払うようにジーハオはまた怒鳴った。もの言いたげな様子をそのままに踵を返して屋外の茂みに去っていくのを見届けて、ジーハオは女に降り掛かった破片を払った。

 「今のだれ」
 「大姐、怪我はありませんね」
 「……わたしの」

 子供。
 子供だ。よく似ている。そうだ、この子供は人工授精によって生まれ、研究の被検体。被検体――実験。実験で比較するのは。
 遮るようにジーハオは車椅子の方向を明後日の方向へ切り替えた。

 「部屋に戻りましょう。シナモンティーはどうです」
 「ジーハオ。嘘をつかないで教えて。……私は……何年ここにいるの」
 「何度も言いましたよ。五年です。目覚めてからは二年。……検査でもしましょうか」
 「あ……そうじゃない。そういうことではな、いの……」
 「じゃあ何が知りたいんです?」

 見上げたジーハオは氷の針山のように冷酷に見えた。
 いつも同じ質問をするが、質問を口にした途端それまであった疑問が吹き飛んでいくのだ。パラパラと砂塵が風に吹かれて元の形を失うように。
 得体の知れない輪郭のないそれだけが宙に浮いていて、今も女の唇から外に出ようとしない。

 「なにか、忘れている気がするの……ずっと……あなた、知っているでしょう? 思い出したほうがいいでしょう? あなただってもう……うんざりしている。この島を捨て置いて、元に戻りたいと思ってる。……これも配慮のつもり?」
 「私はあなたの本心を知りません。むしろ訊きたい。どうして、こんな計画を企てたんです?」
 「わ、……わからない……、わからない……! 質問で返さないで」

 それみたことか。ジーハオはそう言いたげな顔で肩をすくめた。
 靴先でガラスを隅に寄せて吹き抜けに様変わりにした天を仰ぎ見て彼は目を眇めた。膝の上の毛布にシミが花模様のように染みた。女は泣いていた。それを再び戻ってきていた少年が窺っていた。
  
 「だ、だいじょうぶ……?」
 「帰りなさい!」
 「でもボールが!」
 
 ジーハオはうんざりしながら、転がっていた白球を拾い上げ彼に渡した。
 
 「ボール……」
 「大姐、すみませんでした。代わりに謝っておきます。二度と近寄らないように言って聞かせますから」
 「……まじま」

 その音を口ずさんだ瞬間、かすかにジーハオの肩が強張った。
 するすると記憶の鍵は連なるものを浮かび上がらせた。白球は夏を呼び覚まし、日本を、故郷を、彼を、計画を、罪の味覚をも鮮やかに蘇生する。
 甘美な罪の名をもう一度呼び戻して、ある一つの疑問にたどり着く。
 
 「……どうしてこないの? ……ホンファは、どこ? ホンファは、ホンファはどうしたの?」
 「ホンファは……、消息不明です」
 「消息、不明」

 よく働かない頭のなかには一つ、計画頓挫の文字が浮かんだ。
 彼女には手紙を託したはずだった。慣れ親しんだ伝書鳩は帰還せず、そして彼がここにいないということは、手紙は届いていない。
 示唆を込めた言葉は寸断され、たった一人過去の時間を生きている。女は髪をぎゅっと掻き毟るように掴んだ。視界が黒く染まるように落ち込んでいく。

 これは罪を重ねてきた罰だと思った。
 古傷のかたく盛り上がった箇所を慈しみ撫でるようにもう一度、その男の名前を呼んだ。




 

 深い落胆の縁に座り、女は夕食の豆スープを不味そうにもごもごと咀嚼した。
 ジーハオはカルテを向かい側で広げて記憶の答え合わせを手伝った。彼は彼女から出てきた言葉以外の情報を引き出さないように慎重だった。

 「摘出した銃弾が八発。ほかは抜けていましたが、一部が脊髄に入っていました」
 「それじゃあ……本当に、もう足は使えないのね」
 「残念ですが」

 アフリカの春。彼女が与えた世界への衝撃の名前である。壮大な自殺ショーを演出し、世界を混乱の渦に叩き落とし取り計らうトリガーとなった。王吟がなぜこんなことをしたか。彼女にとって必要な儀式だったからだ。

 企てたということは、致命傷すらも想定の範囲内であった。
 上半身に集中する頭部と心肺などの内臓機能蘇生を優先した結果、かすり傷に収まったほうだ。軽傷で済ませるにあたり――吟はまず、王汀州からジーハオを買収したのだ。彼は優秀な医療関係者であるし、口も堅く、嗅覚のいい彼の妻エン・クゥシンから引き離せれば有力な味方になりうると考えた。

 もっともジーハオの買収も容易いわけではない。彼のそっとしておきたい過去を収集して、恩に着せる形で了承の言質を取った。
 
 「貴女は私にマッチェンスクエアに入職するよう打診しましたね」
 「ええ」

 マッチェンスクエア。米国の医科学研究所ジョンソン・バイオロジカルセンターの傘下の一つ。この島の研究所を管理させようとジーハオを潜り込ませた。人脈は当然マザー・グレイシーつてで、孤児院や福祉施設と提携する病院の紹介を受けた。吟がマザー・グレイシーを選んだ狙いはすべてこの病院紹介にあった。

 「第一に私の肉体を蘇生させ、第二に『獣』の証明をするための研究をあなたにさせる。それが目的だったわ」
 「『獣』を知って、どうなさるんです?」
 「私は『獣』を見たことがない。だってあなた達が吹聴していたことだもの。頭の中にいる気配はするけど、それだって確かじゃない。……それでいたの? いなかったの?」
 「さあ。静かに眠っていたので」
 「私が死んだあとさえ?」
 「そうですよ」

 ジーハオは仄かに笑った。
 
 「そもそも……私はほとんど知らない。彼らが始めたことです。それこそ、……私は『獣』を方便だと、貴方を脅すための嘘だと思っていた」
 「信じられない。……命じたわね? 頭を開いて見たでしょう? データだって取ったはず」
 「ああ。しかしそれは薬物療法の影響であるといえますが『獣』がどういったものか知らない以上、結果とのリンクは困難ですよ私には」
 「………妄想だって言いたいの? まやかしにつきあわされていたというの?」

 銀色のスプーンからぼたぼたと豆がこぼれ落ちた。
 跳ね上がった水滴がナプキンを濡らし、苛立ってそれを剥ぎ取った。

 「……王汀州とのコンタクトは」
 「あなたの命令通り断っています。……ですが足はついているでしょう。計画通り組織の状態はひどい。あなたのせいでね。今招けば、……あとはわかりますね。私たちは裏切り者ですから。……彼らから『獣』の証言を得てそれで、どうします?」
 「殺すわ」
 「殺す? 復讐を遂げる?」
 「そして私も死ぬ」
 「なるほど」

 天井に映る二人の影がくらくらと揺れる。潮風が食欲とスープの熱を奪う。
 ジーハオはずっと気がかりだった問を口にした。

 「真島さんは、どうして呼び立てるんですか」
 「………」
 「私情?」
 「……そう、私情」
 「あなたの感情的な残滓は彼にあるんですね」
 「あまり詮索しないで」
 「観察ですよ。患者の貴女について知る必要がある」

 彼の名と彼との記憶や思い出を紐づけたあらゆる彩りが、暴走機関車の疾さで女を揺さぶる。明確な名の付かない情動が蘇ると骨が軋む。構想通りにことが進まなかったことが思いの外辛かった。
 
 「しぶとい秘密主義者の貴女ですが、どうせわからない伝わらないと思って口を噤まず教えていただけませんか」
 「それを言えば、頭を開いて診てくれるの?」
 「あはは。ロボトミーは時代遅れだ。無駄なものなんてないんですよココには。……宿題を出しましょうか」
 「なに?」

 ジーハオは一冊の大学ノートを出した。表面も中身も使われていないまっさらな新品のノート。万年筆を一本転がして彼は眉をくいっと持ち上げた。
 暖色の裸電球が吊り下がった小さな食堂に隙間風が吹き込み、ブラブラと二人の黒い影を揺らした。
 女は彼の意図を理解した。

 「日記を書けってことね」
 「はい」
 「ずいぶんリハビリは頑張ったほうだけど……字を書くのは、嫌いになったの」
 「完璧でなくていい」
 「スプーンでさえ……満足に扱えない」
 「十分ですよ。二年で貴女は口話を復活させた。日記のタイトルには正確な順序や日付は求めませんが覚えている限り過去について書いてください」
 「ヒアリングで十分でしょう」

 拒絶を縫い直すように男は念を押して説得を試みた。

 「貴女が書いた、ということが重要なんですよ」
 「悪用するつもり?」
 「しようがない 貴女は世間的には亡くなっている」
 「ふふ。そうね……私は今、誰でもない被検体F。性別でしかない」

 F。female。女。
 便宜上の記号だけが残った。人類の半分は同じ名前だ。大多数とお揃いの女を識別するものは他にない。
 





 日暮れは切なく、罪の名を持つ男とのシンガポールを想起する。
 浜辺ではボールでサンルームの窓を割った少年が砂の城をつくり、その傍らで小枝を器用に扱って絵を描いていた。
 少年は女の来訪に立ち上がった。黒髪に日焼けした小麦色の肌。すらりと伸びたまっすぐな四肢。色素の薄い瞳。人工授精に用いた相手の遺伝形質は同じアジア系でも西側方面のようだった。水陸両用車椅子が砂をかきわけて近寄った。
 
 「……名前、なんていうの?」
 「ペトルシュカ」
 「いいね。きみより、私にピッタリの名前」

 ペトルーシュカ。
 人間ではないにもかかわらず、人間に憧れている。ペトルーシュカは、引き攣ったようにぎこちなく動く。人形の体の中に閉じ込められ、苦しみの感情を募らせている。――その名は、ピノキオのロシア版でバレエの演目の一つを冠する。

 おがくず人形は操られ、人間に憧れ、それでいて魂を肉体の内側に閉じ込められている。
 なまえのない彼女にこそふさわしかった。
 ペトルーシュカはなめらかな声で車椅子の後ろに回って、方向を換えた。そしてしなやかな腕をぴんと伸ばして、白い建物のほうを指さして言った。

 「ぼくはあの白い家があるでしょ。あそこで暮らしてる」
 「こわくないの」
 「ぜんぜん。ここは暖かい場所だし、毎日楽しい。わくわくしてるんだ」

 一番最初の記憶がじくじくと痛んだ。
 白い建物、家とよばれるその場所は女が遠い昔過ごした監獄だった。今にしておもえば、正常な状態でなく朧気にのこる記憶の風化もあり不明瞭で、今ある世界がゆっくり流れていることもあって『獣』の存在さえ疑わしい。

 『獣』など、いなかったのではないか。
 『獣』は、頭の中の想像の産物を、彼らに捏造された寓話によってもたらされた、恐怖の象徴ではないのか。
 なぜなら、女は一度も『獣』と会ったことはないのだ。……彼らが女を自殺に誘引しないように使った方便だったと考えるなら筋が通る。――この思考がいつもぐるぐると円を描いている。事実を知らない限りこれは永続する。

 もしその仮説が真実だったら、生きている代償があまりにも大きすぎる。
 最小の人間を使って、数多の人々の人生を狂わせた代償。傍らに立つペトルーシュカとて生まれ出るはずのなかった異質な生命である。

 ペトルーシュカを見上げると彼もまた女を見下ろした。自分の顔に然程興味のない生き方をしていたが、若い頃の顔はこんなものであっただろう。ペトルーシュカには親がおらず、研究施設の人間を養育者として親代わりの機能を持たせている。

 「親が恋しくなったりしない?」
 「みなしごっていうらしいよ。あんたは?」
 「みなしごだったの。……むかしこの浜辺で……ううん、なんでもない」

 ぽつりと綻びでた遠い昔を飲み込んだ。親がいなくとも、ペトルーシュカはどこか自然で安らかで、本当に楽しそうに生きている。生きることに誠実な人間に真実を伝える勇気が持てるだろうか。

 「裏の畑があるんだ。明日、連れていってもいい? 紹介したいんだ。みんなに」
 「みんな……?」
 「仲間だよ。大丈夫安心して。みんないいヤツだから!」

 ペトルシュカ。……それからイリス。
 取ってつけたように造られた娘の名前を思い起こしてアイボリーの紙をインクで滲ませた。
 日記の最初のタイトルが決まった。


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